恋の話と呪いの話
「あら、魔人を見るのは初めて?」
アーニャの視線に気づいたセレスティアがくすりと笑った。その手の視線には慣れているのだろう、セレスティアは特に気にした様子もなく翼に手を伸ばす。
そのまま彼女は抜き取った羽根をアーニャの手のひらに載せた。次の瞬間、羽根がぽうと淡く光って少しずつ溶けるように消えていく。ほどなくして羽根は完全に消えてしまったが、その輝きを見ていると不思議と心が落ち着いてきた。
「魔人、ですか?」
「純血のミフレツェット……魔の物を身体に宿した人間、それが魔人よ。こんな見た目のせいで天使だのなんだの言われてるけど、もともとあたしはただの人間なの。昔色々あって、魔の物と融合しちゃっただけ」
「……?」
なんでもない事のように告げられた言葉の意味がなかなか飲み込めない。アーニャの戸惑いを感じ取ったのか、セレスティアは人差し指を顎にあてて小首をかしげて「どう説明しましょうか」と呟いた。
「まず、この世界は大きく分けて三つの領域に分類できるの。人間がいる下位領域、魔の物がいる中位領域、精霊がいる上位領域の三つにね。この三つは重なり合って存在しているけれど、下位領域に暮らす者は他の領域の住人の存在を感知できないの。……いいえ、干渉できないとでも言ったほうが正しいかしら。認識できるかは別としても、存在を知る事は一応できるわけだし」
「そうなんですか?」
「普通はね。その理を飛び越えるのが精霊術師とか魔の物使いとかなんだけど……その辺りの事は今は置いておいてもいいでしょう。で、魔の物っていうのは……そうね、人間の厄介な隣人とでも言えばいいのかしら」
精霊みたいにいたずら好きで悪ふざけばかりするわけじゃないけど、精霊より排他的で扱いづらいのよ。そう言って、セレスティアはミリリに意味ありげな視線を向けた。ミリリはわざとらしくそっぽを向く。
「魔の物には二種類あるの。純血、つまり生まれついての魔の物と、他の種族から堕ちた魔の物。あたし達魔人が宿しているのは前者よ。前者は基本的に無害……ってわけじゃないけど、危険度は後者よりも低いわね。アーニャ、貴方も気をつけなさい。どちらの魔の物にしろ、絡まれたら結構厄介なんだから」
そう言ってセレスティアは紅茶を口に運んだ。そのまま彼女は傍らの少年に何かの指示を出す。少年は小さく頷いて部屋から出ていった。
「まあ、難しい話はここまでにしましょう。今日貴方に来てもらったのは、こんな講義をするわけじゃないんだし」
セレスティアはとても楽しそうに唇をぺろりと舐める。思わずアーニャはごくりと息を飲んだ。
「もっと面白いお話をしましょうか。若い子の恋愛話っていう、とっても楽しいお話をね!」
「……はい?」
*
「つまんないわねぇ……」
「ご、ごめんなさい」
数十分もしないうちにセレスティアは机に突っ伏してしまった。彼女の望むような話をアーニャが話せなかったからだ。特に悪い事をしたわけではないはずなのに、無性に気まずい。わざわざ他人に聞かせるような恋愛経験もなく、ディウルスとの間に何かがあるわけでもないので、喋れないのも当然なのだが。
「何よ、参考にしようと思ったのに……」
「参考?」
聞き返すと、セレスティアははっとして慌てたように身を起こす。そして先の呟きをかき消すような勢いで叫んだ。
「あたしが貴方ぐらいの時は、男をとっかえひっかえして遊んだものよ! 貴方ももっと遊ぶ事を覚えたら?」
「えっ!?」
「妙な事をアーニャ様に吹き込まないでくださいませ!」
いつの間にかアーニャの右側に座っていたリアレアがばしりと机を叩く。左側に座っていたミリリもじろりとセレスティアを睨みつけた。だが、その反応がセレスティアの心に火をつけたらしい。二人に向けて、セレスティアは挑戦的に口角を吊り上げた。
「ミリリ、リアレア、代わりになんか話しなさいよ。うぶなアーニャのお手本になるような、あまーい話をね」
「「……」」
沈黙は一瞬だった。リアレアの目がきらりと光る。ミリリは相変わらずの無表情だったが、彼女も特に抵抗はないようだ。
「本当に話してしまっても構わないのですか? わたくしの話を?」
「わざわざ人に聞かせるようなものでもありませんが、お望みとあらば」
「ふ、二人ともそういった関係の方がいらっしゃったのですか!?」
「わたくしはもう結婚しておりますもの。ミリリ様も、結婚を前提にお付き合いなさっている方がいらっしゃるんですわよね?」
「結果的にそういう関係になりそう、という程度のもので、まだ確定しているわけではありません。彼への好意は否定しませんが、交際という段階にすらも至っていませんよ」
