花嫁を迎えよう
「なんで結婚……しちまうんだよぉ、陛下ぁっ……!」
アルジェント伯爵家令嬢アリカ・ユイ・アルジェントは拳を震わせる。信じたくなかった。ディウルスが結婚してしまうなど。
だが、ディウルスが王妃の座に据えると決めた異国の姫君がやってくるまであと一週間を切っている。王の婚約者の存在は、受け入れなければいけない現実としてそこにあった。
「諦めなさい、アリカ。貴方のそれは、叶わない夢だったのよ。……これはそう、運命なの。身分を考えなさい。貴方も心のどこかではわかっていたはずよ? 貴方の……いえ、貴方達の想いが届く事なんてありえないって」
うっすらと瞳に涙をためたアリカを慰めるのは、ストレディス侯爵家令嬢ミリリ・レシェル・ストレディスだ。しかしそんな言葉も、今のアリカの前には意味をなさない。
「……それでもあたしは、縋りたかったんだよ。いや、あたしだけじゃねぇ。みんなそう思ってたさ。叶わないなんて事はなかったはずなんだ!」
アリカは頭を抱えてテーブルに突っ伏し、渦巻く感情に身を任せた。決して狭いとは言えないサロンには、自分を含めて三人しかいない。ほかの二人は気心の知れた者達だ。宵の口とはいえ、今ならどれだけ我を忘れた振る舞いをしても許される気がした。
「『陛下は一生結婚できない』につぎ込んだあたしの銀貨十五枚、返せぇぇぇ!」
「残念だったわね。貴方達の賭け金は、『陛下は五年以内に結婚できる』に賭けた私達が頂いていくわ」
力の限り叫んだアリカを軽くあしらい、ミリリは勝者特有の驕慢な笑みを浮かべる。そんな二人の様子を傍で見ながら、レート公爵夫人リアレア・ベル・レートは付き合っていられないとばかりに額に手を当てていた。
「はぁ……。たかが銀貨十五枚程度でおおげさですわね。そう騒がないでくださいまし。……で、そのくだらない賭けは一体なんなんですの?」
「四年前の陛下の戴冠式の時、宴の席でこっそりやっていたのよ。陛下は結婚できるかできないか、できるとしたら何年後なのか。ちなみに『一生結婚できない』が一番人気で、『五年以内に結婚できる』は大穴扱いだったわ。確かそこに賭けたのは、私とリットと……そう、シェニラ様の三人だけだったんじゃないかしら」
「さすがに『一生結婚できない』だと払い戻しもできねぇだろうから、実質『向こう十年は結婚できない』だったんだよなー。くそ、十年ぐらいならいけたと思ったのによぉ」
国王が王妃を迎えないなどありえない。だが、アライベルの民のほとんどはその『ありえない』を『ありえる』として認識していた。それは、ディウルスの異母妹シェニラの存在があるからだろう。王位は彼女の子に譲ればいいのだ。
第二王女、王妹シェニラは未婚の少女で、これといった相手もまだいない。だが、異母兄ディウルスと違ってシェニラは引く手あまただった。彼女ならすぐに良縁に恵まれて子供を授かるだろう。さいわいディウルスとシェニラの仲は良好だ。たとえディウルスが甥姪に跡を継がせようとも、これといった波風は立たなかった。
そもそも、王位を甥姪に譲るというのはディウルスが以前から言っていた事だ。シェニラ自身は王位や王母の地位に興味はなく、どちらかといえば異母兄がさっさと身を固める事を望んでいるようだったが、どうしてもディウルスが王妃を迎えないのならそれでもいいと言っていた。
ディウルス自身に結婚願望はない。政略的に重要なものでなければ、積極的に縁を結ぼうとはしなかっただろう。今回の縁談が成立したのは、側近達の画策と大陸の情勢あっての事だった。
「賭け金は王女様がこの国に来てから払い戻されるらしいけど……可哀想だから、そのお金で何かおごってあげましょうか。リアレアもどう?」
「やたっ、さすがミリリ様! あたし、酒飲みたい! 宴会しようぜ宴会! 陛下の婚約を祝ってさ!」
ミリリが苦笑すると、地団太を踏んでいたアリカの顔がぱっと輝く。先ほどまでディウルスの結婚を呪っていたのが嘘のようだ。型破りな伯爵令嬢はなにかと現金な娘だった。
「お誘いしてくださるなら断る理由はございませんが……お二人とも、少しは自分が貴族だという自覚をお持ちになってくださいな。そのような事を賭けの対象とするなどはしたないですわよ」
頭痛薬はどこにしまったかしら……と、戸棚の中身に思いを馳せるリアレア。そんな彼女に、アリカはさらりと爆弾を投げつける。
「てか、この賭けの元締めってヴィンダール様だけどな」
