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猫とワルツを  作者: ピジョン
第3章 愛が流れる
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第8話 愛が流れる

◇ ◇ ◇ ◇


 他の部隊との接触を避けるため、国境付近の警戒と称して、街道に一時、アキラ直属の第七連隊を集結させる。

 そこで第七連隊への事情の説明が行われた。


「レオ、やれ」


 アキラが首をしゃくる。

 第七連隊の副長に就任以来、作戦の説明は先ず、俺の口を通してはじまるのが通例だ。


「いいか、馬鹿共! よおく、聞け! 今、サクソンでは我らが皇帝陛下が、意識不明の重体だ!」


 その俺の呼びかけに対し、馬鹿共の反応は様々だ。

 それが? という者も居れば、俺の雰囲気から抜き差しならざるものを感じ取る者もいるようだ。

「サクソンでは、今、フォン・カロッサの悪党どもが、この機に乗じ、不逞にも玉座を狙って蠢動している! これから俺たち第七連隊は『中将』の統制から離れ、独自の判断で反転、一路サクソンを目指し、必要とあらば、これと一戦する!」


 この時点で、鈍い者も聡い者も、事情を理解したのだろう。部隊全体が困惑したようにざわめき立った。


「まじかよ……!」

「独自のって、おい、それって!」


 杖を振り回し、俺は力の限りがなりたてる。


「騒ぐな! 馬鹿野郎共! そんなに難しい話じゃない! 一旗上げたいやつは、大将について来い!」


 この判断は命懸けとなる。反逆者と見做され、失敗すれば破滅は避けられない。


「命知らずの馬鹿野郎だけついて来い! 勝てば全ては思いのままだ!」


 水を打ったように、辺りが静まり返る。


 そして――


「かぁー……死ぬまで馬鹿は治らねぇって、言うしな……」

「乗るか、反るか……おもしれぇ……」


 ぽつり、ぽつり、と湧き出す不埒ながらも心強い、奮起の声。


 つっ、とアキラが歩み出る。小さな身体に、力を漲らせ、叫んだ。


「おまえらっ! 稼ぎ時だ! しっかり稼ぎな!!」


 部隊全体に、アキラの覇気が染み渡って行くような気さえした。


 一瞬の静寂の後――


「「「おおうっ!」」」


 叩きつけられたアキラの鋭気に反応するように、皆異口同音に、叫び、剣を振り上げる。

 不敵な笑みを浮かべ、胸の前で拳を握るアキラの肩に、そっと手をかける。


「第七連隊、1700名……。準備出来ました」


 しかし、しっかり稼げ、はないだろう。それは傭兵を鼓舞するやり方だ。


「おまえがいつも、やってるからな。ボクも一度、やってみたかったんだ」


 雪がちらつく曇った空の下、アキラは蒼天のように晴れ渡った笑みを浮かべる。


 緊迫の空気から一転した雰囲気の中、お祭り騒ぎになりだした馬鹿共を満足そうに見やるアキラに、そっと耳打ちする。


「第五、第八連隊は、どうなさいますか?」

「いらない。この第七連隊が、ボクの翼だ」


 かくして、第七連隊は『軍団』の統制を離れ、単独で首都サクソンを目指す運びとなった。


 行きは旅次行軍のゆったりとした道程であったが、これより先は強行軍となる。

 装備を軽易にし、カタパルトやバリスタ等の兵器は捨てて行く。

 当然だが、動員される兵員が多ければ多い程、行軍の日程は増加する。『軍団』と『連隊』ではその移動速度は全然違う。

 アキラが第五、第八連隊の帯同を嫌ったのは、好き嫌いの問題ではない。

 可能な限り、迅速に行軍し、首都サクソンまでたどり着くことが出来れば、少数でも十分に勝ち目はある。そう見越してのことだ。

 問題は――


「アキラ。フォン・カロッサは、どれぐらいの兵力を糾合できるでしょうか」

「『軍団』に門閥貴族のバックハウスがいるくらいだ。むこうも取り込みには苦労しているんだろう。よく集めて……一個師団というところかな」


 イザベラがこの出征に参加している理由は他にも考えられる。アキラが上げたように、カロッサが門閥貴族の取り込みに手間取っていることが一つと、もう一つは、彼女が未だ爵襲も領襲――爵位と領土の譲渡――も済ませていないことと大きな関係があるだろう。

 実権の伴わないイザベラに用はない。そういうことだ。


 イザベラか……。

 彼女に会うことは、もう無いだろう。俺が知っている女性の中では、最も美しく、最も女性らしかった。

 利用するだけ利用して、捨てて行く形になった。

 違う出会い方をしたならば、違う関係もあったのだろうか……。


 頭を振って、その思いを追い払う。


 街道を真っすぐに首都『サクソン』を目指す第七連隊は強行軍の日程だ。休日を廃し、休息を減らしての行軍となる。

 カタパルトやバリスタ等の兵器を破棄した第七連隊であるが、馬車等の移動車両については、指揮系統を解体した第五連隊から接収し、数を増やしてある。

 そのため、動員している騎士は騎乗の者が多く、驚異的な速度で行軍を進めている。

 拘束していた第五連隊の仕官たちは、程よい場所で解放した。皆一様に途方に暮れていたが、アキラから、

「荷物は捨てて行け」

 との命令だ。可哀想だが、しょうがない。

 俺とアキラは、消耗を避けるため軍用馬車で行軍する。これにはエルも同行している。道中、下車し、近くの山村で迎えを待つよう命じ、これにはアキラも賛成したが、エルは頑として聞き入れなかった。

 エルは、俺にだけそっと耳打ちして来る。


「少佐……絶対、逃がしません……」


 やれやれだ。

 げに恐ろしきは女の情念ということだろう。それにしても命懸けになるというのに。


 クリソベリルキャッツアイ――『猫目石』の石言葉は驚愕。そして、心変わり。

 エミーリア騎士団の統制から外れ、脅威的な速度で首都サクソンに進軍。

 今はもう、旅団ではないが、名称にこの名を用いたアキラは、ここに至るまでの道筋を、最初から構想していたのだろうか。


 アキラは、首都サクソンを直前にして、一度進軍を停止し、部隊の編制を行う命令を出した。

 フォン・カロッサと一戦交えるとしたらここしかない。

 戦略上の要衝に差しかかったためだ。


 放った斥候の報告では、サクソンへ通じる街道の開けた場所に、準旅団クラスの軍勢が陣を張り、待ち受けているという。

 その軍勢の旗印にはアスペルマイヤー家の家紋が刻まれているらしい。


 軍勢の指揮官は、アスペルマイヤー伯ジークリンデ。


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーだ。



◇ ◇ ◇ ◇



「なにぃ……?」


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーが、首都サクソンを背に、陣を張っている。

 斥候からのその報告に、俺は、ひたすら困惑した。


 その一方で、その知らせを受けた瞬間、アキラは膝を打って、大笑いした。


「あははははははは! あのバカ犬、ホンとにやっちゃったよ!」

「え――?」


 アキラが何を言ってるか理解出来ず、俺は絶句した。


「くふふふふふ! レオ、何を驚いているの? 後ろにヤツが居ないんだから、前から出て来るのは当たり前じゃないか!」


 アキラは笑いが止まらぬ様で、正しく抱腹絶倒の勢いで笑い続けた。


 街道を封鎖するようにして展開している第七連隊の仮設本陣で、ぽかんとする俺。

 斥候の騎士が不可思議な表情を浮かべ、去ると、アキラは、なおさら笑い狂った。


「フォン・カロッサは、もういない! アスペルマイヤー、ヤツは本物の反逆者さ!」

「何を……」


 喉が渇き、そこから先が言葉にならない。


 つまり……こういうことか?

