ブルーレースフラワー
燃える燃える。全ては燃える、燃えて行く。
世界の全てを許さない。
邪まなもの。聖なるもの。全ての境なく、世界の全てを許さない。
その瞬間、世界は裏返り――
イザベラは、天高く、『より高い場所』から地上を見つめている。
この世界はもういらない。
イザベラ・フォン・バックハウスは違う場所へ行くことに決めたのだ。その課程で予期せず生み出してしまった『モノ』が、地上にて、どろどろともがき苦しんでいる。
古来より、エルフは神の血を引くといわれる。より濃い血と、より強い力を持つイザベラにしか理解できないものだ。
それは高度な次元で纏められた完璧な理論と世界の調合より成る。だが、失敗した。あの忌ま忌ましい狼の獣人のお陰だ。自らと繋がる『あれ』が世界に在る限り、イザベラは何処にも行けない。
しかし――それも炎の海の中、背後からの刺客により、沈み逝こうとしている。
「野良猫にやられるなんて、癪よねえ……」
憤懣やる方ないが、しょうことなし。
だが、これにて――秘中の秘は成った。
「それでは、行きますか」
そして迎えの者がやって来る。
くすんだ金色の髪に薄汚れたローブを纏う女。便宜上、彼女が名乗った名前はいくつもあるが、イザベラの知る限りに於いて、『彼女』はどのような存在よりも煩わしい。初めて見るが――
「アンタが神ってやつ?」
「貴女の記憶の中から言葉を選ぶとしたら、その概念が一番近いようですね」
『彼女』は疲れたように溜め息を吐き出した。続ける。
「お好みの場所は、ありますか?」
イザベラは一つ頷いた。
「印は置いて来たわ。そこよりも溯って、前へ」
「……『無言の愛』のことですか?」
レオンハルト・ベッカーに刻んだ22の呪印の一つにして、『無言の愛』を語るバックハウス家の家紋。
――ブルーレース・フラワー――
「さすがの性悪ぶりですね。猫の娘の奮闘も、狼の女の純愛も、抵抗は疎か知覚することすら許さず、全てを無に還す。まさに神の摂理すら恐れぬ所業、恐れ入りました」
イザベラは大きく欠伸して見せた。
「うっさいわね、このペテン師。眠たいこと言ってないで、早く送りなさい。さっさとしないと、キック入れるわよ?」
まるで反論することが無意味であるかのように、くすんだ金髪の女は辟易したように肩を竦めた。
「今のアンタは、私の使いっ走りよねえ」
イザベラの中に流れる『純血』の強く濃い血がこの奇跡を可能にしている。
レオンハルト・ベッカーに刻まれた『呪い』は実に22。適当にその数字を選んだのではない。必要だったのだ。制限は厳しいが、神を使役する術式は存在する。
そして、青い目の魔女は溯る。失われた『あの日』へと溯る。
相性は抜群によい。子宝にも恵まれる。家名は一時損なわれるが、返って高まる。既に運命は微笑みかけている。溯り、やり直すことができたなら――
全ては、彼女のもの。そして――
◇◇
…………………………
……………………
………………
…………
……
楽人たちの奏でる賑やかな楽曲に誘われるようにして、イザベラは覚醒した。
指先から髪の毛の先に至るまで、迸るような魔力の高まりを感じる。もう、以前までの彼女じゃない。
そして、世界の全てを許さない。
視線の先で、ジークリンデが数人の取り巻きに囲まれ、歓談している。
「…………」
イザベラは現在の状況を把握するのに、いくばくかの時間を必要とした。
先ず、朱の色をした自らの唇に触れ、すっきりとした紫のドレスを確かめ、続いてヒールの高い靴に視線をやる。
使用人が忙しなく動き回り、今宵招かれた賓客にワイングラスを渡して回っている。
「ジークリンデさまの十七回目の生誕記念の祝典に、ようこそ!!」
イザベラはグラスを受け取り、静かに笑みを返す。
(五年前……)
視線の先では、ジークリンデがワイングラス片手に、数人の取り巻きと歓談している。
「あらバカ犬さん」
青い瞳の魔女は片頬だけに笑みを張り付け、優雅に歩きだす。
――全ては、彼女のもの。
そして、この時はまだ黄金色のジークリンデの瞳が青い瞳の魔女を捕まえる。
「やあ、イザベラ。楽しんでる?」
イザベラは、返事の替わりにグラスの中身を地に振り撒いた。
「?」
ジークリンデは状況を理解出来ず、きょとんとした表情を浮かべた。
優雅に、しかし機敏な動作でイザベラは小さく身を沈めると、思い切り伸び上がるようにして、固めた鉄拳をジークリンデの顎に見舞った。
