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猫とワルツを  作者: ピジョン
第2章 遅れた勇者と壊れそうな姫
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第5話 猫目石

 夜。


「少佐……エルは、情けなく思っております……」


 エルはいつになく、どんよりと言う。

「少佐が少し足りないお方なのは、存じているつもりでしたが……まさか、バックハウスさまと浮名を流されるとは、よもやこのエルも、思いもよりませんでした……」

「だから……」

 ここは第12旅団の営倉だ。懲罰房ともいう。

「なにもなかったって!」

「痴れ者は、みんなそう言うのでございます」

 面会にやって来たエルの小言が始まって、早一時間余りが経過している。

「……団長から何か連絡は?」

 これが一番、思いやられる。

「はい、アキラさまは、大層ご立腹のご様子でして……帰られた暁には、右腕をもらうとおっしゃっておいででした」

「み、右腕を!?」

「……お覚悟なさいますよう」

 容赦なく言い放つエルの様子に、俺は頭を抱えた。

「なあ、エル。俺と亡命しないか?」

「流石は少佐。恥知らずにも程があります」

 エルは格子越しに、俺の腕に残ったアスクラピアの蛇の名残を指す。

「でもまあ、蛇も無事なようですし……今回は、エルが仲立ちすることにいたします」

「仲立ちって……エル、おまえは団長と仲がいいのか?」

 エルは無表情で頷く。

「猫は仲間内では争いません」

「……」

 また種族の習性か。

 だが、確かに『猫のはったり』という言葉がある。本来、猫という生き物はとても温厚で、喧嘩の勝敗もはったりで決めると聞いた。本当だったのか?