 単騎、サクソンへ向かったジークは、私兵を以てフォン・カロッサ一党を誅し、実権を手中にして……しつつある。

 これが可能か、と言われれば可能だ。

 要塞攻略に参加していた以上、カロッサがジークを危険分子の一人と見ていたことは疑いない。

 だが、ジークはアスペルマイヤー伯だ。家督を持つ有力な門閥貴族だ。カロッサからすれば、喉から手が出るほど協力は欲しかろう。その意図を利用して、カロッサに恭順の意志を見せ、近づき、隙を突いて行動に至る。

 この方法は騙し討ちだ。誇り高いジークが、好んでその方法を用いるとは思えない。


 アキラが、ジークを唆した?


 笑いに噎せるアキラの表情には、狂気の色が見え隠れしていて――


「ああ、笑った! さあ、アスペルマイヤーを殺して、仕上げだな!」

「ジークが……反逆……なぜ?」


 この急すぎる展開に付いて行けず、ひたすら首を傾げる俺の頬を撫で、うっとりと浮かれたように、アキラは言った。


「なぜって……キミのために、決まってるじゃないか」

「俺…?」

「そうだよ」


 アキラは請け合った。


「全ては、キミのため。ボクにしても、あの狂った狼にしても、この瞬間は、全てキミのために用意したんだよ」

「す、すいません……わ、わわ、わかりません……」


 俺は、アキラもジークもひたすら恐ろしくて、意識せずとも、唇が震えてしまう。


「愛しているんだ!」


 アキラは狂おしく叫び、俺に飛びつくや否や、噛み付くように唇を押し付けて来る。


 腰を擦り付け、鼻息も荒く、獣のような口づけを交わす。

 俺は、されるがままにされていて、この状況を上手く飲み込めずにいる。

 アキラは肩を大きく上下させながら、悩ましげに囁いた。


「愛してる。愛してるんだよ、キミだけを……」

「は、はははい」


 アキラもジークも、俺一人のためだけに国に背き、俺一人のためだけに、これから多くの血を流すことも厭わないということなのだろうか。


 その考え方は――その愛は、俺には到底理解できない。


 嫌悪すら覚え、冷たい汗を流す俺とは違い、エルはいつものように無表情だ。きらきらと瞳を狂気に輝かせ、滔々と愛の告白をするアキラを前にしても、いつもと何ら、変わった様子はない。

 まるで俺だけが、アキラの愛を理解出来ずにいるかのようだ。


「キミだけだ。キミだけが、この世界で価値あるものの全てなんだよ」


 俺は何度も唇を嘗め、渇きからヒリつく喉を潤すため、唾を飲み込む。


「この国を、キミにあげる。ううん、国だけじゃない。ボクも、全部、キミにあげる。受け取ってほしい。愛しているんだ、キミだけを」


 アキラはそこまで言っても、未だ物足りないようだ。ひたすら口を噤んだ俺の様子に、もどかしそうにして――その胸の内、全てを捧げるように、両手を差し出して、小さく首を傾げる。


「足りない?」

「……いや、お、俺は……」


 何度も喘ぐようにして言葉を継ごうとして失敗し、俺は喉元に手をやる。


「気に入らないなら、焼き払ってあげるよ?」


 アキラは、可憐な仕草で胸元を押さえているが、吐き出す言葉は、どこまでも狂気に満ち満ちている。


「遠慮しなくていいんだ。ボクがやってあげるよ?」

「……」


 俺の……アキラは何処へ行った?


 俺が抱いた、アキラ・キサラギは、いつからこんなにも狂っていたのだ?


 幾千、幾万の犠牲を顧みず、アキラは俺のために国取りを考え、俺のためだけに、それすら焼き払ってしまえるというのか?


 アキラは、時代の風雲児などでなく、最初から、狂った、ただの――


「准将……とても輝いて……」


 エルがぽつりと呟いた。


 そうだ。

 この猫の女も、どこかおかしい。

 俺を愛しているというくせに、俺の死にひたすら執着し続けている。


 俺は、いつから、この狂った猫のワルツに身を任せ、踊っていたのだろう……。


 だがもう、俺に引き返す道はない。この命果てるまで、踊り続けなければならない。ここまで来てしまったのだから。


 アキラがコバルトブルーの瞳を狂気の色に輝かせ、身をすり寄せて来る。

 瞬間、背筋に走った寒気に、突き離してしまいそうになるが、ぐっと堪える。

 アキラが言う。


「レオ、ボクに力をくれないか……? この世界で、キミだけが、ボクにそれをできる」

「はい……」


 天を仰ぎ、アキラの身体を強く抱き寄せる。


「アキラ、勝って下さい。あなたを……あなただけを、愛しています」


 この先になにがあるというのか。


 これから俺は、それを見に行くのだ。



◇ ◇ ◇ ◇




 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤー率いる四〇〇〇人弱の準旅団クラスの兵力と、アキラ・キサラギを主将とする第七連隊は、街道の一部開けた平原で相対することになった。

 アキラ・キサラギは遠目に、ジークの軍勢を見つめ、面白くもなさそうに鼻を鳴らした。


「レオ、アスペルマイヤーのやつをどう見る?」

「間違っています」

 第七連隊、副長のレオンハルト・ベッカーは言う。


「こちらは寡兵。本来なら、アスペルマイヤーは『ファランクス』の陣で正面からこれを迎え撃ち、撃砕するのが本道でしょうが、彼女は『レギオー』の陣を敷いています」


 アキラはその答えに、満足そうに笑みを浮かべる。


「うん、続けろ」

「はい。『レギオー』の陣は『ファランクス』にない柔軟性がありますが、その代償として突進力が著しく減退します。それでは、最高の戦士である彼女の能力を十分に活かすことができません」

「おまえの据えたお灸が、よほど効いてるんだろうな。……これにどう対処する?」


 ゆったりと答えながら、その内心で、アキラは狂喜に悶えそうになった。

 レオは、一つ頷いた。


「『ファランクス』を用い中央突破を敢行します。一気に敵本陣を突き、相手の兵力を封殺し、短期決戦を狙います」


 ジークにとっては、因縁の『ファランクス』だ。その効果は、彼女の精神にも少なからず影響を与えるだろう。


 アキラは湧き出した笑みを押さえ切れず、声を上げて笑った。


 これがレオンハルト・ベッカーだ。アキラ自らの手で作り上げた最高の補佐。

 ここまで成るとは思っていなかったのが、アキラの本心だ。

 最初は、どうしようもない馬鹿だった。呑気で、お調子者で、しかも適当だった。


 ただ、本当に素直で、純粋で――


 感受性というのだろうか。彼はそれに優れている。アキラの教えに反発することなく、正しいことは、正しいと、素直にそれを吸収した。成功、失敗に拘わらず、それを糧に成長し続けた。アキラはそれを無心で磨き続け、

