卒業哀歌
過ぎ去った「かくも遠きわが青春」に、黙祷。
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3月上旬。
だと云うのに、周囲は異常な冷気に覆われていて、肌に針が刺さっているかのような痛みが走る。
――或いはこれは心が寒い、痛い、と思っているのかもしれないな。
一向に肌感覚がマヒしないで痛みを感じ続けている。そう考えたほうが自然かもしれない。
ぼくは何とも言えない感傷に身をまかせながら駅へと歩いている。三条京阪。京阪電鉄と地下鉄東西線が交差している場所へと。
「この、心地よくも気持ちの悪い、虚脱とも充足ともつかない感覚よ……」
何気なく呟いて見せる。
「ああ、うん、それな。わかるわかる」
となりを歩いていた三河<ミカワ>が返す。いま自分と一緒に居るのは彼だけだ。
「いろいろあって、解ってたつもりだったけど、なんとも名前をつけがたいこれ。なんなんかなぁ」
「さぁ?年取ったらわかんのかもしらんね」
――ああ、でも。もしかしたら怖いのかもしれん。終わっちゃったのが。
三河のその言葉に、ああ。と零す。
そうかもしれないな、そう思って、上を見上げる。
そこには去年と変わらない星空があって、でも見えているのは確実に違うものだった。
今日は、自分たちの記念すべき高校卒業式があった。
去年の自分は高校生。今の自分は、宙ぶらりんの無所属だ。
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すっきりとした目覚めだった。ネボスケの自分が時間通りに起床を果たしたことは、つまり自身の緊張の表れにほかならない。
シャッ、とカーテンを開けば快晴とは言い難い晴れ模様。この位が丁度よいのだ、と思った。
朝食を食べて、鞄を整理し、寝巻を脱いで、昨晩の内に用意されていた制服を手に取る。
――ふぅ、と。軽く息を吐いて袖を通した。
丁寧にブラッシングされた上着を掴みあげ、襟元の校章学年章を確認。金に輝くローマ数字の“Ⅲ”と、金紺で構成された弓形の校章を調整する。
「……」
無言で上着を着て、鞄を肩から提げ、呟くように宣言する。いってきます。
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退屈に卒業式は過ぎてゆく。
ひたすらエライ人達のありがたい言葉を拝聴し続け、漸くプログラムは中ほどへ。
最も大切な瞬間がきた。
「卒業証書を、授与される者」
自分たちの学年を率いた恩師達が、各々が担任を務めた生徒たちの名を呼ぶ。
返事をして、卒業する者たちは壇上に上がる。同時に座席に座っていた者が壇上のそばへと控える。
卒業証書を受け取り、学校長と握手を交わす。受け取る時は恭しく。手を握る時には対等に。
彼らは自分より一足先に大人になったのだ。座りながら、光の中を歩く“彼”を見やる。
自分より先に壇上に上がった者たちが誇らしくて、妬ましくて。でも、そこに居ることに、「それ」を受け取ったことに同情を覚える。
成長とは時を渡ること。
時を経ることは即ち老いること。
おかしな話だが、ぼくにとって「それ」を持つことは、急速に死に近づくことだった。
――遂に、自分の番が来る。
ため息とともに席を立つ。籍を発つ。
落胆か、それとも安堵か。或いは、鼓舞だったのか。
恩師が己の名を呼ぶ。
心をこめて声を張る。
一歩一歩、段を踏む。
遂に光溢れる檀上へ。
校長が名前を告げて。
自分はそれに応えて。
差し出された自分の未来を手にした。
――おめでとう。
――今までありがとうございました。
☆★☆
我らが母校には卒業生たちの為にホテルの大部屋を一つ貸し切って卒業を祝う伝統がある。
ほかならぬ、卒業生たちの保護者達が実行者だ。
「では、卒業生たちの明るい未来を思って、乾杯!」
どこぞのお偉いさんが長ったらしい独演を披露した後。そう言って締めくくった。
――チン。
澄んだガラスの音が響く。
同時に運ばれてきた料理に手をつける。
美味い。
当然と云えばそうだが、料理本来の味以上に美味く感じた。
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卒業生のためのパーティーも中盤。司会者からサプライズが発表された。
スライドショウが流される。担任団からの生徒へのサプライズ。タイトルは「キミたちの軌跡」。
学校行事の写真を曲と共に入れ替えてゆくだけの簡素な仕掛け。
だからこそ。むき出しの言葉が、想いが突き刺さった。
嬉しくて、悔しくて、なにより寂しくて。
涙を堪える。意地っ張りな自分がまだ子供なんだと再認識する。まだ子供なんだと訴えている。
子供だから、そんなことでは何も待っちゃくれないことに気付かない。
