ディウルスの恋人
アーニャが部屋に戻ると、エバとウィザーが出迎えてくれた。どうやらディウルスの話はそこまで長いものではなかったらしい。心なしか二人の顔色が悪い気がしたが、二人はにこにこと明るく振る舞っているので聞くに聞けなかった。
夕食の時にディウルスとも顔を合わせたが、エバ達を呼んで何を話していたのかは教えてくれなかった。尋ねると、その話はあまりしてほしくなさそうな顔をされたのだ。そんな対応を取られてはアーニャも無理には聞き出せず、結局何もわからないままだった。
*
次の日はこれといった予定はないようだった。自由にしていいと言われたが、何をしていればいいのだろう。考えているうちに思いついたのが、宮殿内にある大きな図書室だった。
「図書室ですか。かしこまりました。では、まいりましょうか」
リアレアは柔和に微笑む。だが、アーニャはそれを慌てて止めた。
「いいえ、一人で大丈夫ですよ」
「ですが、」
「一人のほうが慣れているんです。わたしなら大丈夫ですから」
「……わかりました。では、そのように」
「ミリリ様、それは……」
困惑するリアレアに、ミリリは小声で何か囁く。それでリアレアは納得したらしい。二人に断りを入れ、アーニャは一人で図書室へと向かった。図書室までの道はすでに教えてもらっているので、迷う事はないはずだ。
いつも付き従おうとしてくれる二人には悪いが、一人でいたほうが気楽だというのがアーニャの本音だった。本を読むときに周りに人がいると気が散るし、何時間も図書室に籠るつもりなので同伴者がいたら退屈させてしまう。そもそもアーニャはクラウディスにいた時から一人の時間が長かったので、常に従者を伴う生活というのに抵抗があるのだ。自分のために他人を付き合わせるのは申し訳ない、というのがアーニャの考えだった。
エバとウィザーですら一日中一緒だった事はないのだ。まだ知り合って日が浅いリアレアとミリリに迷惑をかけるわけにはいかない――――いくら宮殿内とはいえ王の婚約者が一人で出歩く事のほうが女官長と近衛騎士である二人にとっては迷惑だという事を、アーニャはまったく気づいていなかった。それでも許可されたのは、そもそも国王がそんな感じだったからだ。
(……あら?)
ふとアーニャは足を止めた。少し先に行ったところにある広間にディウルスがいたのだ。アーニャは彼に挨拶しようとして、喉まで出かかった声を飲み込んだ。
ディウルスのそばには見知らぬ少女と彼女の侍女らしき女性がいた。カナリア色の髪の少女は、広間だというのにどこから持ってきたのか大きな一人掛けのソファに腰かけている。膝の上には綺麗に包装が施された箱が乗っていた。
十二、三歳ぐらいの、まるで人形のように可憐な少女だ。しかし背筋はしゃんと伸びていて、表情は自信に溢れている。瞳の奥に輝く光は力強く、野心すら感じさせるほどだった。一見するとか弱く儚げな令嬢だが、気と芯はかなり強そうだ。
王を前にしてもなお座ったままの少女をディウルスが咎めた様子はない。二人は楽しそうに言葉を交わしていた。どちらもアーニャに気づいていないようだ。
声はよく聞こえないが、会話が弾んでいるのは彼らの表情でわかる。少女が何か言えばディウルスは笑い、ディウルスが何か言えば少女が顔を綻ばせる。二人の間に漂うなごやかな空気は、アーニャがそこに加わる事を拒みはしないが歓迎もしないように思えた。
アーニャは無意識のうちに物陰に身をひそめた。二人に声をかければ、きっとあの空気は霧散する。自分の姿を見つけた途端、ディウルスと少女は二言三言言葉を交わしてから何事もなかったように別れるのだろう。二人にとって、自分の存在は招かれざるものなのだから。
少女は膝に乗せていた大きな箱をディウルスに渡した。ディウルスは一瞬目を丸くするが、すぐに破顔して愛おしげに箱を見つめる。
また少女が何か言ったようだ。それに対してディウルスが口角を吊り上げると、少女はすねたようにそっぽを向く。その反応がおかしかったのか、ディウルスの笑い声が響いた。それにつられて少女も相好を崩す。そんな二人のやり取りは、アーニャの目にとてもうらやましく映った。自分はディウルスの婚約者だというのに、まだそんな信頼関係は築けていない。
(……あの方が陛下の恋人だった方なのでしょうか)
いや、“だった”というのはおかしいか。もしそうなら、二人の仲は今も続いているのだから。
