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猫とワルツを  作者: ピジョン
第2章 遅れた勇者と壊れそうな姫
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第4話 覚醒

「それで、会議はどうでした?」

「うるさい。少し黙ってろ……」


 第12旅団の執務室では、アキラが俺の膝に座り、未だおかんむりの様子で口を噤んでいる。

 現場を見た馬鹿共には勿論、固く口止めしておいた。

「なんにも見てませんぜ、副長!」

 その口元は下世話に歪んでいた。部隊内で周知の事実になることは間違いないだろう。

「……わかってるのか、おまえは。そのうち、ほんとに殺すぞ……?」

 アキラは居心地が悪いのか、ぐりぐりと腰を揺する。

「はいはい、わかってます、わかってます」

「……相変わらず軽いやつだ……って、おまえ!」

「小官も男ですから」

 膝の上で腰を振られては、反応してしまう。悲しい男の性というやつだ。

「待て! 待て! おまえはよくても、ボクの準備はできてない!」

「ええ、いくらでも待ちますとも」

 慌てるアキラの表情を窺うことはできないが、耳まで赤かった。

 ……おぼこだな、こりゃ。

 こうなれば、猫将軍も可愛いものだ。からかってやろうかとも思うが、話が進まないので止めておく。


 アキラは、ぱっと飛びのいて、いつものタクトを取り出すとそれでブーツをぴしゃりと叩く。

「ぼ、ボクのことより、まずおまえだ。おまえのことを聞かせろ。留守中、アスペルマイヤーとバックハウスに動きはなかったか?」

 一瞬、バックハウスの、あのハンカチが脳裏を過る。

 だが、口に出してはこう言った。

「アスペルマイヤーからは何度か食事の誘いがありましたが、バックハウスの方は何も」

「食事!?」

 アキラの眉が、ぎゅっとよる。

「断ったんだろうな!?」

「はい」

「ならいいんだ……」

 そこで、またもやブーツをぴしゃり。手を後ろ手に、お尻を振って歩きだす。

「それで門閥貴族の方は、何か動きがあるか?」

「いえ、何も。先のアスペルマイヤーの行動と、門閥貴族は無縁のようですね。秘密裏に連絡を取っている様子もないですし。ただ……」

「ただ、なんだ? 言ってみろ」

 俺は一つ頷く。ここからは真面目な話だ。

「今はまだ、と思うべきでしょう。あなたが力を付ければ、向こうの方でも反応せざるを得ません。今の内に準備を進めないと」

「うん……うん……」

 アキラは執務室の中央で、タクトを片手に思い悩むふうだった。

「信用できる子飼いの部下を増やしましょう。内偵するにしても、身を守るにしても今のままではあまりに無勢ですし……」

「そうだな。その必要性はボクも考えていた……」

 アキラはなぜか歯切れが悪い。珍しいことに、決断を迷っているようだった。

「なにか懸念が?」

「うん……それは……逆に、裏切り者を抱えることになりはしないだろうか……」

「その懸念は向こうにもあります。力の差でいえば、向こうに圧倒されています。多少の不利はやむを得ないかと」

 一際大きくアキラは、ブーツを引っぱたく。きりりと表情が引き締まり、前を向いている。

「そうだな。おまえの言うとおりだ。早速、準備にかかれ」

「はい、実はもう人選を済ませてあります。段取りはこちらでいたしますので、一度直接会ってください。最終的な判断はお任せします」


 アスペルマイヤーを切って捨てた時に、悩みも切って捨てた。

 俺はアキラ・キサラギに自らの運命を託す。俺の死も栄光も、彼女と共にある。力の出し惜しみはしない。全力で事に当たるのは当然のことだ。

 戦場ではミスした者でなく、迷ったやつから死んで行く。遅れたやつから死んで行くのだ。俺は元傭兵だ。難しい判断は何度もあった。これでも思い切りはいいほうだ。

 そして、俺はまだ生き残っている。


 アキラは、ぴしゃっぴしゃっと二度ブーツを引っぱたいた。

「その癖、止めたほうがいいですよ?」

 アキラのブーツは、いつも右から駄目になる。いくら軍からの支給品とはいえ、少しもったいない。

「おまえ、使えるようになったな? 何かあったのか?」

「……」

 いまさら何を言う。俺を仕込んだのは、ほかならぬアキラではないか。副長として、いつでも細かいことに気を配れ、常に先を考えろと言ったのは自分ではないか。

 それが『支える』ということだと、何度言ったと思っているのだ。

「ふん……ボクのほうでも、ご褒美を考えなくちゃいけないな……」

 その言葉からは、よくないものしか感じない。

「アスペルマイヤーの件は?」

「万全です。百度やっても、負けません」

「よし」

 そしてアキラは、またお尻を振り振り室内を練り歩く。上機嫌で言った。


「楽しみだな!」


 アスペルマイヤーとの決戦が近づいている。




◇ ◇ ◇ ◇




 大隊長以上の指揮官の会合で、模擬戦での予定がアキラの口から発表された。


「明日の訓練は、第七連隊と第五連隊の模擬戦を実戦形式で行う。なお、第七連隊の指揮を執るのは副長だ。何か質問は?」

「団長はどうするの?」


 『第五連隊』の指揮官、アスペルマイヤーの発言は挙手と同時だった。


「ボクはその様子を見学させてもらう。部隊の実力を測りたい。この模擬戦の結果を踏まえ、第12旅団の新しい編成内容を考えさせてもらう」

「つまらない……逃げるの?」


