新しいドレス
澄み渡ったピアノの音が響く。美しい調和となって響くその音に導かれるかのように、アーニャはぱちりと目を覚ました。
アリカがカーテンを開けている。彼女はアーニャに背を向けているため、アーニャが目覚めた事には気づいていないようだ。しかしベッドのすぐ傍でお湯の入った洗面器を用意していたエバともう一人の侍女はそれに気づき、にこりと笑って何かを言った。恐らく朝の挨拶だろう。
「……え?」
エバの口は確かに動いている。だが、その声はアーニャには届かない。一人で寝るには大きすぎるベッドとはいえ、エバとの距離はたかが知れているというのに。
いや、異変はそれだけではない。音が聞こえないのだ。寝ていたアーニャに気を使ってエバ達が静かにしていたというより、まるで外界から隔離されているような静寂。先ほど耳にしたピアノの音ももう聞こえない。
アーニャの戸惑いに気づいたのだろう。エバははっとしてベッドサイドテーブルに向かい、夜心香に触れた。すると、今まで聞こえなかった音の数々が耳に流れ込んでくる。どうやら自分の耳がおかしくなったわけではなかったようだ。
「驚かせてしまって申し訳ございません、姫様」
「いえ、大丈夫です。今の現象もその香の効果ですか?」
「はい。より深い眠りにつけるようにするため、雑音を遮断するのだとうかがっております。聞こえる音は、起床時刻を知らせる音楽だけだとか」
アーニャはちらりと夜心香を見る。陶器でできた白百合はどこか誇らしげに咲いているように見えた。
アーニャの起床に気づき、アリカが挨拶をして近づいてくる。アーニャも微笑みを返して用意された洗面器でぱしゃぱしゃと顔を洗った。お湯はほどよく温かく、差し出されたタオルもふかふかだ。クラウディスにいたころにはこんな習慣はなく、エバが外の井戸から汲んできたばかりの冷たい水で顔を洗って少し固いタオルで顔を拭いていた。慣れない好待遇にまごついてしまうが、アライベルではきっとこれが普通なのだろう。
「アーニャ様、おはようございます」
「リアレア!」
衣装部屋から現れたのはリアレアだった。姿が見えないと思っていたら、別の部屋にいたらしい。彼女に続いてミリリもやってきたが、ウィザーはいないようだった。確か昨日もウィザーがやってきたのはアーニャが朝食を済ませてからだったので、今日もアーニャの支度が終わるまでは部屋の外にいるのだろう。
「アーニャ様、ご気分はいかがですか? その、寝覚めのほうは……」
ミリリはどこか不安げな様子で問う。そういえば夜心香を贈ったルルクは彼女の弟だった。きちんと香が効いたか気になるのだろう。
クラウディスにいた時はひどい悪夢にうなされたり、深夜を過ぎても寝つけなかったりしたものだ。しかし昨日はそんな事もなく、一度も目を覚ます事なく朝までぐっすり眠っていられた。効き目のほどは抜群だ。
「とてもよく眠れましたし、いつもより頭がすっきりしています。きっとルルク様の香のおかげですね」
「そうですか、それはよかったです。弟にもそう伝えておきますね」
アーニャが朗らかに笑うと、ミリリは安心したようにふっと微笑んだ。わずかな変化ではあるが、表情から少し険が取れて優しくなったように見える。
「アーニャ様、本日のご予定をお伝えしてもよろしいですか?」
「はい、お願いします」
リアレアの言葉に返事をしつつ、アーニャは大きな置き時計をちらりと見た。
九時を少し過ぎている。寝過ごしたかと一瞬ひやりとするが、よく考えれば今自分がいるのはクラウディス城の地下室ではなくアライベルの宮殿だ。昨日もこの時間に起こされたはずだし、寝坊したわけではないだろう。誰も何も言わないのだから、その認識でいいはずだ。
「ドレスの仕立てのために、十一時より陛下も同席のもとでラヴァンカー商会から商人がまいります。既製品と生地を用意させますので、お好きなものをお選びくださいませ」
「ラヴァンカー商会、ですか」
「はい。王都に本店を構えていて、我が国の商業ギルドでも高い地位を占める大きな商会でございます。きっとアーニャ様のお気に召すような品が見つかるかと」
利用した事はないが、名前だけなら聞いた事があったような気がする。あれは確か一番上の姉、ルグリナの話だろうか。彼女が自慢げに見せびらかしていた、大陸から特別に取り寄せたというネックレスを扱っていたのがラヴァンカー商会だったはずだ。それ以降ラヴァンカー商会の名はたびたびルグリナの口から出てきたが、まさかアライベルの商会だったとは。
「十六時からは、王妹シェニラ様とヘイシェルアール公爵令嬢ロゼル様がアーニャ様とお茶会をしたいとおっしゃっているのですが、よろしいでしょうか?」
「陛下の妹君がわたしと? それは構いませんが……」
「では、そのようにお伝えしておきますね。シェニラ様はアーニャ様より年下ではございますが、ロゼル様はアーニャ様と同い年ですから、きっとお話も弾むかと存じます。ロゼル様は少し変わったお方ですが、とても心根の優しい方なんですよ」