 アキラが温厚? なんの冗談だろう。

「バックハウス大佐はどうなった?」

「あの方は、門閥貴族でございます」

 おとがめなし、か……。

「まあ、いい。豚箱暮らしも気軽なもんだ」

「流石は、恥知らずの少佐。慣れっこというわけですか」

「まあな」

 しかし、営倉入りも久々だ。

 連隊時代は、再々ぶちこまれていたからな。いやはや、なつかしい。飲む打つ買うが当然だったあの頃に帰りたい。

「少佐、また恥知らずなことを考えていますね?」

 今夜のエルは手厳しい。


 そしてまた、一日が終わる。



◇ ◇ ◇ ◇



 営倉暮らしが三日目に入った。

 最初、のほほんと構えていた俺にも、焦りが出る。

 アキラの手紙には、しばらくそこにいろ、と短く書かれていた。これが、どういうことか俺は深く考え込む嵌めになった。

 何が起こっているかは分からないが、今の俺はここに居た方がよい。少なくとも、アキラ・キサラギの判断ではそうだ。

 俺を取り巻く状況が、著しく変化したのだ。具体的な事は何一つ分からないが、そういうことだ。

 そして今のところ、アキラにはそれに対する効果的な手段がない。

「こりゃ、本気の大目玉を覚悟せにゃならんな……」


 俺が割と本気で反省しだした頃、一つの噂が耳に入った。それは――


 ――アスペルマイヤーが俺を殺す。


 というものだ。

 向かいの牢に入った営倉仲間が教えてくれた。

 なんだ、そんなことか。と気が抜けてしまう。ジークに殺されるのであれば、俺にとってはむしろ歓迎すべきことで、思い悩む必要は何一つない。

「エルにも教えてやらんとな……」

 早い者勝ちだ、と。

 なにせ、命は一つしかない。目玉のように二つあればよかったが。


 面会には、第七連隊の馬鹿共も訪れた。


 通常、営倉では面会を許されないが、士官であり副長である俺は、その立場上特別に許された。


「おお、神父の息子。割と独房が似合っとるな!」

「うは! 副長! エルフとやったって、本当ですか!?」


 だが、何人かは割と心配そうな顔を見せた。


「長いな……士官のお前が三日も営倉入りとは……マジな話、ベッカー、何をやらかしたんだ……? 貴族のお偉いさんに手ぇ出す程、お前に根性ないだろう」

「なんだと、根性見せてやろうか!」


 いかん、むきになった。


「アスペルマイヤー伯爵に気をつけろよ。団長が営倉明けを許さんのも、そういうことだろう」

「伯爵……? ああ、そういうことか」


 アスペルマイヤーの一族郎党か。それはそうか。得心行った。


「ここは大丈夫だとは思うが……食い物にも気をつけろよ?」

「いいんじゃないか?……べつに」


 俺は神父の息子だ。神の報いを信じてる。



◇ ◇ ◇ ◇



 第12旅団の執務室では、エミーリア騎士団准将アキラ・キサラギが、ぴんぴんと撥ねた癖っ毛をかき回している。

 副長のレオを営倉送りにしたのは、ほかならぬアキラだ。

 『第八連隊』の兵舎への訪問の報を耳にしたアキラが風紀部への密告を進んで行ったのだ。

 しかし、その後の経過は失笑すべきものになりつつある。

 営倉にぶち込んだまではよい。アキラは腹を抱えて笑ったくらいだ。しかし、その後旅団内部で流布し出した噂。


 アスペルマイヤー伯爵が、レオンハルト・ベッカーを狙っている。


 アスペルマイヤー伯爵は、自慢の愛娘ジークリンデを精神の崩壊にまで追いやった者を許しはしまい。想像し得ることだった。だが、副長の彼を狙うとは……アキラの誤算はそこにある。

 プライドの高い伯爵は、ジークリンデが人間に負けたことを認めはしまい。きっと、団長たる自分を狙うはず。そのときは一族郎党、皆殺しの憂き目に遭わせてやる。その目論みをあざ笑うかのように流布した噂が、元々癇性なアキラの神経を苛んでいる。

 見込みが甘かった。アキラは内心臍を噛む。そして、くしゃくしゃになった髪をかき回す。

「くそ、いつもだ…!」

 ミスをするときはいつも、副長のレオンハルト・ベッカーに拘わることに関してのことがほとんどだ。


 レオンハルト・ベッカーが死ぬ。


 そんなことは思いもしない。

 そんなことは許しはしない。

 レオンハルト・ベッカーが死ぬ時は、アキラ自らの手によってであるべきだ。

 しかし、狼の獣人はプライドが高くしつこい。きっと執拗にレオを付け狙うだろう。

 守り切れるか。

 アキラの懸念は、それだけではない。

 第12旅団の副長たるレオに秘密裏に届いた手紙の数々。

 アルフリード、トリスタン、ノルドライン、ザールランド、諸外国からの調略の書状。


 ――引き抜きだ。


 あの『万夫不当』を模擬戦とはいえ、徹底的に打ち負かした平民出の士官、レオンハルト・ベッカーの評判はうなぎ登りだ。

 どの書状を見ても、このニーダーサクソンより待遇はよい。


 現在、エミーリア騎士団は、レオを持て余している。平民出でありながら、並ならぬ軍略の才を見せた彼を、どのような地位、立場を持ってしても遇するわけにはいかないからだ。

 打ち破ったのが、エミーリア騎士団の『万夫不当』である以上。

 全ての状況が、レオの出国を機としている。


「ふ、ぐっ……」


 アキラは泣きそうになった。

 副長たるレオを磨き上げ、力を示す機会を与えた。全部、自分でしたことだ。この状況を作ったのは、外ならぬ自分自身なのだ。

 この状況をレオに教えるわけには行かない。営倉に入れたままにしてあるのはそのためだ。

 入れたのはよい。だが、いかに会いたかろうが、この状況を打破する道が開けぬ限り、出すことは適わない。

 まさしく泣きっ面に蜂のアキラの元へ、一人の招かれざる来客が訪れる。


 イザベラ・フォン・バックハウスである。



◇ ◇ ◇ ◇



「へえ、これが准将の……」

 イザベラは、やや感心したように執務室を見回す。

「ノックくらいしろっ!」

 アキラは袖で目元を擦りながら、机上の封筒をかき集める。


 アキラ・キサラギの執務室は、本人の職業軍人的気質を具現化したかのように実用的なものだった。

 書類の束が積み上げられた机上には、観葉植物の鉢植えが一つ。一応、応接のための長椅子やテーブルもあるが、それにしたって革張りの無骨な代物だ。洒落者のイザベラには少し気に入らない。