 その言葉に、一瞬アキラは目を剥いたが、口元に凄惨な笑みを浮かべ、こう切り返した。


「たいした口を利くじゃないか、アスペルマイヤー。いいだろう。おまえがレオに勝るようなら、このボクが直々に相手してやろうじゃないか」

「いいよ、それでも」


 会議終了後、俺のマントを捕まえ、アスペルマイヤーはこう言った。


「ごめんね、レオ。手加減するから、前に出て来ちゃいけない。わかったね?」

「はい。お手柔らかにお願いします」


 口元に広がる笑みを実感する。

 俺は武人として、アスペルマイヤーになめられたのだ。

 どこまでも冷えたその思いは、恐ろしいほどに俺の戦闘意欲をかき立てた。


 実戦形式の模擬戦は、兵舎の外れにある練兵場で行う。訓練ではあるが、その内容は実戦形式で行われる。

 元傭兵のこの俺が一軍を率い、あの『万夫不当』と相対するのだ。

 戦争屋とは業の深いものだ。俺の胸にあるのは、僅かな逡巡と大きな昂揚。

 相手にとって、不足なし――。


 そして――戦闘の火ぶたは、ついに切って落とされた。



◇ ◇ ◇ ◇



 アキラには俺という副長がいる。しかし、俺には『俺』がいない。

 そのため、俺は大隊長の中から一人を選び、副長として機能させた。


「副長! やっこさん、綺麗な陣を敷いてますねぇ」


 アスペルマイヤーは練兵場のほぼ中央に全兵力を集中させ、『ファランクス』の陣を敷いている。圧倒的な突撃力を誇るこの陣は、正面決戦では無類の強さを発揮する。


「どーしやすか、副長」

「ふむ……」


 なるほど、確かにアスペルマイヤーは綺麗な陣を敷いている。

 陣というものは、外観を美しくすれば実用的でなく、実用的にすれば美しくない。

 アスペルマイヤーは最高の戦士であるかもしれない。だが、指揮官としては二流だ。


「斜線陣を敷いて対抗しろ。わかってると思ってるが……」

「へえ、ヤローは無視するんでしょ? 副長も心配症ですねぇ」


 さて、この圧倒的突撃力を誇る『ファランクス』の陣形であるが、側面の攻撃に弱いという特質を持つ。

 『ファランクス』の火力は前方に対して発揮されるものであり、それを受け流す斜線陣との相性はよくない。

 そして、ついに激突する『ファランクス』と『斜線陣』。

 『第七連隊』はアスペルマイヤー率いる『第五連隊』に側面から張り付くようにして戦線を構築した。


 戦闘の推移は俺の予想通りに展開する。


 第七連隊に防御力を削られた第五連隊は、ややもして縦長の戦列を見せはじめた。アスペルマイヤーを先頭とした本隊を孤立させる形で、だ。


「頃合いよし」


 俺が直々に手ほどきした一個中隊を新たに戦線に投入する。


「副長は行かねえんで?」

「戦場であれに遭ったら、すっとんで逃げるね」

「ちげぇねえ!」


 傭兵上がりの大隊長は勝利を確信したのだろう。大きく声を上げて笑った。


 アスペルマイヤーは最高の戦士だ。だがこの場合、それがよくない。傑出した彼女の突進力について来られる者などいない。

 一戦場を駆ける一戦士が、戦況全体を操る指揮官に勝てるはずがないのだ。惜しむらくは、アスペルマイヤーはそのことを知らずに、これまでの戦闘を戦い抜いて来たことだ。


「アルフリード側にも、優秀な指揮官は少ない、か……」


 やや離れた場所で、戦況を俯瞰する俺の目に入ったのは、孤立しがちだったアスペルマイヤーの本隊が、新たに投入された一個中隊におびき寄せられるようにして、さらに突出する光景だった。


「そろそろですね」

「ああ、そろそろだ」


 『第七連隊』全体にアスペルマイヤーは、無視しろと命令してある。相手にされない『万夫不当』はいきり立ち、目の前の一個中隊を追い回した。


 そして――アスペルマイヤーは、消えた。


「ぶはっ! はまりやしたぜ! あのヤロー」


 大隊長が吹き出すのと同時に、わっ、と鬨の声が上がる。


「終わったな……」


 戦端が開かれて、まだそれほどの時間は経ってない。だが、決着を知らせるラッパの合図に、第五、第七連隊は鉾を収め、後退して行く。

 俺は本隊として自ら率いた一個中隊とともに、騎士たちの集う喧噪に降り立つ。

 第五連隊の騎士たちは、一様に、きょとんとした表情で、


「え、もう終わったのか?」

「俺たち、負けたのか?」

「うそだろ、おい」


 とざわめき立っている。皆、不完全燃焼の顔付きをしている。あの『万夫不当』を戴く騎士たちだ。最強の誉れ高かろう。今日までは。


 練兵場の一角では、大きく空いた落とし穴に、やはり、きょとんとしたアスペルマイヤーの姿があった。

 その顔には、驚愕しかなかった。己の置かれた状況を理解できないのだろう。

 アスペルマイヤーは、数人の取り巻きの騎士と共に、深い落とし穴の中で頭上に掛かった鉄の網を見上げている。


「レオ……これは……?」

「捕まったんですよ、あなたは」


 鉄の金網越しに呼びかける。


「おつかれさまでした、大佐。訓練は明日もあります、今日はこれくらいにしましょう」

「…………」


 まだ昼飯時にもなっていない。

 くしゃり、とアスペルマイヤーの顔が歪む。


「あ、あああああああああああああああああああああああああ!」


 落とし穴の中で、砂埃に塗れた『万夫不当』は絶叫した。最強の戦士と謳われたその誇りも、きっと泥と埃に塗れたのだろう。


「卑怯者、卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者! なぜ、私に正面切って立ち向かわない!」