同い年の同性という言葉にどきりとする。お茶会をきっかけに仲良くなれたらいいのだが。まだ見ぬ令嬢に想いを馳せながら、アーニャは用意されたドレスに袖を通した。
ドレス自体も見慣れない意匠のもので、鎖骨が見えるほど露出がある。クラウディスではみだりに肌を見せる事をよしとしない。そこで育った者としては抵抗はあるが、恥ずかしいですと言えるような雰囲気ではなかった。
デザインからしてクラウディスから持たされたドレスではない。どうやらアライベル側でもあらかじめドレスを用意していたようだ。これがあるなら別に新しいドレスなど必要ないのではないかと思ったが、そういうわけにもいかないらしい。
朝食を済ませるとあっという間に約束の時間になった。客間のソファで座って待っていると、時間ぴったりに五人ばかりの女性がやってくる。彼女達がラヴァンカー商会の人間のようだ。
五人のうちの一人、ダークブラウンの髪を二つ縛りのおさげにした女性はイーゼ・ラヴァンカーと名乗った。家名が商会名と同じラヴァンカーという事は、彼女は商会長の血縁者なのだろう。まだ若そうだが、商会での地位も高いかもしれない。残りの四人は彼女の部下らしく、ドレスを着たトルソーをてきぱきと運び入れていく。ディウルスがやってきたのはそんな時だった。
「俺だ。入ってもいいか?」
「へ、陛下! どうぞお入りくださいませ!」
急にドアの向こうから聞こえてきた野太い声に、思わずアーニャの声まで裏返ってしまった。しかしディウルスは気にした様子もなく、ヴィンダールとアッシュを伴って客間に入ってくる。
「これは陛下、本日もご機嫌麗しゅう」
「久しぶりだな、イーゼ。今日は姫のためによろしく頼むぞ」
「ラヴァンカーの名にかけて、最高のものを紹介すると約束いたします。陛下もお召し物を新調なさってはいかがでしょうか?」
「俺の服はいらん。それより、何か面白いものは手に入ったか? 俺は自分の服より異国の珍しい物のほうが欲しいんだ」
「ええ、陛下のお眼鏡にかなうような品を仕入れておりますよ。近々アルトが伺いますので、その時はどうぞよしなに」
ディウルスへの挨拶もそこそこに、イーゼはアーニャに向き直った。アーニャの隣にディウルスが座り、対面のソファにイーゼが座る。人懐こい笑みを浮かべながら、イーゼは早速商品の説明を始めた。
「こちらはシュミーズドレスでございます」
初めに見せられたのは薄手の白いドレスだった。胸元は開いているが、大きなフリルがあしらわれているためそれほど目立たない。胸の露出がある事を除けばアーニャがクラウディスで着ていたドレスと少し似ている。もっとも素材はまったく異なり、こちらのほうがはるかに肌触りがよく柔らかそうだが。
「公式の場には向かないのですが、コルセットの必要がないのでおくつろぎになられるときにいかがでしょうか」
つまりは私的な場所でのドレスという事か。胸元以外にはこれといった装飾はなく、シンプルで着心地もよさそうだ。別室で試着してもおかしなところはなかったし、思った通り着やすかった。客間に戻ってディウルス達の反応を窺ってもよく似合っていると言ってもらえたので、アーニャはそれを買う事に決めた。
いい買い物をしたと、アーニャはイーゼにお礼を言おうとする。だが、それで終わりではなかった。アーニャが選んだものと色違いのものや微妙にデザインの異なるものがリアレアとエバとアリカの間でああでもないこうでもないと選ばれていくのだ。一着でいいにもかかわらず、シュミーズドレスは二着、三着と増えていき、結局五着も購入予定の品としてトルソーの列から選び出されてしまった。
「あの、一度にそれほどの服は、」
「姫様。ここはクラウディスじゃないっすよ」
そんなにいらないと言おうとしたアーニャを小さく低い声で止めたのはウィザーだった。その意図はアーニャにはわからないが、彼は少し悲しそうな顔をしていた。
ウィザーはそう言うが、これほどドレスを買えばもう予算が底を尽いてしまうだろう。金は自由に使っていいと言われたが、それはあくまで予算の中での話だ。与えられた予算で一年間生活せねばならないのだから、もっと倹約しなければ。
ディウルスからも何か言ってほしいと、アーニャは慌ててディウルスを見る。しかしディウルスは不思議そうに首をかしげた。
「まさか同じ服をずっと着続けるわけにはいくまい。似たようなものが何着あってもいいじゃないか」
「それはそうですけど……」
「納得したなら次のドレスを考えろ。早くしないと日が暮れるぞ。女の買い物は時間がかかるものなんだろう?」
「ま、まだ買うのですか!?」
思わず目を剥くと、何を今さらとますますディウルスが怪訝そうな顔をする。
「「陛下?」」
しかしすぐにその顔が引きつった。リアレアとヴィンダールが同時に低い声でディウルスを呼んだからだ。二人は笑っていたが、何故か無性に怖かった。その恐怖はディウルスにも伝わったのか、ディウルスはわずかに目を泳がせてわざとらしい咳払いをした。