「何をなさってらっしゃるんですかヴィン兄様ぁっ!?」
「ちなみに賭けにはラドシェーダも参加していたわよ」
「ラド兄様まで!?」
王に対する不敬も甚だしい賭け事に、あろう事か兄が二人とも参加していたとは。しかも次兄にいたっては主催者だ。すっかり打ちひしがれたリアレアに、ミリリとアリカは憐みの視線を向けた。
「……四年間気づかなかったんだな、リアレア様」
「だ、だって、お兄様達はそんな怪しげな動きは……」
「いいえ、リアレアが知らなかったのも当然よ。だってあの賭け、極秘裏に行われていたんですもの。……みんな『結婚できない』に賭けるせいで、ほとんど賭けになっていなかったのよ。そんな状態で参加者が増えても意味がないでしょう?」
「そこはせめて、不敬罪に問われる事を恐れたからにしていただきたかったです!」
あーうーあーと頭を抱えるリアレアの肩を慰めるようにぽんぽんと叩きながら、アリカはミリリに視線を送る。
「アーニャ姫、だっけ。真面目な話、どんな奴なんだ? 我らが熊王様に嫁いでくれる物好きな王女様は」
「美人らしいわよ? 吟遊詩人達が彼女の事を夜の女神とたとえるぐらいにはね」
「はっ。詩人どものおべっかなんざあてにならねぇって。よくて実物二割増しぐらいだろ。もっとこう、具体的な話はねぇのか?」
「そうね……。少なくとも、女傑のような方ではないらしいけど。ごくごく普通の姫君じゃないかしら?」
「えー? そんな奴が妃なんて大丈夫かよ。妃じゃなくて、生贄の間違いじゃねぇか? 陛下を一目見た途端に泣かれたらどうするよ」
「い、生贄って……!」
「……アリカ様、間違ってもそんな事を陛下やアーニャ様の前でおっしゃらないでくださいましね?」
ぷるぷると肩を震わせて必死に笑いをこらえるミリリと、もうどうでもいいやと無我の境地に達したリアレア。一方のアリカは「めんどくせーなー」とぶつぶつ言っている。椅子の背もたれにもたれて前後に揺れながら天井を仰ぐその姿はとても貴族の子女には見えなかった。
「てか、ほんとは侍女頭なんてやりたくないんだよな。どうせ結婚するまでの行儀見習いだと思ってたのに、まさか未来の王妃様に仕える事になるなんてよぉ……。ったく、あたしには荷が重すぎるぜ」
「仕方ありませんわ、それが陛下のご命令ですもの。……側近をわたくし達で固める事で、威圧の意味も示しているんですのよ? 王妃殿下のお役に立てるなんて、名誉な事ではありませんか」
「ふ、ふふ……私達、あっ……悪女……ですもの、ねっ……ふふっ……あはははははっ! おっかしい!」
ついに笑いを抑えきれなかったミリリが目に涙をためながらばしばしと机を叩く。リアレアは不服そうな顔でお茶請けのクッキーに手を伸ばした。
「わたくしの場合は、悪い噂が独り歩きしているだけですけれどね。実績の伴った“戦場の女王”様とは違いますのよ?」
「ちょっと“毒姫”、恥ずかしいからやめてちょうだい! “殺戮乙女”からも何か言ってやってよ!」
「被弾した!? 笑いながら人の黒歴史さらっとほじくり返すなよえげつねぇな!」
驚きのあまり椅子からひっくり返ってしまったアリカは、ぶつけた腰をさすりながらミリリを睨みつけた。しかしミリリは気にする素振りもなく、呼吸もままならない様子で笑い転げている。
「その二つ名にゃかなり異議を唱えてぇけどよ……物騒なあだ名がついてるあたし達がアーニャ姫の周りで睨みを利かせてりゃ変な奴が寄ってこない、ってのを陛下は期待してるんだろ? そりゃ、その辺りの理屈はわかるぜ? でもよ、あたし達でほんとにいいのか?」
アリカは再び椅子に座り、懲りずに椅子の脚を浮かせて不安定な体勢を取った。その間にミリリはひいひい言いながら呼吸を整え、目に浮かんだ涙をぬぐう。
「大事な大事なお姫様を嫁がせるんだから、クラウディスだってちゃんとした側近をよこすだろ。正直あたしはお茶汲みより暗殺者どもの掃除のほうが得意だし、ミリリ様も慣れない奴と連携は取れねぇじゃん。リアレア様はいいとしても、向こうの側近連中とうまくやってく自信がねぇんだ」
アリカは伯爵令嬢ではあるが、彼女の生家はアライベルでも異質な家だ。一人の戦士として育てられ、どんな環境でも生き抜くための技術を磨き、半生を市井で過ごしてきたアリカは、本人すら気づいていないような心の奥底で生粋の王侯貴族に対するコンプレックスを抱いていた。
王女のお付きなのだから、お堅い貴族が来るのだろう。侍女頭として彼ら彼女らを指示する立場に立ったとして、果たして従ってくれるのだろうか。