 そして、今。

 レオンハルト・ベッカーは、アキラ・キサラギの最も頼りになる副長として、最も愛する男として、常に傍らにある。

 これを喜ばずして、アキラは何を喜ぶのだ。


「ボクもおまえと同意見だ。だが、相手はあの『万夫不当』だぞ? どうやって討ち取るんだ?」


 時を置けば、ジークは兵力を糾合し、兵力差は開くばかりだろう。こちらは寡兵。短期決戦は、アキラにとって望むところだ。敵将を討ち取り、早期に決着を目指すレオの提案は悪くない。

 だが、その場合、ジーク個人の武勇が一番の難問となる。

 レオは言った。


「こちらにも、アスペルマイヤーに劣らぬ無敵の剣士がいます。差し支えないかと…」

「……」


 その言葉の意図するところを感じ取り、アキラは凄惨な笑みを浮かべた。


「ボクだな」

「はい」


 この男は、どこまでアキラを理解してしまったのだろう。

 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーだけは、アキラ自身の手で殺したかった。彼は、それをやれと言う。


「いいのか? やつとは懇意にしていたんじゃないのか?」

「もう、止めません。存分のお働きを……」


 アキラは、これが聞きたかったのだ。

 レオンハルト・ベッカーの口から、あのジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーを殺せ、と。

 優劣ここに決したり。その愉快さに、アキラは思わず笑ってしまう。


「よし。では、ボクが先頭に立つ。おまえは後方で一個中隊を率いて、連隊の指揮を執れ」

「はっ!」


 本人は隠し切れているつもりなのだろうが、アキラの目は節穴ではない。レオの右足は、もう限界だ。

 レオは不調を押してこの場にいる。外ならぬ、アキラのために。その事実が嬉しく、より一層、アキラの狂愛を加速させる。


「レオ。すぐ、ヤツを殺して来るからな」


 その後は、国を枕に存分に愛し合おう。アキラはその言葉を飲み込む。


 まだ早い。


「中央突破を敢行する! ファランクス!」


 レオが大声で下知し、伝令の騎士が方々に散って行く。アキラはそれを見届けて、自らも騎乗し、ファランクス(密集隊形)の先頭に立つ。



 アキラ・キサラギ率いる『ファランクス』とジークリンデ・フォン・アスペルマイヤー率いる『レギオー』は、首都サクソンを間近に控えた平原で、『会戦』の形で相対することとなった。


 部隊同士が『会戦』の形で相対することは珍しい。通常、戦闘と呼ばれるものの殆どが、『攻城戦』か国境を挟んだ『偶発戦』である。

 短期決戦を目論むアキラとしては、望んでもない好契機だ。この『会戦』でジークリンデを討ち取ることが出来れば、おそらくは彼女が手中にしているであろう次代の幼い皇帝の身柄と玉璽を手にすることが出来る。

 後方からは『中将』率いる『軍団』が迫っている。こちらの到着にはまだ、しばらくかかるだろう。だが、のんびりしてもいられない。

 アキラは愛刀『菊一文字』を引き抜くと、切っ先を前方に掲げる。


「全騎突撃! 狼の首を取る! 後に続けっ!」


 決着を前に、アキラ・キサラギは、一瞬、幸福だった。



◇ ◇ ◇ ◇



 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの用いた陣形『レギオー』の特徴は、その柔軟な隊列にある。散開による包囲戦と、必要に応じ隊列を組み替えることで持久戦に優れる。その代償として『ファランクス』のような突進力は削られる。

 前を行くアキラであるが、ジークが直接決着を望まぬのであれば、それはそれでいいとも考えている。その場合、中央突破の勢いそのままに首都になだれ込むまでのことだ。

 ジークの『レギオー』はアキラを先頭とした第七連隊を包囲する動きを見せた。


 アキラは少し、後方に下がりながら、敵兵の相手を取り巻きの騎士に押し付け、詰まらなそうに鼻を鳴らす。


 馬鹿か、こいつ。


 凹形に展開する以上、自然、中央部分は薄くなり、アキラの突撃を機とする結果になる。

 だが――

 その薄くなった中央に、白馬に跨がった一人の騎士の騎影を前に、アキラは思わず手綱を引く。


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーだ。


 反逆者の汚名に塗れて尚、彼女の堂々の気風は衰えることを知らぬようだ。


「やつは、ボクがやる! おまえたちは手出しするな!」

「おうっ!」


 アキラの叫びに第七連隊の猛者たちが応え、ジークと対峙するアキラを囲むようにして、周囲で激しい戦闘が始まった。

 足を止めるからには、第七連隊は包囲される形になる。形勢の不利は否めない。そのため、アキラは必ずジークを討ち取る必要があった。


「やあ、団長。思ったより、早かったね」


 不敵に笑い、ジークは羽根飾りの付いた兜をその場に捨て去る。


「ああ、約束だからな」


 アキラは応え、納刀すると馬から飛び降りる。ジークもこれに応え、下馬する。

 白兵戦。思う存分、やろうということだ。

 アキラは敏捷性の殺がれる重い甲冑を嫌う。故に、この乱戦の最中にありながら、武装は薄い胸当てと愛刀『菊一文字』のみだ。対するジークは白い甲冑に身を包んでいる。

 飛来する流れ矢を鬱陶しそうに刀の鞘で打ち払いながら、アキラは言った。


「幼帝と玉璽は?」

「もちろん、確保してあるよ。じゃないと、団長は私を相手にしてくれないからね」


 ジークは油断なく、手に持ったハルバード(斧槍)を構える。

 アキラは鞘に手を掛けながら、言った。


「おまえの、その余裕ぶったスカした顔が、前から大嫌いだったんだ」

「奇遇だね。私も、団長の顔が大嫌いさ」


 じりじりと距離を詰めながらも、ジークの浮かべた笑みは消えない。


「レオはどこ?」

「汚い狼の血で汚したくない。後ろに置いて来た」

「残念……いいとこ、見せようと思ったのに。でも……やっぱり、安全なとこに居てほしいかな……」

「――死ね!」


 その瞬間、ジークの目には、アキラの姿は三つほどにぶれて見えた。


 両者をよく知るレオンハルト・ベッカーならこう答えただろう。


 確かにジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは強い。まともに戦っては、一個大隊を用いても彼女一人に苦戦するだろう。

 それでも、勝利を収めるのはアキラ・キサラギだ、と。


 瞬時にして距離を詰め、斬撃を繰り出したアキラから危険を感じ取り、刹那、飛びのいたジークは、額に冷たい汗を浮かべた。気づくと、ハルバードの穂先が足元に落ちている。

 ――チンッ! と鞘打ちの音が耳を衝き、ジークは、はっと前方に向き直る。


「いい勘だな、クソ犬。……どうした、笑えよ」

「…………」


 見えなかった。躱せたのは、ただのまぐれだ。以前の、レオンハルト・ベッカーに敗れる前のジークなら、僅かに感じた危険をプライドでねじ伏せ進み、あっけなく切られて終わっただろう。

