閑話 ディウルスの穏やかな休日
「……暇だな」
朝食を済ませ、ディウルスはぽつりと呟いた。今日中に終わらせなければならないような仕事も、急いで取り掛からなければいけないような仕事もない。何の予定も入っていない今日は、ディウルスにとっては久しぶりの休日だった。
アーニャに会いに行ってもいいが、彼女にも何か予定があるかもしれない。そんな中、わざわざ自分の顔を見せに行くのもはばかられる。ドレスを選ぶ時にはヴィンダール達にせっつかれる形で顔を出したが、今はアーニャと会う必要に迫られているわけではない。彼女が今何をしているのかは知らないが、たまたまこちらが暇だったから、なんて理由で付き合わせるのも悪いだろう。
結局手持無沙汰のディウルスは、あてもなく宮殿内をうろつく事にした。ヴィンダールとアッシュは連れていない。ディウルスが一人で出歩くのはいつもの事だ。同行を拒まれて待機命令を出されるのは正直迷惑だと二人から常々言われているが、ディウルスは意にも介していなかった。
「おおディウルス、久しいな」
「エリザ? お前が登城するとは珍しいな。何かあったのか?」
声をかけてきたのはリットの妻エリザレーテだ。車椅子を侍女に押してもらい、エリザレーテはにこやかに笑いながらディウルスに近寄る。
「私の可愛い人が家に昼食を忘れていってな。せっかくだから届けに来たのさ。私も、屋敷に閉じこもってばかりでは気が滅入ってしまうんだ」
「それはご苦労。ところで、最近調子はどうだ?」
「おかげさまで。君のほうこそ、ずいぶん可愛い婚約者をもらったそうじゃないか」
「はっはっは。俺には分不相応だがな」
「自覚があるなら結構。せいぜい泣かせないようにするんだな」
「努力はするぞ、努力はな」
「まったく。そんな事じゃ、逃げられても知らないぞ」
かなり幼く見えるエリザレーテだが、実際はディウルスよりも―一つしか変わらないとはいえ―年上だ。ディウルスの幼馴染みでもあるエリザレーテは、ディウルスに対して姉ぶった言動が目立つ。それは彼女の兄であるアッシュや夫であるリットにも言える事なので、ディローゼス家とロラディオン家の血なのかもしれない。どちらも代々王家のよき助言者であり続けた家だ、きっと生まれつき世話焼きなのだろう。単純に、彼らから見たディウルスが頼りないだけかもしれないが。
「ああ、そうだ。ついでに持ってきたんだが、せっかくだから渡しておこう。私達からの婚約祝いだ。アーニャ様と二人で食べてくれ」
差し出されたのは、エリザレーテが膝に載せていた大きな箱だった。箱の陰に隠れていて見えなかったが、彼女の膝上には布がかけられた小さなバスケットも載っている。リットが忘れたという昼食だろう。
「ほら、リットお手製のバウムクーヘンだぞ。もちろん私も手伝ったがな?」
「どうせ味見をしただけだろう?」
「失礼な奴だな。ちゃんと包装もしたぞ」
むくれるエリザレーテには目もくれず、ディウルスはバウムクーヘンの箱を受け取った。アライベルが誇る高級菓子、バウムクーヘンを作るには専用の設備がいる。しかしロラディオン家の厨房にはその設備があった。それを知っているからこそ、ディウルスはリットに手製のバウムクーヘンを注文したのだ。
本来貴族の家には必要ないそれをわざわざ作らせるなんて、友人はどこまで菓子作りの腕を極めようとしているのだろうか。それはディウルスにもわからなかったが、彼が作る菓子はなんだっておいしいという事だけは理解できていた。
「そんなもの、手伝いのうちには入らんさ」
「しょうがないじゃないか。私が手を出しても、邪魔にしかならないんだから」
ディウルスがげらげらと笑うと、エリザレーテもくすりと笑った。開き直るなと小突いても、エリザレーテはぺろりと舌を出すだけだ。味見だけでなく包装の手伝いもしたというが、その反応からして本当にちゃんとやれたのかは怪しかった。ぐしゃぐしゃにしてしまって、結局リットがやり直したのではないだろうか。
「何はともあれ、ありがたくもらっておこう。……その昼食も、なんなら俺が届けてやろうか?」
「いいや。気持ちはありがたいが、これは私の仕事だ。せっかく仕事中のリットに会いにきたんだぞ? 私の手で渡したいじゃないか」
「あー……そうだな……。リットもそのほうが喜ぶだろう、うん」