「けれど、やってくる側近はたったの二人だとうかがっていますわ。二人ならなんとかなるのではないでしょうか」
「二人? そんなに少ないのか?」
「アーニャ様は、国ではずいぶん冷遇されているらしいですもの。なんでも、左右で目の色が異なるからだとか」
「ええ。少し前にリットの護衛としてクラウディスに行ってきたんだけど、その時に精霊達がそう言っていたわ。詳しい事情は聞けなかったけど」
「……え」
アリカの表情が固まる。がたんと音がした。彼女が座っていた椅子の、浮いていた脚が床についた音だ。それに構わずアリカは呆然と呟いた。
「その程度で、か? それで冷遇されてるなんて、まだ何か理由があるんじゃねぇの?」
「さあ。そこまでは存じ上げませんわ。わたくし達にはわからない、もっと深い事情があるのかもしれません」
「そうは言っても、人と違うというのはそれだけで迫害の理由になるでしょう。一目でわかる異常ならなおさらね。色の違う目を持つ姫君なんて、気味悪がられても仕方がないわ」
「……あんたが言うと説得力があるな、ミリリ様」
「そうかしら。私の場合は普段隠しておけるから、王女様よりはましだと思うわよ。……まあ、クラウディスに生まれなくてよかったとは思うけどね」
ミリリは目を伏せた。祖父に連れられてこの国に来てよかったと、心から思う。迫害を受けるどころか多くの理解者に囲まれて過ごせる今のこの環境は、ひどく恵まれたものなのだ。
それと同時に考える。できればこれからやってくる王女には、自分と同じように幸せになってほしいと。アライベルに嫁いでよかったと、心から思ってほしい。そして彼女にそう思ってもらうには、自分達が心を砕くべきだろう。
ミリリは決意を新たにする。決してアーニャに、不自由はさせない。しかしミリリはそんな感情を表に出す事をしなかった。そんな風に思っている事を知られれば、きっとアーニャは遠慮してしまうだろうから。
「クラウディスといえば、アリカはついてこなくてよかったの? 望めば貴方も、使者団に加われたでしょうに」
「そうですわね。アーニャ様がどのような方か気になるなら、アリカ様も明後日の訪問に同行すればよろしいではありませんか。そうしたほうが早く会えますわよ」
「やだよ。どうせ明後日になればアーニャ姫は来るんだろ? だったらクラウディスまで迎えに行こうがアライベルで待っていようが、たった数時間の差じゃねぇか。待ってたほうが気楽でいいね」
そう言ってアリカは肩をすくめた。しかし何か引っかかる事があったのか、怪訝そうにミリリに尋ねる。
「そういや、なんでルルク様もクラウディスに行くんだ? あいつ、関係ねぇじゃん。あたし達と違って、新しく王妃付きの側近になるわけじゃねぇだろ。転移魔術に使うなら、他の魔術師を連れていく意味がなくなっちまうしさ」
「ヴィンダールの発案らしいわよ。なんでも、嫁入り道具の確認をさせたいんですって。念には念を入れて、って事じゃないかしら」
「……ふぅん」
それ以上の説明はいらなかった。ミリリの弟、ルルクは優秀な魔術師だ。彼を引っ張ってくるほど、その嫁入り道具の確認というのは大事な作業なのだろう。
「ヴィンダールお兄様は心配性ですもの。それが杞憂に終わればいいのですが、警戒するに越した事はありませんわ。……あ、お茶のおかわりはいかがですか?」
「ありがとう、いただくわ」
「あ、あたしもあたしもー」
王妃付き女官長、近衛騎士隊長、そして侍女頭。未来の王妃の側近に抜擢された三人の女達は、のんびりお茶を飲みながら月が高く昇るまでたわいないお喋りに興じていた。
* * *
「あれ? リット、どうしたの? 顔色が悪いけど」
クラウディス王国への訪問を明日に控えた日の昼下がり、王の客間にやってきたルルクの目に真っ先に入ったのは、たった今人を殺してきましたが服が返り血で汚れてしまって非常に不愉快です、とでも言いたげな顔をしているリットだった。
一人掛けのソファにディウルスが、長いソファにレキウスとヴィンダールが座り、アッシュが壁際にもたれているのとは対照的に、彼だけがせわしなくうろうろしている。何かあったのだろうか。
「ヴィークスが熱を出したらしい。エリザからそう連絡があったそうだ。我が義弟は可愛い息子の事が心配で心配で、こんな事になっているというわけさ」
「へぇ。でも、大丈夫じゃない? エリザレーテさんはもちろん、使用人達もいるだろうし」