「あら、まだそんな程度のものだったのですか? わたくしはてっきり、もうお互いの家への挨拶は済ませているとばかり」
「そのような空気になっている節はありますが、正式な発表や手続きなどは一切していませんよ。それを思うと、とても恋人と言えるようなものではありません」
「ちょっとちょっと、まさか弟に遠慮してるとかじゃないわよね? あっちが進展しないからって自分達を後回しにしてたら、いつまで経っても結婚できないわよ?」
「それはないですね。色々とこじらせているあの二人が最終的にどうなろうが、私には関係ありません。少しは力になりたいとは思いますが、こればかりはルルクとロゼル様の気持ち次第ですし。……私達の仲が発展しないのも、私達自身の問題です。彼と一緒になりたいという気持ちはあるのですが、どうもうまくいかなくて……」
突如始まった謎の会話にアーニャは目をしばたかせているしかない。一瞬だけロゼルの名前が聞こえた気がしたが、さすがに本人のいない場所で私情を明かすのはまずいと思ったのか、それ以上彼女について語る事もなくミリリはそのまま口を閉ざした。
セレスティアの冷やかしやリアレアの的確そうでいてただ面白がっているだけのような助言にミリリと一緒に耳を傾けながら、アーニャは感嘆の声を漏らす。他人の恋愛話など本の中の世界でしか触れた事がない。それを直で聞くというのはなかなか新鮮だった。世の女性達はいつもこんな事を話しているのだろうか。
ミリリがそれ以上深い事情を話す事はなかったが、すでに既婚者だというリアレアの話はかなり詳しかった。結婚に至るまでの経緯から結婚してからの生活まで、聞いているほうが恥ずかしくなるぐらいだ。だが、気づけばアーニャは興味津々に相槌を打っていた。
*
「あら、もうこんな時間?」
沈む夕日にセレスティアが気づいたのは、かつて自分を巡って五人の男達が争った時の事を彼女が話し終えたころだった。
アーニャ自身が話せるような事はほとんどなかったが、本で読んで憧れた展開についての話などをしてみた。それだけでもだいぶ会話が弾んだし、セレスティア達の話を聞いているのも面白かったのだ。全員が時間を忘れてすっかりお喋りに夢中になっていたため、帰り支度が慌ただしいものになる。さすがに夜になる前には帰ったほうがいいだろう。
「あ、ちょっと待ってちょうだい。言っておきたい事があったのに、すっかり忘れてたわ」
立ち去り際、セレスティアがアーニャを呼び止める。ケークル、と誰かの名前をセレスティアが呼ぶと、先ほど出ていった少年が包装の施された小さな長方形の箱を持って部屋に入ってきた。まさか彼はずっと廊下で待機していたのだろうか。
「いい、アーニャ。この国の連中は甘いわよ。それは優しさのふりをしただけの何かかもしれないけど、少なくとも貴方の周りにいるのはそれを善意と信じてやってる奴らばっかりなの。貴方はそれに甘えてもいいし、余計なお世話だとつっぱねてもいい。どうするかは貴方次第よ」
過保護すぎるのも考えものよね、とセレスティアは笑う。リアレアとミリリも微苦笑を浮かべていた。彼女達にも思い当たる節があるのだろうか。
「だけど覚えておいてほしいの。この国に馬鹿は……おつむの残念な奴は何人もいるけど、優先順位を取り違えるような奴はいないわ。普段は反吐が出るほど甘ったるいくせに、目的のためならどこまでも非情になる奴らの多いこと多いこと。ぬるま湯に頭から浸かってるような連中でも、いざというときは豹変するって事ぐらいは頭の隅にとどめておいてちょうだい。貴方に幻滅されると、さすがのあいつらも少しはこたえるでしょうし」
そう言って、セレスティアはケークルと呼ばれた少年から箱を受け取る。そのまま彼女はその箱をアーニャに渡した。
「それ、あたしからの婚約祝いだから。幸せになれるペンダント。せいぜい大事にしなさいな。壊したりしたら承知しないわよ? ……ま、それに異変が起きてもここに来てくれればすぐに直してあげるけどね」
「はい。ありがとうございます」
優しげに笑うセレスティアに今日一番の笑顔で礼を言い、アーニャは弾んだ気分のまま執務室を後にした。
*
「これであの子の呪いは解けたわ。まあ、今さら解呪したところで何の意味もないでしょうけど」
セレスティアの羽はすべての魔術を無効化する。アーニャに渡した羽根にもその力は宿っていた。アーニャに掛けられていた呪法魔術はすべて羽根が背負ったので、今のアーニャに呪いの類はかかっていない――――彼女に取り憑く魔の物を除いては、だが。