そういえばこいつはこういう奴だった、とディウルスは苦く笑う。騎士の家系に生まれ、何より強くそして正しくあるよう兄とともに厳しく育てられ、魔術師として戦場に立ち、退役するまでは前線で活躍していた男勝りの女戦士はリットが絡むと少女人形のようなその甘い見た目通りの乙女らしい思考になる。エリザレーテが辞めたのは、戦場で両足を失った事だけが理由ではないからだろう。それでも全体的に男らしさが消えないのは、その口調と自信に満ち溢れた表情のせいだろうか。
「では、私はそろそろ失礼するぞ。君もあまり周囲に心配をかけないようにな」
「お前もな。もしお前がかすり傷を一つでも作ろうものなら、リットが荒れて手がつけられなくなってしまう。とばっちりはごめんだぞ」
侍女に車椅子を押してもらい、エリザレーテはその場を去る。凛とした雰囲気はそのままだったが、もう彼女の背中からは以前のような激しい闘志は感じられなかった。
かつてはその名だけで敵兵を恐怖に陥れていた女魔術師も、結婚した今ではすっかり丸くなったようだ。もう一人の狂戦士もいい加減丸くなってほしいものだ、とディウルスは自分の事をしれっと棚に上げて遠い目をした。
* * *
「エリザレーテ様が登城なさったのよ。わたし、驚いてしまったわ」
「まあ、珍しい。どうかなさったの?」
「なんでも、リット様のお食事をお届けにいらしたんですって。陛下にもお会いになられたそうよ。婚約祝いのバウムクーヘンをお贈りなさったみたい。もちろんリット様の手作りのね」
休憩時間を迎えた侍女達が、控室に戻るために足早に廊下を歩きながら雑談に花を咲かせていた。ぺちゃくちゃと高速で交わされるそれは、貴重なお喋りの時間を一秒も無駄にしないために編み出された侍女特有の会話法だ。あまりにも早口すぎるため、慣れている者でなければほとんど聞き取れないのだが。
「あらあら。本当、お二人は仲睦まじくいらっしゃるわね。うらやましいわぁ」
エリザレーテがやってきた経緯を聞いて、一人の侍女が感嘆のため息を漏らした。
ロラディオン公爵家の嫡男リットとディローゼス公爵家令嬢エリザレーテが結婚するに至った経緯は宮殿内で知らない者がいないほど有名だ。結婚してから四年経った今も二人の愛は冷める事なく、ロラディオン家の使用人達は毎日のように砂糖を吐いているとかいないとか。
「それで陛下があんなに嬉しそうだったのね。陛下はリット様がお作りになるお菓子がお好きだから」
「本当は有名なお店で買う予定だったのを、陛下が頼んで手作りのものにしてもらったらしいわよ」
「まあ! それはリット様もお喜びになられたでしょうね。菓子職人よりも自分のほうがいいと言われたも同然なんだから」
「それもしょうがないわよ。だって、リット様のお菓子は本当においしいんですもの。陛下が店のものよりリット様のものを望むのも無理はないわ」
ディウルスは甘味が嫌いではない。出されればなんであろうと食べる。だが、彼が自分からあれが食べたいこれが食べたいと注文をつける事はめったになかった。そんな彼が唯一あれこれ口を出す相手がリットだ。宮殿の菓子職人達はだいぶ複雑らしいが。
書類仕事は頭を使う。休憩中につまめる菓子は、疲れた頭を癒し腹を満たす重要な存在だ。ディウルスも当然のように執務机の上にレープクーヘンやフロレンティーナを載せている。ちなみにすべてリットの手作りだ。毎日のようにリットがディウルスに菓子を渡すのは彼らがまだ幼い時からの習慣だったので、もはや誰もその事について突っ込もうとはしなかった。
「『拷問』は嫌がってるのにね。リット様の手作りおやつの事になると目の色が変わるんだから」
「そりゃ、お叱りよりお祝いのほうが嬉しいですもの。そもそもリット様の『拷問』は……ねぇ? 私なら耐えられないわ」
「わたしもよ。あれに耐えられる人なんていないんじゃない?」
侍女達はけらけらと笑い、侍女の控室に入っていった。室内には先に休憩時間を迎えていた侍女がいる。彼女達を加える事で、会話はさらに弾むのだろう。
呑気に厩舎を見て回りながら「次は遠駆けでもするか……」と呟いていたディウルスは宮殿内でそんな会話が交わされていたとは思いもしていなかったし、それを断片的に聞いていたアーニャが大きな勘違いをしてしまっていた事など知る由もなかった。