 俺はその叫びを無視した。

 戦場で負け犬の遠吠えほど、無意味で惨めなものはない。それを知らぬ彼女でもあるまいに。

 狼の本性そのままに、落とし穴の中で吠え続けるアスペルマイヤーは、惨めなだけでなく滑稽ですらあった。

 だが、まだ続くのだ。

 アスペルマイヤーの屈辱と絶望は。



◇ ◇ ◇ ◇



 二日目。

 怒りに燃えるアスペルマイヤーが用いたのは、またしても『ファランクス』の陣形だった。

 その意気やよし。素直にそう思う。一敗地に塗れたとはいえ、アスペルマイヤーの『万夫不当』が地に落ちたわけではない。

 ただ、それは正しくないだけだ。

「あちゃあ……やっちまってますねぇ……」

 俺の隣で控える大隊長が、可哀想なものを見るかのように顔を覆った。

「おい、二日目も予定通りに行くぞ」

「へえ」

 この日、俺が用いたのは、アスペルマイヤーと同じ『ファランクス』の陣形だ。


 おそらく、アスペルマイヤーは内心で会心の笑みを浮かべているだろう。

 同数、同陣形のぶつかりあいだ。小細工の入り込む余地はないと思っただろう。

 ただ、それが間違いだ。


 アキラ・キサラギが未だ、大佐であった時分、『第七連隊』での模擬戦は、常に本気で行われた。刃を潰し、布を巻いた模擬刀だが、全力で突き、叩けば骨折させ得るし、下手すれば殺しもする。

 アキラ・キサラギ曰く、練習で死ぬような弱卒はいらない。

 痛みというものは中途半端に与えれば、相手の怒りを誘発するが、ある一定の値を超えれば恐怖を抱かせるものであるらしい。

 アスペルマイヤーは気づいていない。『第五連隊』に根付こうとしている『恐怖』に。本気で打ち、本気で突き、本気で掛かってくる相手の恐怖は、強者である『万夫不当』には理解できない。

 この時点で、俺とアスペルマイヤーの戦力比は既に五分でない。

 もとより、指揮官としての能力は五分ではない。

 この日も『万夫不当』は相手にしない。

 前線は、アスペルマイヤーがまたしても突出する形となった。凹形に展開する『第七連隊』に取り込まれるという最悪な形でだ。

 勇猛果敢に前進するアスペルマイヤーは、気づいた時、退却する術を失い、行き着く先で見つけた俺に遮二無二突撃して、


 ――またしても、消える。


 すべては予定通りだった。呆気ないほどに。


 そして――――この日も、昼飯前に決着のラッパが鳴る。


「こりゃ、つまんねぇや」


 第七連隊の騎士たちが吐き捨てる。


 アスペルマイヤーはこの日も落とし穴の中。ぼんやりと、俺を見上げる。


「大佐、おつかれさまでした。また明日やりましょう」

「……」


 くしゃりと歪んだアスペルマイヤーの顔は、泣き笑いの表情だった。


 胸が痛んだ。その表情は、『万夫不当』がしてよい表情ではない。哀れを誘う表情は、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーがしてよい表情ではない。

 アキラの小躍りする姿が浮かぶ。


 そして、ここからがアスペルマイヤーにとっての地獄のはじまりだ。



◇ ◇ ◇ ◇






 七日目。

 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは、第五連隊のほぼ中央にある本陣で、ひっきりになしに飛び込んでくる急報を聞いている。

 模擬戦、三日目以降、指揮官として本隊に留まった結果がこれだ。

「第一大隊、押されています!」

「第四中隊、降伏しました!」

「第二中隊、降伏しました!」

「第二大隊、連絡が取れません!」

 その急報に、ジークは右往左往を繰り返す。彼女が駆けつけたところで、敵は逃げて行くばかりなのだ。

 慌てて突っ込めば、また落とし穴に嵌まってしまう。

 今はもう、練兵場のそこかしこに落とし穴が掘られているような気がして、ジークは歩くのにすら気を使うありさまだ。


 二日連続で穴に嵌まって、捕縛の憂き目を見た大将分を見る騎士たちの目は冷たい。


「大佐。また明日……」


 レオのあの言葉を、もう何度聞いた? 

 ああ、でもまた負けたら、レオに会えるかも。

「隊長! 至急救援を!」

 第五大隊の騎士たちの目が白い。口に出しこそしないが、目が言っている。


『おまえは、なにをしているんだ?』

『役立たずの狼め』


 敵ではなく、味方からのその重圧がジークの『万夫不当』を押し潰しつつある。


 そして――レオンハルト・ベッカーに負けるとは、どういうことかジークは理解する。

 小鳥と愛でたあの青年は、どうやら鷹か鷲のような猛禽類の類いであったらしい。それに敵わぬ己は、アキラ・キサラギの足元にも及ばぬ。


 世界が揺れる。


 弱者が強者に付き従うのは、世界の理だ。そう教えられて生きて来た。それしか知らず、生きて来た。

 圧倒的な強者としての生のみを許されて来たジークは、徹底的な敗北の衝撃に押し潰されつつある。


「わ、わたしは、いっしょうけんめいやっている」


 ジークの口から溢れ出した言葉は子供のように拙く、か細かった。


「だ、だから、そんなへんなめで、みないでほしいんだ」


 そして、最後の報が飛び込んで来る。

「隊長……包囲されて、ます……」

「うん」

 もうどうしていいか分からない。ジークはひたすら頷いた。

 この七日間で、ジークは六度の敗戦と六度の捕縛と六度の、


「大佐、また明日……」


 を耳にしている。

 自身が『小鳥』と呼んだ男の手によって、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの『最強』の自負心は潰え去ろうとしている。

