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忍び寄る恐怖

「……姫? 大丈夫か?」

「!?」


 ディウルスに声をかけられ、アーニャはびくりとして顔を上げる。正面に座ったディウルスは見慣れないケーキの刺さったフォークを手にしたまま、いぶかしげにアーニャを見ていた。


「あまり食べていないようだが……バウムクーヘンは口に合わなかったか?」

「い、いえ。大丈夫です。なんでもありません」


 アーニャは弱々しく笑い、薄く削ぐように切り分けられたケーキを慎重に口に運ぶ。舌の上に乗せた途端にケーキは溶けるようにほろほろと崩れたが、その舌触りを楽しむ余裕はない。食後に供されたケーキの名前もつい今しがた認識したところだ。ディウルスが機嫌よさそうに頬張るそれのおいしさは、今のアーニャには半分も伝わってこない。

 夕食の時間になってもあのカナリア色の髪の少女の事が頭から離れず、つい気がそぞろになってしまった。食事中にディウルスがしていた話もほとんど耳に入っていない。あれほどおいしいと思ったはずの料理の味も、今日はほとんどわからないくらいだ。カナリア色の髪の少女の事を思うと、胸が締めつけられて苦しくなる。とても食事を味わうどころではない。

 

(……本当はあの方が、こうして陛下と一緒に食事をするはずだったんですよね)


 彼女の居場所を奪ってしまった。自分がこの国に来てしまったせいで、彼女の恋は道ならないものになってしまった。一国の王女であるという点を除いては、自分が彼女に勝っている部分など恐らく一つとしてないというのに。

 ディウルスと少女に対する罪悪感と、これから待っているであろう未来への恐怖が心を蝕む。ディウルスが優しくしてくれるのは、自分がクラウディスの王女だからだ。祖国で疎まれていると知らず、同盟と引き換えにするだけの価値があると思っているからだ。もしも自分に何の利用価値もないと知れば、きっと彼は手のひらを返すのだろう。

 本来なら、自分では同盟締結の条件となる花嫁の役割は果たせない。同盟の証として他国に嫁ぐ花嫁は、人質としての意味があるからだ。しかしクラウディス側は、アーニャなどいつ死んでしまっても構わないと思っているだろう。自分が花嫁に選ばれたのは、ただの厄介払いに過ぎないのだ。

 人質(アーニャ)がいる事で油断したアライベルを背後から刺す。父王がそれを考えていないとは限らない。そしてそれにディウルスが気づいた時、この婚約は破談になるのだろう。どうせ王妃を迎えるのなら、愛情もなければ結婚したところで国益にもならないどころか戦争を呼ぶような女より、昔からの恋人のほうがいいに決まっているのだから。

 そうなったとき、用済みになった自分はどうなるのだろう。祖国に帰されるならまだいいほうだ。最悪殺される可能性だってある。しかし祖国に帰ったところで待っているのはあの冷たい眼差しだけだ。うまくディウルスに取り入る事ができなかった役立たずとして、父から罰せられる事も十分考えられた。ディウルスの婚約者――――未来のアライベル王妃の肩書きを奪われたとき、待っているのは絶望しかないのだ。


(結局わたしは自分の事しか考えられない、愚かで浅はかな女なんです……)

 

 ディウルスにもあの少女にも悪い事をしたと思う。だが、アーニャだって必死なのだ。この場所を失ったら、もう自分には何も残らない。たとえこれが他人から奪い取った居場所であれ、ここに縋るしかなかった。


「大丈夫には見えないぞ。顔色が悪い。今日はもう休んだほうがいいんじゃないか?」

「……申し訳ありません」

「いや、謝る必要はないが……」


 ディウルスに余計な心配をさせてしまった。彼が望むように笑えなかった。これでますます彼は自分に愛想をつかす事だろう。それは困る。だが、今のアーニャは涙がこぼれないようにするだけで精いっぱいで、とても笑えるような状態ではなかった。


*


「アーニャ様、何かあったのですか?」


 結局ケーキは一口ほどしか食べられなかった。部屋に戻ったアーニャに、リアレアは真剣な眼差しで問いかける。ミリリとアリカ、エバとウィザーも不安げな顔をしていた。


「……いいえ。少し疲れていただけです」


 アーニャは小さく首を振った。それと同時にカナリア色の髪の少女の事を頭から締め出そうとする。これ以上彼女の事を気にかけていたら、罪悪感で押しつぶされてしまいそうだった。