大人になって、結局涙は流さなくて。ふと皆と同じ方へ顔をむけると、可笑しな衣装の担任たちが会場の外から入ってきた。
同時に流れ出す、若者に人気のアイドルユニットの代表曲。体育祭でとあるクラスが流した応援歌。
イイ大人が五人。生徒たちの前で壇上に上がってきて、アイドル達のまねごとをする。
踊って、舞って、振り付けをまねて。よく見ると服装がアイドルたちに似せてある。
妙に堂に入った動き。
こんなアホなことに練習時間を費やしたのか。皆あきれ顔で笑っていた。
なんだか、いろんなものがキラキラしだした。
☆★☆
結局、パーティーは陽が空から消えようとする時に終わった。
ここで一年間付き合ってきた“クラス”は解散。
これからは各々がその行動を自己決定するのだ。
ぼくは三河を誘って、更に数人の友人も巻き込んでカラオケに行くことにした。
無性に遊びたくて、コイツラともう少し一緒に居たかった。
ここで別れる奴らと軽い挨拶を交わす。じゃあ、またな。
木村が会場から歩いてきた。彼は「ここで別れる奴ら」の一人。
三河と二人で話しかける。共通の友人なのだ。たまに三人でつるんだりしていた仲。
予定が合わなかったらしく、申し訳なさげに笑っていた。
二、三言葉を交わす。ふ、と二人で右の掌を肩のあたりで掲げる。左右に振って、お別れのジェスチャー。
――パチン。
直後に二つの手が合わさる。じゃ。短い言葉と共に背を向ける。
――パチン。
背後で同じ音が響いて、三河がぼくに並んだ。
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ふと視線を前に戻す。カラオケ屋からでて、そのメンツでファミレスになだれ込み、夕食を摂ったのがついさっき。
他の奴らはボウリングに行くとのことで、こうして二人、寒い歩道を歩いている。
「怖い、か」
しっくりくるな、と思った。
成長することへの恐怖。未熟であることへの恐怖。別れを繰り返すことの恐怖。
節目、というのはそれまでの自分を省みる契機なのだ。
自分の目的と照らし合わせて、自分の位置を再確認。自分の努力を再評価。
ステージ2クリア。リザルトは……――。
理想かかぐ若人なればこそ、その時に訪れる恐れは大きくなる。
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歩道を歩き続ける。三条京阪は夕食を摂ったファミレスからは歩いて行けるが、決して近くはないという微妙な位置にある。
歩きがてら、話をする。
必然、それは将来の話に帰結する。
「無謀かもしれないけどサ、医学部、頑張るよ」
「研究者になるために、遠いところを受験する。ゆくゆくは外国に、かな」
それはこれまでもされてきた会話。
今だからこそ、違う意味を持つ会話。
“終わり”を終え、故に次の“始まり”を迎える希望の蕾。
三条京阪は、やはりそんなには遠くない所に在った。
☆★☆
三条京阪に至る前に、鴨川を渡る必要がある。
一級河川に指定される鴨川の幅はなかなかのもので、そこそこ大きな石の橋がかけられている。
川縁の道は開けていて、寒い。三河と二人、コート越しに熱を奪う風に不平を漏らす。
――♪♪、~~♪、……~♪
男性の歌声とギターの音。見やると、マイクスタンドを立ててギターを弾いている青年がいた。
足元には「9曲入り、1500円」と書かれた紙と数枚のCD。
上手だった。なにより、己の夢に邁進する姿が貴く思えた。
あのCDが欲しいな、と思った。同情ではなく、むしろ尊敬ゆえに。
1500円。決して痛手ではない。
☆★☆
結局、男性の曲を自分が手にすることはなかった。
気がむいた時、男性がすでに歌いだしていた事もあるし、単純に路上の商品を買うことを恐れたと云う事もある。三河がどう思うかを気にしたと云う事も。
――取り繕おうとも、自分が彼を見捨てたことには変わりない。
音楽で身を立てるのは難しかろうに。
逃げるように駅の階段を下りる。自分の家は国際会館が最寄りだ。東西線から烏丸御池で、京都を縦断する地下鉄烏丸線に乗り換える必要がある。
一方で、三河の家は烏丸御池とは全く逆側にあった。
つまり、ここで自分は最後の友人と別れを告げる訳だ。
☆★☆
改札を通って、ホームへの階段を下りる。
構内には人がほとんどいない。どうやら両方面の電車は共に直前で行ってしまったらしい。
まったくもって不運なことだが、今回に限って極めて幸運だった。
「にしても」
呟いた。今日はどうもセンチメンタルな気分が続いている。
「終わったんだなぁ。これで最後なんだなぁ」
紡いだ。伝わるのかな、と思った。
「……おう」
三河は汲み取って、言葉少なに応える。
