心変わりとすれ違い
ニーケンブルク宮殿に行く前日、いつかの約束通りアーニャはロゼルを招いてお茶会を開いた。シェニラは時間の都合がつかなかったので、今回は残念ながら不参加だ。いずれまた三人で集まれるといいのだが。
出す紅茶と茶菓子はエバに任せた。そのせいか、菓子の中にはアーニャにとっても見慣れたものもある。クラウディスにいたころ、ちょうど材料が手に入ったと言ってたまにエバがこっそり作ってくれていたものだ。懐かしさに思わず口元が綻ぶ。エバの作ってくれるアマレッティはアーニャの一番好きなお菓子だった。
アマレッティの味を楽しみながら、アーニャはレモンティーに手を伸ばした。ちらりとロゼルを見ると、浮かない顔でじっとレモンティーを見つめている。あまり楽しくなさそうだ。まさかロゼルとお茶会ができて喜んでいたのは自分だけだったのだろうか。
「ロゼル様、どうかなさいました?」
「あっ……」
ロゼルはばっと顔を上げるが、すぐに気まずげに視線を落とした。呟かれた小さな謝罪の言葉に、何故だかアーニャの胸もちくりと痛む。
「お口に合いませんでしたか?」
「いっ、いいえ! お招きいただいて、とても嬉しいですし……お茶もお菓子もおいしいのですが……その、最近悩んでいる事があって……」
「悩み事?」
聞き返すと、ロゼルは悲しげに目を伏せながらティーカップを置いた。そのまま彼女はぽつりぽつりと話し始める。
「実は先日……従兄とお見合いをしたんです。嫌なら断っていいと父にも言われたので、お付き合いはお断りしたんですけれど……なんだか、もうわたくしが婚約者になったかのように周囲に吹聴しているそうなんです」
「そうだったんですか?」
まったく知らなかったが、ロゼルの話では相手の男はあまり宮殿に来ないそうだ。その男と交友関係が被っているとも思えないので、自分が知らないのも無理はないだろう。
「お見合い自体はつい最近なんですけど、その方はアーニャ様がいらっしゃる前からしつこくて。その……少し苦手だったんです。ルルク様に相談して注意してもらってからはおとなしくなりましたが、お見合いをしてしまったせいでまた……なんというか、馴れ馴れしくなって……」
どうしてもと両親に頼み込まれる形で受けたお見合いだったが、そのせいでまた付きまとわれてしまったので今は後悔しているという。親と家のためとはいえ、見合い話が来た時点できっぱり断ればよかった、とロゼルは憂鬱そうに言った。
「そんな方とのお見合いなんて、よくご両親も持ちかけてきましたね」
「彼は外面のいい方ですから。一時期付きまとわれて困っていたと訴えても、お前の勘違いだろうと言われてしまって。……当時も両親に訴えたんですけどね。子供の言う事だから、子供のやった事だからとあまり本気にしてもらえませんでした」
アーニャが目を丸くして思った事を率直に呟くと、ロゼルは自嘲気味に笑った。分家とはいえそれなりに深い付き合いもあり、太く繋がっている家だから両親も色眼鏡で見ているのだろう、と語る彼女の瞳には諦めが宿っている。
「この事はアンドレアス様やルルク様に相談なさったんですか? 以前は注意してもらったらおとなしくなった、とおっしゃったでしょう?」
「相談? アンドレアスに、ですか? 話は聞いてもらいましたが……残念ですが、アンドレアスにできる事はほとんどないんです。ルルク様は……わたくしの気持ちを確かめてから相手に抗議してくださいましたが……今回は相手もかなり強気で。多分、一度でもお見合いをしたという実績を作ってしまったというのがいけなかったんだと思います」
もしかすると、アンドレアスはあまり身分が高くないのだろうか。ロゼルの恋人らしいアンドレアスだが、もし恋人がいるならロゼルがお見合いをする必要はない。つまりアンドレアスとの関係は秘密のものであり、対外的には友人だという事だ。
頼みの綱はルルクだが、どのみち友人と見合い相手では分が悪いだろう。部外者が口を出すなと言われれば、ルルクはもちろんアンドレアスもあてにする事はできない。
