制裁
きっとこの時、生まれて初めてアーニャはリューハイルに向けて声を荒げた。まさかアーニャに言い返されると思っていなかったのか、リューハイルは一瞬ぽかんとしたもののすぐにわなわなと震え出す。
「なんだと? 売女の娘の分際で、俺に口答えする気か!」
「――ッ!」
ついに怒りが限界に達したらしい。リューハイルはこぶしを握る。これから襲う衝撃に怯え、アーニャは思わず目をつぶった――――だが、痛みは一向に訪れない。
「……?」
おずおずと目を開ける。リューハイルは殴りかかろうとする姿勢のままでいぶかしげに眉根を寄せていた。
[だめだよ。ひめさまになにかしたら、ミナにおこられるよ]
[だめだよ。ひめさまがなにかされたら、ミナがおこられるよ]
[きみがおこられても、ぼくたちはきにしないんだけどね]
[でもきっと、ミナまでえらいヒトにおこられちゃうからね]
[えらいヒトがおこったらミナはかなしくなるよ。ミナがかなしくなったらアルトがおこるよ ]
[ひめさま、ロゼルのともだちでしょ? ひめさまがかなしくなったら、ロゼルもかなしくなるよ。ロゼルがかなしくなったらルナがおこるよ]
[ミナとルナがおこったらたいへんだよね。ロゼルとアルトもけっこうこわいよね]
[だからミナがいないときは、ぼくらがかわりにひめさまをまもるよ。ミナにもそうたのまれてるよ]
[ひめさまはぼくらのともだちじゃないけど、ひめさまのともだちはぼくらのともだちだよ。ともだちのともだちはともだちだよ。だからぼくらはひめさまをまもるよ]
どこからともなく子供達の声が聞こえてくる。しかしその姿は見えない。夜の闇の中から無数に響く子供の声は不気味だったが、敵意は感じられなかった。
[[――我らの前で我らが友を傷つけられると思うな、人間風情]]
次に聞こえてきたのは子供の声ではなかった。男とも女ともつかない、幾重にも重なったその声は空気を震わせる。木々がざわめきだすと同時に気温が下がった気がした。
「なっ……何者だ!」
驚愕の表情を浮かべたままリューハイルは声を張り上げる。しかし返事はなく、代わりに強い風が吹きつけてきた。まるで吹きすさぶこの風こそが答えだとでも言うような現象に、人知を超えた何かの意志を感じずにはいられない。
「そこで何をしている?」
「陛下!」
風が止んだ。それと同時にテラスにディウルスがやってくる。安堵のあまりアーニャが声を上げると、ディウルスはふっと微笑んだ。
「ああ、姫とリューハイル王子だったのか。……二人とも、そろそろ中に入ったらどうだ? 大広間にいてもわかるぐらい風が強くなってきたぞ。今は止んだようだが、これから天気が荒れない保証はないからな」
だが、ディウルスの笑みはすぐに消えてしまう。リューハイルに不審げな眼差しを向けながら、ディウルスはさっさとアーニャの手を取った。
「それにしても……リューハイル王子は何をしていたんだ? その奇妙な格好には、一体何の意味がある?」
「こ、これは……その……」
ディウルスはすべてを察して改めて問うているようだが、だからといって、これからアーニャを殴ろうとしていたなどとは口が裂けても言えないだろう。リューハイルはしどろもどろになりながら要領を得ない言い訳を重ねる。どうやらもう動けるようになったらしい。
「……姫、いつまでもここにいたら身体が冷える。早く中に戻るぞ」
「はっ、はい!」
そんなリューハイルの様子に、ディウルスは呆れたように目を細めた。アーニャの腕を引いてテラスを後にしようとするディウルスは、それきりリューハイルに一瞥もくれようとしない。
「ここは俺の国だ。姫の兄とはいえ、あまり勝手な真似はしてほしくないものだな」
「……ッ」
リューハイルに背を向けたまま、ディウルスは厳しい声音でそう告げる。アーニャはわずかに振り返って別れの挨拶のためにリューハイルへ向けて小さく礼をしたが、その時のリューハイルはひどく苦い顔をしていた。
大広間に戻ると、ロゼル達がほっとしたような表情で出迎えてくれた。その場を丸く収めるためとはいえ、うかつにもリューハイルについていった事でかなり心配させてしまったらしい。リューハイルの気性の荒さを知っているエバとウィザーは気が気でなかっただろう。
「あ、あの、陛下」
「ん……ああ、すまなかった。痛かっただろう?」
声をかけると、ディウルスはぱっと手を離した。つい先ほどまで感じていた温かいものがなくなる。だが、傍にその手の主がいるおかげか不安は感じない。
「いえ、痛くはありませんでしたけど……その、ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。俺は当然の事をしたまでだ」
ディウルスの態度はそっけない。だが、突き放されたという気はしなかった。
「それより、気づくのが遅くなってすまなかったな。お前の兄が供さえ拒んでお前を連れていったとロゼル達に聞かされてから、すぐにお前を探したんだが……」
それはディウルスが謝るような事ではない。だが、気にしないでくださいとアーニャが言ってもディウルスは申し訳なさそうな表情のままだ。お前が気にしなくても俺が気にする、と言ってディウルスはひこうとしない。
「お前は俺の婚約者だが、身分の上ではまだクラウディスの王女だろう? そこに他国の王が割って入ると、国家間の禍根が残る。あんな男でもお前の兄……クラウディスの王子だ。そのせいで、どうしても強くは言えなくてな」
どうやらディウルスにはもう一つ負い目があったらしい。もう一度謝罪の言葉を口にし、ディウルスは自嘲気味にため息をついた。
