温度差
「そうか。楽しかったのならよかったんだ。いつも宮殿にいたら気が滅入ってしまうだろう? これからも好きな時に出かければいい。また変な奴が出ても、ミリリ達が追い払ってくれるから安心しろ」
アーニャの話を聞いたディウルスはふっと表情を緩めてくれた。少し歩いたせいか、今日の食事はいつもよりおいしく感じられる。アーニャも笑みを絶やさず料理に手を伸ばした。
「姫は芝居が好きなのか?」
「はい。この国に来て初めて観ましたが、とても面白かったです。また機会があれば行きたいな、と……あ、もしよろしければ、その時は陛下もご一緒してくださいませんか?」
「俺が?」
ステーキを切り分けていたディウルスの手が止まる。赤い瞳が怪訝そうにアーニャを見ていた。失言だっただろうか。取り繕う言葉を探さないと、とアーニャは慌てて口を開こうとする。
「お前が構わないなら、そのための時間は作るが……途中で寝てしまっても許してくれ。そういう方面には疎くてな」
しかしそれは杞憂だったようで、ディウルスはすぐに視線を皿の上に戻した。その口ぶりからして興味はないようだが、拒まれなかっただけましだろう。とはいえ無理に誘うのも悪いので、ディウルスと出かける事は叶わなそうだが。
「……ああ、そうだ。忘れていた。姫、お前のための離宮の準備が整ったようだぞ。整ったと言っても片付けが終わっただけで、まだ何も手をつけていないがな。各地に王家の所有する宮殿があるんだが、そのうちのいくつかを王妃が管理するのは慣例のようなものなんだ。お前にはあそこを任せるから、好きにやってくれ」
「離宮、ですか」
どことなく嫌な響きだ。アーニャの笑みに陰りが落ち、うかがうような眼差しがディウルスに向けられる。ディウルスはそれに気づかず話し続けた。
「ああ。歴代の王妃に贈られるニーケンブルク宮殿だ。このリークブルク王宮に一番近い宮殿でな。少し端のほうとはいえ王都にあるから、不自由はしないだろう」
「わたしはこれからそこで生活すればいいんですか?」
「お前が望むならそうしてもいいぞ。王宮の一部屋で暮らすより、宮殿のほうが自由にのびのび振る舞えるかもしれんしな。そうするか?」
どうやら自分とディウルスの間には何か認識の齟齬があるようだ。離宮という言葉の響きと父王の母妃に対する態度から悪い想像しかできなかったアーニャだが、仮にその想像通りだとしたらディウルスはあっけらかんとしすぎている。邪険に扱うわけでもなければ冷たくあしらうわけでもない、単純にアーニャの意向を訊いているだけなのだから。
「……いいえ。陛下のお許しが頂けるなら、わたしはこのままここで暮らしていたいです」
「そうか、わかった。だが、近々離宮を見に行ってくれ。あのあたりは大きな劇場がいくつもあるし、各地の視察に行く時にあのあたりを通る場合が多いんだ。滞在できる場所があったほうが便利だろう? いつでも滞在できるよう、お前好みに改装してくれ。必要な物や欲しいものがあれば、言ってくれれば手配しよう」
「わかりました。でしたら、陛下も一緒に来てくださいませんか? 一緒に考えて欲しいんです。あ、お忙しいなら無理にとは言いませんが……」
「お前の離宮だぞ? 確かに俺も滞在する事になるだろうが、主人はあくまでもお前なんだ。お前の、」
ディウルスの言葉が途中で途切れる。壁際に佇んでいたヴィンダールが咳払いをしたからだ。失礼、とにっこり微笑むヴィンダールに、ディウルスは何か言いたげな顔をしつつアーニャに視線を戻す。
「……わかった。来週なら時間を作れるから、それまで待っていてくれ。最低限の家具はあるだろうから、数日程度なら滞在できるだろう。あー……それと、芝居も観に行くか?」
「本当ですか? ありがとうございます! 楽しみにしていますね!」
まさかディウルスのほうから言い出してくれるとは思わなかった。ほっと胸を撫で下ろし、アーニャは花が咲くような笑みを浮かべた。
*
「……姫はよく笑う娘だな」
食堂から去っていくアーニャを見送り、ディウルスは食後のコーヒーをすすった。初対面の時に頼んだとおり、彼女は大抵の事は笑顔でかわしてくれる。お世辞にも愛想がいいとは言えない自覚があるディウルスとしては頭が下がる思いだ。彼女は自分の傍でさえもにこにこ笑ってくれているのだ、まさか誰も自分達の不仲―と言うと言いすぎかもしれないが―を疑いはしないだろう。
