表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雪の子

作者: 藤眞

 あれはとても寒い日の夕方で、一本の電話から始まった。仕事の帰りが遅い母の代わりに義父が夕飯を作っているとその電話はかかってきた。

ぼくはと言えばリビングのソファーに寝そべって視線を動かすだけだ。机の上には義父が先ほど安売りで買ってきた節分の豆がある。カーテンを閉め忘れた窓からは、庭先に広がる暗闇でぽつぽつと浮かぶ椿が見える。

 暫くして養父の声色が変わった。時々聞こえてくる相槌が何か良くないことを物語っていた。聞こえる距離ではないとわかりつつも耳をすましてしまう。受話器が置かれるまでの間、時計の音がやけに大きく聞こえた。

 電話を終えても彼はその場を動かなかった。ただ、目の前にある白い壁を見つめていた。

 どうしたの。そう声をかけようとした時、彼の唇が動いた。声は出ていなかったが、確かにこう言っていた。

「しんだ」

 電話は、母が仕事中にくも膜下出血で亡くなったという知らせだった。ぼくがどんなに待っても、もう母は帰ってこないのだ。

 こうして我が家には白と黒の幕が下ろされることとなった。

 

 人の死と向き合うのは二度目である。一度目は兄の死だ。しかし幼かったせいもあってほとんど覚えていない。唯一思い出せるのは兄の通夜で見た母の目だ。母は蛇のように切れ長で大きな目の持ち主だった。その目を赤く腫らしながら、ぐっと力を込めて棺を見つめている様は今でも忘れられない。それが泣いているようにも怒っているようにも見えたものだから、ぼくはなんだかとても辛くて母の顔を見ないように通夜も葬式も俯いていた。

 母の弔問に訪れた人を迎えながらあの時の母と同じ目を持つ人を探してみた。涙を浮かべる目。虚ろな目、気持ちを隠している目。色々な目があった。けれどもあんなに強く感情を表している目の人には出会えていない。

 次第に腹の底からこみ上げるような吐き気を感じた。線香の香りに酔ったのかもしれない。そう思って外の空気を吸いに出てみると、上空に広がる厚い雲がぼくを見下ろしていた。

 玄関の戸にもたれて空を仰いだ。あれは雪雲だろうか、なんて考えていると白いものが降り始めた。ぼくは思わず身震いをして両手で自分を抱きしめた。

吐き気はすぐに治まった。だけど澄んだ空気が心地よくて、もうしばらくここにいたかった。雪の降る空へ白い息が消える様を見ていると気持ちが落ち着いていく。

 ひとつ、またひとつと消えていく雪を眺めていると、離婚して離れて暮らしている父の姿を思い出した。まだ一緒に暮らしていた頃、父さんは雪を夢みたいだと言っていた。不確かな存在とも言っていた。そんな父は今、どうしているのだろう。

 離婚寸前だった二人の仲を完全に裂いたのはぼくと兄の交通事故だった。あの日も雪が降っていた。父は知っているのだろうか。夢のように、母の命が終わってしまったことを。

 上げていた視線を下ろすと、門の前に誰かが立っていて道路をじっと見つめていた。短く切り揃えた髪、青いスニーカー、黒のジャケット。ぼくよりも少し背が高そうだ。男の子かな。外へ出た時には気づかなかった。いつの間に現れたのだろう。

「何してるの」

 呼びかけに応えるように、男の子の目がぼくを捉えて目を細めた。ぼくは思わず息をのんだ。彼の目は切れ長で大きい。まるで母の生き写しのようだった。

「きれいだよ」

男の子の手は軽く持ち上がると、軒先にある街灯の下を指した。そこには街灯の白い明かりがスポットライトのごとく地面の上に広がって小さな舞台を作っていた。ただの雪も、その中では踊っているかのように舞っている。

「ああ、きれいだね」

 家は田畑に囲まれていて、こんな時間に外へ出ている人はいない。ぼくら以外にこれを見る人がいないのかと思うと少し勿体ない気がした。

 ここはただでさえ静かな町だが、雪が降るとそれに輪をかけたように静かになる気がした。時折そばにあるバイパスを通る車の音が聞こえてくるけれど、それも雪の日だけは遠くの世界の出来事のように小さく響くだけだった。

「家に帰れなくなったの?」

 ううん、と彼は髪を揺らした。その瞬間、草木独特の青臭く甘い香りが鼻先をかすめた。

「ぼくはここにずっといたよ」

「ずっと?」

「ここにいて、ずっときみを見ていたよ」

 何をわからないことを言っているのだろう。冗談だと思って軽く笑ったものの、どこか笑えなかった。少し、鼓動がうるさくなったような気がした。

 帰れよ、そう言って男の子の左肩を突くと、先ほどと同じ匂いが鼻腔をくすぐった。その匂いを嗅いでいると胸が苦しくて、懐かしくて、悲しくて、切なくて、そして愛しくて。感情の波がぼくを襲う。体の中をぞわりとしたものが這った。