 今のジークは、己が無敵でないことを知っている。それが刹那の一瞬、彼女の命を繋いだ。


「少しでも踏み込んで来れば、その首をたたき落としてやったのに」


 不敵に笑うアキラだが、その口ぶりほどは余裕がない。

 攻撃に関しては無類の強さを誇る『刀』だが、守勢に弱いという一面がある。一度でも受け太刀に回れば、直ぐに刃毀れを起こし、『居合』も『斬撃』も威力は半減するだろう。そうなっては、ジークの甲冑は断ち切れない。


「す、すごいね、団長。それが東方の剣術なの? 初めて見たよ」


 ジークは息を飲む。

 不利だ。圧倒されている。アキラ・キサラギの戦法は、ジークにとっては謎の固まりだ。東方の剣術もそうだが、納刀されたままの『刀』は間合いが読めない。先程の歩法も何かおかしい。姿がぶれて見えたのは、錯覚ではないだろう。

 ジークは棒切れになったハルバードを投げ捨て、腰の左右に差した長剣を抜き払い、双剣にてアキラと再び対峙する。


 じり、とアキラが間合いを詰める。即座に反応したジークが、稲妻のようなスピードで双剣を振るう。

 びゅびゅんっ、と風切り音がして、アキラは剣風に晒される。


 ――怪物め!


 アキラは内心、舌を巻く。

 瞬きほどの間に八度の斬撃があった。これに反応し、回避し得たアキラであるが、間合いの外だ。反撃するに至らない。

 アキラの愛刀『菊一文字』は、彼女の小柄な体格に合わせ、打ち直している。そのため、間合いでは、どうしてもジークに上を行かれてしまう。


「まだだよ、団長。まだ、早くできるよ」


 再び、アキラはジークの巻き起こした斬撃の嵐に巻き込まれながら、僅かに眉を寄せる。


 ――使うか? 『あれ』を。


 キサラギ家の『奥義』だ。他者の目に付く場所での使用は禁止されている。門外不出の『あれ』ならば、ジークを、あっと言う間に地獄に落とすことが出来るだろう。


 アキラが手を拱く間にも事態は進行する。最初、数本の髪の毛を撒き散らし、続いて頬、二の腕、足、徐々にジークの斬撃が、アキラの身体を削り出す。


 間合いの外からの一方的な攻撃に、勝機を見いだしたジークの頬に、再び余裕の笑みが込み上げる。


「レオは返してもらうよ。元々、私のものだからね」

「!」


 瞬時にアキラは退き下がり、距離を取る。


「レオが、おまえのもの? 彼は、ボクのさ」

「言うね。面白くない冗談だ」


 ゆったりと言うジークを、アキラは心の底から嘲笑った。


「冗談? レオは言ったんだ。ボクだけを愛してるって」


 その瞬間、ジークの笑みは、氷点下までその温度を下げ、凍りついた。


「レオが、そんなこと言うはずない……」

「言ったよ。何度も何度も。ついでに、何度も愛し合った」


 そこでアキラは、決闘の最中であるにも拘わらず、吹き出してしまった。


「あはっ! それ、その顔! おまえのその顔が見たかったんだよ!」


 ジークは言葉もなく、口元を引きつらせ、眉間に深い皺を寄せ、狼の本性そのままに低い唸り声を上げた。


「……れ」

「え? なんだって? ボクとレオを祝福してくれるのか? そいつはありがとう!」


 アキラは、けたけたと笑いに噎せる。


「…まれ」

「気にするなよ! 祝儀は、そうだなあ……おまえの命でいいよ」


 ――来る! アキラは僅かに身を沈め、刀の柄に手を掛ける。


 次の瞬間、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは力の限り吠え狂った。


「黙れ! 黙れ! 黙れ! 黙れ! 黙れ! 泥棒猫の分際で、やっていいことと悪いことがある! レオは、おまえみたいな、薄汚い卑しい猫が触れていい男じゃないんだ!」

「知らないね、おまえの勝手な理屈なんてさ」


 アキラは、せせら笑った。


「ウウウウウウ――アアアアアアアアア!」


 怒りの炎に身を焦がし、ジークがアキラに肉薄する。

 ジークの表情に、余裕の色は微塵も伺えず、赤い瞳は狂気の色に燃え狂っている。


 アキラは悪魔のように口角を吊り上げた。凄まじいスピードで迫るジークに、菊一文字の紫の刀身が鞘走る。


 そして二人は交錯し――


 チンッ! という鞘打ち音の一瞬後に、宙を舞った黒い影が、どさっ、と小さく音を立てて大地に転がった。


 一陣の風が両者の間を吹き抜ける。


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの瞳に浮かんだ狂気は瞬時に、消え去り、地に転がる己の右肘から先の部分を、呆然と見つめている。


 アキラは言った。


「おまえはもう、おしまいだ」



◇ ◇ ◇ ◇



 ジークは、何度も首を振った。

 その表情に『万夫不当』と謳われた勇者の風格もなければ、嫉妬から来る怒りの色もない。

 右肘から吹き出す鮮血が、マントを、甲冑を赤く染めて行く。

 ジークは、この先にある未来を思う。

 この一騎打ちは大勢決したと言っていいだろう。

 敗北を喫することで、あの泣き虫で、笑顔の優しいレオンハルト・ベッカーに二度と逢えなくなることが、この上なく、辛く悲しい。

 それは、失った右腕の喪失感や痛みよりも大きな苦しみとなって、幾重にもジークの心を苛んだ。

 ジークは何度も首を振る。

 この敗北を受け入れるわけには行かない。


「愛してる。愛しているんだ……」


 ぽろり、ぽろり、とジークの切れ長の瞳から涙が溢れ出す。

 右肘から溢れる鮮血に構わず、いつからか懐に忍ばせるようになった『それ』に、ジークは左手を忍ばせる。

 いつも、『それ』だけが寄る辺ないジークの寂しさを紛らわせた。

 いつも、『それ』だけが身も心も張り裂けそうなほどの愛情のぶつけ所だった。

 眠れない夜は、いつも彼のことを考えた。


 ……それじゃあ、ジークのかちでいいかなあ。

 ……いいですとも。


 覚えている。


 たびにでよう。ジークがゆうしゃ、レオがおひめさまをするんだ。

 はい……ジークは勇ましいですね。お供いたし……


 言葉に詰まり、嗚咽に肩を震わせ、涙を流す彼を、覚えている。


 負けたくない。死にたくない。痛切に、そう思う。


 レオ、すきだよ。

 はい。


 彼の流した、涙の味を覚えている。


 負けてしまえば。

 死んでしまえば。

 それら全てが無に帰る。


 負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない負けたくない死にたくない。


 どうしても。


 どうしてもだ!


