初めてのお茶会(後編)
それきりロゼルはアーニャと目を合わせようともしない。少しの落胆を覚えながら、アーニャは熱いロイヤルミルクティーを舐めるようにちびちびと飲んだ。
「おいしい……」
アーニャがクラウディスで飲んでいたものよりも味が濃くて香りが強い。牛乳の味にも負けていないほどだ。しかし決してきつくはなく、あくまでも紅茶本来の味を楽しめる範囲のものだった。頬を緩めて小さく呟いたアーニャを見て、シェニラは満足そうに微笑んだ。
「お気に召していただいたようで何よりですわ。お口に合うかわかりませんが、こちらのスタンドからも自由に召し上がってくださいな」
「はい、ありがとうございます」
見慣れない菓子をつまみながら、アーニャはシェニラと歓談を続けた。シェニラがクラウディスの事を訊いてきたときは返答に困ってしまったが、それ以外はおおむね良好な会話ができた、と思う。ロゼルもアーニャと目を合わせる事こそしなかったが、シェニラに促されるような形でちょこちょこと会話に参加していた。終盤にはロゼルの口元にもわずかながら笑みが浮かんでいたので、少しは打ち解けてくれたらしい。
「……ねえ、アーニャ様。最後に一つだけ、よろしいですか?」
シェニラがそう切り出したのは、お茶会もそろそろお開きになりそうな時だった。シェニラの瞳は真剣そのもので、思わずアーニャも身構えてしまう。
「なんでしょう?」
「アーニャ様は、愚兄の事をどう思ってらっしゃるの?」
ついにその質問が来たか。アーニャは一瞬言葉につまる。答えを間違えたら、きっとシェニラは気分を害するだろう。慎重に、当たり障りのないような事を言わなければ。
「陛下はとてもまっすぐな方だと思います。きっと裏表のない、誠実な方なのでしょう。……あの方に嫁げる事を、わたしは心から嬉しく思います」
「……そうですか。そう言っていただいて、わらわも安心いたしました」
シェニラは再び屈託のない笑みを浮かべた。どうやら及第点らしい。アーニャは安堵しながら一礼して立ち上がった。
「ア、アーニャ様!」
「ロゼル様?」
アーニャを引き留めたのはロゼルだった。頬を赤く染めたロゼルはアーニャからわずかに目をそらしながら、けれどしっかり顔を上げて囁くような声音で告げる。
「あ、あの……ごめんなさい……私、苦手で……あっ、えっと、その、こ、こうして人とお話しするのが苦手ってことで……本当にごめんなさい……! だけど……お茶会、とても、た、楽しかったです。そ、その、もしよろしければ……えと、あの、また……お、お茶会……一緒に……」
「はっ、はい! わたしでよろしければ、ぜひご一緒させてください!」
後半はほとんど聞き取れなかったが、ロゼルが言おうとしている事はなんとなく伝わった。アーニャの返事を聞いて、ロゼルは安心したように頬を緩ませる。どうやら嫌われていたわけではなかったらしい。
これでもう思い残す事はない。主催者であるシェニラにも感謝を伝え、アーニャは満足げにシェニラの部屋を後にした。
*
「き、緊張した……!」
シェニラの部屋から出た途端、ロゼルは膝から崩れ落ちる。後ろに控えた護衛の騎士は苦笑しながらそんなロゼルを支えた。
「大丈夫ですか、お嬢様」
「大丈夫じゃないよぉ……。全然アーニャ様と目を合わせられなかったし……。うう、嫌な子って思われてたらどうしよう……」
せっかくシェニラ様に誘っていただいたのに。また失敗してしまったと、ロゼルは深いため息をついた。初対面の少女と何を話せばいいのかわからず、散々な結果に終わってしまった気がする。次のお茶会の約束はできたが、あれが社交辞令だった可能性は限りなく高い。
何故理想通りに明るく振る舞えないのだろうか。アーニャと目が合うたびに何か言おうとしたものの、結局恥ずかしさから口を開けなかった。きっとアーニャは自分の事を、無愛想で態度の悪い娘だと思っただろう。こんなはずではなかったのに。ずっと脳内で繰り返していたシミュレーションは完全に無駄になってしまった。
「あれ、ロゼル。お茶会はもう終わったの?」
