離宮での日々(前編)
アーニャ達が離宮に赴いた日の午後。ロゼルはルルクから借りた魔導書を大切に胸に抱きかかえながら、上機嫌で王城の廊下を歩いていた。早く屋敷に帰って借りた本を読もうとするその足取りは軽く、表情もわずかながら緩んでいる。だが、そんな彼女に水を差す者が現れた。
「ロゼル! まさかここで会えるとは思わなかったよ!」
「ッ!」
曲がり角の向こうから現れたのは、ロゼルの従兄にして彼女の頭を悩ませている厄介な男、ハルトラスとその友人らしき三人の青年達だった。ロゼルを観たハルトラスはにやにやと下卑た笑みを浮かべる。ロゼルは思わず息を飲んで数歩後ずさった。ハルトラスはめったに王城に来ないというのに、最悪のタイミングだ。
いつもなら盾になってもらう護衛騎士も、今日は城に行ってルルクと会うだけだからと同行を断っていた。今頃城門前に止めた馬車で待っているであろう彼に助けてもらう事はできないし、ルルクも研究室にいる。周りに人の姿はないので、自分の力だけでどうにかこの場を切り抜けなければならない。
そのうえハルトラスは、精霊達に無条件に嫌われて避けられる体質の人間だ。つい先ほどまでその辺りを浮遊していたはずの精霊達も、ハルトラスの登場に驚いて逃亡を余儀なくさせられている。完全に孤立無援だ。それがロゼルの気分を一気に低下させた。
「……ごきげんよう、ハルトラス様」
冷たく固い声音でそれだけ言い捨て、そのまま立ち去ろうとする。だが、腕を強く掴まれてしまった。そのままぐっと引き寄せられる。触られた事もそうだが、顔と顔の距離が近くなった事にも鳥肌が立つ。恐怖から小さく漏れた悲鳴は婚約者のいたずらに対する驚きとして取られたのか、ハルトラスの友人達は彼を咎めようともせずに笑っていた。
「つれないじゃないか、ロゼル」
「はっ……離して、くださっ……!」
頭が真っ白になりながら、ロゼルはハルトラスの腕を振り払おうとする。しかしロゼルは蝶よ花よと育てられた公爵令嬢だ。少なくとも腕力では、年上の男であるハルトラスに敵うはずもない。無意味な抵抗を繰り返すロゼルを見下ろしながら、ハルトラスは手のかかる子だとでも言いたげにやれやれとため息をついた。
「そう身構えないでくれよ。君と私の仲だろう?」
またハルトラスとの距離が近くなる。キスでもできそうなほどに迫った顔に恐れおののきながら、ロゼルは魔導書を抱えた掴まれていないほうの腕を使ってなんとか彼を押しのけた。
と言っても、実際にロゼルの力だけでハルトラスが押しのけられたわけではない。ハルトラスが自ら身を引いたのだ。ハルトラスは友人達を見ながら「我が婚約者は相変わらず照れ屋なようだ」と冗談めかして呟いたが、その発言は見過ごせない。そんな事を彼に言われる筋合いはないのだから。
「いっ……いい加減に、してください……」
「なに?」
「お付き合いは、お、お断り、させていただきましたし、ち、父も、貴方との婚約を、認めてはいませんから! それなのにそういう事を言われるのは、め、迷惑です!」
人と話す事が苦手で人見知りの激しい内気な自分にしては強く言えたと思う。反論が予想外だったのか、ハルトラスはしばらくぽかんとしていたものの、すぐに怒りで顔を赤くさせた。
「きょ、今日の事はもちろん今までの事も、正式に抗議させていただきます! もう二度と、わたくしに近づかないでください!」
もうどうにでもなれ。今までさんざんかけられた迷惑の数々をロゼルは忘れていない。恋人面して馴れ馴れしくしてきたり、偶然を装って胸を触られたり。幼い時から続く嫌な思い出の数々に終止符を打つぐらいの気持ちで、ロゼルはきっぱりと言い切った。