「……おい! おまえ、何を持っているんだ!」


 ヒステリックな金切り声が耳を衝き、ジークは、はっと我に戻った。


「『それ』は……なんで、おまえが持っているんだ! 『それ』はボクのだ! 返せ!」


 腐らないよう処置し、特殊な技術でコーティングして保護してある『それ』は、自分だけのものだ。

 『それ』だけが、ジークの慰めだったのだ。

 この恐ろしい猫は、本当に欲張りだ。

 何もかも手に入れなければ気が済まないのだろう。

 けれど、それは、ジークにもよくわかる。


「これは、ジークのだよ」

「おまえ……! 本当にいかれているな!」

「ほしいの?」

「それはボクのものだ! やつに流れる血の一滴、髪の毛の一筋すらもボクのものだ!」


 ジークは、まだ負けてはいない。


「じゃあ、とってごらん」


 手に持った球形の『それ』を、ジークは天高く、放り投げた。


「あっ!」


 アキラ・キサラギは既に己の勝利を信じて疑っていない。

 その視線が、宙に舞う『それ』に釘付けになったのを見計らい、ジークは地に落ちた剣を拾い上げ、半月の弧を描き、振り下ろす。


 がきっ、と真の通った何かを切る感触に、ジークは牙を剥いて吠えた。


「私は負けない! 何としてもだ!」


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの振り落とした長剣は、アキラ・キサラギの宙に延ばした左腕を切り落とし、そのまま左足の太ももに食い込み、止まった。


 アキラ・キサラギは立っていた。

 その表情は苦痛に歪み、たった今、切り落とされた左腕の断面を強く右手で押さえ付けている。


「きさま……やってくれたな……!」

「あげるわけ、ないよね」


 転がる『それ』を広い上げ、懐にしまいながら、ゆったりと言い放つジークの額には、びっしりと脂汗が浮き、その両肩は荒い呼吸に揺れている。


「このやり方は……団長が教えてくれたんだよ……」


 ほしい物は、なりふり構わずつかみ取れ。

 過去のジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーには出来なかったことだ。


「と、どめを――」


 とどめを刺してやる。そう言い放とうとしたジークの視線が、ぐらりと傾く。血を失い過ぎたのだ。

 膝を地に着き、せいせいと息を吐くジークと、こちらはその場に胡座をかくようにして座り込むアキラの目が合う。

 双方共に、身動きできないほどの重傷だ。


「引き分けだ!」


 わっと、両軍から一斉に声が上がる。


「引き離せ!」

「退却! 退却だ!」


 互いに牙を剥き、睨み合う二人に両軍が殺到する。


 途切れがちな意識の中、ジークは口元に微かな笑みを浮かべた。

 この場でアキラ・キサラギを退かせることは、自分が勝ったも同然のことだ。

 幼帝も玉璽もこちらの手にある。明日になれば、さらに兵力を糾合し、倍の勢力で当たることができる。


 ――この国を手に入れる。


 これで、レオンハルト・ベッカーは自分を受け入れるよりない。

 ジークにはこのやり方しか思いつかない。

 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーという女性の地位も、状況もレオとの関係を許さない。そのことを盾に、何度も拒絶された身だ。誰にも文句を言わせない手は、これ以外に思いつかない。

