009
ユーリは涙を堪えながら暗い路地裏を歩いていた。
人通りは無く、周囲に街灯も無い。まるでゴーストタウンのような廃墟群にユーリは迷い込んでしまったようであった。
センリとリルナがいない事に気が付いたユーリは、焦りと寂しさを紛らわす為に猫を抱きしめていたが、それを嫌がった猫にあっさりと逃げられてしまったのである。
という訳で一人ぼっちで知らない場所に取り残されてしまったユーリは、とにかく歩き回った。元来た道を戻ろうと頑張ってみたが、行きは夢中になって猫を追いかけていた為、殆どどうやってここまで来たのか覚えていなかった。曖昧な記憶を頼りに歩いていた結果、更に離れた場所に来てしまったのだ。
もうすっかり日も暮れ、辺りは完全に暗闇に包まれてしまっている。歩きづめで足は棒のようになり、服もあちこち破れたり黒く汚れてしまっている。3時間以上も狭い路地を歩いていればそれも当然であった。
疲れと不安に支配されそうになっている今のユーリにとって、この暗闇は非常に堪えた。そうで無くともまだ小さな子供なのだ。本能的に暗闇は怖いと感じるだろう。
いくら『災禍の魔女』のクローンと言っても、ユーリ自身が『災禍の魔女』な訳ではない。体を構成する物質、DNA情報は一致しても、肝心の中身はまるで違うのだ。暗闇を手懐ける事も、恐怖を支配する事も、ユーリには出来なかった。
しかし、それで良いとアレンは願い、ユーリに記憶を付与したと言えるだろう。不安に押し潰されそうになるのも、恐怖で身震いするのも、一人ぼっちが寂しいと感じるのも、全部『普通』の事なのだから。
『普通』を感じる事が出来るようにと、アレンは願っていたのだから。
そういう意味ではこれも一つの試練と呼べるのかもしれない。
ユーリが人として成長する為の――試練。
記憶はあったとしてもユーリは言ってしまえば生まれたばかりなのだ。魔法を施された培養液の中で育ち、自我を与えられる事無く只の入れ物として造られた存在。アレンに発見され、記憶を与えられ、自我が生まれて、ようやくユーリはユーリになった。これから体験する全てが、ユーリのこれからを作っていくのだ。
そして今、恐怖に体も心も支配されそうになっていたが、何とか持ちこたえられているのはセンリとリルナに会いたいという一心からであった。
離れてしまった原因が自分にあると正しく認識しているからこそ、自分を律して泣くのを我慢している。本当は泣き叫びたいというのが本心だが、記憶のベースとなった者の性格が影響しているのであろうか? 泣いていてもしょうがないという思いがユーリの中にはあるのだ。
だからこそユーリは足を止めない。
どれだけ疲れても、足が痛くても、とにかく歩くしか自分には出来ないのだから。
そんな事を思っていた矢先である。どこからか人が話しているような声が聞こえてきた。ユーリの耳にはそれが微かにではあるが届いた。
その声のする方へ意識を集中して、歩みを進める。そして辿り着いたのは5階建ての廃墟であった。
ユーリには分からないだろうが、これは元々貸家だった建物である。1フロアに5部屋ずつ、最大で25世帯が住んでいたであろう建物。今は見る影もなく、いつ倒壊してもおかしくないような様相であった。
その3階辺りから微かに声が聞こえるのだ。
本来ならこんな場所に人がいる時点で警戒レベルを数段引き上げるのが普通だが、今はユーリにとっては非常時である。藁にもすがるような思いでその声のする方へ向かう事にした。
ボロボロの建物の中はやはりボロボロであった。所々壁や階段はひび割れていて、足元も真っ暗。辛うじて窓ガラスのない窓から差し込む月明かりでぼんやりと前が見えるような状態だ。慎重に進まなければ足を段差やひび割れに取られてしまい非常に危険である。
そんな中をユーリはゆっくりと進んでいく。
声が聞こえ居たのは3階の辺りだ。埃が被っている手すりにつかまりながら2階へ上がり、そして目的の3階へ辿り着いた。
「やっぱり誰かいる……」
話し声はやはりこのフロアのどこかの部屋から聞こえてくるようであった。ここまで近づけば間違いようは無かった。
そしてユーリは出来るだけ足音を立てないように一つの部屋の前で足を止めた。
この部屋の中で間違いない。ユーリがそこにいるとは知らない中の人物たちは、構わず話を続ける。
「それにしてもこの魔法具すげぇッスよ。効果は高いし検査には引っかからない。これだけのもん、一体どうやって作ってるんすか?」
「お気に召して頂いているようで何よりです。ですが、製法は企業秘密という事でお願いします。こちらもバレると色々とまずいのでね」
「そりゃそうか」
何の話をしているのかは分からなかった。
とにかく中にいる人が気になって、ユーリは少しだけ空いているドアの隙間から中を覗き込む。そこにいたのは四人の男であった。
しかし、それは体格と声から推察しただけである。何故なら中にいる内の三人は黒いのっぺりとした仮面を着けており、もう一人は帽子を目深に被っていたからだ。これでは顔で男女の判断はつかない。
もっと良く見ようとユーリはもう一歩だけ前へ踏み出す。
しかし、それがいけなかった。
ガタン!
