王女アーニャ
「はぁ……」
本日何度目になるかもわからないため息をつくディウルスを、彼の背後に控えたヴィンダールが呆れたように見た。同じく背後に佇むアッシュは苦笑しつつ時計に目をやる。クラウディスから来る王女アーニャがやってくるまであと少しだ。
「いい加減覚悟を決めんか。そなたがいつまでも浮かない顔をしておったら、姫を必要以上に不安がらせてしまうじゃろう」
「覚悟ならとうに決まっているさ。だが……なぁ?」
わかるだろう? と視線で問うが、そんなディウルスをヴィンダールは「知らん」とばっさり切り捨てる。ひどい奴だとぶつぶつ文句を言っていると、アッシュの笑い声が聞こえてきた。
「誰が何と言おうとアライベルの王はお前だよ、ディウルス。どんな姫君が来てもいいじゃないか。もしも彼女が渋るなら、無理やりにでもそれを納得させろ。私達の王はお前以外にいないんだ、自信を持ってくれよ」
「……ん。そうだな、悪かった。顔も知らん女に気後れするなど、俺らしくもなかったな」
相手の顔を知らないからこそ、緊張するのだが。それでもディウルスはふっと笑った。王はお前しかいないと言ってくれる友人の声が素直にありがたかったからだ。
自分の外見が女子供に好かれる類のものではないというのは自覚している。鍛え上げた肉体はもちろん顔に残った刀傷もディウルスの誇りだ。しかしいかつい顔の乗ったごつい身体のディウルスを恋愛対象として見てくれる令嬢は少なく、ディウルス自身も女心がわからないため女性と仲良くなっても友人以上の関係に発展したためしはなかった。
王の責務という建前で受け入れた婚約とはいえ、結局不安なものは不安だったのだ。自分は王としてアーニャ・クラウディスを王妃に迎える気でいるが、アーニャ・クラウディスが一人の女性としてこの国にやってきたなら幻滅されるに決まっている、と。
しかし、ディウルスの心配はそれだけではなかった。
ディウルス・ヴァン・アライベル・レッケンベーアはアライベル王家の正当な血を引いている。彼は先代王の正妃の第一子として生まれ、第一王子として何事もなく立太子を済ませ、戦場で亡くなった王の代わりに指揮を取ってアライベルを勝利に導き、そして四年前に戴冠式を行って正式な国王になった。その血筋に疑う余地はなく、国民のほとんどが彼に対して深い畏敬の念を抱いている。親しみやすい性格と国王という権威からはかけ離れた見た目のために軽んじているような態度を取る者は多いが、それはすべて信頼と敬愛の証だった。
そもそもアライベルにおける国王とは国家の奴隷だ。民の声に耳を傾け、国を支えていく王が、民との間に高い壁を作っていたら。民と距離を大きく開けていたら。民とともに歩き、国のために尽くすなどできるはずがない。だからこそ距離は近ければ近いほどいい。初代国王の時代から伝わるそんな教えは、ディウルスの胸にも深く刻まれていた。
だが、他国の人間からすればそうもいかない。幼い時から付き合いのある者達の国王に対するなれなれしい振る舞いを見て眉をひそめる者はいるし、この風貌のディウルスを王と認めない者もいる。アーニャや彼女の側近がその手合いではない保証はどこにもなかった。
国王としては、人間としての情で繋がる旧友よりも国益のために繋がる王妃を優先させるべきだ。もしアーニャがディウルスと友の交流を厭い、この国の王と臣下のありようを否定するのであれば、ディウルスはそれを受け入れなければいけない。先祖の代から守り続けてきた教えを曲げる気はないが、ある程度の譲歩は求められるだろう。それが少しつらかった。
「アーニャ様をお連れいたしました」
ほどなくして客間のドアの向こうからリアレアの声が響いてきた。ついに来たのだ。ディウルスは咳払いをして、なるべく威厳のあるような低く落ち着いた声を出した。
「あっ、あー……あーあーあー……ううん、よし。こんなものだな。……ああ、入れ」
「失礼いたします」
滑らかにドアが開く。見慣れすぎたというか本性を知りすぎたがためにもはや何とも思わなくなった美女二人に連れられて、見知らぬ少女と一人の年若い騎士が入ってきた。
(……なんだこれは。聞いていないぞ?)