「うっ……。あ、焦る必要はないが……その、買うべきドレスは多いからな。あまり長い間試着だのなんだのしていたらお前も疲れるだろう? ゆっくり選んで、選ぶのに疲れたらまた別の日に持ち越すのも手だが……イーゼ、構わないか?」
「ええ、もちろん。いつでもお呼びくださいな」
「疲れてはいませんけど……」
ディウルスは逃げ場を求めるようにイーゼに言った。イーゼは苦笑しながら頷き、部下にさっと指示を出す。部下の女性達はシュミーズドレスを着ていたトルソーを下げ、代わりに別のドレスを着たトルソーを目立つ場所に置いた。
「正式な場に映える、ローブ・ア・ラ・フランセーズはいかがでしょう? これはエスラシェ発祥のドレスで、最新のデザインですの」
「エスラシェ?」
「アライベルの隣国、“恋の国”エスラシェでございます。アライベルとはあまり仲がいいとは言えませんが、それなりの国交はありますね」
耳慣れない単語に首をひねると、答えがすぐに返ってきた。ミリリだ。ミリリは相変わらずの固い表情でローブ・ア・ラ・フランセーズと呼ばれたドレスを睨みつけるように見つめている。
「ローブと言っても、外套のようなものではないんですね」
「エスラシェの古い言葉では、ローブとはドレスを意味するそうですよ。ローブ・ア・ラ・フランセーズとは、エスラシェのドレスという意味なんです。ご試着なさいますか?」
イーゼが微笑む。手のひらで示されたトルソーは胸元が大きく開いているドレスを着ていた。とても着れたものではない。羞恥心と己の慎ましい胸を思い、アーニャは青い顔でふるふると首を横に振ろうとした。アーニャの横に佇むエバも真っ青になっている。
しかしよく考えてみれば、意匠こそ違えどリアレアも同じように胸元が開いているドレスをまとっていた。アライベルに来てから今日で三日目だが、その間にも宮廷で見かけた婦人達はみなそうだったはずだ。騎士服と侍女服を着用しているミリリとアリカは別としても、もしかすると大陸の人々にとってこの程度の露出は普通なのだろうか。それならばこの風習に従わなければ。
「……はい。試してみます」
薄紫のそのドレスは肌触りがよかった。案の定胸元には不自然な空間が開いてしまったが、襟には大きなリボンがついているのでアーニャが危惧したほど目立っていない。リボンは縦一列についていて、下にいくほど小さいものになっている。だいぶ装飾過多のような気もするが、変ではないだろうか。
横に広がったスカートはよく考えて動かないとどこかにひっかけてしまいそうだ。袖口にも豪華なレースがあしらわれているので、何かの拍子に汚してしまわないかと心配になる。
「服の事はよくわからんが……似合っているんじゃないか?」
「ですが、こんな華やかなドレスをわたしなんかが着ていいのでしょうか?」
「ん? 女は着飾るのが好きなんだろう? そのドレスなら色々な飾りがついていてちょうどいいじゃないか。それともお前は、派手なのものは嫌いなのか?」
ヴィンダールとアッシュが小さく肩を落とす。リアレアとアリカの顔も引きつっていた。ミリリも諦めたようなため息をつき、イーゼでさえもやれやれと首を横に振っている。しかしディウルスはそれに気づかないようだ。
「(おいディウルス、言い方というものを考えないか)」
「(ぐ……難しいな)」
「(難しい事があるか。ただ褒めればいいだけだろう? それなのに何故、わざわざ余計な事を言うんだ)」
「(褒めてるじゃないか)」
「(どこがだ!)」
アッシュとディウルスは小声で何か囁き合っていた。内容はアーニャまでは聞こえないが、聞こえないからこそその内容についての嫌な想像がぐるぐると頭を巡る。
クラウディスにいたころは、こうしてひそひそと小声で交わされるのは陰口ばかりだった。今回もそうかもしれない。言い繕えないほど似合っていないのか、趣味が悪いと思われているのか。こんな華美なものに袖を通した事などないし、そもそもドレスを自分で選んだ事だってない。自分に自信などあるはずがなかった。初めての事が重なりすぎて、もうアーニャの頭はパンク寸前だ。
「ああほら、そんな顔をするな! お前の好きなものを選べばそれでいい! 安心しろ、お前ならなんでも似合う!」
戸惑うアーニャに驚いたのか、ディウルスがわたわたと立ち上がる。何のためにこやつを連れてきたのかわからんのう、むしろ失敗じゃったかもしれん……ヴィンダールはそう呟きながら、生暖かい眼差しをディウルスに向けた。
フランセーズの本来の意味:「フランスの」
エスラシェ=本作におけるフランス的な国
私がわかる範囲のみになりますが、実在の地名・人名などがもとになった名前は由来をもじるなどしてそのまま使用する予定です。本編中に特に由来の説明がない場合でも、作中世界には似たような地名・人名が存在するんだと思っていただければ幸いです。