という大きな音が足元から鳴り響いた。暗がりで見えにくかったが、ユーリの足元には木材が落ちていたのだ。それを蹴飛ばしてしまった結果、その木材がドアに当たり、その拍子にドアもゆっくりと内側へ開いてしまったのだ。
その音に反応するように、中の男たちが全員ユーリへ視線を向けた。
「誰だ!?」
「ひっ!? あ、あの……、私……」
「おやおや? 子供――ですか?」
部屋の中に張りつめたような緊迫感が充満する。見られてはいけない現場を見られてしまった。中にいた男たち――特にリーダー格の男と帽子の男を除く二人の焦り方と言ったら尋常ではなかった。
仮面の上からでも分かるほど、余裕のなさが窺える。
「お、おいガキ! お前一体何しにここへ――」
即断即決。
ユーリは不穏過ぎる程不穏な空気を察し、少しでも男がユーリの元へ近づこうとした瞬間にその場から逃げだしたのだ。
来てはいけない場所だったと悟った。間違えてしまったのだ。両親と離れてしまって焦りと不安と恐怖に選択を誤った。近づかないという選択をするべきであった。そのような思いがユーリを逃げるという行動にスムーズに移行させたのだ。
そしてそれは正しい。
この場にそのままいたところで、ユーリを取り巻く事態が好転するとは思えなかったからだ。
「追え」
リーダー格の男は、ユーリの行動の速さに呆気にとられている二人に向かって短くそう言った。
この現場は誰にも知られるわけにはいかないのだ。この男たちにとって、それは致命傷にも成り得る事なのだから。見られたのが例え子供だったとしても、そのまま帰す訳にはいかない。
その言葉を理解した二人は、急いでユーリの後を追う。
相手は一瞬見えただけだったが、どうやら子供のようだ。普通にやれば必ず捕えられるだろう。それよりもリーダー格の男には聞かなければいけないことがあった。
「おい、どうなっている? この場所には結界魔法が張ってある筈だろうが。どうしてガキが入ってこられる?」
そう。この建物には結界魔法が施されていたのであった。結界内にある存在を隠し、声すらも外へ出るのを遮断できている筈なのだ。それなのに今のこの状況。腑に落ちるはずが無かった。
「ええ。間違いなく発動していますよ。それも、現在進行形でね」
「何だと? じゃあどうして」
「ふむ……」
魔法を発動させた張本人である帽子の男は、顎に手を当てて少し考えるしぐさを見せる。
(初めからこの建物内に潜んでいた? だとすれば私が魔法を発動したとしても初めから内部にいた者に気付けないのも頷ける。しかし、敢えてもう一つの可能性を考えるとすれば――『結界無効化』の特性持ちか)
この世界、アークガルドには特性という概念がある。
言ってしまえばそれは魔法の副産物のようなものであり、魔法の一種という認識で問題ない。
例えば火属性の魔法を使い続けると『炎耐性』という特性が身に着く事がある。魔法の修練によって習得出来る場合もあるし、家系的に生まれ持っている場合もある。
簡単に言えば常時発動型の魔法という訳だ。しかし常時発動型と言っても、それを正しく認識できればON、OFFの切り替えを任意で行うことも出来るようになる。
しかし特性を得られるのはかなり稀であり、習得出来るかどうかは本人の資質による所が大きいのだ。
(私の結界を崩さずに、悟られずに、すり抜けた。それを考えると特性持ちの可能性が高いですね。いやはや、これはこれは……)
何やら考え込んでいる帽子の男に、リーダー格の男は自分の考えを伝える。もしも、その考えが当たっていた場合、かなり厄介な事になるであろう事は明白であった。
「あのガキ、まさか『魔法協会』の関係者じゃないだろうな?」
「いえ、それは無いでしょう。まあ、確実に――とまでは言いませんが。協会の者であったならば、あそこで見つかるようなヘマはしないでしょうしね」
「それもそうか……。考え過ぎだったな」
「いえ、警戒するに越したことは無いでしょう。それだけの事をしているのですから」
帽子の男は目深に被っている帽子を更に深く被り、部屋の出口に向かって歩き出す。
「それでは私はこの辺りで消えさせて頂きますよ。取引も無事終わりましたし、妙な事に巻き込まれては私の身も危ないのでね」
