初めてのお茶会(前編)
結局エバとリアレア、そしてイーゼに褒め殺される形で数着のローブ・ア・ラ・フランセーズが購入リストに加わった。大国の王妃がまとうドレスとしてはこれぐらい華美なものが普通なのだろうか。
それならわたしが国から持ってきたシンプルなドレスなど貧相に見えて当然です、とアーニャはほっと胸を撫で下ろした。文化と慣習が違うだけで、嫁入り道具として恥ずかしい品を持ってきたわけではなかった――――自分はクラウディスの恥となる事をしたわけではなかったのだ。
「夜会服も見せていただけますか?」
「こちらの品はいかがでしょう。このイブニングドレスはサテンクレープで仕立てられておりますので手触りがよく、つやも上品ですよ」
「まあ、姫様によくお似合いになりそうな品ですわ!」
今までにないほどエバの目が輝いている。楽しそうなエバに水を差すのも悪く、次々と差し出されるドレスをアーニャは苦笑しながら試着した。
そのたびにディウルスはうんうん唸りながら「寒そうだな」「透けていそうで透けていない、不思議な生地だ」「そのひらひらついているのは邪魔じゃないか?」などと言ってリアレア達に睨まれていたが、似合わないとは言われてはいないのできっと変ではないのだろう。購入予定のトルソーはどんどん増えていった。
「既製品もいいけれど、そろそろ生地から選びたいですわね。……二週間後には婚約披露のための夜会が開かれるの。至急一着仕立ててもらいたいのだけど、できるかしら?」
「二週間、ですか。……ええ、お任せくださいませ」
リアレアの言葉に、イーゼは一瞬考え込むようにアイスブルーの瞳を細める。しかしすぐに笑顔で頷いた。反応からして二週間という期限はドレスを仕立てるのにはいささか短いようだが、完成させる算段はついているらしい。
「二週間で仕上げて欲しいのはその一着だけで構いませんわ。他のドレスは通常通りの時間で仕立ててくださいな」
「かしこまりました。ではアーニャ様、お好きな生地をお選びくださいませ。そのあとで採寸をいたしましょう」
「生地ですか……」
イーゼは生地の見本を差し出す。だが、見せられたところでアーニャにわかるはずもない。やれタフタだのシフォンだの、言われるがままに頷く事しかできなかった。
採寸を済ませ、ショールや手袋といった小物選びも終えるとようやくイーゼ達は帰っていった。なんやかんやでウェディングドレスの注文もしたせいかアーニャが思っていたより時間がかかり、もうすぐ十五時になりそうだ。解放されたアーニャはソファに深く腰掛けながら、小さな声でエバに尋ねた。
「ねえエバ、なんだかたくさん買ってしまったけれど……お金は大丈夫ですよね?」
「もちろんでございます。そのような心配はなさらなくていいのですよ」
エバはそう言うが、果たして今日だけで予算の何割がなくなってしまったのだろう。明日からの生活を思うと気が気でなかった。
「そろそろ俺は帰ろう。確かこの後、シェニラとロゼルと茶会を開くんだろう? 俺がいたら邪魔になる。……まあ、ついていったところで叩きだされるだろうがな」
くくくと笑い、ディウルスは立ち上がった。しかしふと思いついたようにアーニャを見下ろす。
「姫、疲れていないか? 疲れたなら無理はするな。シェニラ達には俺から茶会の中止を伝えておくぞ」
「い、いえ。大丈夫です」
「そうか。お前は強いんだな。俺なんて、三十分着せ替えにんぎょ……服の試着をやっただけでもうその日は仕事をする気がなくなるぞ」
「……陛下に忍耐力がなさすぎるんですよ」
アッシュは呆れたように呟き、申し訳ありませんアーニャ様、と深く頭を下げる。何に対して謝られたのかよくわからないが、ヴィンダールもすまなそうな顔をしていた。ディウルスはばつが悪そうにそっぽを向いている。