年齢の釣り合わない、ともすれば兄妹のような二人。けれど親しげに話す彼らの姿は、何故だかアーニャの心を大きく揺らす。いくら相手が幼い少女とはいえ、彼女は無視できない存在だった。だってアーニャの前では、ディウルスはあんな風には笑わないから。
本当は彼女が王妃に、ディウルスの妻になるはずだった。しかし今、その座にもっとも近いのは自分だ。たとえそれを心から望む者がこの国にいないとしても。
だが、アーニャが望んでいた“立派な王妃”は、きっと彼女のほうがふさわしかったのだと思う。一目見ただけでもわかるほど彼女は愛想がよく、自信に溢れ、何より国王に愛されているのだから。
彼女を王妃に望む声もあったはずだ。しかし大陸の情勢か、あるいは彼女自身に問題があったのか。見たところ彼女は、ディウルスと十歳ぐらい年が離れているようだった。その幼さゆえだろうか、結局彼女は未来の王妃にはなれなかった。今、彼女は一体何を考えているのだろう。
気づけばアーニャはその場から立ち去っていた。図書室に行くには少し遠回りになるが仕方ない。目的地に早く着くよりも、ディウルス達の雰囲気を壊さないほうが今のアーニャにとっては重要だった。
*
「――――様が登城なさったのよ。わたし、驚い――――」
「まあ、珍しい。どうかなさったの?」
「なんでも――――ですって。陛下にもお会いになられたそうよ。――――をお贈りなさったみたい。――――様の手作りのね」
「あらあら。本当、お二人は仲睦まじくいらっしゃるわね。うらやましいわぁ」
「それで陛下があんなに嬉しそうだったのね。陛下は――――様――――がお好きだから」
図書室からの帰り道、廊下を歩くアーニャの耳に届いたのは侍女らしき女性達の喋り声だった。姿は見えないが、三人、いや、四人はいるだろう。彼女達が早口である事に加え、少し距離があるらしく聞き取りづらい。
「本当は――――だったのを、陛下が――――らしいわよ」
「まあ! それは――――様もお喜びになられたでしょうね――――よりも自分のほうがいいと言われたも同然なんだから」
「それもしょうがないわよ。だって――――ですもの。陛下が――――様――――望むのも無理はないわ」
「――――のにね。――――様の――――目の色が――――」
「そりゃ、――――のほうが嬉しいですもの。そもそも――――様――――は……ねぇ? 私なら耐えられないわ」
「わたしもよ。あれに耐えられる人なんていないんじゃない?」
声はすぐに遠ざかった。話題になっていたのはディウルスとカナリア色の髪の少女、そしてアーニャの事だろうか。
断片的に聞こえてきた今の話をアーニャなりに解釈してまとめると、ディウルスの恋人であるあのカナリア色の髪の少女はめったに宮殿にやってこないが、アーニャとの婚約の話を聞いてディウルスの元に駆けつけてきた、という事になった。
ディウルスへの贈り物というのはきっとあの箱の事だろう。中身はわからないが、貴族令嬢がしそうな手作りのものといえば菓子か刺繍の施された小物だろうか。令嬢の多くはそういった事を教養として身につけているという知識はあるが、どちらもアーニャはやった事がない。そういった意味でも自分はあの少女に劣っていた。
本当は……涙を呑んで身を引こうとした少女を、ディウルスが無理に引き留めた? そう、恐らくそんな感じだ。少女もディウルスの元を去るのは耐え難かったため、ディウルスの誘いを受けたに違いない。
初めて会ったときは読み取れなかったが、不気味な目をしたアーニャでは自分の妻にふさわしくないと、本当はディウルスも思っていたのだろう。ディウルスの心はアーニャではなくあの少女にあるのだ。いや、ディウルスだけではない。あの侍女達もアーニャの目を気味悪く思っていて、視界に入れる事すら耐え難いものだと感じている。
ディウルスはあの少女を望み、そして少女はそれに応えた。アーニャよりも彼女のほうがいいから。きっと少女もまた、アーニャの事を取るにも足らない存在だと考えているのだろう。宮廷人の多くもそう思っているに違いない。
めったに宮殿にやってこないというだけあって、少女が何者かはわからない。だが、このままずっと顔を合わせないでいるのは難しいだろう。何かの折に、正式に紹介されてしまうはずだ。そうなった時、どんな顔をして挨拶すればいいのかわからなかった。