 己が最強であることを疑うことはなかった。だがそれはもう、過去の思い出になりつつある。

 周囲の騎士たちも同様であるようだ。力なく、言った。

「降伏を、勧告されてます……」

「うん」

 ジークは頷いた。


「これは、れんしゅうだから、まけたっていいんだよ」



◇ ◇ ◇ ◇





 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの敗因は、彼女が本物の『万夫不当』ではなかったことだ。

 勇将には勇将の、知将には知将の戦い方がある。

 たとえ、敗戦の恥辱に塗れようと、勇将は勇将であればそれでよかったのだ。

 七日間の実戦訓練を終え、数人の騎士を伴い、ジークの天幕に向かう。

 古典に有った故事に倣い『七度捕らえ、七度放つ』。俺がアキラにした献策の正体はそれだ。これによって狼の牙を折り砕く。

 ジークに八度目はあるだろうか。


 『不撓不屈』の強さを、『万夫不当』は持ち合わせているだろうか?


 訓練三日目からは、一方的な展開だった。

 前線に出ない『万夫不当』に意味はない。『第五連隊』の騎士たちにとって、ジークは弱みでしかなかったろう。指揮官として未熟なジークは、重荷でしかなかったろう。

 『第五連隊』の騎士たちは、皆、満身創痍で疲れ切った表情を浮かべている。右往左往するばかりで、解決策を持たぬ指揮官に引きずり回された結果がこれだ。


「あ、あの副長、まだ訓練は続くんですか……?」

「敬礼せんかぁっ!」


 怒鳴ったのは、俺の取り巻きの騎士たちだ。

 特に命令したわけではない。彼らの方で、『第五連隊』の騎士たちを、己と五分の立場だとは思わなくなっただけだ。

 アキラ・キサラギの下に、弱卒はいない。

 『第五連隊』の方でも、俺たちは恐持てに見えていることだろう。


「おまえら、いじめるな」


 意地悪でなく、真面目に窘める俺の声に、騎士たちが大声で笑い出す。


 戦士であることも出来ず、指揮官であることも許されなかったジークは、どうなったろう。

 そのジークは、己が設営した『第五連隊』の天幕のどこにも姿が見えなかった。

「おい、アスペルマイヤー大佐は何処だ?」

「さ、さぁ?」

 その問いかけに、傷ついた騎士たちは首を傾げる。

「おまえらの大将だろう。知らんとは何事だ」

 唇を噛む。

 自身の策とはいえ、これは少し効き過ぎだ。部隊全体にジークを軽視する空気が出来上がってしまっている。


 この練兵場では、様々な訓練が行われる。

 急勾配を利用して物資の運搬訓練を行う急坂路の向こうで、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは見つかった。