「さすがに今回の件はわたくしの結婚に響くという事で、両親も叔父夫婦に釘を刺してくれたんですが……叔父夫婦は『わたくしと従兄が結婚すれば何も問題ないだろう』とまるで話にならなくて……」
「まさか、そうやって外堀を埋めていくつもりでその方はそんな嘘を吹聴しているのでしょうか」
ロゼルがその従兄の婚約者だという噂が広まれば、彼女に求婚しようと思う男はいなくなるはずだ。人の婚約者に横恋慕していいはずがない。その婚約のせいでロゼルが不幸になるとか、婚約者の男がよほどのろくでなしだったとかならまだしも、良識ある者なら身を引くだろう。
しかしロゼルと従兄の間に婚約の事実はない。噂だけが独り歩きした結果、ロゼルはありもしない肩書きのせいで結婚相手の選択肢を狭められる。そんな噂ができるぐらいの何かがあったのだろう、と判断する周囲の目もあって、結局ロゼルは従兄と本当に婚約してしまうかもしれない。そして、それこそが彼女の従兄の目的だったのではないだろうか。
「……可能性はあります。迷惑だからやめてくださいと、本人にも何度もお伝えしているのですが、一向に態度を改める様子がありませんし」
ロゼルは悔しげに拳を握る。しかし彼女はすぐに表情を明るくさせ、再びティーカップを手に取った。
「ごめんなさい。アーニャ様に話を聞いていただいて、少し心が軽くなりました。彼らとはまた改めて話し合いたいと思います。……ですから、暗い話はこれで終わりにしましょう? 紅茶が冷めてしまいます」
何の解決もしていないし、助言をする事もできなかった。アーニャもしょせんは部外者だ。できる事など限られている。ロゼルもそれを理解しているからこそ話を打ち切ったのだろう。友人が困っているのに何もできない、それがなんだかもどかしかった。
* * *
「……ほう。そんな事があったのか」
ニーケンブルク宮殿に向かう馬車の中、アーニャはディウルスにロゼルと従兄の話をした。ディウルスは腕を組んで顔をしかめる。
「ヘイシェルアール家から正式に抗議があれば、王家から諫める事もやぶさかではないが……そうでもない限り、あまりそういった事に口を出すのははばかられるな」
「そう、ですよね……」
しゅんとしたアーニャを見て、ディウルスは慌てたように言葉を重ねる。
「ロゼルの従兄なら、ベーフ家のハルトラスの事だろう。王として公式な苦言を呈する事はできんが、あくまでも個人としてなら何か言う事ぐらいなんでもない」
「本当ですか!?」
「ああ。帰ったらハルトラスに釘を刺しておこう。嫌がる女に無理やり言い寄るなど――」
だが、ディウルスはそこで言葉を区切った。数秒の沈黙の後、彼は気まずげに視線を下に落とす。
「陛下?」
「……すまんな。お前からしてみれば、俺もハルトラスと同類だろう」
「え?」
「あえて弁明させてもらうとすれば、俺にはお前を束縛する気など一切ない。お前が望むか、あるいはやむを得ない事情がある場合以外で俺がお前に会いに行く事もないだろう。もちろんこれは私用の話で、婚約者……ひいては夫婦になってからの義務の数々には適用されないわけだが。夕食を共にするのは半ばその義務のようなものだ。それは許してくれ。それ以外なら、俺はお前に触れようとも思わない」
頭の中でぱちんと何かが弾ける。冷水を浴びせられたような気分だ。冷気は体中に広がり、感覚を失わせていく。こわばった表情のまま、アーニャはぎこちなく口を開いた。
「……それは、何に対する弁明ですか?」
「なに?」
「わたしを愛せない事ですか? わたしの事をただの飾りとしてしか見られない事ですか? 本当の意味でわたしの事を婚約者……いえ、未来の妻として受け入れられない事ですか?」
何かのたがが外れた気がした。この国に来てから、あるいはもっとずっと前から押さえていたものが溢れ出す。胸のうちに渦巻く感情のまま、アーニャは言葉を吐きだした。