 ほかでもない己が頂上に上り詰める。そうすれば、誰も己を拒絶できない。

 そのように考えていた所へやって来たアキラ・キサラギの策略に、ジークは一も二もなく飛びついた。

 事は、万事上手く進み、この国だけでなく、最大の障壁であるあのアキラ・キサラギまでも退けた。

 後はもう、迎えに行くだけだ。


「レオ……逢いたいなあ……」


 そのジークの呟きは、戦場の喧噪に消えて行く。



◇ ◇ ◇ ◇



 街道の出入り口に、一個中隊を用いて陣を構える俺の元へ、頻々と伝令が訪れて、刻一刻と変わる戦況を告げる。

 第七連隊は、ジーク率いる準旅団に包囲される形を取っている。

 アキラがこの形を好んで採ると思えない。

 恐らく、戦場にてジークと相対しているに違いない。

 狼の獣人の運動能力は異常だ。だが、アキラが……というより『キサラギ』が勝つだろう。『キサラギ』という一族が煮詰め、練り込んだ技術がジークを殺すだろう。

 そう信じる俺だが、胸に巣喰う不安は、何故か晴れることはない。


「おい、あれの準備は出来ているか?」


 俺の護衛に付いている中隊の隊長に問いかける。


「重装騎士……ですか?」


 この戦局に投入された重装騎士は僅かに百名。少数だが、もしもの場合は、これが最後の頼みの綱になる。


「防御方陣を敷いておけ」


 俺のその言葉に、若い中隊長は、ぎょっとした表情になった。


「ま、負けるんですか、オレたち!?」

「念のためだ」


 もしそうなるなら、追撃を受けるであろう本隊とアキラを逃がすため、街道を封鎖しつつ、隘路に退き、重装騎士の防御力を盾に徹底的にやり合う嵌めになるだろう。

 そう考える俺に、エルがいつものように茶を振る舞う。

「どうぞ」

「ああ、エル、今からでも遅くない。避難する気にならんか?」

 うっすら笑みを浮かべ、エルは首を振った。

「これからです。これから、少佐は、最後の輝きを見せてくれます。何故、エルが逃げ出さなければいけないのです」

「…………」

 呆れて最早、言葉もない。

 だがこれはこれで――一人の男としては幸せなのかもしれない。

 そんなことを考える俺の元へ、息を切らせた伝令が急報を告げる。


「団長が! 団長が、切られました……」


「……」


 夢破れる、か。

 俺は静かに息を吐く。

 予感はあった。驚きはない。よくあることだ。夢の実現の一歩前まで来ておきながら、最後の一歩を踏み外し、時代の影に消えて行った者のなんと多いことか。

 だが、まだだ。俺がいる。俺が、アキラ・キサラギをもう一度、夢の舞台に乗せる。


「団長――アキラは、生きているか?」

「は、はい!」

「怪我の具合は?」

「左腕を切り落とされました。後は、左の太ももを半ばほどまで……」

「そうか」


 大隊長の三人と決め事をしておいて、本当によかった。


「少佐」


 エルが耳元で囁く。


「契機です。今こそ、起たれますよう」

「……」


 一瞬、言葉の意味が分からず、俺は呆然としてしまう。


「准将の後を引き継ぎ、少佐が国を取られるのです」

「……」


 この女は、何という毒を吐くのだ。

 俺とて、一人の武人だ。その言葉は余りにも甘く魅力的に聞こえる。

 アキラが重傷を負った今、第七連隊の指揮権は完全に俺に移譲されたと言って差し支えない。

 エルの言うとおり、夢を見るなら今しかない。


 だが、それは――痴人の夢だ。


 俺は、俺という人間を知っている。時代の覇者たる気概はなく、才幹にも乏しい。


 エルは声色に興奮を隠し切れないようだ。震える声で言った。


「さあ、少佐! 起たれるのです! 最後の輝きを、エルにお見せ下さい!」

「……」

「少佐は人殺しの裏切り者ではございませんか! 何をためらっておられるのです! この期に及んで、エルまで裏切るのでございますか!?」


 馬鹿馬鹿しい。

 俺はエルに踵を返す。この女の讒言をまともに聞いてはいられない。


「防御方陣を二重に敷け! 敵の追撃に備えろ! 本隊と合流して、街道に引き返す!」


 その一喝に、俺とエルとのやりとりを呆然と見つめていた中隊長が、はっとしたように我に帰る。


「はっ! 直ちに!」

「大丈夫だ! 俺たちはしぶとい! 大将が生きてりゃ、違うおてんとさんが拝めるさ! 生き残るぞ!!」


 アキラの負傷の報に、沈む中隊の騎士たちに喝を入れる。


「「「お、おうっ!!!」」」


 多少の動揺はあるものの、帰って来た力強い応答にうなずき返す。


「負傷者の受け入れ準備、急げ!」

「少佐……なぜです? なぜ、戦われないのですか?」


 杖を振り回し、大声で指示を飛ばす俺の背に、エルが縋り付く。


「……エルは、レオンハルトさまを愛しているのです。何故、エルのために戦われないのですか……」


 ――それは多分、俺――レオンハルト・ベッカーは、アキラ・キサラギを愛しているからだろう。

 だからこそ、俺は『猫の懐刀』であることを望んだ。

 だからこそ、アキラを裏切ることが出来ない。

 アキラの狂愛は、俺の身も心も掌握してしまっている。


 俺は――アキラ・キサラギを愛している。彼女がしばしば見せた強い執着や狂気に嫌悪を抱くと同時に、どこかで強く魅かれていたのだろう。


「少佐、しょうさぁ……」


 俺を呼ぶエルの声が鼻声になる。


「愛しているんですよぅ……レオンハルトさまぁ……」


 だが、その反面で、エルは俺の死を望んでいる。

 愛と憎しみ。この二つ感情は、一つの心に共存できるものなのだろうか。


「准将は……負けてしまいました」


 不意に、背後の空気が変わる。


「だからもう……少佐は、エル一人のものに、致します……」

「どういう意味――」


 脇腹に、冷たいものを押し込まれた。


 ちくり、と痛みが走り、その衝撃が全身を伝わり、俺は堪らずその場に膝をつく。


「愛しています、愛しています、少佐。だから、エルのものになってください」


 二度。


 三度。


 エルに、冷たいものを押し込まれる。

 視線を落とすと、いつだったか、アキラに授かったという短刀が突き立っている。

 喉に競り上がるような圧迫感があり、俺は、がっと大量の血を吐いた。


「すぐ、エルも追いつきます。ご安心を……」

「いや……」


 俺は首を振った。


「おまえとはもう、これきりだ」


 エルを死なせたくない。

 だが、こうも思う。

 こんな陰気な女に、死んだ後まで付きまとわれて、たまるか。




◇ ◇ ◇ ◇




 前線に出ていた馬鹿共が帰って来た。


「うは! 副長、マジ刺されてんすけど!」

「おお、神父の息子。とうとう、年貢の納め時だな」


 馬鹿共なら、笑ってくれると思っていたが、こうも予想どおりだと面白くない。


「……ベッカー、くたばるか……?」

「ああ」


 中隊の騎士に後ろ手に縛られ、地面に転がるエルと目が合う。俺の指示で猿轡をしてあるため、喋れない。その目が、


 なぜ……?


