001 魔導奇譚の始まり
異質な空間だった。
その場所を表現する言葉としては、まさに『異空間』という表現が一番しっくりくる。此処ではない何処か。其処ではない何処か。それでも確実に存在している。そんな場所。
全てを飲み込む様な漆黒の空に、星の光のような物がいくつも輝いている。その空の下には人の足首くらいの高さまで真っ赤な水が溜まっていた。あちらこちらにむき出しの岩がそびえ立っているだけの無機質で広大な大地。それを全て覆い尽くす様に、真っ赤な水が溜まっているのだ。
「――ここまでのようだな……俺も、お前も」
そんな『異空間』に声が響いた。およそ人が生きていくことの出来る環境ではない場所から、ようやく絞り出したかのような声が聞こえてきた。
「お前のしてきた事――しようとした事を考えれば、こんな言葉を言うのは共に戦ってきた仲間たちに対する裏切りになってしまうのかもしれないが、それでも俺はお前の事も助けたかったんだ」
男であった。満身創痍という言葉がそのまま体現されたかのように、傷だらけでボロボロの男であった。あらゆる箇所から出血し、今も真っ赤な水の大地に膝を付き、剣を杖代わりにして何とか身体を支えているような状態。
「……ふざけるな。私を助けるだと? どの口がそんな戯言を吐く?」
その男の正面に、もう一人存在していた。
金色の長い髪、鋭い目つき、神々しい漆黒のドレス。その全てが痛みきっていた。正面の男と同様に、満身創痍の女がそこにはいた。
どうみても致命傷を負っている身体。しかし、まるでそんな傷など負っていないかのような力強い声。
「信頼・友情・愛情・尊敬・敬愛・希望。貴様達が嬉々として語るそれら全てが偽物だ。全てが紛い物だ。間違った世界の住人と分かり合おうなど、ましてや助けられようなど、有り得ない話だ」
「……お互いもう永くない。それでもお前の考えは変わらないというのか?」
「当然」
その眼に見えている全てを憎悪しているかのような女。彼女から放たれる言葉の一つ一つが、まるで呪詛であった。言葉自体が重みのある物として世界を潰そうとしているかのように、ズシリと男にのしかかる。
「――そうか。それは残念だ。どうやら俺ではお前をどうしても救う事は出来ないようだ」
「救われる理由も無い。救われる意味も無い。そして、ここで私を討つ意味も――無い」
そう言って彼女は笑った。
背筋が凍るように冷たい笑顔であった。死が迫ってきている事を微塵も感じさせない、そんな笑顔。
「お前を討つ意味が無いだと……? それは一体どういう……」
「私はここで終わるが、私はここでは終わらないという事だ。理解しなくてもいい。だがこれは事実。お前達がどれだけ必死でこの私を殺した所で、何も変わらないのさ。世界終焉の日がほんの少し先延ばしになっただけ。只それだけだ」
そこまで言った彼女は、血を吐き出す。『異空間』の大地を覆う真っ赤な水よりも濃い、真紅の血潮が吐き出される。
それでも尚笑う。声高らかに、全てを見下すように。
「あはははははっ! 無駄な足掻きをするがいいわ人間! 最後に笑うのは、この私だ!」
そしてこの『異空間』は終焉の時を迎える。
空に、大地に、亀裂が入っていく。ガラスのように空が割れ、流砂のように大地が流れる。
終わりゆく世界には、彼女の笑い声だけが響き渡っていた。
しかしそんな中、男もまた――笑っていた。
「……ああ、足掻くさ。俺達は絶対に世界を諦めないんだぜ? あんなに素晴らしい世界を、終わらせてたまるか」
最後の力を振り絞り、男は立ち上がる。
「お前と同じように、俺もまた、ここでは終わらないよ。俺という存在は無くなるが、それでもまだアイツがいる。俺達の世界にはまだ、希望があるんだ」
男は割れていく空を見上げながら想う。
これからの事を。そして、彼の事を。