打ちひしがれながらとぼとぼと廊下を歩くロゼルに声をかけてきたのは、曲がり角から現れた青年だった。ロゼルは盛大に顔をしかめて彼を睨みつける。
「何よルルク、何の用?」
「残念ながら、用があるのは君じゃなくてシェニラだよ。君とはまた日を改めて約束したいな。いつなら会える? 君のためなら僕はいつでも、」
「結構よ!」
「残念。気が変わったらいつでも声をかけてね? 君のルナはいつでも君の味方だから、さ。また昔みたいに、何でも聞いてあげるよ? アブラハムやアントーンより、よっぽど君を満足させてあげるけど?」
ルルクはにやにやと笑いながら冗談めかしてそう言った。おちょくるような彼の言葉にロゼルは拳を強く握りしめる。拳をぷるぷると震わせながらもロゼルはきつく目をつぶり、怒鳴り散らしたくなる衝動を必死で抑えた。
そんな彼女からは見えないように騎士はルルクに向けて小さく頭を下げ、ルルクは気にしないでと言うように片目をつぶった。ロゼルの心を埋めるものがお茶会で失敗してしまった事への後悔から、空気の読めない事を言うルルクに対する憤りに変わったからだ。そんな感情の切り替わりはやがて彼女をいつもの調子に戻すだろう。すべての悪感情がルルクへの怒りという形で吐き出されれば、反省はしても自己嫌悪まではせずに留められるのだから。
「貴方まさか、そんな調子でシェニラ様の事まで口説く気じゃないでしょうね?」
そんな二人の思惑には気づかず、こめかみに青筋を浮かべたロゼルは低い声で尋ねる。軽薄な笑みを浮かべたままルルクは肩をすくめた。
「そんなわけないだろ? 例の賭け金の払い戻しだよ。ほら、僕は一応元締め側だったから。シェニラはなんだかよくわかってないみたいだったけど、『ディウルスは五年以内に結婚できる』に賭けたのは確かだからね」
「……ああ、あれ」
四年前の戴冠式の時に行われた宴でひそかにやっていたという失礼な賭けについてはロゼルも知っていた。ロゼルは話を聞いただけで直接かかわってはいないが、そこそこの人数が参加したと聞いている。酒も振る舞われていたその席に偶然迷い込んでしまったシェニラも、酔っ払いに絡まれるような形で賭けに加わったとか。
「ところで、お茶会はどうだった? うまくやれた?」
「あ、当たり前じゃない! とても楽しい時間だったわ!」
「ふぅん。それは何より。……人見知りの君が初対面の人と楽しく喋れるなんて、珍しい事もあるものだね」
ルルクはいやらしく口角を吊り上げた。その表情は、ロゼルの言葉が虚勢だと見抜いているがゆえのものだ。それに気づき、ロゼルは怒りと羞恥で顔を赤く染めた。
「余計なお世話よっ!」
*
来客がいなくなった客間で侍女イリーシスが黙々と後片付けをするのを眺めながら、シェニラは自分の背後に立つ近衛騎士のテトルに声をかけた。
「……あの方がお召しになっていたのは、お母様がお若い頃にお召しになっていたドレスだったわね」
「ええ。とてもよく似合っておいでした。……シェニラ様のほうがお美しいですけどね」
アーニャの服装を思い出しながら、シェニラは静かに目を閉じた。シェニラの母、先妃メネットは王都から離れた領地で静かに暮らしている。挨拶に来るとは言っていたが、アーニャに会うために宮廷に帰ってくるのは婚約披露の宴が催されるごく短い間の事だけだろう。
「お母様のドレスはあの方のものになるのかしら?」
「そのようです。カーラ様のドレスも手直ししてから贈られると」
返事につまったテトルに代わり、答えたのはイリーシスだった。母が若いころに着ていたドレスはシェニラも数着もらっている。しかしドレスは母から娘に受け継がれるものである前に、女主人から次の女主人に受け継がれるものだ。アライベルの王家に嫁いで王妃となるアーニャにも、ディウルスの母である一番目の王妃カーラとシェニラの母であり二番目の王妃であるメネットのドレスは渡さなければならない。誰にも譲渡されずに保管されていたドレスのほとんどはアーニャのものになるだろう。
「ふふっ。あの方がお姉様のような方でなくてよかったわ。お姉様ったら、お母様のドレスを引き裂いてしまうんですもの」