 そう言っている。

 とにかく疲れた俺は、その場に腰を下ろし、モノクルを取り、額の汗を拭った。


「アキラは?」

「大パニックだ。おまえのことを呼んでるが、会いに行くか?」

「……勘弁してくれよ。これもんだぞ」


 俺はマントを捲り、今や血溜まりに腰掛けるような在様を見せてやる。


「馬鹿野郎……」

「死んでくやつは、珍しくないだろう。しみったれたツラするな」


 理由はどうであれ、女に刺されたんだ。俺なら、笑う。その方がいい。


「……腕は、ちゃんと拾って来たか?」

「ああ……できるか?」

「やるさ……それより急げ、眠たくなって来た」


 まだだ。俺にはまだ『猫の懐刀』として、最後の仕事が残っている。

 『アスクラピア』の蛇は、使用の代償として術者の意識を食らう。

 怪我の程度からしても、今眠れば、もう二度と目を覚ますことはないだろう。


 清算。


 そんな言葉が脳裏にちらつく。


「追撃は、かかっているか……?」


 いかん。目が霞む……。


「あっちも腕一本。おあいこさ。狼の大将連れて、引きこもってる」

「そうか……」


 成程、ジークは賢明だ。ここで無理せずとも、時間さえ稼げは、勝利は向こうからやって来るということを知っているようだ。


「ベッカー、あまり喋るな」

「……」


 切断された手足を繋ぐのは、それなりに意志の力を必要とする。

 俺の『蛇』はあんまり強くない。

 できるだろうか。弱り果て、死ぬのを待つだけの俺に……。


「あああああああ! レオ! レオーーーーーっ! 何処だ! 何処にいる!」


 アキラが担架に担がれてやって来る。


「ここにいますよ、アキラ……」


 俺の口から出たのはとても小さい声だ。

 その瞬間、アキラは暴れ狂い、担架から転げ落ちた。


「レオ! ううう、レオーーーっ!」


 左腕を切り落とされ、傷ついた肢体で這いずるようにして、アキラがこちらにやって来る。己のことで精一杯なのだろう。俺の怪我には気づかない。

 やれやれ……。

 俺は草臥れた体に鞭打って身を起こすと、アキラを抱き寄せる。


「ううう! レオ! ボク、やられたのか!? あんなクソ犬に、負けたのか!?」

「まさか。アキラがやられるわけないですよ」

「でも、ボクの腕が! う、ううううう!」


 悔しさからか、ぐしゃぐしゃに泣き濡れたアキラの顔は、血色を失い痛々しい。


「レオ! レオ! もういやだ! ボクと一緒に死のう!」


 これはまた……ダイレクトな要求だ。


 そう言えば、エルも殆ど同じことを言っていた。


 なんだろう。これには深い意味がある気がする。


 アキラは、一本になった腕で、必死に俺にしがみつく。しっかりと止血処置されているが、それでも完全に出血は止まらない。流れ出した血が、俺の血と混ざり合う。


「レオ、愛してるって、言ってくれ」


 アキラの背中を撫で、落ち着けるように心掛けながら、その耳元で囁く。


「アキラ、愛してる。この世界で、あなただけです」

「うん! うん!」


 強く頷くアキラのコバルトブルーの瞳から、新しい大粒の涙が溢れ出す。


「ボクと、死んでくれるよね……?」


 俺は首を振った。


「おことわりします」

「え――?」


 反論を許さず、アキラの唇を奪う。これまで誰にもしたことのないくらい、激しい、とびきりのだ。

 瞬間、惚けたようにされるがままになっていたアキラだが、思い出したように応える。


 最後のキスだ。


 俺は、これだけ持って行ってしまおう。


「愛してます」

「……うん……」


 アキラには刺激が強すぎたようだ。とろりと蕩けた表情で頷く。


 俺は三人の大隊長たちに目配せする。これも最後の取り決めの一つだ。


「大将、すまねえ」

「え? おい! なにするんだよ! え? え? レオ?」


 大隊長三人に、俺から引きはがされ、アキラは困惑したように、俺と大隊長たちを見比べた。


「おい、どういうことだ、レオ?」

「どぎついのをやる。口を塞いでくれ。舌を噛むかもしれん」

「わかった。……本とに、すまねえ、大将!」


 一人がアキラを背後から羽交い締めにし、一人が馬乗りになる。残った一人が口に猿轡をして、切り落とされた左腕が動かないよう押さえ込む。


「うぐぅ! うぐぐぐ!」


 両腕の袖を捲る。

 俺の呼び出しに応じ、たちまち『アスクラピア』の蛇が顔を出す。

 それを見て、アキラはあからさまに、ぎょっとした表情になった。意外なものを見た。そんな風に見えた。


「はじめる」


 猿轡をかまされたアキラの視線が忙しなく動き、血まみれになった俺の腰を捕まえる。

 さーっと、アキラの表情が青くなる。


「うがっ! ががががが!」


 怪我に構わず、激しい抵抗を見せるアキラを無視し、俺は更に集中を深める。

 先ず、アキラの半ばほどまで切られた左の太ももに触れる。

「ふううううう!」

 アキラが唸る。

 たちまちのうちに出血が止まり、それと比例するようにして、意識が遠くなる。


「ベッカー、頑張れ……!」


 大隊長が苦汁に満ちた声で呼びかける。


「………アキラの腕を、持って来い………」


 もう意識が飛びそうだ。

 情けない。この何年かは、アキラと共に指揮する側に居たことが原因で鈍っている。


「……すまん、一発、殴ってくれ……」

「……ゆるせよ、神父の息子……」


 大隊長に平手で打たれ、少しだけ意識が戻って来る。


 ……アスクラピアの『絞り出し』だ。

 理屈は簡単。

 アスクラピアの蛇は意識を食らう。力を行使し続けたいのなら、意識を食らわせなければよい。

 親父は言っていた。

 アスクラピアの治癒魔法には、様々な技があるが、その中でも、この方法は外法と呼ばれるもので、もっとも性質の悪いものだ、と。

 ――お預けを食らった蛇が怒るらしい。

 腕を見ると、いつもは黒いアスクラピアの蛇が、怒ったのか、赤黒く変色している。


 ここからが本番だ。

 アキラの切り落とされた左腕を、傷口に押し付ける。


「があああああっ!」


 神経や骨の剥き出しになった傷口を触られるのだ。アキラは、さぞ痛かろう。悲鳴を上げて逃れようと大暴れするが、大隊長たちに押さえ付けられ動けない。


 切断された手足を繋ぐのは難しい。繋ぐ際、少しでも断面がずれれば、繋がっても動かない場合がある。そのため、細心の注意を払いながら治癒を施す。


「……殴れ……」


 意識が遠のく。

 大隊長が何事か呟き、また頬に衝撃が走るが、今度はそれでも足らない。

 俺は、何度も首を振る。


「ひゃめろっ! えおおあぐるな! あぐるな!」


 アキラの声に張りが出て来る。傷が塞がるのだから、俺の弱り具合と比例して元気になるのは当然のことだ。

 蛇を使い続ける。

 さんざん、殴られ、蹴られ、意識を繋ぐ。痛みはあまりない。蛇が意識を食っているのだ。痛みもそれに含まれるのだろう。


「すまねえ、すまねえ……」

「副長、すいません、すいません……」


 大隊長が泣いている。


「えお! おおやえろっ! おおいい!」


 アキラも泣いている。


 最早、アスクラピアの蛇は血の色に染まり、太さをいつもの倍にまで成長させている。


 最後に、これだけ言っておいた。


「アキラ……おさらばです……」


 薄れ行く意識の中で僅かな喧噪が耳を衝く。


「ベッカー! よくやった。頑張ったなぁ……」

「副長! もういい、もういいんです……」

「ばかやろう、ばかやろう! 神父の息子!」


 アキラ・キサラギ……俺の、風雲児……。


「あーーーーーっ! レオ! おい! 離せ! ボクをどこに連れて行く! 離せよ! この馬鹿共! レオ! レオ! ああああああああああああ!」


 その声も遠ざかる……。


 満足だ……。



◇ ◇ ◇ ◇



 第七連隊失踪の報を聞き、すぐさま部隊を纏め上げ、街道を首都サクソンに向け、急行軍で引き返すイザベラが、中々行軍速度の上がらぬ部隊に見切りを付け、単騎にて昼夜を問わず馬を進めること三日後のことだ。

 洒落者のイザベラらしくなく、着の身着のまま埃に塗れるのも構わず、一路サクソンへと急ぐ彼女の目に入ったのは猛スピードで街道を逸れ西の国境を目指す『第七連隊』の騎兵たちだった。

 イザベラは木陰に身を隠し、第七連隊をやり過ごす。

 逃げている。

 それがイザベラの印象だった。

 おそらくアキラ・キサラギ率いる第七連隊は、フォン・カロッサに敗れ、国境の外に退路を求めているのだ。

 だがおかしい。イザベラは考える。

 見る限り、第七連隊は、未だ戦闘集団としての体を為している。敗走するにしては、数が多く、隊列も余り乱れた様子がない。ということは、一時、退却し、捲土重来を図るのだろう。

 この第七連隊を率いているのはだれだ?


 『第七連隊』は癖の強い部隊だ。

 実戦慣れしており強力だが、傭兵上がりの乱暴者が多く、軍規を破ることもしばしばある。秩序ある集団として纏めるには指揮官に強いカリスマ性が求められる。

 そこから導いたイザベラの答えは――

 アキラ・キサラギは、負傷しているかもしれないが、健在だ。この部隊を纏められるのは、彼女より他にあり得ない。

 副長のレオンハルト・ベッカーはそれなりに優秀かもしれないが、剣士としての腕っ節は並で、荒くれの『第七連隊』を纏めるには、いささか求心力に欠ける。


 アキラ・キサラギは逃走している。だが、追っ手はかかっていない。

 つまり、誰かが後方に残って殿を努めている。そして、その『誰か』は、副長のレオンハルト・ベッカーである可能性が非常に高い。

 狂ったように副長に執着しているあのアキラ・キサラギが、その副長を手放すことは考えられないが、少数で追っ手を食い止められる優秀な配下の持ち合わせは、彼女には、その優秀な副長以外にはいない。