「もうあの男がこの国の土を踏まないよう……いや、誰であろうと二度と俺の国で勝手な真似をしないよう、お前の父にはそれとなく釘を刺しておく。今はそれぐらいしかできないのが心苦しいが……」
「いいえ。来てくれただけで本当に助かりましたから」
「……そうか。だが姫、今度からは嫌な事は嫌だとはっきり言ってくれ。特に俺は阿呆だからな、言いたい事は言ってもらわねばわからん」
聞く者が聞けば自分の事を棚に上げるなと呆れそうな発言だが、ディウルスの目はいたって本気だった。
「お前が何も言わなければ、周りの人間は引き下がるしかない。もちろん諫言をしないという事ではないが、今回のような場合はお前の意思が尊重される。なにせ相手が他国の貴人で、そのうえお前の肉親だったからな。だが、お前が嫌だと言ってくれればロゼル達も相応の態度で臨めるんだ」
「……わかりました。次からはそうします」
そう約束すると、ディウルスはようやく表情を緩めてくれた。ロゼルは今にも泣きだしそうな顔をしながらごめんなさいと繰り返し言っていて、今度はそちらをなだめるのに苦労してしまったが。
しばらくしてからリューハイルも大広間に戻ったようだ。難しい顔をしたディウルスを横目で見ながらアーニャはそちらに意識を向ける。
「きゃっ!」
「っ!」
グラスを手にした女性がリューハイルにぶつかった。リューハイルは嫌味の一つでも言おうと思ったのか、顔を歪めて口を開こうとする。だが、自分にぶつかってきたのが年若く美しい女性だと気づいてすぐにその口を閉じた。
「ごめんなさい、ムシュー。濡れてしまったかしら?」
「貴方は……」
リューハイルは呆然としながら女性を見下ろす。女性はハンカチを取り出し、リューハイルの服を撫でるようにして触れた。彼の頬がほんのり色づいていく。
「私は大丈夫ですよ。貴方こそ濡れませんでしたか?」
「ええ。私はなんともありませんわ。……よかった、貴方の服を汚してしまわなくて」
そう言って女性ははにかむ。同性のアーニャですら見惚れてしまいそうなその微笑みがリューハイルの目にどう映ったかなど、今さら考えるまでもないだろう。それほどまでにその女性――――ミリリの笑顔は魅力的だった。
「もしや貴方はエスラシェの方ですか?」
「はい。今日は弟にエスコートしてもらっていたのだけど、いつの間にかはぐれてしまって。もう帰ろうと思っていたところでしたけど……」
それは嘘だ。騎士でありながら令嬢としても参加していたミリリがエスコート役として連れていたのはルルクではなく、鮮やかな青紫の瞳をもったダークブラウンの髪の青年だった。彼の姿は遠目から見ただけだし、アーニャは彼の素性も知らないが、少なくともミリリをリードしているのはその青年だったはずだ。しかし今、その青年の姿はどこにもない。
「そんな。はるばるエスラシェからいらしたというのに、このまま帰るなんてつれない事をおっしゃらないでください。これも何かの縁ですよ。どうです、私と一曲」
「まあ。私でいいのかしら?」
「ええ。私もそろそろ引き上げようと思っていたところですが、貴方のような美しい方とお会いできた事で考えが変わりました。どうもこの国の空気は性に合わないのですが、貴方となら楽しい時間を過ごせそうだ」
「ふふ、貴方からそう言ってくれて助かりました。本当は私も同じ事をあなたに言いたかったのですけど、ぶつかってしまった挙句にそんな事を申し出るなんて、厚かましくて礼儀知らずな女だと思われたらどうしようと考えると怖くて……」
リューハイルもミリリも、よくまあそこまでぺらぺらと口が回るものだ。ミリリの意図はよくわからないが、リューハイルの鼻の下はすっかり伸び切っている。これがあの恐ろしい兄王子と同一人物だというのはにわかには信じられなかったが、男性というのは美女を前にするとみなこうなるものなのだろうか。
ほどなくして曲が始まった。リューハイルとミリリは微笑みを交わしながら手を取り、優雅に踊り始める。しかしその直後、リューハイルの顔が苦痛に歪んだ。
ミリリの履いているピンヒールがリューハイルの足の甲を正確に抉っている。「よくあれだけ高いヒールで踊れますね。わたくしならきっと、歩く事もできないと思います」とロゼルは呟いていたが、問題はそこではない気がした。
悲鳴を上げないのは王子としての最低限の矜持だろうか。リューハイルは逃げようとしているようだが、ミリリはそれを許さない。彼女の腕はリューハイルの身体をがっちり押さえ込んでいる。その間もミリリは華麗なステップを刻んでいた。リューハイルの足を巻き込んで、だが。
「あ、あの、あれはいいのでしょうか?」
「何の問題もない。あれはただの事故だからな。あの男もそう目くじらを立てはしないだろう」
つい先ほど、国家間の禍根について聞かされたばかりだったはずだが。腕を組んだディウルスは溜飲が下がったように鼻で笑う。
「踊っている途中に相手の足を踏んでしまうのはよくある事だ。女の些細な失敗すら受け入れられないようでは男の沽券にかかわるぞ」
文句など言ってしまえば、己の器の小ささを知らしめるだけだ。そう言ってディウルスは豪快に笑うが、小さな声でこう付け足した。
「ミリリは見た目だけならか弱い侯爵令嬢だからな。ああいう手合いは、俺のようないかつい男よりも女に懲らしめられたほうが効くんだ。……女に手を上げるような奴だ、女にやり返される覚悟ぐらいできているだろう」
結局ミリリは事あるごとにリューハイルの足を踏み続け、曲が終わると同時に彼は痛む足を庇いながらも逃げるようにミリリの前から去っていった。やり遂げたわとでも言いたげなほど満足げに輝くその時のミリリの顔を、きっとアーニャは一生忘れないだろう。