「しかしまあ、こんな殺風景なとこで、いつも救急箱と二人で何やってんの?」

「き、救急箱だって?」

 問い返しながら、はらりと一枚の封筒が机を挟み、向こうへ――イザベラの方へ落ち、アキラは、あっと悲鳴を上げそうになった。

 それを見落とすイザベラではない。

「あらあらまあまあ」

 封筒の宛て名にちらりと視線を走らせ、イザベラは、ふっと笑った。

「……おやおや、救急箱へのラブレターじゃない」

「み、見るなぁっ!」

 慌てて詰め寄るアキラを差し止めるように、イザベラは、すっと手を差し出す。

「その様子じゃ、ラブレターはまだありそうね」

 図星を突かれアキラは、

「ううっ」

 と立ち止まる。

「きさま! ボクは上官だぞ!」

「それを言うなら、私はバックハウスだわ」

 権威には権威。高級軍人であるアキラは軍階級を、門閥貴族であるイザベラは門地を振りかざし対抗する。

「ぐぐぐ……」

 イザベラは、ここで切り捨ててよい相手ではない。ジークリンデの時と違うのは、レオがいないことだ。それが返ってアキラを冷静にさせている。

「……引き抜きか。まあ、ウチもやってることだし、卑怯ではないわね」

 他国の優秀な士官を引き抜くのは、特に珍しい話ではない。そのため、イザベラに驚いた様子はない。

「それでどうするの、団長」

「なにがだ!」

 アキラは憤慨して怒鳴り返す。

「これよ、これ。救急箱にはいい話よね、これ」

 イザベラは、ぺらぺらと書状を振った。

「あ、あいつはボクの部下だ。ボクの勝手だろう!」

 そのアキラの勝手に懸かっているのは、ほかならぬ彼の命である。そのため、アキラは歯切れが悪い。

「ふーん……」

 『性悪女』イザベラ・フォン・バックハウスは、にやりと笑う。

「私が知恵を貸して上げようか?」

「おまえが……?」

 アキラは怪訝に眉を寄せる。

 エルフの知略は捨て難い。その提案は魅力的ではある。だが、その意図するところが分からない。不気味過ぎる。

「今の私は、とても冴えているのよ」

「……」

「私はね、貴女のこともジークのことも、これまではよく分からなかったの。でも、今はよくわかる」

「おまえに、ボクの何がわかる」

 アキラは腰の刀に手を回す。今すぐイザベラを切り捨てた方がよい。本能が強く囁くのだ。イザベラ・フォン・バックハウスは危険である、と。

「ジークがなぜ、あんなに簡単に壊れちゃったのかも、今の私には、よくわかるの」

 アキラは鼻を鳴らした。

「おまえの、お喋りに興味はない」

 アキラの思いは、アキラだけのものだ。これがどんなに素晴らしいものであるか。それはアキラが時間を掛けて育んだものだ。それを――

「おまえのような、たちの悪いエルフに、ボクが理解できるわけないだろう」

「わかるわよ!」

 イザベラは喜々として言う。

「どうでもいいんでしょ? ……のためなら、世界を焼き尽くす覚悟がある。神だって、八つ裂きにする覚悟がある。……以外は、何がどうなったって構わないのよ。それを、私はついに理解したの!」

「なんだおまえ? おまえは大概おかしいぞ?」


 ……変わった。アキラの中に直感に近い確信がある。

 イザベラ・フォン・バックハウスは変わった。

 アキラ・キサラギに仕える忠実な副長なら、きっとこう答えただろう。

 これはこれで、もう『何者』かであるのだ、と。




◇ ◇ ◇ ◇




「おい、こらぼんくら」

 そもそも営倉の見張りというのは、罰則で決められる。罪人の面倒は罪人で見ろということだ。

 士官である俺が営倉にぶち込まれて、七日が経過しようとしている。見張り番の衛兵への呼びかけもぞんざいになろうというものだ。


「なんです、また少佐ですか?」

「またとはなんだ、このごろつきめ」


 面倒臭そうにやって来た若い衛兵とのこの掛け合いも、もう四回目になる。

「お前、元傭兵だろ?」

「あれっ、わかりますか?」

「どうだ、うちの部隊に来んか? 第七連隊は傭兵上がりが多い。他所とは違って堅苦しくない。楽しいぞ?」

「その変わり、命の保証はない、でしょ?」

 言って、にやりと笑い合う。

 第七連隊は、ほとんど前線に出ずっぱりの実戦部隊だ。その分戦死者も多い。明日をも知れないやくざな戦争屋が、賑やかに、陽気に、時には残酷に命を散らすのが『第七連隊』だ。