 逃げるように身を引くが、小さな手に腕をとられてしまう。

「母さんはもうここにはいないんだよ。だから、一緒にいこう」

 彼は目を細めて口元を緩ませた。その笑顔から掴みどころのない恐ろしさを感じるが、母によく似た目を見ているとぼくを安心させようとしているようにも思えた。

 いくってどこに。お前は何者だ。喉元まで出かけた言葉を飲み込む。問いかけの先にある答えを聞いたが最後、ここには帰ってこられないような気がしたからだ。

 ぼくは手を振りほどいた。一緒に、いこう。その言葉が頭の中で繰り返されるたびに胸の中で何かがつぎつぎと剥がれていくのを感じた。それはとても心地よくて、とても怖い。剥がれた痕に、雪が白くて冷たい光の粒になってそっと寄り添うように降ってくる。

 きらきらと輝いてとても綺麗だ。そうだ。あの日もこんな風に雪が降っていて、綺麗だと思ったのだ。

 白い照明の中で記憶の舞台は動き出した。母とぼくと兄。銭湯の帰り道、手を繋ぎながら三人で歩いていると雪が降り始める。ぼくは雪が嬉しくて、母が綺麗だと喜ぶのも嬉しくて、ふざけて走り出してしまった。それを追いかけるように兄も走った。そこからは断片的な記憶。叫ぶような音を聞くと、体がふわっと浮いた。それも一瞬で、すぐに体が痛くなる。兄の手が見えた。兄の体は見えない。ぼくは動けない。白く染まり始めた道の上へ広がる赤。あれはなんだろう。母さんの好きな花の色みたいだね。母さん。どうしたの。泣いてるの。怖いことあったの。そばにいるよ。泣かないで。

 全て、思い出した。

「兄ちゃん」

 どうして忘れていたのだろう。そうだ、彼は兄だ。死んだのは兄ちゃんだけじゃなかった。ぼくも、死んでいた。

「きみが母さんのそばにいてくれたみたいに、ぼくもきみを見守っていたんだよ」

 冷たい風を頬に受ければ痛い。鼻の奥が冷気でツンとする。乾いた空気が喉の水分を奪ってむせる。気持ちがこみ上げてくれば唇を噛んで堪えようとする。この感覚は確かに生きている人間そのものなのに。

 笑ったよ。父さん、ぼくもまるで雪じゃないか。止まった時間の中で、生きている夢を見ていたんだ。醒めたら消えてしまう、不確かな世界にぼくはいる。

 地面を薄く染めている雪を掴もうとした。

 けれど何度試したところで雪は姿を変えずにそこにいた。冷たくもなかった。次に膝をついて地面を殴った。しかしどれだけ力強く拳を振り下ろしても空しいだけ。血も痛みも、活きている証拠は何一つない。

 本当に死んでいるんだね、と呟いた。震える声が空へ上っていく。ぼくが殴った地面の上には、雪が静かにその身を重ねていく。

 兄ちゃんがぼくの手をとって両手で包み込んだ。目に映るのは、小さな手がより小さい手を包み込んでいる光景。ぼくの手はこんなにも小さかったんだ。誰にも触れられなくて、自分の姿を見ることも忘れていた。止っていた時間が今、動き出そうとしている。

「待たせてごめんね」

 兄ちゃんを抱きしめると、彼はあの甘い匂いだけを残して消えていった。この匂いの正体も今なら思い出せる。

 足は庭へ向かった。そこには生前に母が育てていた椿の赤い花が首を傾けていた。この家にやってきてすぐに植えられたこの木を、母はとても大事にしていた。


言葉が降ってくる。思い出が降ってくる。ゆらゆらと、ぼくのところに舞い降りてくる。

「母さん」

愛しい日々。今は亡き人。思いを包み込んで、雪は降り続ける。ぼくは何度も目をこすった。こするたびに袖が濡れていくのは、雪のせいだけじゃなかった。

「母さん。兄ちゃん」 

もう雪は積もり始めていた。夜が明ける頃には、この世界を白く染めているだろう。

ぼくは声をあげてむせび泣いた。いいんだ。どうせ声なんか聞こえないんだから。ぼくは、小さな子どもなんだから。

 かちかちと音を立てて街灯が点滅した。舞台はここでおしまい。ぼくもそろそろ幕を下ろさなきゃ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