「そなたら、大儀であったぞ。姫、よくぞいらした。我らアライベルの民は、クラウディスより来たる未来の王妃を歓迎しよう」
「ヴィンダール。その台詞は陛下がおっしゃるべきものだぞ?」
「それは申し訳ない事をした。しかし我らが王は、夜の女神のあまりの美しさに黙り込んでしまっているのでな。代わりに言わねばと思ったまでじゃ」
アッシュにたしなめられ、ヴィンダールは小さく肩をすくめてちらりとディウルスを見た。そこでようやくディウルスは我に返る。やってきた姫君の、予想していた以上の美貌に思わず頭が真っ白になってしまっていたのだ。確かに美人だと聞いてはいたが、まさかこれほどとは。
「ん……。ああ、悪かった。俺がこの国の王、ディウルス・ヴァン・アライベル・レッケンベーアだ。呼ぶときは好きに呼べ」
ディウルスは立ち上がり、邪魔なマントを払いのけてアーニャに近寄る。アーニャはわずかに顔をこわばらせたが、すぐに弱々しい笑みを浮かべた。身体はわずかに震えているが、悲鳴を上げて卒倒しないだけいいほうだろう。
「ア……アーニャ・クラウディスと申します」
小柄な娘だ。少し視線を下にずらせばつむじが見える。巨漢を自負するディウルスではあるが、アーニャがやけに小さく華奢に見えるのは自分の身体が大きいせいばかりではないだろう。
年は今年で十七だと聞いている。アライベルではぎりぎり少女と言って通用する年齢だ。だが、こうして実際に目にしたアーニャはそれよりもいくぶん幼く見える。
せいぜい十五か十六、下手をすればまだ十四歳の異母妹シェニラともそう変わらない見た目だ。二歳しか年の変わらないはずのリアレアと比べるとそのあどけなさは際立っていた。だが、だからこそその美しさが危険な色香として匂い立っている。
(詩人どももたまには真実を言うという事か……。いや、噂よりも美人なのだから、結局奴らは大ぼら吹きだな)
おのれリットめ。何が「恋人はいらっしゃらないようなので安心してください」だ。こんなに可愛らしい娘なら、影でこっそり想いを寄せていた男の一人や二人いただろう。
男のほうだって姫に憧れを抱いていたに決まっている。ほら、姫の後ろに控えてこちらを睨みつけてくる若い騎士なんてまさにそんな手合いじゃないか――――ここにはいない友人に向け、ディウルスは心の中で苦々しげに吐き捨てた。
(こんな縁談を受け入れる事になってしまって、彼女もつらいだろうに。せめて自由にしてやろう)
「アッシュ、ヴィンダール。お前達は席を外せ。ミリリとリアレア、それとそこの騎士もだ。俺は姫と二人で話がしたい。お前達がいると口うるさくて敵わん」
アッシュ達がいれば、ディウルスは心にもない言葉を口走りながら上っ面の笑みを張りつける事になるだろう。しかし、それはすべてを捨ててこの国に来たアーニャに対してあまりにも不誠実だ。
せめて正直に、そして誠実に彼女と向き合い、王と王妃の関係をはっきりさせておく。それがアーニャのためにディウルスにできる唯一の事だ。そうしておいたほうが、ディウルスにとっても楽なのだから。
「……よろしいのですか?」
「はい。わたしもお話ししたいと思っていました」
リアレアが問うと、アーニャはこくりと頷いた。それを聞き、アッシュはディウルスを見ながら釘を刺す。
「では、そのように。陛下、くれぐれも……」
「わかったわかった。そう何度も同じ事を言わなくていい。そういうところがお前達は面倒なんだ。いいからさっさと出ていけ」
渡した台本通り振る舞ってくださいね、と遠回しに告げようとしたアッシュを遮り、ディウルスは投げやりに手で払いのける仕草をする。側近達はすぐに部屋からいなくなった。それを確認し、ディウルスはふふんと笑う。
(台本などいらん。俺は俺の言葉で姫と話すだけだ)
だが、彼はわかっていなかった。何故アッシュが、ルルクが、そしてリットが余計なお世話だというのを承知でアーニャを口説くための台詞集などを用意し、それに従うよう念を押そうとしていたのか。
そして彼は知らなかった。正直で誠実である事は美徳であるが、彼のそれには“馬鹿”と“融通が効かないほど”がつき、なおかつすべて語っているつもりでありながらその実言葉足らずである事を。
「まあその、なんだ。とりあえず座れ。慣れない国に来たばかりで緊張するのはわかるが、そう気負う必要はないぞ」
「は、はい。失礼いたします」
アーニャは少しぎこちない動きでソファに座る。緊張しているのだろうか。ディウルスもソファに座った。アーニャが部屋に来た時と同じ、一人用のソファだ。応接室にはその小さなソファのほかに向かい合って並べられた二つの長いソファがあるが、そこが彼の定位置だった。
「最初に言っておこう。これはお前を王妃として迎え入れるにあたって最も重要な事だ――いいか、姫。余計な事は何もしなくていい。お前はあくまで飾りだからな」
「……え?」
もしもこの時のディウルスの渾身のどや顔を側近達の誰かが一人でも見ていたら、彼は思いきり頭をはたかれていただろう。