「確かにハルトラスは悪ふざけが過ぎたかもしれないが、それほど怒らなくても……」
ハルトラスが吹聴している嘘を完全に信じているらしい彼の友人の一人が微苦笑を浮かべながらそう言ってくる。そんな見当違いのたしなめは余計にロゼルの気に障った。胸のうちで渦巻く激情を感じながら、ロゼルは思いのたけをぶちまける。
「わたくしは、ずっとハルトラス様の事が嫌い――ッ!」
振り下ろされた拳によって熱を帯びた頬がじんじんと痛みを訴える。掴まれていた腕を離された事で殴られた勢いに耐え切れず、床に打ちつけた臀部ととっさに着いた手のひらも鈍く痛んだ。不覚にも涙がにじむ。
それでもロゼルは顔を上げてキッとハルトラスを睨みつける。ハルトラスの友人達が、呼吸を荒げるハルトラスを驚いたように見つめていた。思わず手が出てしまったのだろう、ハルトラスははっとして自身の行動を取り繕おうとするが、友人達の冷たい眼差しからしてもう何を言っても無駄だろうというのはロゼルにもわかった。
「……失礼します」
「ま、待て!」
制止の声を無視してロゼルは立ち上がる。どうせハルトラスの友人達が後はどうにかしてくれるだろう。腕に抱えた本の重みと感触に支えられながら、ロゼルは息を切らせてその場から逃走した。
* * *
「失礼しま……失礼しました」
馬車が止まる。ほどなくしてからドアを開けた従者は、手を取り合っているアーニャとディウルスを見て即座にドアを閉めた。
「あっ」
「す、すまん」
それに気づき、二人は慌てて手を離す。頬が少し熱かった。一応途中から窓を開けてはいたのだが、熱気が逃げてくれなかったのだろうか。熱くなった頬に軽く触れながら、アーニャは馬車の外に声をかけるディウルスの後姿を眺めていた。
嫌われていると思った。アーニャを婚約者として迎えたのは、彼にとってはただの義務だと思った。本当は、ディウルスは自分の事などどうでもいいのだと。
だが、その誤解はすでに氷解している。彼なりにアーニャの事をおもんぱかった結果があれだったのだ。あれこそディウルスの誠意であり、そこに他意はないのなら、もう何も遠慮する必要はない。
(……それなら、彼に恋をしても許されるのでしょうか)
ほんの少し前に忘れようとしたはずの、身勝手な考えが再び頭をよぎる。王と王妃という肩書だけの関係ではなく、ディウルスと真の夫婦になれたら。そのときは、今よりもっと幸せになれる気がした。
アーニャはまだ人を愛するという事をよく知らない。参考にできるのは恋愛小説ぐらいだ。それに照らし合わせるならば―非常に失礼ではあるが―ディウルスはとても女主人公の相手役とは呼べない男だった。彼は物語の中の王子達のように端正な顔立ちをしているわけでも、女主人公への愛情を前面に押し出すわけでもない。きっと、ディウルスが相手役の物語が出たところで売れはしないだろうし、そもそも華々しく輝く女主人公は彼を選びはしないだろう。
だが、それはあくまで創作の中での話だ。アーニャとしては、ディウルスの事は嫌いではなかった。確かに顔は怖いが、顔を欲に歪めるような事はない。綺麗な顔立ちであるのに醜悪な表情を浮かべる者達よりはよほどましだ。
人は誰もが自分の人生における主役だと、高名な作家が言っていたらしい。だが、自分は物語という煌びやかな世界の中で大輪の花を咲かせるような女主人公とは違う。どんな逆境も乗り越えられる力を持った彼女達のようにはなれない。自分はそんなできそこないの主人公なのだから、相手役はディウルスでちょうどいい――――そう思うのは、さすがに彼に失礼だろうか?