こんな場所にはまったくもって似合わないような笑顔で、男はある人物の名前を呟く。
「後は頼んだぜ――センリ」
崩壊していく『異空間』。これから起こる全てはこの瞬間から始まり、あらゆる運命を巻き込んで混沌とした時代が幕を開けることになる。
そしてこの誰にも語られることの無かった場面より10年の時が経った世界から、魔導奇譚はその幕を開ける。
◆
柔らかな日差しが照り、風が薫る麗らかな日。
雲一つない晴天の空は暗い感情をすべて吸い込んでくれそうであった。
だが、そんな気持ちの良い天気でさえも太刀打ちできぬ程、どんよりとした暗い感情を抱く者がいた。
「はぁ……。どうせまた晒し者になるだけだよなぁ……」
センリ・クロウリーは深いため息を一つ吐く。
これから起きる事が分かり切っているので、憂鬱な感情はどうしても拭えない。少し先の未来を思うだけで胃がキリキリと痛むようであった。
彼は今、移動中である。もう少し正確に言うのであれば、移動教室中であった。
ここは学校の校舎内。授業と授業の合間、センリは力無くとぼとぼと一人廊下を歩いていた。
そんな暗いオーラを放ちながら歩く彼、センリが通うこの学園は、少しばかり名の通った学園である。
メイフォラ大陸の『グリフォルス魔法学園』。
この学園を卒業したと聞けば、誰もが「おお……」と感嘆の声を上げてしまう程、世界中に名が通っている。数多くの著名人や世界的魔導士を輩出してきた歴史と実績がこの学園にはあるのだ。
歴代の卒業生の名前を並べてみれば、どんなに世論に疎くとも知っている名前の一つは必ず出てくると言われている。
高い指導力を持つ教師陣と充実した校内環境が優秀な生徒を育む基盤となっており、毎年入学希望者が殺到し、倍率は例年10倍~20倍の間で推移している。グリフォルス魔法学園は中等部も存在し、そこからのエスカレーター組と一般入試で合格した入学組とが高等部からは入り混じっている。
そんなエリート校に通っているという事実。実はそれがセンリを悩ませる一番の要因になっている。
とぼとぼと歩いているが、歩いていればいつかは目的地に到着してしまうものである。授業開始の数分前、センリは重い足を引きずりながらも目的の教室へと到着した。
教室のドアを開けて中へ入る。当然クラスメイトがすでに各々の席に着席して教師がやってくるのを待っていたのだが、センリが教室に入るとやや空気が陰湿なものへと変わったような感覚がした。それはセンリが暗いオーラを放っているから――ではない。この状況はセンリにとってはもう当たり前の事なのであった。
そんな空気を出来る限り無視するように、センリは決められている自席に向かい席に座る。
その数十秒後、この時間に行われる授業を担当する教師が教室に入ってきた。
「よろしくお願いします」
クラス委員長の女子生徒がそう言い、他の生徒もそれに続いて教師に対して挨拶の言葉を口にする。いつもの挨拶が終わったのを確認すると、教師は早速授業を開始する。
「今日は前回予告していた通り、召喚魔法の基礎のおさらいをする。高等部にもなってまだ基礎を行うのかと思う者も多いだろうが、基礎なくして魔法力の成長は無い。基礎を疎かにせず、きちんと行うことが各々の成長に繋がると知っておいてくれ」
そう言うと教師は一枚紙を取り出し、さらさらとペンで模様を描いていく。幾度となく書いてきたものなのだと一目で見て分かるほど素早く、そして正確に模様を描き上げた。
教師が紙に書いたのは円の中に簡素な文字やいくつかの図形のようなものが配置してある図であった。
「今私が描いたこの魔方陣が最もポピュラーで簡単なものだ。そう、まさに基礎中の基礎だな。中等部でも習うものだ。そこでおさらいだ。召喚魔法とは異世界から使役したい召喚生物を呼び出す――そういうものではない。異世界などといったあるかも分からない所から召喚生物は呼び出せない。ならばどういう原理で召喚魔法は成立しているのか? 委員長。答えられるな?」