 リアレアかミリリ、あるいはアリカに問えば少女の正体は教えてくれるだろう。だが、彼女とディウルスの関係は曖昧にぼかされるに決まっている。それにひとたび彼女の素性を知ってしまえば、もう無視する事はできない。彼女の存在を受け入れ、正面から立ち向かっていかなければならないのだ。そんな勇気はアーニャにはなかった。


「皆さん、ありがとうございます。わたしはもう休みますから、今日はもう下がって構いませんよ」


 就寝時間には少し早い。だが、もうこれ以上何もする気になれなかった。


* * *


 それから何日も過ぎたが、カナリア色の髪の少女の事を宮殿で見かける機会は一度もなかった。だが、彼女の痕跡らしきものはある。リアレアに連れられて訪れたディウルスの執務室には、いつだって誰かがディウルスに贈った手作りの菓子が載った小さな包みがあったのだ。

 ディウルスの休憩時間を見計らったようにリアレアはアーニャを彼の元に連れていく。ともに時間を過ごす事で少しでも二人の中を深めさせたいのだろう。書類の散らばった執務机の隅に置かれた可愛らしい小さな包みを見るたびにアーニャが焦燥を覚えていた事には、誰一人として気づいていないようだった。

 休憩中のディウルスはそれとは別の茶菓子をアーニャに勧めた。ティースタンドに載せられた、明らかに休憩用にと用意されたものだ。執務机に乗せられた贈り物の事は誰も口にしない。執務室にはディウルスの側近であるアッシュとヴィンダールもいたが、彼らでさえ贈り物の菓子については一言も触れようとはしなかった。

 包みのデザインは日によって違っていたが、包みの口を結んでいたリボンはいつも同じものだった。贈り主が同一人物である事の証明だろう。贈り主の趣味らしい、年若い娘が好みそうな可愛い柄の包みは殺風景な執務室に一種の色どりを与えていた。

 きっと贈り主はあのカナリア色の髪の少女だ。ディウルスが書類仕事中につまめるよう、差し入れたに違いない。彼女の姿は宮殿にはないが、彼女の存在は確かにディウルスの傍にあるのだ。

 彼女とアーニャの間にある差は歴然だった。もしも自分が彼女と同じようにディウルスへ差し入れをしたとして、ディウルスは受け取ってくれないだろう。いや、受け取ってはくれるかもしれないが、食べずに捨てられるかもしれない。すでにディウルスには差し入れをしてくれる少女がいるのだ、自分がしゃしゃり出たところで入り込む余地があるとは思えなかった。


 アーニャが悶々としている間にも時間は進んでいく。気づけばディウルスとアーニャの婚約を祝う夜会が催される日が来てしまった。宮殿で出会った要人の顔と名前はなんとか頭に詰め込もうと努力したが、全員覚え切れた自信はない。

 わからなかったら傍に控えているリアレアにこっそり訊けばいいと言われたが、その程度の事もできずにディウルスの婚約者を名乗るなんてと陰で笑われそうで怖いのだ。できればリアレアには頼らないようにしたいが、その思いが余計に重圧となってアーニャの背にのしかかっていた。

 宴にはアーニャの異母兄である第二王子のリューハイルが父王の名代として来るという。クラウディスからの賓客は彼だけだ。他に来るのはリューハイルの側近だけだという。

 それはクラウディスにおけるアーニャの扱いの軽さを示しているようで、クラウディス側にはアーニャの価値が低い事を隠す気などないのではないかとすら思えた。ディウルスをはじめとしたアライベル側の人間は何も言ってこなかったが、きっと違和感を覚えている事だろう。

 今日のために特別に仕立ててもらったドレスを着たアーニャは、鏡の前で笑顔の練習をした。国内の有力貴族はおろかアライベルの友好国である国々の有力者達も今日の夜会に招かれているそうだ。自分の異母兄はもちろん、ディウルスのもう一人の妹である女性も来るという。あのカナリア色の髪の少女も来るかもしれない。そんな中で憂鬱そうな顔をしているわけにはいかないだろう。