 斜面に隠れるようにして蹲り、膝を抱えて座り込んでいる。

「ジーク……?」

「あっ、レオ!」

 俺の呼びかけに応じ、ぱあっ、とジークの顔に無邪気な笑みが広がる。

「どうしたんですか、こんなところで……」

 目頭が熱い。

 俺がやったのだ。


「うん、ジーク、いっぱいいっぱいまけちゃったから、せめてかくれんぼでかとうとおもって……」


 ジークは照れ臭そうに、鼻の頭を擦る。

 俺の知っている『戦場の女神』は、もういない。


「そうですか……すいません……俺、見つけるの遅れちゃって……」


 なんともろい。


 なんとあっけない。


 狼のプライドは、きっとこの敗北の大きさを受け止め切れなかったのだろう。


「それじゃあ、ジークのかちでいいかなあ」

「いいですとも」


 熱い涙が、次から次に湧いて来る。

 その涙を、ジークがぺろりと舌で嘗め取る。


「レオは、やっぱりかわいいね。ジーク、こんどはもっとてかげんしてあげるから」

「はい」

「レオ、すきだよ」

「はい」


 このようにして、俺は、七日間の模擬戦を終えた。


 失ったものは大きく、得るものは何もない戦いだった。



◇ ◇ ◇ ◇





 アキラ・キサラギは模擬戦の結果に大層満足で、二足のブーツを取り替える嵌めになった。

「レオ! レオ! よくやった!」

「……」

 俺は嬉しくも何ともなかった。

 一方のアキラは、手にしたタクトで狂ったようにブーツを叩き、執務室で一頻り笑いに噎せた。

「見たか!? アスペルマイヤーのあのつらを!」

「…………はい」

 著しく精神が退行したジークは、俺のマントを掴んで離さず、子供のようにだだをこね、離れようとしなかった。

 その様子は、アキラの嗜虐心を大いに満足させたようだった。

「あいつは、もう終わりだな!」

「…………はい」

 これは予想を超えた、最悪のケースだ。

 戦闘に関する限りプライドの高いジークが、模擬戦での徹底的、なおかつ屈辱的な敗北を許せず、今後の軍務に大きく差し支えを残すのではないか、という懸念は確かにあった。

 だが、まさか精神を病んでしまうほどとは思わなかった。

「さあ……さあ! レオ! ご褒美は何がいい!?」

 有頂天で浮かれるアキラだが、ことはそんなに単純ではない。

「なんでもいいぞ!?」

「はあ……」

 俺はため息を吐く。それがまるで宿命ででもあるかのように。

 アキラは鼻息を荒くして興奮していたが、しばらくして何か思いついたように、ポンと膝を打った。

「そうだ! ボクを孕ませるか!?」

「ぶばっ……ごほっ! ごほっ!」

 一足飛びに予想を超えた発言に、俺は激しくむせ返った。

「な、なんでそうなるんです?」

「気にするな! いいんだよ! おまえはそれだけの結果を出したんだ!」


 駄目だ。アキラの目が、いつかのように怪しくなってる。


 先日、この状態のアキラを放置して、大変な目に遭ったのを思い出す。エドガーのような気の毒な犠牲者を出すわけにはいかない。


「アキラ、落ち着いて下さい。一度、座りましょう」

「椅子でするの? いいよ! ボクはもう、準備ができてるからね!」


 やばい。口調が変わり始めた。これは……とんでもないことをやらかす前兆だ。


 椅子の上で俺に馬乗りになったアキラの背を摩りながら、腰のカタナを外し、机の向こうに押しやる。……なんとかに刃物は、とても危険だ。


「ボクが脱ぐ? それとも脱がせる?」

「……」


 もう、嫌とは言えんのだろうな、きっと。

 不意に、思う。

 もし、ジークを潰したのがアキラだったらどうなっただろうか、と。

 きっと、ジークは練兵場の露と消えていただろう。アキラならそれをやる。理由は練習中の事故とでも、なんとでも言える。

 そう思ったからこそ、俺は進んでジークと戦ったのだ。


「アキラ、落ち着きましょう。俺は逃げませんから」

「ん? あ、うん。そう? そうだね。がっつくのは、みっともないよね」


 頬を上気させたアキラの腹をさすってやる。


「んん……なんか、それおちつく……」


 アキラは、俺を愛しているのだろうか。

 すくなくとも俺は、この狂暴な求愛には辟易していて、彼女を愛そうなどとは思えない。

 アキラは、ジークと戦わなかったのではない。戦えなかったのだ。

 ジークを殺せば、俺は決してアキラを許しはしない。だからこそ、アキラは己の手による決着を避けた。今なら、それがよく分かる。

 もったいないことだ……。

 おそらく、アキラ・キサラギという人物は時代の寵児であり、風雲児の一人なのだ。俺より若くして幾多の戦場をくぐり抜け、下級貴族の出身でありながら、将官の地位に着いたことが、それを証明している。

 それが俺のような、凡庸の範囲から出ることのない男に思いを寄せるなど。


「アキラ、しばらくこうさせてください」

「……え? あ、うん」


 アキラを抱き締める。

 俺は、この余りにも狂暴なアキラの思いを、大事に取り扱わねばならない。この時代の風雲児が、俺ごときのために道を誤らぬように。

 いつか、俺という名のくびきから逃れ、自由に羽ばたくその日まで。


「まるで、夢のようです……」

「……! お、おまえ……」


 これは夢だ。

 アキラ・キサラギという時代の風雲児が、俺に見せるうたかたの夢だ。

 平民出の俺が士官の身分にあることも。

 あの万夫不当を撃破し得たことも。

 俺は彼女に付いて行けるほど優れた男ではない。いつか、武運拙くして消え去るだろう。自分のことだ。確信に近い思いがある。

 だが、その日までは彼女の傍らにあり、共に夢を見ていたい。

 どこまで行くのか。そんなことは聞かない。

 つまらぬ男の俺は、どこまでも連れて行かれるだけだ。



◇ ◇ ◇ ◇



「こんな気持ちが、あったんだな……」

 ぶつぶつと、アキラは夢見心地で呟く。

「ボクを抱いていると、夢のようか……」

 はーっと、アキラは悩ましげな息を吐き出した。

「すごい……すごいぞ。今のボクは充実している。今なら、なんだってやれる。なんだってできる気がするぞ……!」


 そこで俺は、一つ大きく手を打つ。


「それもいいでしょう。ですが、今は目の前のことに集中しましょう」

「……そうだな。勢いで関係を持つのはやめよう。うん、この気持ちは、もっと素晴らしいものだ。それに気づけた。今は、それでよしとしよう」


 お、おお……あのアキラが理性的だ。落ちてるものでも食べたのだろうか。


 そこでアキラの眉間に皺がよった。

「おまえ、いま、とても失礼なことを考えているんじゃないか?」

「いえ、そんなことは……」

 一つ咳払いして、続ける。

「アスペルマイヤーの後任をどうなさいますか?」

 アキラは意外そうに答える。

「いや、あれはあのまま使うぞ?」

「え? しかし、アスペルマイヤーは……」

「壊れてるな。それがいいんじゃないか」


 意味がわからない。胸に、どろりと粘着質の液体を流し込まれた感じがした。


「い、今のアスペルマイヤーが職責を全うできるとは思えませんが……」

「だから、それがいいんじゃないか」

「……」

「どうした?」


 わからない。アキラが何を考えているのか。


「……アスペルマイヤーを嬲るのは、おやめください……」


 アキラは鼻を鳴らした。


「ボクに動物虐待の趣味はない。とにかく、これは決定事項だ」

「……」

「副長!」


 怒鳴られ、身が竦む。


「副長! 返事をしないか!」


 そうであることを迫るかのように、俺を怒鳴ったのは、アキラ・キサラギ。


 ――時代の風雲児だ。



◇ ◇ ◇ ◇



 イザベラ・フォン・バックハウス率いる『第八連隊』との間に予定されていた模擬戦は中止となった。

 『第八連隊』とやり合っても勝つ見込みは十分あったし、その仕込みは既に終えていた俺だが、それでもイザベラの反応は以外としか言いようがなかった。


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤー……『万夫不当』を完膚なきまで叩き伏せた俺だが、なによりもイザベラが怖かった。