教師に当てられたこのクラスの委員長は席から立ち上がる。
「はい。召喚魔法とはある種、創造魔法に近いと言えます。自身の持つ魔力を魔方陣を媒介する事によって生物の形へと具象化し使役する。それが召喚魔法の原理です」
答えられて当然と言わんばかりに胸を張り、己の持つ知識を口にする委員長。教師もその回答に満足したのか、笑顔で着席するように促す。
「その通り。召喚魔法とはそういった原理で成り立っている。つまり、己の魔力を認識し、形を作るように魔方陣へと流し込む。魔力のコントロールの基礎が養える魔法ともいえるわけだ。こういう風にな」
すると教師が描いた魔方陣から炎を纏った小鳥が飛び出してきた。
その小鳥は教室の中をぐるぐると飛び回った後、散るようにしてその姿を消した。
「まあ、下級に属する今の召喚魔法は比較的誰にでも扱える。だが、上級魔法、あるいは大魔法に属する召喚魔法は世界にも扱える者がそういない。だが、基礎が出来ていなければそこに至る事すら出来ないという訳だ。この事からも分かるように、基礎を怠る者は何事も成す事は出来ない。という訳で今から君たちにも私と同じように召喚魔法を使ってもらう。基礎ではあるが、只使うだけでは簡単すぎるので、それを自分ができる限りの時間この場に留めてみなさい。今日は魔力のコントロールと維持の授業だ」
教師に促され、生徒たちは一斉に紙に魔方陣を描き始める。先ほど教師が描いたものと同じものである。
流石に有名学園の生徒たち。誰もかれも正確に、手早く魔方陣を完成させる。
完成させた生徒たちから順に、続々と炎を纏った小鳥が召喚される。しかし、どれも全く同じという訳ではない。姿形はそれぞれ微妙に異なっている。これは召喚魔法が創造魔法に近いという証拠であった。各々想像して創造する形が違うということである。
「よし。良いぞ。その調子で全員召喚生物を維持しろ」
生徒たちは自身の目の前に炎を纏った小鳥を羽ばたかせ、その場で存在が消えないように維持することに集中する。
召喚魔法は一定時間経過すると魔力が形を留めておけなくなり散ってしまう。だが、術者がその形を維持するように魔力を操作し続ければ、集中力と魔力が切れない限り存在を留めておくことができる。これを意識せずに行うことが出来るようになることこそベストだ。基礎がしっかり身についたという証拠になるのだから。
教師は教卓から離れ、ゆっくりと歩きながら集中する生徒を確認していく。
高等部の生徒ともなれば、これくらいのレベルの魔法はまるで問題なく行使することは分かっている。だからこそ基礎を疎かにしているような生徒がいないかの確認の為に今回の授業内容を設定したのだ。
なんといってもこの学園は他の大陸にもその名が知れ渡っている伝統ある学園なのだから。お粗末な生徒は許されないのだ。
しかし、そんな事を考えている教師の頭を悩ませる者が一人、この教室にいる事を誰もが知っていた。
教師は淀みなく進めていたその足を、とある生徒の前で止めることになる。
その生徒の机の上には綺麗な魔方陣が描かれている。これだけを見ればなんら問題はないように見えるのだが、実は違う。
召喚魔法で使用した魔方陣は、効果が発動すると同時にその役目を終えて消失するのだ。つまり魔方陣が残っているということは魔法が行使されていないことを意味する。
教師は少しため息をついて、その生徒――センリ・クロウリーに問う。
「センリ・クロウリー。召喚魔法を使いなさい。これでは授業にならないぞ?」
そう問われたセンリは、教師の方を見て困ったような顔をしながらその問いに答える。
そしてその答えはこの教室にいる者ならば誰もが予想し得たものであった。
「召喚出来ません」