「考えときますよ」

「おう、待ってるぞ」

 しかし、ここに来て何人のごろつきを引っ張った? もう十人は数えたぞ。

 エルにはこの状況を告げてある。

 一言、『急げ』と。察しのいい彼女は、それで全てを悟ったようだった。薄く笑い、

「それでは、準備をしておきましょう」

 とだけ言った。

 事態が動いたのは、夜も更けてからだ。

「少佐、少佐……」

 呼びかける聞き慣れた声に俺は目を覚ます。

 堅い寝台の上で身を起こし、鉄格子の方へ目をやるとそこには、ランプ片手にエルがこちらを見つめていた。

 その隣には引っ張った若い衛兵の姿もある。

「少佐、やばい雰囲気です。逃げてください」

「伯爵の手の者か?」

 俺に関する噂を知っていたのだろう。衛兵は格子の錠を開けながら、静かに頷く。

「囲まれているか?」

「いえ、その最中ってとこです。急いでください」

「すまん、恩に着る」

「それはいずれ形のあるもので……」

 囁くように言い交わし、ごつんと拳をぶつけ合う。しかし……

「エル、おまえがなんでここにいる?」

「黙ってついて来いと、おっしゃったではありませんか」

 頭を抱える俺に、エルが剣を突き出してくる。戦って、切り抜けろということだ。

「命の保証はないぞ?」

「はい…!」

 答えたエルは、笑顔だった。


「こちらです」


 衛兵の案内で営倉の裏にある馬厩へ向かう。

「ご武運を」

 頷く。

 追っ手は後ろよりかかる。エルを先に馬に乗せ、俺はその背後に乗り込む。

 女連れか。俺も中々、洒落者だ。一つ、深呼吸して――


「行くぞ、エル」

「はい…!」


 気合を入れて、馬の腹を蹴飛ばす。

 正面入り口の衛兵所を抜ければ、第12旅団の兵舎はすぐそこだが、そこを抜けられると思うほど、俺は馬鹿ではない。向かうのは裏手にある非常用の出入り口だ。

 左手にエルを抱え、右手で馬を繰りながら、周囲を見回す。

 馬厩から俄に上がった物音に反応した人影が、大声で叫びを上げた。


「いたぞ! レオンハルト・ベッカーだ!」


 正面入り口の衛兵所は篝火を焚き、一個小隊……三十人程の人数で固められている。既に制圧されてしまったらしく、衛兵の姿はない。装備にばらつきがあることから、アスペルマイヤー伯爵の私兵であることは間違いない。正規の騎士でない。おそらく傭兵だろう。