 戦友であり、竹馬の友でもあるジークを心を壊す程までに追い詰めた俺を、イザベラは決して許しはしまい。その思惑からだ。

 しかし、その反面で俺はイザベラに罰してもらいたかった。

 恩知らず、恥知らずの裏切り者と、切り捨ててもらいたかった。そうしてもらえれば、この胸に押し寄せる良心の呵責からも、いくらかは解放されたものを。


 だが、イザベラはそうせず、壊れたジークを見たときも、少し驚きはしたものの取り乱した様子はなく、静かにこの後予定されていた模擬戦を断った。

 ジークを見たイザベラは、憤慨するか警戒するかのどちらかであろう。そのどちらにしても、敵対は避けられまいと踏んでいた俺は、いささか肩透かしを食らう結果となった。


 不気味。


 アキラはそう評した。俺も同様に感じた。

 『性悪女』バックハウスが何を考えるか、『知恵者』バックハウスが何を企むのか。


 執務室に置き去りにされた、あのハンカチが今も脳裏から離れない。


 イザベラはその後の部隊編制にも反対する様子を見せず、己の子飼いである『第八連隊』の大幅な人員入れ替えに同意した。



 『第五連隊』の騎士たちは、己らの指揮官である『万夫不当』を徹底的に叩き潰した俺を恐れるようになった。

 俺という鞭。それに対し、飴を与えたのはアキラだ。模擬戦終了後、疲れ切った『第五連隊』の騎士たちに特別休暇という名の愛想を振り撒いた。

 自然、人望と好意はアキラの元に集まる。嫌悪と恐怖は俺の担当だ。自ら立てた策とはいえ、いささか気の滅入る話だ。

 そんな俺に、『猫の懐刀』という迫力に欠ける二つ名を贈ったのは『第七連隊』の馬鹿共だ。ありがたくもなんともない。


 大きな違和感を感じるものの、『第五連隊』と『第八連隊』の取り込みは順調に進んでいる。




◇ ◇ ◇ ◇




 夜。

 静かに自室で思索に耽る俺の元へ、エルが一日の終わりを告げにやって来る。


「少佐、そろそろ、おやすみくださいませ」


 静かに頷く俺の背中に、エルが、そっともたれかかる。


「模擬戦で、あの『万夫不当』に打ち勝たれたそうで……」

「……」


 そのときが来たのだろうか。だとすれば、ありがたい。

 壊れたジークの、天使のような微笑みは、どこまでも俺を苛み、苦しめる。

 エルが抱き着いて来る。


「レオンハルトさまの、ただ一つは、エルのものです」

「……」

「レオンハルトさま、もっと、輝いてくださいませ。エルのために」

「……」

「そのときは、きっと……」


 そして、一日が終わる。



◇ ◇ ◇ ◇



 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは、以前と同じように『第五連隊』の隊長として第12旅団に留まっている。

 表向きこそ隊長だが、現在の彼女の執務室は託児所同然の扱いを受けており、出入りするのは数人のメイドだけだ。実質の執務はアキラと俺が執り行っている。

 自然な流れで『第五連隊』の騎士たちはアキラに依存するようになって行った。


 著しく精神を退行させたことにより、判断能力のほとんどを失ったジークが、なぜ軍に留まることになったのか。

 それは、本人の強い希望と彼女の父親であるアスペルマイヤー伯爵の利害が一致したためだ。

 全てを失った現在においても、俺と共に在りたいと願うジークと、人間である俺に完膚なきまでに敗れ、自己を崩壊させた娘を忌避するアスペルマイヤー伯爵。


 アキラが、そのジークを使うと言った。それが全てだ。


 旅団内で定期的に行われる佐官級の会議は、副長の俺と大佐であるイザベラが中心となって執り行うことが多くなった。

 この日の会議内容は、実際に旅団による『統治』が行われた際の部隊編制についてだった。

 そこで、事件は起こることになる。



◇ ◇ ◇ ◇



「その際は、旅団――三個連隊を九個大隊に分け、一個大隊を管理、行政用の一単位とする。そこまではいいわ。それで……指揮官には、どの程度の権限を与えるのかしら?」

 ジークの崩壊以後、イザベラの態度に変化はない。会議中の発言も至極真っ当なものだった。足を引っ張るか無視のどちらかだろうと思っていた俺は、ペースを狂わせられっぱなしだ。

「そうですね……小官は政治家でないので、何もいえませんが……」

「あんた、それで戦時中の旅団の副長が勤まると思ってんの?」

 俺を責めるイザベラは、なぜか上機嫌だ。

「す、すいません。勉強しておきます……」

「しょうがないわねぇ……私が考えるに――」


「ここはつまらない。レオ、そとにいこう」


 にこにこと笑顔で発言していたイザベラを遮ったのは、ジークだ。

 模擬戦以降もアキラが権限を取り上げなかったため、現在も会議に出席している。そのジークだが、会議中はいつも俺の隣に腰掛ける。

「どうしました、ジーク?」

 鷹揚に答える。これは俺の罪の証しだ。逃げるようなことはしない。

 イザベラは押し黙り、表情を消して静かにこちらを見つめている。

 会議中のジークは強いストレスを感じるようで、よく爪を噛む。噛みながら言った。


「たびにでよう、レオ。ジークがゆうしゃ、レオがおひめさまをするんだ」


 息が詰まった。これは俺がやったのだ。俺の責任なのだ。

 この余りに痛々しい発言と光景に、皆一様に目を背ける。

「は、はい、ジークは勇ましいですね。お供いたし――」

 涙が溢れる。アキラはこれがやりたかったのか?

 わからない。

 そして、俺には耐えられそうにない。

「レオは、なきむしだね。でも、かわいいよ」

「すいません、すいません、ジーク……」

 嗚咽が止まない俺の涙を、ジークがなめ上げる。

「レオ、すきだよ」

「はい」


 その次の瞬間――会議室内に、激しい炸裂音が響き渡った。


 ジークを除いたほぼ全員が、何事かとそちらを見やる。


 ――イザベラ・フォン・バックハウスだ。


 右手に持ったタクトを会議用の円卓に叩きつけたままの姿勢で、俯いている。

「……バカ犬」

 俺は耳を疑った。今、イザベラは何と言ったのだ?