 イザベラは、血の気が引く音を聞いたように思った。


 あの猫は、レオンハルト・ベッカーを捨て駒にして、逃げている可能性が高い。

 一軍を率いる将としては、その判断は妥当かもしれない。大を生かすために小を殺すのも、長としての務めだ。


 だが、もしそうならば――


 イザベラは、アキラ・キサラギだけではなく、この世界の全てが許せそうにない。


 第七連隊が砂塵を巻き上げ、去った方向を睨み付け、唇を噛み締めるイザベラの口元に血が伝う。


 イザベラは再び馬上の人となり、更にサクソンへの道程を急ぐ。


 アキラ・キサラギが副長を率いているのなら、それはそれでよい。生きていれば、再び会える日もあるだろう。

 だが、後方に居残り、殿を努めているならば、これを救えるのは自分より他にあり得ない。

 フォン・カロッサに頭を下げるのは癪だが、それはまだ我慢できる。

 そう考えるイザベラは、ひたすらサクソンへの道を急ぐ。


 レオンハルト・ベッカーは、イザベラを愛してはいない。


 それはよい。イザベラはそれを許す。涙を流し、許しを請う彼を見ている。世界中の誰が、彼を許さずとも、イザベラだけは、彼を許して見せる。


 レオンハルト・ベッカーがこの先、どのような裏切りを働こうが、どのような悪事を行おうが、イザベラはそれを全て許して見せる。


 誰も彼を許さぬと言うならば、この世界など焼いてしまっても構わない。


 全てを許す。


 イザベラの愛は、そういう愛だ。そのような愛でなければならないと思っている。

 そうでなければ、彼は、ずっと空を見上げたままでいるに違いない。


 全てを許す。

 だから、まだ死ぬな。レオンハルト・ベッカー。


 張り裂けそうな胸を押さえ付け、イザベラは、ただ急ぐ。



◇ ◇ ◇ ◇



 日暮れ頃、取る物も取り敢えず、遺棄されたであろう第七連隊の本陣で、イザベラ・フォン・バックハウスは、レオンハルト・ベッカーを見てしまう。


 イザベラは、頭の奥で、世界が崩壊をはじめる音を聞いた。


 瞬き一つせず、見開かれたままの深く青い瞳からは、尽きせぬ涙が流れ出し、放心したかのように開いたままの口元に、つっと涎が伝う。


 許せない……。


 この第七連隊の本陣で、どのような無法を許せば、レオンハルト・ベッカーはこのような有り様になるのだ。


 殴られ、蹴られ、刺され、レオンハルト・ベッカーは打ち捨てられたごみのように、ただ、転がっている。

 夜の闇のように黒かった髪には所々、白い物が交じり、エミーリア騎士団の紋章が刺繍されたマントもトーガも汚れ、自身の血に塗れ、元の色さえ分からない。


「お、おお……神よ……」


 イザベラはそれだけ口にして、それ以降の呟きは、呼吸さえ許さぬ嗚咽の中に飲まれ、消えて行った。


 事情の前後などわからない。わからないが、イザベラ・フォン・バックハウスは許さない。


 世界の全てを許さない。


 『呪術師』イザベラ・フォン・バックハウスは許さない。


 聖なるもの、邪まなもの全ての境なく。世界の全てを許さない。


 レオンハルト・ベッカーは善人ではない。だが、このような無法で報われねばならないほどの悪人でもないだろう。

 イザベラは、世界をさえ焼き尽くす本物の憎しみを知る。

 美しい白い肌に伝う涙に高貴なエルフの血が混じり、魔力を伴うものになった頃、イザベラは、ただ立ち尽くすのを止め、よろよろとレオに歩み寄る。


 レオンハルト・ベッカーは、まだ生きていた。


 早く浅い呼吸は、彼自身の命が、最早長くないことを明確に告げている。


 イザベラ・フォン・バックハウスの全てを許す愛は、この瞬間、裏返り、全てを許さぬ憎しみとなって、世界を席巻する。


 呪われるがいい。


 レオンハルト・ベッカーを胸に抱き寄せた時、はらりと捲れたマントの陰に、幾度も刺された痕跡を認める。


 呪われるがいい。顔をも知らぬ咎人よ。どのような場所に身を隠そうが、必ず見つけ出し、必ず殺す。どのような経緯を辿ろうが、己が必ず、この手で殺す。『呪術』はそのためにこそある。


 だが、今は――


 イザベラは尽きぬ憎しみをねじ伏せる。

 その瞳が、アスクラピアの蛇を見つけ、新なる憎しみに燃え上がる。

 アスクラピアの『絞り出し』だ。

 本来は黒いはずのアスクラピアの蛇が、赤く色を変える時、術者の魂さえも一呑みにしてしまうと、何かの文献で読んだことがある。

 元は黒一色だった頭髪に、白い物が混じり出したのはこれのせいだろう。


 この世界は、どこまでレオンハルト・ベッカーが憎いのだ。


 イザベラは、これ以上の運命の狼藉を許さない。新たな、涙に濡れながら、指の腹を咬み裂き、『蛇封じ』の呪印を施そうと試みる。

 だが、それを為そうにも、怒りに指が震えてしまう。突き上げた嗚咽が胸を詰まらせる。

 それを圧し殺し、レオンハルト・ベッカーの胸に、イザベラは何とか『蛇封じ』の呪印を完成させる。

 そして、この場にて、誰の助けも得られぬ以上、レオンハルト・ベッカーの死は避け難い。

 イザベラの能力は、そんなに都合のよいものではない。今にも涸れ尽きそうなこの命を留める事はできない。

 だが、この世界が、このように彼を憎むなら、変わりの祝福を与えてやることは出来る。


 せめて、その魂が安らうよう、慰安をもたらすゼラニュームの呪印を施す。


 幸福な愛を引き寄せるブバルディアの印を、魔力の籠もったイザベラ自身の血で刻み込む。


 ついでにバックハウスの家紋であり、無言の愛を象徴するブルーレースフラワーの印も、書き記しておく。イザベラのサインだ。


 思いつくまま、夢中で、レオンハルト・ベッカーに『呪い』という名の祝福を与え続けるイザベラの口元には狂気の笑みが浮かびはじめる。


 まだだ。


 もっと、もっと、祝福してやる。


 ああ、あれもやっておかねば。永遠の愛を誓わせる呪いだ。今のイザベラは、これ以上ないくらい魔力が高まっている。その効力は、レオンハルト・ベッカーの魂が存在する限り続くだろう。


 その呪印を半ばほどまで描き終えたとき、イザベラの胸に背後からの衝撃が突き抜けた。


 ――剣だ。


 突如、イザベラの胸に生えた銀の手は、その切っ先が、レオンハルト・ベッカーの目前で停止している。


 鼓動が一つ打つ度に、胸に灼けるような痛みが走り、己の命が急激に燃え尽くされるのを実感する。

 イザベラは、ゆっくりと振り返る。


「…………」


 その視界に入ったのは、流れるような銀色の髪に、切れ長の紅い瞳を持つ顔見知りの狼の騎士だった。


「……この、バカ犬……!」


 苛立ちを吐き捨てるイザベラの口元に、一筋の鮮血が伝う。


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは、右腕が気になるようで、頻りに、特に右肘の部分をなで回している。言った。


「悪い魔女は、ジークが退治するよ」

「……」


 イザベラとジークは睨み合い、そして――


 レオンハルト・ベッカーを抱き締めたまま、かくっ、とイザベラの肩が落ちる。


「なんて顔をしているの、イザベラ」


 世界中の全てを呪い、憎悪の表情のまま事切れたイザベラの足元に、ジークは一枚のハンカチを投げ落とす。

 白いハンカチには、金色の糸で、イザベラ・フォン・バックハウスの名が刺繍されている。

 レオンハルト・ベッカーに仕える猫のメイドが持って来たものだ。



「少佐がお世話になりました。バックハウスさまに、そうお伝えくださいませ」



 薄く、笑っていたのを思い出す。


 空に、幾つかの星が瞬きはじめた頃、ジークは曾て、幼馴染みであったものに、最後の言葉を投げかける。


「さようなら、イザベラ・フォン・バックハウス」


 イザベラの拡散する瞳孔は、ただ一点、憎むべき相手を捕らえたままでいる。


 『呪術師』イザベラ・フォン・バックハウスは、『憎しみ』を形にする術を知っている。そのイザベラの、血涙を流す青い瞳は、銀色の毛を持つ狼の女騎士を、ただただ、見つめ続けている。




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苛烈に生きる弟の話を……
『アスクラピアの子』
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