「こちらこそ、陛下の貴重なお時間を使わせてしまって申し訳ありません。退屈でしたでしょう?」
「ああっ!? あの、アーニャ様がお気になさるような事ではないんです! 陛下がどうしてもとおっしゃるので、我々が押しかけてきただけなのですから!」
「俺は別に、」
「そ、そうですぞ。陛下も、いくらアーニャ様の事が気になるからと言って、仕事を放りだすのはいけませんな。あまつさえアーニャ様を困らせるなど本末転倒でございます。これ以上長居してもご迷惑になるゆえ、今日はもうお暇いたしましょう」
「だから俺はもう帰ると、」
「それではアーニャ様、よい午後をお過ごしください!」
アッシュとヴィンダールに引きずられるような形でディウルスは部屋を後にする。しかしその巨体がドアをくぐる刹那、彼はちらりと振り返って鋭い眼光を室内に向ける。
「エバ、ウィザー、後で俺の執務室に来い。訊きたい事がある」
「……かしこまりました」
エバは硬い声で返事をした。ウィザーも異論はないようで、真剣な表情をしている。
自分が何か粗相をしてしまったから二人が呼び出されたのかもしれないと思うと背筋が凍る思いだが、ディウルスならそんな回りくどい事はせずに直接文句を言ってくるような気がする。不安を抱きながらエバを見ると、エバはアーニャを安心させるようにふっと微笑んだ。
「昨日、陛下が二週間後の婚約披露宴についての打ち合わせをするとおっしゃったのです。きっとその事でございましょう」
「そうだったんですか。よろしくお願いしますね」
アーニャがクラウディスから連れてきたのはエバとウィザーの二人だけだ。クラウディスにも招待状を送るかもしれないし、クラウディス側の事情を踏まえて打ち合わせをするなら二人から話を聞く必要もあるのだろう。アーニャの不安はすぐに消えた。
「(来た意味はわかるけどよ……完全に逆効果じゃねぇの? どうするよ、あれ)」
「(アッシュとヴィンダールでもフォローしきれなかったわね……)」
「(……後でお二人には頭痛薬をお渡しいたしましょう)」
そんな彼女に気づかれないように、アリカ、ミリリ、リアレアの三人が部屋の隅でひそひそと言葉を交わす。彼女達の不安が消える日はまだ遠かった。
*
お茶会が開かれるのはシェニラの客間だという。緊張と期待を胸に、アーニャはミリリとリアレアに連れられて廊下を歩いていた。
ディウルスに呼ばれたため、エバとウィザーはここにはいない。リアレアは案内をしたら帰ってしまうらしく、お茶会に参加するのはアーニャとミリリの二人だけだった。あくまでも護衛のための騎士であるミリリはアーニャの傍で立っているだけだと言うので、実質アーニャ一人だ。
しかしアーニャは今までお茶会に招待された事などない。マナーなどはすべてここ一ヶ月の付け焼き刃だ。ディウルスの妹と公爵家の令嬢の前で粗相をしないか、それだけが気がかりだった。
「ここがシェニラ様のお部屋です」
先導のリアレアが足を止めてノックをすると、弾むような少女の声が入室を促した。ドアを開けると侍女が恭しく一礼している。室内には彼女の他に騎士が二人いて、彼らに守られるように二人の少女が席についていた。
沈む夕日のようなオレンジの髪をツインテールにした少女と、菫色の瞳に憂いを宿した少女だ。少女達はアーニャの入室に気づくと優雅に立ち上がった。
「招待を受けていただいてありがとう存じます。わらわはアライベルが第二王女、シェニラ・フェイ・アライベル・レッケンベーア。愚兄ともどもよろしくお願いいたします」
「……ロゼル・ラヴィ・ヘイシェルアールと申します」
「本日はお招きいただきありがとうございます。アーニャ・クラウディスです」