「でも、魔の物がいなくなっただけでも安心感が違いますよ」
「祓ってないけど?」
「えっ!?」
思わぬ返答にケークルはぎょっとしてセレスティアを見る。セレスティアはうんざりしたように手を軽く振った。
「無理無理。あれは祓えないわ。あの子に贈ったペンダントを通して、もっと深い場所に押し込んで封印しただけよ」
「セレス様でも祓えないモノがあるんですか?」
ケークルが目を丸くすると、セレスティアはけだるげに笑う。長い間面倒を見てきた弟子は自分の事を侮っているのか信頼しているのか、いまいちよくわからない。
「当然じゃない。あたしにだってできる事とできない事があるのよ。……あれの恨みは、正確にはアーニャに向けられたものじゃない。アーニャもその恨みの対象には入ってるけど、あれにはもっと恨んでる相手がいるの。アーニャはただのしるしよ。それを恨んでいるっていう、わかりやすいしるし」
「恨んでいる相手、ですか。それは一体誰なんでしょう?」
「アーニャの故郷、そのすべてよ。クラウディス王国、だったかしら。さすがにアライベルからじゃ、クラウディス全体へ向けられた呪詛はどうにもできないわ。あれを祓いたいなら、クラウディスに行って本格的な儀式をやったほうがいいでしょうね。……別にそこまでしなくても、今のアーニャには魔の物の力なんてほとんど影響を及ぼさないはずだけど」
セレスティアは眼鏡を手に取って窓の外を見下ろす。ちょうどアーニャ達が教会を出たところだった。
「……あの子、今までよく生きてこれたわね。あれだけの呪いに蝕まれてたのに潰れなかったなんて、それ自体が奇跡みたいなものよ。それがいいか悪いかは別としてもね」
だが、セレスティアが見た限りではアーニャ自身に特別な力が備わっている様子はなかった。恐らく彼女に取り憑くモノがあえて手加減をしていたのだろう。より長い間彼女を苦しめられるように――――クラウディスが長い間絶望を味わうように。
今まではじわじわといたぶっていただけだったようだが、望めばアーニャを死に至らしめる事など簡単だったはずだ。いい性格の奴に絡まれたわね、とセレスティアは渋い表情で呟く。
それは堕落した術者本来の性格ではなかったかもしれない。だが、それならそれで最悪だった。王の独断か、貴族の陰謀か、あるいは民の総意か。その違いはあれど、導かれる結果は同じだ。人の性格を歪めるほどのむごい仕打ちを、クラウディスという国家は行ったのだから。
「もしもアーニャがクラウディスにい続けたら、魔の物の呪いはじわじわとクラウディス中に広がっていたでしょうね。アーニャ自身に掛けられた呪いとはまた違う、魔の物本人の力がね。……そういった意味では、アーニャは本当に破滅を呼ぶ娘だったのかもしれないわ」
アーニャが祖国から連れてきた従者達の証言と、直接アーニャに掛けられた呪いを分析したルルクの話はすでにセレスティアの元に届いている。
ルルクが“よく解析らないもの”と称したモノこそ、魔の物という存在そのものの呪いだった。国を憎み、民を憎み、怒りと絶望の中で死んでいった術者の怨念が力となり、アーニャを触媒にして現世に不幸をまき散らしているのだ。
だが、その忌むべき力はアライベルの民には何の影響も出さない。少なくとも術者が死んで魔の物に成った時点では、アライベルはその恨みの対象ではなかったのだから。そうである以上、アーニャの存在はアライベルにとって特に忌避するべきものでもなかった。
「ですが、陛下にはどう報告なさるんですか? 祓えませんでした、ではさすがに……」
「ありのままを伝えるに決まってるじゃない。大丈夫よ、あたしのお守りとルルクのお守りが効いている間はそう心配する必要はないもの。堕落の魔の物だったらミリリでも抑えられるから、もし誰も予測できなかったような非常事態が起きてもしばらくはもつはずよ」
セレスティアは自信に満ちた笑みを浮かべる。祓えなくても封印はできるんだから何の問題もないでしょう、と。
「封印は完璧に施したわ。魔人歴三百年目のセレスティア様をそう侮るんじゃないわよ。どれだけ力が強かろうと、魔の物に成って五十年も経ってないような元人間に後れを取るはずないじゃない」
「あはは。それが縁起の悪い結果を呼ぶきっかけにならない事を祈ってますね」
「……貴方、やっぱりあたしの事を馬鹿にしてない?」
恨みがましげに呟いたセレスティアは目を据えてケークルを睨みつけるが、彼は微笑むだけで何も言わなかった。