「はっ! 良く言うぜ。今回はあんたが下手打ったからだろう?」
「これはこれは耳が痛い事を。それではご武運を。また御用があればお呼びつけください」
そう言いながら部屋から出て行った男を見送る。
相変わらず何を考えているのかが読めない相手だ――リーダー格の男はそう思っていた。
だがそれも一瞬で、すぐに意識を先ほど逃げた子供の事に切り替える。
「あのガキも只者じゃねぇってのは確定だな」
だが、程なくして仲間が捕えてくるだろう――そう確信していた。
◆
脱兎の如く階段を駆け下り、暗がりの建物の中から外へ飛び出すユーリ。
何とか建物の外へ出る事は出来たが、それでも安全とは言い難かった。それはユーリも分かっている事である。
後ろから足音が二つ、ユーリに向かって近づいて来ている事が分かるからだ。
何故追いかけてくるのかは分からない。だが、捕まってはダメだということは分かる。きっと見てはいけない場面だったんだ――ユーリはそう考えていた。
「待て! このガキ!!」
そんな怒号が後ろから浴びせられる。
体をびくつかせながらも、必死で走る。ルートなど考えている余裕はない。元より知らない場所なのだ。抜け道も、隠れられる場所も、そんな場所は知らない。
今日は一日歩き詰めであり、ユーリの体力も限界が近づいて来ていた。
体力が無くなっていくにつれて、後ろから聞こえてくる声と足音が近くなっていく。
それでも諦めまいと、曲がり角を多用して相手の視界から少しでも消えるようにして走っていく。それが地味に効いているのだろう。後ろの二人組から苛立ちの声が聞こえてくる。
「クソが! ちょこまかと鬱陶しい!!」
「あの現場を見られたからにはそのまま帰す訳にはいかねぇんだよお!!」
怖い。
怖い怖い怖い怖い!
こんな目に遭うのは、全部私の所為だ――パパとママから離れて、自分だけで行動してしまったからだ。
後悔の念がユーリの心を覆う。それと同時に涙が溢れて来た。
泣かずにずっと耐えてきたが、自分よりずっと大きい男が二人も追いかけてくるのだ。訳も分からず追われているのだ。それが怖くて、我慢していたものが決壊してしまった。
それでも走るしかない。
それしかユーリに今出来ることはなかった。
しかし、それにも終わりが来る。
「テメェが悪いんだからな! ちょこまかと逃げ回るからいけないんだ! これでも食らえ! ウインドウブロウ!!」
差は縮まってきていた。このままいけば普通に追いつけていただろう。
だが、男たちも焦っていたのだ。それに加えて苛立ちの限界が重なった。使わなくても捕えられていたであろうが、魔法による攻撃を仕掛けてきたのだ。
後ろから来た風の塊がユーリの背中に直撃した。
下級に位置する風魔法だが、小さな子供に当たれば大人が両手で突き飛ばすくらいの威力は出る。
ユーリは後ろからの衝撃に備えることも出来なかった為、走っている勢いも余って前に向かって転倒した。
「うう……」
倒れた衝撃で膝や腕を擦りむいてしまい、血が滲む。
痛みに耐えるようにしてその場で縮こまってしまうユーリ。
そしてその後ろからは、もう走らなくても大丈夫であろうと考えた二人の男たちが歩いて向かってきていた。
「へへ……。お、お前が悪いんだぞ? あんな場所にいた挙句、逃げるんだからよ」
「そうさ。これはしょうがない事なんだよ。見逃す訳にはいかないんだよ俺たちも……」
幼い子供へしてしまった行為に対する正当性を自分たちに与えるように、そんなことを言う。焦りと緊張からだろう。正常な思考を放棄してしまっているようにも見受けられる。
こんな事、許される筈がないというのは分かっていても、もう止められないのだ。
そして、男たちの手がユーリに向かって近づいてくる。
「パパ……、ママ……、助けて――」
小さな声でユーリがそう祈るように呟いた瞬間であった。
視界の横から何かが飛び出して来たのが分かった。そしてその何かは男たちの手を払いのけ、顔面に一発ずつ拳を叩きこんだのだ。
それだけでは足りず、飛び出して来た何か――そう。センリ・クロウリーは叫ぶ。
「俺の娘に何してんだ!!」