ツインテールの少女がシェニラ、菫色の瞳の少女がロゼルらしい。シェニラはにこやかに笑いながらアーニャに着席を促す。一方のロゼルは唇を固く引き結び、険しい表情でアーニャを一瞥して椅子に腰かけた。
ドアの前に立っていた侍女がすぐに近寄ってきて紅茶を淹れ始める。芳醇な香りがした。
「挨拶が遅れてしまって申し訳ありません。わらわは少し宮廷を離れていたので、お会いするのが遅くなってしまいましたの。本当に、遠いところからよくいらしてくださいましたわ。アライベルの民はみな、アーニャお義姉様がいらっしゃるのを心待ちにしておりましたのよ。……あら、お義姉様とお呼びするにはまだ早いかしら」
「いえ、お好きなようにお呼びください」
「嬉しいですわ。いつかお義姉様と呼べる方とお会いするのが夢だったんですの。愚兄を見て驚きましたでしょう? 愚兄はあのとおり武骨なお人で、女心もわからない朴念仁ですもの。いい人が見つかるのかしらと心配で心配で……。まさかこんな素敵な方がいらっしゃるなんて、願ってもない幸運ですわ。あの愚兄にはもったいないくらい。愚兄が何か粗相をしましたら、遠慮なくおっしゃってくださいましね?」
シェニラの口はよく回る。まるで沈黙を貫くロゼルのぶんまで喋ろうとするかのようだ。その勢いに押されたアーニャはろくに口も挟めず、曖昧な笑みを浮かべる事しかできなかった。
「愚兄も悪いお人ではありませんことよ? ただ少し考えが足りずに、思った事を素直に口にしてしまうだけですの。これはわらわのせいでもあるのであまり強く文句は言えませんが、王として生きようとするあまり人としての心を殺そうとするきらいもあって……。そんな愚兄ではありますが、どうか見捨てないでくださいまし。不器用ではありますが、愚兄はアーニャお義姉様の事だけを考えているのです。至らぬ点はわらわ達が諫めますゆえ、なにとぞお許しくださいませ。決してアーニャお義姉様に不自由はさせませんわ」
「シェニラ様、一度にお話してはアーニャ様も困ってしまいますよ」
「まあ、ごめんあそばせ。イリーシスの言う通りでしたわ。わらわったら、すっかり興奮してしまって……。お恥ずかしい限りです」
永遠に続くかもしれないと思われたシェニラのお喋りを遮ったのは、紅茶を淹れていた侍女だった。イリーシスと呼ばれた彼女は苦笑しながら一歩下がる。すでにお茶は注がれていて、ケーキスタンドにもサンドイッチやスコーンなどのお茶請けが所狭しと並べられていた。
「本日はアッサムのセカンドフラッシュを使用したロイヤルミルクティーをご用意いたしました。お熱いのでお気をつけくださいませ」
「素晴らしいわ! さすがイリィね!」
シェニラは目を輝かせてイリーシスに笑いかけた。イリーシスも朗らかに笑い、お褒めに預かり光栄ですと片目をつぶる。
ディウルスが熊なら、シェニラは子犬といったところだろうか。兄妹と聞かされてはいるが、お喋りで感情表現が豊かなシェニラはディウルスとほとんど似ていない。何より顔立ちがまったく異なっている。ディウルスのような威圧感も、彼のようなたくましい身体も、シェニラは持ち合わせていないのだ。
兄にはない優美さと繊細さを備え、しかしひとたび口を開けば人懐こい笑みとともに明るい声が飛び出してくる明朗快活で美しい姫。シェニラはそんな少女だった。
なんとなくシェニラの事が眩しく見えてしまう。思わず目を背けると、ロゼルが紅茶を飲んでいるのが見えた。最初に名乗ってもらった時以来、まだ彼女の声を聞いていない。アーニャは微笑み、何か話題を振ろうとする。しかしアーニャが口を開く前に、キッと力強く睨みつけられてしまった。
アーニャがひるんだ隙をついたのか、ロゼルはすぐに目をそらす。そしてまるでアーニャの事など眼中にないかのようにサンドイッチをつまんだ。