なんだ、そんな事か。アッシュの話を聞いたルルクは苦笑しながら、レキウス達の対面にあるソファに腰掛けた。確かにリットが冷静さを欠くのは家族の事ぐらいのものだろう。そうとわかれば落ち着きなく歩き回る姿も見慣れた風景に見えてくる。
リットは何か言いたげにアッシュを見るが、何も言わずに口をつぐんだ。幼馴染みであり義兄でもある彼には頭が上がらないのだ。代わりにディウルスへ視線を向けて、
「あの、念のために伺いますが、明日のクラウディス王国の訪問は、ほかの方にお任せするわけには……」
「クラウディスとアライベルの橋渡しをしていたのはお前だろう、リット。ほかの奴には任せられない。それに、俺の代わりができるのはお前だけだ。王妃を迎えに行く使者団の長は、俺の名代でなければいけないんだろう?」
「予定は予定なのである。明日に迫ったものを急に変更できるわけがなかろう。多くの者がかかわっている、国家にとっての重要な訪問なのだからなおさらだ」
「ですよねぇ……」
ディウルスとレキウスに言い含められ、リットはため息をついてルルクの隣に座る。国王ディウルスの名代が務まるのは、現宰相ニードか主席宰相補佐官のリットぐらいのものだ。しかしニードはニードで忙しいし、外交官達とともに国王の名代としてクラウディス王国と国交を重ねていたのはリットだった。彼以外に使者団の長は務まらない。
「息子のために何かしてやりたいなら、薬でも買ってくればどうじゃ? 確かクラウディスのサナイス飴は、熱やのどの痛みによく効くはずじゃ。子供でも食べやすいし、見た目も美しいゆえ土産物にもなるぞ」
見かねたヴィンダールが声をかける。ヴィンダールの生家であるセトラ侯爵家はもともと医師の家だ。家督と家業を継いで王家の侍医となったのは長兄とはいえ、ヴィンダールも医学のさわりは学んでいる。他国であろうと、国交があまりなかろうと、医学にかかわる大抵の知識は持っていた。
「それはいい考えですが、恐らく私自ら街に赴く時間はないでしょう。その飴をいつ買いに……いや、行けないなら人に……」
渋かったリットの顔がみるみる明るくなる。見る人が見れば、ついに王位簒奪の計画が煮詰まったかと思われそうな笑顔だった。
「シャロンさんに買い物を頼む事にします。ヴィンダールさん、ありがとうございます。おかげで少し肩の荷が下りました」
シャロンというのは、異国の姫の輿入れに際して王宮侍女から昇進して王妃付き侍女になる事が決まっている一人の少女の事だ。
王宮侍女、つまり特定の主を持たず、宮廷全般の雑事を担当する者としての彼女の最後の仕事が、使者団に同行して数名の騎士とともにクラウディスの王都で買い物をする、というものだった。
ようは、何か役目があってクラウディスの王城を出られない使者達や祖国で待つ者達のため、おのおのからあらかじめ預かってきた予算で土産を買ってくる係だ。公務で異国に赴くと言えど、その辺りの感覚は完全に遊興のそれだった。
「懸念がなくなったところで、ようやく本題に入れますね。……ルルクさん。貴方もご存知の通り、貴方は私とともに使者としてクラウディスに向かってもらいますが、貴方の責任は大きいですよ?」
「わかってるって。さっさとお姫様をこっちで引き取る事にしたのに、余計なものがついてたりしたら本末転倒だからね。期待されたぶんの仕事はしっかりするさ。……任せてよ。僕の目を欺けるような術者はこの世界にいないんだから」
歪んだ笑みを見せるリットと不遜に笑うルルク。二人はともに線が細く顔立ちも整っている。その身分を鑑みても、貴公子としてもてはやされてしかるべきだろう。事実、リットとルルクに黄色い声をあげる者は多い。ルルクの場合は女性であれば年齢や距離を問わず聞こえ、リットの場合は危険なものに惹かれたい年ごろの若い娘から年齢関係なしの野太い声まで含めて遠くから聞こえるが。
しかし二人は、その気がなくても行動の節々に腹黒さがにじみ出てしまう事が多い。そのせいでディウルスとはまた違った意味での迫力と威圧感を醸し出してしまうのだ。そんな彼らが笑い合っていては、世にも恐ろしい光景が生まれてしまうのは当然の流れだろう。見慣れているディウルス達も、思わず目をそらさずにはいられない。
「……お前達ならきっとうまくやってくれるだろう、うん」
なんとなく湧きあがった恐怖と嫌な予感にふたをしながら、ディウルスは投げやりに呟いた。