 迫りくる時間に怯えながら、暗い気分を心の奥に押し込む。そのかいあってか、鏡の向こうの自分はとても幸せそうに見えた。


「アーニャ様、そろそろお時間でございます」

「はっ、はい!」


 リアレアとともにアーニャを呼びに来たミリリは、いつもの凛とした騎士服姿ではなかった。貴族令嬢が着るような豪奢なドレスをまとい、ミリリは堂々と佇んでいる。つい自分の貧相な身体と見比べてしまうほど、その姿はアーニャよりもよほど王の婚約者らしい。しかしよく考えてみれば、彼女は侯爵家の人間なのだ。貴族の令嬢らしい装いはなんら不自然なものではなかった。


「申し訳ございません。場に溶け込めるよう、このような格好をせねばならないのです。ですが武器はすぐに出せますし、このドレスも鎧の一種であるので問題なくアーニャ様をお守りする事ができます。もちろん私以外にもきちんと武装した騎士がおりますので、どうかご安心くださいませ」


 アーニャの視線に気づいたのか、ミリリは申し訳なさげに眉根を寄せる。しかし彼女はアーニャが戸惑った理由を勘違いしているらしい。その誤解をわざわざ訂正するのも恥ずかしいので、アーニャは曖昧な笑みを浮かべて頷くだけにとどめた。

 二人に連れられ、アーニャは大広間に向かう。扉が開いた途端、割れんばかりの喝采が響いた。その音に驚きながら、アーニャは大広間に足を踏み入れる。

 左右で色の違う瞳を隠す事なく大勢の前に立つのは生まれて初めてだった。誰もが自分を見ている。ある者は嬉しそうに、ある者は興味深げに、そしてある者はいぶかしげに。宮殿内で見かけた事のある者もいるが、知らない顔のほうが多いかもしれない。きっと今日のために登城した貴族か、他国からの来賓だろう。


「そう緊張するな。誰もお前を取って食いやしないぞ」


 なんとかディウルスの待つ場所に辿り着くと、ディウルスはそう言ってにやりと笑った。その言葉につられるようにして笑みを浮かべると、ディウルスは満足げに頷く。


「みな、よく来てくれた。彼女が我が婚約者、クラウディス王国のアーニャ王女だ」


 彼の朗々とした口上が大広間に響いた。ディウルスには緊張しなくていいとは言われたものの、どうしても頭が真っ白になってしまう。ディウルスの言葉もほとんど聞き取れないまま、アーニャはその場に立ち尽くしていた。


「姫?」

「あっ……な、なんでしょう?」 

「そのうち客が挨拶に来るが、微笑みながら適当に頷くだけで十分だぞ。俺達は一人ずつしかいないのに、客はひっきりなしに来るからな。一人一人真面目に相手をしていたら疲れるだろう」


 ディウルスが冗談交じりにうそぶくと、傍に控えていたアッシュが小さくため息をついた。彼も騎士服ではなく燕尾服を着ている。しかし大広間を見渡してみれば儀礼用の騎士服に身を包んだ騎士や、甲冑姿で佇む騎士もいる。盛装している者としていない者の違いはよくわからなかった。


「だが、その前に少し外の空気でも吸ってきたらどうだ? 少し顔が赤いぞ。大広間とはいえ人が多いから、熱気にあてられたんだろう。あまり無理はしないほうがいい。疲れたなら挨拶なんぞ途中で切り上げても構わんからな」


 まだ何もしていないのに体調を気遣われるとは。それだけここ二週間の様子は周囲を心配させていたのだろう。いたたまれなくなり、アーニャは小さな声ではいと返事をする。ディウルスはすぐに、リアレアにアーニャをテラスへ案内するよう指示を出した。

 こちらです、とリアレアはアーニャを連れてテラスに向かう。しかしテラスには先客がいた。誰かが一人で星を眺めているのだ。アーニャ達に気づいたのか、アーニャ達が声をかけるより早く先客は顔をアーニャ達のほうに向ける。


「……おや、アーニャ様ではありませんか。どうかなさいましたか?」

「ッ!」


 それは初めて見かけた時と同じように大きな椅子に腰かけた、カナリア色の髪の少女だった。

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