異母姉の事を思い出し、シェニラは小さく笑った。ディウルスの実妹であり、かつては第一王女と呼ばれていた彼女はレンブリック連合王国の貴族の元に嫁いでいるため、アライベルにはいない。嫁ぎ先はアライベルの友好国であるため彼女との繋がりは切れないが、この国にいないというだけでシェニラの心は休まっていた。
「……本当に、お姉様のような方でなくてよかった。お姉様がここにいない事も幸運でしたわね。きっとお姉様は、アーニャ様にもわらわと同じ事を……」
笑みの裏にわずかな怯えを潜ませ、シェニラは紅茶を口に運んだ。そんな彼女をちらりと見て、テトルはおもむろに口を開く。
「ですが、いずれアーニャ様もマリベーラ様とお会いしてしまうのでは?」
「それは仕方ないわ。アーニャ様はお兄様の花嫁ですもの。他国に嫁いだとはいえ、お姉様に紹介しないわけにはいかないでしょう。……でも、お姉様がずっとこの国に滞在する事はないのよ? 一時的な訪問であるだけましだわ」
今は他国の公爵夫人となったマリベーラが再びこの国の土を踏むのは、どれだけ早くとも二週間後の夜会になるだろう。両国を一瞬で繋ぐ転移の魔法陣があるからこそ、婚約を発表する催しに参加するためだけに長い間婚家を離れるとは思えない。アーニャとの接触は最低限に抑えられるはずだ。
「それで、どうなんですか? アーニャ様、素敵な方みたいですけど」
「ええ、そうね。視線と息づかいからして、少し緊張しやすい方のようだけど。それに、後ろ向きな素振りが多いのも気になるわ。自分に自信がないのかしらね。少し遠慮がちなところもあるんじゃないかしら。だけど、あのお兄様にはそれぐらい繊細な方のほうがいいのかもしれないわ」
シェニラはアーニャとの会話で感じたものを一つ一つ挙げていく。イリーシスとテトルは黙ってそれを聞いていた。
「誰に対しても腰が低いのは少し頼りなく感じられるけど、礼儀正しくていいんじゃないかしら。ふんぞり返って無闇に威張り散らすような方よりはアライベルの王族らしいもの。問題は、あの方がお兄様の事をなんとも思っていない事かしら。それはお兄様も同じだから、これからお互いに歩み寄ってもらえばいいだけなんだけど。……少なくとも、お兄様を嫌っていないというのは大きいわ。恋愛感情なんて、お互いがお互いに敬意を払って接していればそのうち芽生えるものでしょう?」
「……そううまくいくといいですね」
テトルはそっけなく言うが、シェニラにはその確信があった。異母兄ディウルスは見目麗しいとは口が裂けても言えない男だ。まともな格好をすればそれなりに見られない事もないが、それでもまだ美男子という言葉からは程遠い。そもそもその“まともな格好”をめったにしないため、常日頃から盗賊の頭領にしか見えないわけだが。
そんな魁偉なディウルスの元に嫁ぐ事になっても嫌悪感を示さない少女というのはなかなか貴重だ。きっとアーニャなら、ディウルスともうまくやっていけるだろう。
「それではシェニラ様は、アーニャ様を……」
「ええ。わらわは認め、支援しましょう。アーニャ様がお兄様の妻になる事を」
王妹シェニラ・フェイ・アライベル・レッケンベーアに政治的な権力はほとんどない。本人がすべてを異母兄ディウルスに委ねているからだ。
だが、彼女の『話』を聞きその『お願い』を叶えていてくれる者はディウルスのそれを上回る。公的な権力を持たないシェニラだが、彼女の影響力は強い。シェニラがひとたび声をかければ、気に入らない者を追い出す事はもちろん気に入った者を悪意から守る事もたやすかった。
「かしこまりましたっ!」
イリーシスは明るく返事をする。シェニラがアーニャを気に入った。それはこの、主人以上にお喋りな侍女を通じて宮廷中に広まるだろう。
これから先、アーニャの機嫌を損ねるのはシェニラを敵に回すのと同じ事になる。ディウルスの妻としてやってきたアーニャに粗相をするような愚か者が宮廷にいるとは思わないが、念には念を入れたほうがいい。シェニラのほうできちんと表明しておかないと、先走った取り巻きが何をするかわからないのだから。
「……ふふっ。わらわの望みが実現する日もそう遠くなさそうね」
その呟きを聞いたのは、王妹に仕える忠実な側近達だけだった。