 その場で馬首を巡らすと、怒号を上げる追っ手に背を向け、走り出す。

 小さく震えるエルを抱く腕に力を込める。

「怖いか?」

「いいえ! いいえ! エルは嬉しいのです!」

「よし!」

 戦場の空気に当てられたか、激したエルは俺の首に手を回す。

「もっと強くつかまれ! 振り落とされるぞ!」

「はい!」

 この緊迫した空気に、俺もまた激する。

 戦場の空気とはこういうものだ。生き死にを賭けた空気が、人をどこか、おかしなものにさせる。

「ああ、レオンハルトさま! お慕いしております!」

「よし! では地獄までついて来い!」

「はい!」


 あれ? 何か、今、どさくさに紛れて――


「こっちだ! レオンハルト・ベッカーは裏手に向かったぞ!」


 新しい怒号が上がり、俺は再び、馬の腹を蹴り上げる。

 蹄鉄が砂煙を巻き上げ、篝火の光が、はっきりと目に映る。裏手の非常用の門に人影は二つ。白いマントに赤いトーガを纏ったその姿は正騎士だ。敵ではないが――


「おし通る!」


 老朽化し、もろくなっていた門戸を突き破って飛び出す。二人の騎士は、この状況が飲み込めないらしく、大声で俺を呼び止める。


「少佐! 短気を起こされるな!」


 次の瞬間には、追って来たアスペルマイヤーの私兵と有無を言わさず斬り合いになるだろう。巻き添えを食らう彼らには悪いことをした。


 単騎、闇を駆ける。

 このままどこへ向かうというのか。

 尖った月が照らす道を砂塵と共に駆け抜けながら、俺はひたすらこの先の展望に思いを巡らせるのだった。



◇ ◇ ◇ ◇



 エルが、ぼんやりと蕩けたような視線で俺を見つめている。


「ああ……少佐……少佐は、エルのものでございます……少佐の蛇も、エルが食べてしまいたい……」


 わからんことを。

 俺の回りの女は、皆そうだ。理解できないことばかりを言う。

 街道を逸れ、細い山道に入った所で馬の歩みを緩める。

「エル、金は持って来たか?」

「はい! ああ……はい!」

 エルはまだ雰囲気に当てられたままでいるようだ。ひどく興奮している。潤んだ瞳が、きらきらと月明かりに照り返り、抱いていると少しいけない気分になってしまう。


 ここで一つ、決断をしなければならない。

 旅団に帰る道を模索するか。

 思い切って、このニーダーサクソンを捨てるか。

 地位に未練はあるし、アキラの信頼を裏切ることにも抵抗はあるが、俺が魅力を感じるのは後者の案だ。


 俺が運命を変えるとしたら、今この瞬間をおいて外よりない。


 幸い、金はある。そして、今の俺はついてる。営倉の見張り番がいい仕事をしてくれたのもあるが、あと少し手引きが遅れていれば今頃、死んでいてもおかしくない。

 そのついてる俺の判断は――


「エル、俺はこのまま国を捨てようと思う。また、その日暮らしの傭兵稼業に逆戻りかもしれんが、おまえも来るか」

「はい、はい……! エルはどこまでも少佐にお供いたします!」


 エルがまた、俺の首に回した腕に力を込める。


「少佐、口づけを……」

「……」


 エルには命をくれてやると決めている。今更、その行為に抵抗は感じない。抱き寄せながら、


「なあ……目を閉じてくれないか……?」

「そんなことをしては、少佐の顔が見えません……」


 苦笑いと共に、肩から力が抜ける。こんなことをしている場合ではないのだが――


「女と一緒とは、余裕だな。レオンハルト・ベッカー」


 憎しみの籠もった低い声。

 月夜が照らす一本の山道の向こうに、銀色の髪を短く刈り込んだ狼の獣人が騎乗して立ち塞がっている。

「誰だ……?」

「テオドール・フォン・アスペルマイヤー」

 驚いた。伯爵本人のお出ましだ。



◇ ◇ ◇ ◇



 ついていると思ったが……この逃げ場のない一本道で、しかも狼の獣人の追っ手に出くわすとは……俺も相当ついてないようだ。

 忌ま忌ましそうに鼻を鳴らす。