「いつまでも姫の厚意に甘えていられると思うでないぞ。人の心は移ろいやすいものじゃからな。そなたも少しは姫に歩み寄ったらどうじゃ?」
そんなディウルスの心中を察したのか、ヴィンダールが冷たい目つきで見下ろしてくる。反論はできそうになかった。何を言ったところで言い負かされるのは目に見えている。
アーニャを迎え入れてから何度繰り返したかわからない「努力はしよう」に、ヴィンダールは呆れた顔を隠しもしなかった。やがて彼は諦めたように深いため息をつく。
「今日の事でミリリとリアレアから報告があるらしいぞ。さっさと執務室に行くがよい」
しっしっと追い払われるように急き立てられ、ディウルスは渋々立ち上がった。
*
「連れていく騎士を少数に絞って途中で引き上げさせた事もそうですが、精霊を馬車につけておかなかったのは私の不手際です。いかなる処罰も受け入れます」
「わたくしにも非はあります。得体の知れない男との接触を許してしまいましたもの」
「そう固くなるな。姫への害はなかったんだから、それでいいだろう。それに、お前達が罰せられる事を姫が望むとは思えない」
「「……」」
「今日の散策は楽しかったと姫は言っていたぞ。お前達に不満があるようには見えなかった。……もし姫がお前達へ罰を望むなら、俺にそう言っているはずだ」
ディウルスがそう言うと、ミリリとリアレアは気まずげに顔を見合わせた。彼女達も何か思うところがあったのだろう。その職務と性格を考えれば二人が責任を感じるのも無理はない。
だが、気が強くて常に我が道を行くような彼女達がそんな弱気な様子でいると調子が狂う。いつになくしおらしいミリリとリアレアを前にして、ディウルスは煩わしげに息を吐いた。
「そもそも、お前達に謹慎だのなんだの言い渡せば姫の守りが薄くなってしまうだろう。どうしても気が済まないというなら、二度とこんな事がないよういっそう仕事に励め。それをお前達への罰とするから、この話はこれで終わりだ」
「承知しました」
「誠心誠意取り組ませていただきます」
ようやく二人の表情に色が戻る。ひとまずこれで本題に入れそうだ。
「で? お前達を襲ったという連中の調べはついたのか?」
「つい最近入国した商隊が雇っていた用心棒のようです。先ほど商隊の人間から彼らの身柄を引き受けたいとの申し出があったようですが、この対応の早さからして商隊が裏で手を引いていた可能性もあるのではないかと」
「その商隊が傭兵に命じて、姫を襲わせたという事か。どこの国の商会の連中だ?」
「ヴェリエ国の商会のようです。商業ギルドに問い合わせたところ、実在する商会のようでした。商会側も、アライベルに入国した商隊の存在を認めています」
「……北の奴らか」
ミリリの報告を聞き、ディウルスは低く唸った。ヴェリエ国は目下アライベルが最も警戒している国、ガルガロン帝国の属国だ。さすがに今回の件の裏に帝国の暗躍があるとは思えないが、そう言い切る事はできない。ガルガロンの間者がヴェリエの商会の協力のもと商人に扮している可能性も、ヴェリエ側がガルガロンに恩を売るために独断で動いた可能性もある。北方の国々が相手では油断はしないほうがいいだろう。
アーニャの身に何か起きれば、それが戦争の引き金になるかもしれない。他国にいた王女が害されたのに何もしないとなればクラウディスの、そして他国の人間にみすみす王の婚約者を傷つけられたとなればアライベルの威信にかかわる。そうなったとき、両国は相応の対応を迫られるだろう――――たとえば、アーニャを害した国家に対する報復とか。
いくらアーニャが祖国で疎まれていたとはいえ、彼女がクラウディスの王女である事に変わりはない。クラウディスとアライベルの間にも取り返しのつかない亀裂が走るだろう。クラウディスの怒りはアライベルに、アライベルの怒りはアーニャを害した国に。アライベルが宣戦布告をすれば同盟国は乗ってくるだろうし、相手国の同盟国も動き出すに決まっている。そうなれば、再び大陸全土を巻き込む大きな戦争が始まってしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければならなかった。
「一応警戒を強めておけ。何があっても姫には指一本触れさせるな」
かつていくつもの国を包んだ戦火と血の犠牲を思い、ディウルスは低い声で厳命した。
* * *