衝突の瞬間、赤と青の魔力の奔流が迸り、色鮮やかな花火が咲いた。
ジークリンデは吹き飛び、贅を凝らした様々な料理の並ぶダイニングテーブルにぶつかって、その場に突き伏した。――彼女は『殴り飛ばされた』のだ。
刹那、目を剥いた賓客たちの悲鳴で、周囲は、わっと喧噪に包まれた。
イザベラは、ジークリンデを殴り飛ばした右の拳を、痛そうにひらひらと振った。
「久しぶりね、ジーク。楽しんでる?」
「…………」
ジークは、なんとか上体を持ち上げたものの、その視線は焦点を結ばず、虚ろに宙を漂っている。
イザベラは、楽しそうに言った。
「あら、喋れそうにない? それでは、ごきげんよう」
その場を悠然と去るイザベラの足跡に、パチパチと赤と青の魔力の火花が散る。元が華奢なエルフでありながら、狼の獣人を打ちのめすほどの膂力の実現を可能にしたのは、溢れ出さんばかりの魔力の迸りだ。
まだまだ、こんなものじゃない。
あの日の激情が、今もイザベラの胸を灼いている。
ほんの少し小走りになりながら、イザベラは人気のない暗がりを目指す。そこから全てをやり直すのだ。
僅かに右の拳に走る痛みに目を遣ると、折れた骨が手の甲を突き破り飛び出してしまっていた。
「イヤねえ、痛い……」
向かった先には救急箱が『居る』。もう殆どイザベラのものだ。治させよう。
救急箱――今はまだ傭兵のレオンハルト・ベッカーは、人目を避けた暗がりで、招待された一般客の貴族たちに袋だたきにされていた。
叩きのめされ、身を丸くしながらも、黒い瞳は反抗的に輝いている。
「はいはい、そこまで」
その場に魔女は、躍り出た。
――全ては彼女のもの。
「とりあえず、死になさい」
レオを取り囲んでいた貴族連中が凄まじい悲鳴を上げた。
ある者の眦からは蛆虫が這い出し、ある者の耳からは百足が飛び出した。世にも恐ろしい惨劇の始まりだった。
レオは、ぽかんと大口を開けたまま座り込んだ姿勢で、目前に広がる地獄のような光景を見つめていた。
イザベラは、どんなもんだと言わんばかりに胸を張り、響き渡る阿鼻叫喚の中、ダンスの催促をする貴夫人のような仕草で右手を突き出す。
「治しなさい、救急箱」
「……?」
この悪夢のような現状を認識できないレオは、ぼんやりと視線を上げる。着衣は少し破れてしまっていて、胸元からはイザベラの印が覗いている。
「その胸の痣は?」
「え、あ……」
脅えさせてしまったようだ。レオの表情には、はっきりとした恐怖の色が浮かぶが、それでも何とか答える。
「こ、これは、生まれた時からあって……花が咲いたのは、今朝になってからのことで……」
「あ、そう」
――無言の愛が咲いている。
イザベラは鮮血の滴る手で恐怖に震えるレオの頬に触れる。
「もうっ、しょうがないわねえ。しゃんとしなさいよ。でもまあ……」
左の頬に、ねっとりとした魔女の祝福を受け、レオは息を飲む。
「これであんたは、私のものよ」
バックハウス家の家紋、ブルーレースフラワーの花言葉は『無言の愛』。
言葉にすれば安くなる。
陳腐になってしまうから。
あの日の激情が、今もイザベラの胸を灼いている。
「青い目の女は嫌い? エルフは誰も同じように映る?」
「……!」
青い目の魔女は微笑む。
「初恋、だったんでしょ?」
「……」
まだ若く、黒い目をしたレオンハルト・ベッカーは反抗的な視線を送ってくる。
言った。
「俺の心を読んだのか? この性悪女め」
「うふふ、いいじゃない」
今はまだ、幕間劇に興じよう。
語らず示せ。
それがバックハウス家の家訓でもある。イザベラ・フォン・バックハウスという女の矜持でもある。
その為ならば、運命すらも踏み潰して神の摂理すら蹂躙して見せよう。
安らぎを、平穏な日々を与えよう。
変わらぬ愛を、不滅の愛を与えよう。
この命ある限り――
――もっと、もっと、祝福してやる――
魔女の口元に狂喜の滲んだ笑みが浮かんで消える。
(あいしてる)
ここに――無言の愛が、咲いている。
ファイルを漁っていたら以前描いたものを見つけたので直してUPしました。
今のところ描く予定がないので、ここまで。思い付けば描き直すかもしれません。
これにて、『猫とワルツを』の世界は円環になって閉じます。
ここまで読んで下さったユーザーの皆様には感謝の言葉しかありません。
それではまた。
SDGの世界で待ってます。
本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。