「ふん、あのエルフの言う通りだったか……」

 エルフ……脳裏に一瞬、イザベラの顔が浮かんで消える。

「大胆で狡猾なお前は、逃げ場のないここで追っ手をやり過ごす……半信半疑だったが、まあいい」

 こりゃあ、終わったぞ……。

 苦い笑いが込み上げる。何の準備もなく、剣一本でどうにかなるほど、狼の獣人は甘くない。

 そっとエルの耳に囁く。

「……最後のチャンスだ」

 エルは、熱く悩ましい吐息を俺の耳に吹きかける。

「まだです……まだ、レオンハルトさまは輝かれます……それに……逝くときは、共にと、エルは決めております……」

 まだ頑張れということか。エルもなかなか厳しいことを言う。

 しょうがない……。

 それでは、精一杯の努力をするか。永遠ならざる命のために。



◇ ◇ ◇ ◇



 赤い瞳に殺意を燃やし、テオドール・フォン・アスペルマイヤーは言った。

「レオンハルト・ベッカー。おまえを殺した後、その猫の娘も殺す」

 さすが狼。一度憎めば、徹底するというわけか。

 だが、今の俺は時間を稼がねばならない。万が一にも希望があるとするならば、それは救援の到着だ。それに賭けるよりない。

 故に、今はお喋りに興じる。

「無力な女を手にかけるとは、伯爵、狼のプライドはどこへ行かれたので?」

「ニンゲンごときが、我らの誇りの何を理解できるというのか」

 素晴らしい。

 テオドール・フォン・アスペルマイヤーは、狼の獣人の見本のような男だ。

 誇り高く、残忍で、それでいて容赦がない。

 混じり気のないそれに、感心してしまう。俺は、ここまでにはなれない。

「ジークには気の毒なことをしたと思っている。だが貴方の行動を、ジークが喜ぶとは思えない、いかが」

 本心を語る。少し聞きたいこともあった。

 雲の切れ目から月明かりが差し、筋骨逞しい伯爵の全身が露になる。

「あれには家督を譲ろうと思っていた。だが……ニンゲンのおまえに思いを寄せたばかりに、あの体たらく。『七度捕らえ、七度放つ』か。ゴキブリに虐げられた、狼の気持ちがおまえに理解できるか?」

 伯爵は岩を思わせる頑強な風貌に、怒りを漲らせ、語り続ける。

「あれの恥辱を雪ぐには、おまえの断末魔をもってほかよりない」

「俺を殺したからといって、ジークが元に戻るとは思えない」

「だが、我らの屈辱は雪がれる」

「一門、総意の決断ですか?」

「無論」

「ジークは? 彼女がそれを――」

「ジーク!」


 伯爵は突然大声で喚き散らした。震える肩は今にも吹き上がりそうな怒りの奔出を予感させる。


「ジーク! ジーク! ジーク! 娘を気安く呼ぶな! ニンゲン風情が!」


 この瞬間、俺は理解した。逃れられない死というものの存在を。


「連れて来い!」

「――?」


 伯爵が吠える。そして――



◇ ◇ ◇ ◇





 じゃらり――。


 伯爵の背後から、重い金属質の音が響く。

 数人の騎士に、大型の四足獣捕縛専用の鎖で拘束され、引き出されたのは――


「ジーク!」


 ここまで余程抵抗したのだろう。ジークの美しい銀髪は乱れ、衣服は所々汚れ、破れている。

「貴方という方は……!」

 伯爵は狂ったように大声で笑った。

「おまえの断末魔を聞き、血を浴びれば、娘もきっと正気付く!」

 ジークは、自由にならない五体を頻りに捩り、牙を剥いて周囲を威嚇していたが、俺の姿を闇の中に見つけると、


「レオ? レオだ!」


 嬉しそうに天使のような笑顔を浮かべる。


 胸が痛む。これは、俺がやったのだ。そして理解する。伯爵の胸の内を。

 伯爵は、この胸の痛みを、きっと何度も繰り返したのだろう。


 死んで当然――。


 だが、俺の胸の中で事の成り行きを見守るだけだった、エルが囁く。


「さあ、レオンハルトさま。戦い下さいませ、エルのために」


 なんということだろう。エルの胸には、愛と憎しみとが同居している。ここまで、彼女を歪めたのも俺だ。


 俺が、やったのだ!