いつも不遜な態度を崩さない主人が珍しく落ち込んでいる。彼が銀髪の少女に出会ってからもう三日が経つが、まだ気分は沈んだままのようだ。
当たっていってあっさり砕けた経験などないせいか、主人のプライドはズタズタらしい。その状態であっても従者に対してあれこれ命令するあたり、対して痛手になっていないとも取れるが。
主人は従者にあの少女の事を調べるよう命じた。それがフラれた腹いせをするためなのか、あるいはやっきになって何としてでもものにしようとしているからなのかはわからない。ただ一つ言えるのは、従者にとって非常に面倒な事態になったという事だ。
「嘘だろ……」
部下からの報告を聞き、従者は顔を真っ青にした。顔色の悪い部下を置いて従者は慌てて主人の部屋に駆け込む。窓の側に腰掛けて空を見上げていた主人は、不作法な来訪者にむっとしながら振り返った。
「なんだ、騒々しい」
「大変です! あの少女の素性がわかりました!」
「おお! でかしたぞ!」
現金なもので、主人はすぐに表情を明るくさせる。しかし息せき切らせた従者の様子に、彼は怪訝そうに眉をひそめた。
「まず、あの子が連れていた金髪の男ですが、あれは彼女の婚約者ではありません。それ以前に男ですらなく、男装した女騎士だと思われます」
「ん? つまりあれは護衛であり虫よけだったという事か? 何はともあれ、婚約者がいないというのは好都合だ」
「……それが、婚約者はいるんですよ」
「ちっ。まあ、いたところで略奪するだけだがな。で、あの娘はどこの誰なんだ?」
主人は不遜に言い放った。どうやら従者の嫌な予感は的中してしまったらしく、彼は本気で少女に恋してしまったらしい。気が遠くなるのを感じながら、従者は主人に現実を突きつけた。
「あの方はクラウディス王国王女アーニャ・クラウディス様――ディウルス王の婚約者です」
時が止まる。主人は呆けたような顔のまま固まった。それを見た従者は、さすがの主人もこれで諦めたかと胸を撫で下ろす……が、その安堵の時間は数秒も持たなかった。
「くっ、はははははは! つまり彼女を奪えば私は幸せになれるし、ディウルスに一泡吹かせられるという事だな! うまくすれば兄の吠え面も見られる! 最高じゃないか!」
「そ、そんな……! 本気なんですか!?」
主人の高笑いに従者はぎょっとして目を剥く。すっかり元気を取り戻したらしい主人は、自信に満ちた顔でにやりと笑った。
「よく考えてみろ。アーニャ姫が自ら望んであの醜男の婚約者になったと思うか? そんなわけがないだろう。きっと彼女は半ばおどされるような形でこの国に来たに違いない」
クラウディス。行った事はないが、噂には聞いている。海の中にぽつんと浮かぶ小国だったはずだ。資源は豊富ではあるが、さしたる軍事力も持ち合わせていないという。アライベルとの国力の差は明白だ。アライベル側が力をちらつかせてアーニャ姫を要求すれば、クラウディスは断れないだろう。
「誰かがアーニャ姫を救い出さねば、彼女はこれから先ずっと枕を涙で濡らしながら暮らす事になる。いや、今この時も彼女は自らの不運を呪っているだろう。そんな残酷な運命があっていいわけがない」
「ですが、本当に国際問題になりますよ! そんな事をすれば、もう隠す事もごまかす事もできません!」
「どうとでもなる。民衆は美談に飢えているからな。悪逆の王に囚われた美姫を、異国の旅人が救い出すんだ。その結果、姫が旅人に恋をしたところで誰が彼女を咎められる? それどころか、これぞ真実の愛だと誰もが賛美するだろう。無論旅人は美姫の愛に応え、二人は旅人の国で末永く幸せに暮らすのだ」
いい加減にしろよあんたじゃ無理だろフラれたばっかりじゃねぇか、というとっさに口から飛び出そうになった暴言を何とか飲み込み、従者は切れそうになった血管を保護するために呼吸を整える。絞り出した声は怒りのあまり震えていた。
「どこまで貴方の頭はおめでたいんですか?」
「仕方ないだろう、先祖の代からそうなんだ」
「答えになっていませんよ。……どうなっても知りませんからね」
内心がどうあれ、彼に逆らう事は許されない。何故彼に仕える事を決めてしまったのだろうか、と過去の自分の浅慮を悔いながら従者は渋々主人に跪いた。そんな従者を見下ろし、主人は満足げに告げる。
「なんとしてでもアーニャ姫を我が妻に迎え入れるぞ。これはもう決まった事だ。お前にも手伝ってもらうからな。期待しているぞ、シアルフィ」
「……我が主のお心のままに」