「初めてお会いした時、あなたはこうおっしゃいましたね。“余計な事は何もしなくていい。お前はあくまで飾りだ”、“黙って笑え。それ以外は望まない”と。こうもおっしゃいました。“俺はもともとお前を娶る気などなかった”と。あの時、わたしはあなたの言葉を受け入れました。そのうえで、この国の王妃に……あなたの妻になろうと思いました」
あの時首を横に振っていたら、もうその時点で自分がこの国に来た意味はおろか生きる意味すら失っていた。だからアーニャはディウルスの言った事をすべて了承したのだ。たとえ冷遇されようと、愛を得られる事がなくても、アライベルの王妃となってクラウディスとアライベルのために生きられるなら構わないと。
だが、ディウルスはそんなアーニャの決意を疑うかのように何度も何度も似たような言葉を繰り返す。そんな事ははじめから承知しているというのに、しつこいくらいに確認させて――――アーニャを愛さないと、強調する。
言われるのは一度でいい。一度で理解できる。そう何度も現実を突きつけないでほしい。これからの人生を共にするであろう相手から突き放され続けて、耐えられるはずがなかった。アーニャだって血の通った人間だ。何度も何度も拒絶されて、平気であるはずがない。
(……どうしてわたしは、今さらこんな事を言うのでしょう)
答えは簡単だ。心が弱くなったからに決まっている。以前なら気にしなかった事も、以前なら抑える事ができた事も、だんだん我慢できなくなったのだ。
ここでは自分を抑圧する必要がなかった。この国に来てから人の優しさを知った。エバとウィザー以外にも、自分に優しくしてくれる人がいる事がわかった。馬鹿にされる事も痛めつけられる事もなくまともに会話ができた。瞳の事も含めて受け入れてもらえた。おいしい食事も広い部屋も、暖かな寝具も新品のドレスも与えられた。この環境がまるで当たり前のように馴染んできたから、今まで殺してきた感情が溢れてきたに違いない。
ディウルスは優しい。だが、それはアーニャを婚約者として見ているとき以外での話だ。あくまで異国からの客人としてなら彼は自分に優しくしてくれるし、そのためなら彼は婚約者という建前も使う。しかし、本当の意味でディウルスがアーニャを婚約者として扱ってくれた事はない。
けれど与えられる事を知ってしまったアーニャの心は痛いくらいに訴える。その先が欲しい、と。なんて自分勝手なのだろう。優しい“婚約者”なら自分を愛してくれる、そんな彼なら自分も愛せる、なんて。
アーニャが求めているのはディウルス自身ではなく、“婚約者”の愛だ。自分がディウルスを愛しているわけではないのに勝手に“婚約者”の夢を見て、いざ現実を突きつけられると怒りだす。自分はこれほどわがままで欲張りだっただろうか。
(初めからわかっていたじゃないですか。陛下がわたしの事なんて、何とも思っていない事ぐらい)
それなのに、こんな事を思ってしまうなんて。きっと心のどこかで期待していたのだろう。一か月の間でディウルスも心変わりしてくれたかもしれない、と。こんなに優しくしてくれるんだから、結局彼の恋人らしい女性は一人も見つからなかったのだから――――一人の女としてではなく、お飾りの王妃として彼の隣に立つと決めた時から、そんな夢は見ないと決めたはずだったのに。
だからアーニャは心を再び強くさせる。ひび割れた隙間から溢れそうになった醜い感情をせき止め、馬鹿げた妄想を忘れる。身勝手で身の程知らずな思い込みはすぐに消えていった。
大丈夫、これでいつも通りだ。ほら、ディウルスが呆然としている。早く続きを言わないと。ヒステリックに喚く前でよかった。今ならまだ取り繕える。彼の望む、お飾りの王妃らしい方向に修正できる。これで捨てられないで済む。
「その気持ちに嘘はありませんし、覚悟も揺らいでいません。ですから、そう何度もおっしゃっていただかなくても結構です。わたしの許しを得る必要などありませんよ」
「……」
嘘をついた口は綺麗な笑みを形作る。ディウルスは渋い表情で押し黙ったままだった。