 エルが笑う。これもまた、天使のような柔らかさをしている。


「レオンハルトさま。輝いて下さいませ、エルのために!」


 俺は剣を取る。

 そのときが来たのだ。


◇ ◇ ◇ ◇



 俺は、あんまり強くない。

 そもそも、この大陸においては、人間という種族は滅びつつある種だ。皆、形こそ俺と似通っているが、ドワーフやホビット、犬や猫の獣人。そんなものの血を引いている。

 それらは皆、人間より強く賢い。


「どうした! レオンハルト・ベッカー!」


 伯爵にたたき伏せられた俺は、血反吐を吐き捨て、ぎゅっと拳を握り込む。

 剣は、最初の一撃で弾かれ、どこか遠くに飛んで行ってしまった。

 どうやら伯爵は、素手で楽しみたいようだ。

 ……悪趣味な。そう思わずに、いられない。

 遠目に、両肩を抱くようにして、うっとりとこちらを見つめるエルの姿が見える。

 俺は立たねばならない。生きている限り、ゼロでない可能性に賭けねばならない。


「伯爵、少し手加減してくれませんかね……」


 不敵に笑って見せる。


「まだ減らず口を叩けるか」


 伯爵が地を駆け、迫って来る。

 その動きは、素早すぎて残像のようにしか見えない。

 俺は何度も宙に舞い、叩きつけられ、引き起こされ、そしてまた、飛ぶ。


 伯爵の狂ったような笑いが耳を衝く。何か喋っているようだが、それはもう、意味を成さない音としてしか聞こえない。


 俺は、あんまり賢くない。

 ガキの時分、何も知らずに騎士に憧れ、何も知らずにここまでやって来た。

 神父の親父は、俺には馬鹿みたいに甘かったから、

「精一杯やって来い」

 とか言って、少ない金をかき集めて、送り出してくれた。

 その息子が戦場で人を殺し、罪のない民間人を焼き殺したと知れば、親父はどんな顔をするだろうか。

 息子が恩知らずにも裏切りの上に身を立てたと聞けば、どんな顔をするだろうか。


 どこかから、哭いている声が聞こえる。


 酷く苦しそうで、奥底から絞り出すような、魂の慟哭だ。


 頭の奥で、少し鈍い音が聞こえた。どうやら、目が潰れたらしい。


「うあああああっ! レオ! レオーーーーっ!」


 とても苦しそうな悲鳴だ。俺はこんなに悲しい悲鳴を聞いたことがない。


「やめて、やめて下さい! 父上! 私が弱いのがいけないのです!」


 そんな悲しそうな声で、俺を送るのはやめてほしい。


 人という生き物は、戦う者だと親父から聞いたことがある。生きている限り、立って戦わねば、その日の糧を得られないとも。俺は、立っているだろうか。


「レオ! ああ、レオ! もう立つな! 立ってはいけない!」


 俺はどうやら、立っている。まだ、戦えるようであるらしい。


「やめろ! やめないか! それ以上、レオを傷つけてみろ! 殺してやる! 殺してやるぞぉっ!」


 だから……そんな苦しそうで、悲しそうな声で、俺を惜しむのはやめてほしい。


「許さない! 許さない! 許さない! 絶対に殺してやる!」


 ついに戦場の女神が吠えた。

 銀色の髪が、月明かりに映えて美しい。

 深紅の瞳に灯が灯り、月夜の闇に、鮮血の赤が、轟音と共に乱れ飛ぶ。


 最後に、一つ思い出した。

 親父が言っていた。


 人間だけが、不可能を可能にする。



◇ ◇ ◇ ◇



 雨が降っている。

 優しい雨。

 暖かい雨。


「ああ、ああ! 神さま! 夜空に輝くあの月のように、私の命を欠いてしまってもかまわない! だからどうか! どうか……」


 洒落たことを言うやつだ。

 銀の美しい髪が、俺の頬を嬲り、風に流れて行くのが見える。


「レオ、許せ! 許せ! 私が弱かった!」


 いつか見た、戦場の女神が泣いている。優しく暖かい雨は、彼女の流した涙であるようだ。

 どうやら、俺は、彼女に愛されているらしい。


「レオンハルトさま……おつかれさまでした……」


 苦しい。とても、痛い。もう終わりにしてほしい。


「まだです。まだ、レオンハルトさまは、輝かれます」


 そう言って、エルも泣く。女神に勝るとも劣らぬ悲しそうな表情で。


 俺はまだ踊らねばならないようだ。

 くるくると回る、この猫のワルツに合わせて。





◇ ◇ ◇ ◇





 宵闇。

 薄暗い室内で、エルとアキラが激しく言い争っている。

「……ふざけるな! キミは一体なにをしていたんだよ!」

「……」


 エルは、ぼそぼそと喋る。その声は俺の耳までは届かない。


「それは……でも、まさか戻るなんて思わないだろ!?」

「……」

「うるさいな! キミこそ、バックハウスをなんとかしたらどうなんだ!?」


 何の話をしている……?


「……」

「わかった。それはなんとかしよう」

「……」

「うん…うん…そうだな。ボクらが争うのは、馬鹿らしいな」


 この二人、一体どういう関係だ?