馬車を下りて宮殿を見上げる。夕日に照らされた女神像や噴水の見える広大な庭園の中に佇む白い宮殿は、もちろん王宮には劣るものの十分煌びやかで美しい建物だった。本当にここをもらってもいいのだろうか。アーニャはこわごわとディウルスに視線を移すが、ディウルスはさっさと宮殿に向かってしまう。アーニャも慌てて彼の後を追った。
宮殿の使用人が中を案内してくれるらしい。宮殿内の壁は美しいタペストリーや数々の絵画で飾られている。アーニャが手を加えるまでもなく、どの部屋にもすでに高価そうな年代物の調度品があつらえてあった。内装に口を出す必要はなさそうだ。
「ここがアーニャ様のお部屋でございます」
白を基調とした女性的な調度品で飾られた部屋は与えられた王宮の私室と比べても遜色がない。手入れの行き届いた部屋を眺めながら、アーニャは感嘆のため息をついた。
「素敵です。この家具も、そのままいただいても構わないんですよね?」
「新調しなくていいのか?」
「ええ。前の持ち主の方が大切に使ってくださっていたおかげか、どれもまだ使えるようですから。使用人の皆さんがしっかり手入れをしてくださっていたようですし」
これ以上望む事はない。そう伝えると、ディウルスは不思議そうにしながらも「そうか」と頷いた。
「全体の模様替えはどうする?」
「わたしからは何も言う事はありません。これでは居心地が悪い、と陛下がおっしゃるのならば考えてみますが……」
「……そうか。いや、俺はこのままでは構わない」
「そうですか。なら、大丈夫ですね」
そう言いながらアーニャは微笑む。ディウルスに来てもらったのは、彼の意見を取り入れるためだ。自分一人では何もわからないし、正直に言ってしまえばたいして興味もない。ディウルスがそう言うなら、模様替えについては何もしなくて大丈夫だろう。
ちょうどその時、エバが夕食の支度が整ったと二人を呼びにやってきた。もうそんな時間なのかと思いつつ、アーニャはエバの案内に従って部屋を出る。
「……一緒に考えて欲しい、とはなんだったんだ?」
ディウルスはぽつりとそう呟き、首をひねりながら二人の後をついていった。
*
「陛下、明日はどうなさいますか?」
夕食を食べながら、アーニャは向かいに座ったディウルスに尋ねる。ディウルスは少し考え込むようにうなりながら、「芝居でも観に行くか」と言った。
「演目はお前が決めて構わない。なんであろうと付き合うぞ」
「わたしが、ですか」
そう言われると困ってしまう。無難に恋愛ものでいいか、と思うが、果たしてディウルスは楽しんでくれるだろうか。悲劇や戦記もののほうが退屈しないかもしれない。もともとアーニャは特定のジャンルが好きだというわけではないので、演目自体はなんでも構わなかった。
「では、戦記のお芝居にしましょう」
そう言った途端、ディウルスが目を丸くする。何かまずい事を言ってしまったのだろうか。アーニャが戸惑っていると、ディウルスは慌てたように取り繕いながら「わかった。楽しみにしている」とだけ言った。
「ここには三日ほど滞在する予定だから、ほかにもやりたい事があったら好きにするといい。俺も極力お前の予定に合わせよう」
「ありがとうございます。ですが、陛下にやりたい事はないのですか?」
「そう言われても、王城から離れて仕事から解放されるというだけで満足だからな……。俺のほうからは何もないぞ」
という事は、彼は羽を伸ばしてのんびり休暇を楽しみたいのだろうか。そうなるとあまりあちこち連れ回すのも申し訳ない気がする。アーニャが答えに困っていると、ディウルスは思い出したように付け加えた。
「あえて言うなら、街をぶらぶらと散策する事ぐらいだな。何かの店を覗いてみてもいい。どこかに面白い掘り出し物が転がっているかもしれん」
「では、お芝居を観てから、街を少し歩きましょうか」
ディウルスが案を出してくれてほっとする。自発的に物事を決めるのは苦手だ。それを見かねての発言だったのかはわからないが、ディウルスの希望が聞けて助かった。
「そうしよう。……ああ、そうだ。向こうに帰ったらすぐ、ヘイシェルアール公爵が夜会を開く予定らしい。お前も俺と一緒に来てくれるか?」
「ヘイシェルアール公爵と言うと、ロゼル様のお父様ですよね? もちろん同行させていただきます」
主催者側になるのは疲れるが、客としていくならきっと楽しいだろう。それに、予定があると安心する。するべき事があれば、生きていると実感できる気がするからだ。アライベルに来てからはそうと思える時間が多くて幸せだと、アーニャは無意識のうちに微笑んだ。