しばしの無言。拡散した言葉や想いの余韻を楽しむ。きっとこれで最後。
☆★☆
別れが、迫っているのが解る。
先ほどから構内に人が少しずつ増えている。経験則では後三分ほどでどちらかの方面の電車が来るはずだ。
ホームのどちら側に立つわけでもなく、ぼくと三河は階段を降りてすぐの場所、そのど真ん中に陣取っていた。
他愛の無い会話をする。
何も大切なことは、特別なことは話さない。そして最早そんな物は残っちゃいなかった。
――どちらかが、どちらかを見送るまで。
独特の、琴を弾いたようなメロディが流れ出す。別れの合図。
「……」
「……」
二人、耳を傾ける。どちらだ。
果たして、先にこの場を離れるのは三河だった。
「ああ、そうなるのか」
言って、三河に向き直る。先ほど、何を言うべきか決めていた。
「さようなら、だ」
と。
ぼく達は友人との別れの言葉に「さようなら」を使うことは意外と少ない。
たいては「じゃあ」とか、「バイバイ」とか、「また明日」で済ませてしまうからだ。
これはぼくの極めて個人的な意見なんだけれど、「さようなら」という日本語には強い離別のニュアンスが込められているんだと思う。
だから、ぼく達は無意識に「さようなら」を避ける。もう会えない、だなんて縁起でもないから。
だからこそ、ぼくは「さようなら」を選んだ。決別の言葉。離別を惜しむ、最後の言葉。
「おいおい、また会う事も普通にあるだろう?」
流石に、今回は伝わらなかったみたいだ。
ニヤッと笑って、人差し指を立てる。コートを羽織った三河の、胸元。その間から覗く制服の上着の生地を指して、二度、トントンと押す。
「おっと」
大げさによろけて、三河はおどけて笑う。伝わった。
「……おう」
互いに微妙に笑い顔を変化させる。自然と上がる両者の右手。
――パシン!
ぶつかり合う手の平。小気味良い感触と共にくるりと背を向ける両者。片方は列へと。片方は扉へと。
振り向くまい。思って、プーという電子音とプシューという空気音。扉が閉まった。
でも。やっぱり。
バッ、と振り返ってしまう。どうしても、やっぱり振り向いてしまう。
人がたくさん乗っている車内は、煩雑としていて、三河が何処に居るかわからない。
そりゃそうか、と思う。そりゃそうだ。もう一度。今度は呟く。
乗り込む時の三河の姿を追っていなければ、去っていく彼を見送る事なんて出来やしない。
それが、選ぶってことなんだから。
☆★☆
ほんの戯れに、自分たちが降りてきた階段に目を向ける。何が次にやってくるのか、見届けようと思った。
最初に来たのは三人組の大学生だった。楽しそうにしていて、青春を満喫しているようだった。
こりゃ出来過ぎだな、と思わず噴き出した。
次に来たのは、一人の会社員だった。黒革の鞄を脇に抱えている。どうも、その鞄はあまり使いこまれていないようだった。
彼の疲れ果てた顔に仄暗い感情を燻らせた。
そして、次に来たのは夫婦と思しき二人組。
そこにいる、突如現れた登場人物に面食らい、見てはいけない物を見た気持ちになって前を向いた。
同時に鳴り始める琴のメロディ。本日二回目の、別れの旋律。
妙にほっとした気分で前を向く。
電車が到着。
何気なくそこを見やって、開いた扉から現れた老人の男性に思わず目をそむけた。
よわよわしい風体、杖なしに身体を支えられない無力の権化。
過ぎ去ってゆくのを待ち続ける。
この駅で降りる全員が車内から降りた後、急いで車内へと逃げ込み、空席へと腰を下ろす。
見やると、靴紐がほどけかけている。軽く息を吐きながら、何となしに前の座席に視線を移し、
そこには、娘らしき女性と楽しげに話す老人がいた。先ほどとは別の老人。
娘がいないと出来ないことだった。
娘が成長しないと出来ないことだった。
思わず笑い出した。声を押し殺して笑い転げた。視野の狭い奴め、と指さした。
もう一度足元をみる。こんな風に足元がお留守なのでは進んでゆけないだろうに。何故今自分は見逃そうとしたのだろう。
ギュ、と固く固く靴紐を結ぶ。
顔を上げて、思う。ここから烏丸御池まではたったの二、三駅。気なんか抜いているヒマはない。
言っている間についてしまう。何とめまぐるしい事か。でもその次はそこそこ長い。国際会館は烏丸線の終点なのだ。
自分は最後の最後まで行き続けなくてはならない。
――キュォオ
独特の機械音が響き、列車が進み始めた。
あなたが「国際会館」に着くまでに、どれだけの時が残されていますか?
成したいことはありますか?
そのヴィジョンはありますか?
「ない」と答えたあなたは、少しでも良い。「焦燥」を感じてください。
「ある」と答えたあなたには、もう一度考え直すことをお勧めします。
そうしてもう一度「ある」といえたなら、あなたはもう、幸せをつかむ掌を開いています。
さぁ、手を伸ばせ!