「……ジーク……危険……」

「あいつは殺しても、殺し足りないやつだ」

「…!」

「レオ!? 目を覚ましたのか!?」


 見つかった。



◇ ◇ ◇ ◇



 テオドール・フォン・アスペルマイヤー伯爵は、行方不明になった。

 正気を取り戻した伯爵の実娘、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの証言では、事の露見を恐れた伯爵は、国外に逃亡したということだ。


「伯爵? あのミンチみたいなのが、そうさ。けど、あいつ、余程、腹が立ったんだな。まあ、やつがやらないなら、ボクがするつもりだったけど」


 とはアキラの談だ。

 徹底的に痛め付けられた俺は左目を失い、若干ではあるものの、右足を引きずることになった。

 失った左目に関してはどうにもならないが、足の方は、訓練次第で走れるようにもなるらしい。これもアスクラピアの神官のおかげだ。


 ジークはアスペルマイヤーの門地を引き継ぐことになった。これからは、アスペルマイヤー伯、ジークリンデとなる。今は相続の手続きと新しく編成された『第五連隊』のとりまとめに忙しいようで、療養所にいる俺の元へは会いに来ない。

 だが、ひっきりなしに届く手紙の内容には、


 逢いたい。


 愛してる。


 迎えに行く。


 と、びっしり求愛の言葉が書き連ねられており、少し辟易してしまう。

 ジークの手紙を読んでいると、自分が女になったような気がする。


 イザベラは、俺の暗殺未遂事件を経て、実父クラウディオ・フォン・バックハウスの身柄を拘束した。事件に大きく関与した疑いがある、ということらしいが、俺はこの顛末に、黒い影のようなものを感じる。

 強く調査の必要を感じた俺は、そのことをアキラに具申したが、それは、


「あの性悪女が尻尾を出すわけないだろ? 今は休め」


 と一蹴されてしまった。

 現在バックハウス侯爵家の実権は、イザベラが掌握していると言っていい。彼女が、ジークのように家名と門地を引き継ぐ日もそう遠くはないだろう。

 模擬戦から、端を発したこの一件について、アキラは何か思うところがあるらしく、この件に関しては口が重たい。


 そのアキラだが、現在、俺が休養しているこの療養所にいる。


 海に近い療養所の一室では、エルが、

「どうぞ」

 などと呑気に茶など振る舞っている。

 アキラは、気分よさそうに茶の香りを楽しんでいるが、この光景が既に一週間連続で続いている。

「いつまでここにいるつもりですか?」

「どういう意味だ?」

 アキラの眉間に、びしりと深い皺がよるが、ここで引いてはいられない。

「団長が、なんでここにいるんですかって聞いてるんですよ」

「そんなことは関係ない。おまえは、黙ってボクを受け入れればいいんだ」


 なんと横暴な……。


「旅団はどうなるんですか? 帰った途端、書類仕事で忙殺される、なんてのは、俺は嫌ですからね?」

「しょうがないやつだ。その時は、ボクが付き合ってやる。安心しろ」


 駄目だ。理屈が通用しない。




 事件以来、アキラは俺の顔をまともに見ようとしない。茶を飲んだ後、テラスに腰掛け、潮風を浴びていたが、不意に、言った。


「ボクを見る目が、半分になってしまったな」


 アキラは頑なに、俺の方を見ようとはしない。

「しょうがないです。目玉一つで済んで、よしとしてますよ」

「よくはない」

「まあ、そうですね。二つあるから、一個くらい、いいやってものではないですね」


 自分でもよくないとは思うが、こういう性分だ。のんびりと答える。


「おまえの全てはボクのものだ。流れる血も、今正に打つ鼓動の一つですらも、ボクのものであるべきだ。それが……少し欠けてしまった。この責任を、誰に取らせればいいんだ……?」


 アキラが振り向く。両肩が猛烈な怒りに震え、毛が逆立っている。


「ボクが馬鹿だった……。高い授業料を払うはめになったが、もう、遠慮はしない。おまえにもだ」


 強すぎる愛は、治らぬ病に似ている。

 本来は健やかであるべきはずのものが、返ってそれを危険なものにしてしまう。


「早く治せ……そろそろ、出征の気配がする……」

「はい」


 アキラはまた、吹き付ける潮風の方に視線を戻す。


「旅団の正式名称を決めねばいけませんね……」

「うん……それなら……」


 二人、海を見る。


「何か、案がお有りですか?」


 第12旅団は、あくまでも便宜上の名だ。無くともよいが、出征するとなれば、あった方がよい。その方が皇帝の覚えがいい。

 アキラは、言った。


「クリソベリルキャッツアイ……」


 ――猫目石だ。


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苛烈に生きる弟の話を……
『アスクラピアの子』
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