「……なんで、あんたみたいな、バカが、ここにいるのよ?」

 室内は水を打ったように静かだった。その中で、一人イザベラだけが、押し出すようにして言葉を吐き出す。

「もう友達でもなんでもないわ……」

「……?」

 ジークは首を傾げる。自分に言われていることが理解できないらしく、不安そうな面持ちで、俺の袖を引っ張る。

 イザベラが、すっと顔を上げた。


「あんたみたいなバカ、死んだらいいのに」


 そう呟いたイザベラは、相変わらず大理石の彫像のように美しかったが、その深く青い瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。ジークを、ただ、その存在だけを許された路傍の石のように見つめている。

 俺はアキラ以外で、こんなに恐ろしい表情をする女は見たことがない。

 アキラが炎だとすれば、イザベラは氷だ。

 そのイザベラの放つ刺さるような『無関心』が、冷気のように室内に立ち込めている。


 ごくり、と息を飲む。


 世界は全ての生命活動を停止したかのように静かだ。その停まった世界の中で、士官の何人かの視線がある一点に集まり、はっとしたように逸らされる。

 俺の隣。ジークだ。

「…………」

 ジークは口元だけに薄い笑みを浮かべている。

 壊れている。アキラはそう表現した。だが、なにか違うような気がした。羽化する前の蝶が、蛹として準備期間を必要とするように……ジークも一時の待機時間を必要としているだけではないのだろうか。

 ジークは、ゆっくりと瞬きして、イザベラを見つめ直したその瞳の色が、

 一瞬――鮮血の紅に見えた。

 ひどい胸騒ぎがした。世界は依然として、イザベラの冷気が固めたままだ。それを鮮血の紅が覆う時、何かが終わる。そんな気がして――

「や、やめてください」

 言えた。俺は、ほっと息を吐く。

「ジークを怒らないでください。俺が全部、悪いんです。ジークは悪くない」


 なぜか、ふっ、と場の緊張が薄れる。


「馬鹿じゃないの、あんたも」


 イザベラの口調には強い苛立ちが滲んでいる。

 だがその表情は深く青い瞳を大きく揺らし、とても傷ついたように唇を震わせている。


「しらけたわ」


 そう吐き捨て、イザベラは早足で会議室から飛び出して行った。


 会議に出席していた一人の士官が、ぽつり、と呟く。


「副長……少し、女性関係を整理された方がよいのではないでしょうか……?」


 なんのことだ? 自慢じゃないが、ここ暫くは身奇麗にしていたつもりだ。


「わるいまじょは、ジークがたいじするよ」


 ジークは笑顔すら浮かべ無邪気に言うが、そこからは不吉なものしか感じない。

 不吉はアキラだけで十分間に合っている。


 ジークを第五連隊の士官たちに任せ、俺も会議室を後にする。

 向かうは『第八連隊』の兵舎。

 イザベラ・フォン・バックハウスの執務室だ。



◇ ◇ ◇ ◇



 『第八連隊』は通常の部隊とは違い、大きくその編成内容は異なっている。

 元々、女性が多く、戦場では兵站や工作等の役割を担うことの多かった『第八連隊』であるが、先の部隊編制以来『第八連隊』はその特色をさらに色濃くすることとなった。

 どうやら、アキラは戦時中のバックアップを、全てこの『第八連隊』に押し付けるつもりであるらしい。

 うまい手だ。

 イザベラから実質的な軍事力を削り行動を制限する一方、戦時中の役割を分担することで効率化を図っている。無論、これにも問題がないとは言えないが、今のところ打てる手段では、有効な手段の一つであることは間違いない。


「副長! 副長!」


 急ぎ『第八連隊』兵舎に向かう俺を、一人の女性士官が呼び止める。

「なんだ?」

「副長、どこへ行かれるので?」

 ぴしりと敬礼して背筋を伸ばす女性士官は帯剣していない。きっと、内務専門の軍関係者だろう。

「第八連隊の兵舎だ。バックハウス大佐に用件がある」

「そ、それは……キサラギ団長の許可を取っておられるのですか?」

 女性士官は、困ったように眉を寄せている。

「俺は副長だ。兵舎内を歩くのに誰の許可もいらんだろう」

「え?」

 固まる女性士官。そして、なぜか嫌な予感がする。

「副長に限り、第八連隊の兵舎への出入りは禁止されていますが……」

「なんだと……!?」

 俺に限り……? 動悸を伴う強い目眩を感じた。


「い、いつからだ?」

「ずいぶん前からですよ?」


 アキラは何を考えているのだろう。己の片腕たる俺の行動を制限して、何か得になることでもあるのだろうか……。

 頭を抱え、ふらつく俺に「失礼します」と言って女性士官は去って行く。

 こんな馬鹿なことが、軍で許されていいのだろうか?

 いいわけがない。俺はアキラの戯言に行動を制限される必要を感じない。だが、足取りが重くなるのだけはやむを得ない。


 そして俺は歩きだす。大丈夫さ、きっと。そう固く信じて。



◇ ◇ ◇ ◇



 第八連隊隊長、イザベラの執務室は、アキラのそれよりはやや小さいものの、洒落者の彼女らしく、瀟洒な仕上がりになっていた。

 日光が入るように、壁には高価なガラスを多く使っており、壁紙やインテリア等にも気を使っている。兵舎としては実用的ではないが、長居する分には非常に居心地がいい。

 その居心地のよい執務室の中で、イザベラ・フォン・バックハウスが、苛々とペンを片手に弄んでいる。


「なんの用?」


 顔を見るなり、ご挨拶だ。めげそうになるが、言いたいことがあってここに来たのだ。引くわけには行かない。

「先ほどの件です」

「ああ……」

 イザベラは気のない返事をして、ふいっと視線を逸らす。

「会議中、発言を遮られて腹を立てるのは分かりますが、ジークは貴女にとって戦友であり、幼なじみの間柄でしょう。もう少し、柔らかい態度で――」

「ジークを目茶苦茶にした、あんたにだけは言われたくないわ」

「!」

 目を逸らす。イザベラの言うとおりだ。俺は付け上がっていた。その思いから、口を閉ざす。

「…………」

「ちょっと、やめなさいよ。その辛気臭い顔」

 イザベラは苛々と金髪をかきまわした。

「……あんたの言いたい事はわかってる。少し、大人気なかったかもしれないわ……でも、我慢できなかったのよ……あの、ジークの……」

 そこでイザベラは言い辛そうに口ごもる。ちらちらと俺の顔を窺いながら、

「だから、もうやめなさいって。あんたは、好きでジークをあんなふうにしたんじゃないんでしょ?」

「いや、俺は……」

 勿論、そうだ。しかし、あのジークを相手取り、優勢に事を進めて行く中、俺が昂揚を覚えなかったと言えば嘘になる。だからこそ、俺という男は罪深い。

 イザベラは忌ま忌ましそうに言った。

「どうせ、あのおかしな猫の差し金でしょ?」

「……」

 その質問に答えることは出来ない。肯定も否定もしない俺は、きっと卑怯者なのだ。


「だから、その泣きそうな顔……!」


 イザベラはそこで押し黙り、苛々と爪で机を引っ掻いた。

 目を閉じ、ひたすらイザベラの言葉を待つ。


 かり。


 イザベラが机を引っ掻く音が耳を衝く。


 かりかりっ。


 ひたすら目を閉じ、イザベラの裁きを待つ。


 かりかりかりかりかりかりかりかりっ、かりかりかりかりかりっ、かりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりっ


 何が、起こっている……?


 ごくり、と唾を飲み込む。とてもでないが、目を開けることができない。


 目を、開けたくない……。


 かりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかり


 そして――


 がりっ。


「ねえ、なんで……?」

「……」

「どうして、あんたは、あのおかしな猫を選んだの?」

「……」


 冷たい汗が全身に伝う。脳裏に、いつかのアキラの狂った笑みが浮かび、消えて行く。


「どうして、私を選ばなかったの? あのときのように……」


 また、唾を飲む。


「あ、あのとき?」

「そう、あのときのあんたは、ジークじゃなく、私を選んだ……」


 なんのことだ? だめだ。わからない。


「なんで、猫なのよ。今回も、私を選べばよかったじゃない……」


 そしてまた――


 かりかりかりっかりかりかりかりかりかりかっりかりかりかり……


「……そういえば、これも猫繋がりよね。偶然かしら……」


 猫繋がり。そう聞いて、浮かぶのはエルの顔だ。

 四年前、エルの助命のために、イザベラを頼ったことを言ってるのだろうか。

 ジークは優生主義だ。弱者の命に拘泥しない。消極的な態度に見切りをつけ、あの時、俺は確かに、イザベラ・フォン・バックハウスを頼った。

 だが、そのことが、今、関係あるのだろうか。


「これでも、あんたのことが心配なのよ。なのになんで、なんで猫を選んだの?」


 かりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっ


「ねえ、どうして? どうして、私を選ばなかったの? ねえどうして? どうして? ねえ、どうして?」


 かりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっかりかりっ


 誰か、たすけてくれ……


 なぜ、こうなった……?



◇ ◇ ◇ ◇



「あら……?」

 時が止まった世界。

 止めたのは、イザベラ・フォン・バックハウスだ。今の彼女からは、アキラに感じるものと同種の恐怖を感じる。

「ねえ、救急箱。大変なことになっちゃったわ」

 一度、唾を飲み込み。覚悟を決めると、ゆっくりと目を開く。

 そこでは、右手を血まみれにしたイザベラが薄い微笑みを浮かべていた。

 狂気に彩られて、なおイザベラは美しかった。

 エルフという生き物は確かに美しいが、見方を変えると、こんなにも恐ろしいものだったのだ……。

 どうやら、俺は、この飛躍し過ぎた現実に着いて行けてないようだ。現実味のないこの光景に、一歩も動けずにいる。


「……救急箱。治しなさい」

「は、ははははい」


 くそっ、まただ。また、びびっちまってる……。

 大きく深呼吸して、動悸を鎮める。『アスクラピア』の力の行使には集中力が必要だ。

「あんたって、結構、便利よね」

 挨拶をする貴夫人のように差し出されたイザベラの手を取りながら、怪我の様子を診る。

「……三枚、剥がれてます。爪の再生はできませんが、いかがなさいますか?」

「そうね……」

 とイザベラは、少し思い悩む様子を見せた。

 その間に、頻りに大きく呼吸して平常心を取り戻すよう努める。

 大丈夫。俺は傭兵だ。血には慣れてる。


 ……よし。


 イザベラの血に塗れた指先が、ねっとりと俺の頬に触れる。

「あんた、私のものになりなさい。ジークはあんなだし、問題ないでしょ?」

「……」

 寒気が走ったが、無視する。

 血に染まった机上から欠けた三枚の爪を拾い、イザベラの指先に押し付ける。

 洒落者のイザベラだ。爪がないのは、きつかろう。その思いからの意趣返し。

「……」

 激痛が走ったはずだ。だが、イザベラは眉一筋として動かさなかった。

 線の細いエルフに耐えられる痛みではないはずだ。

 アスクラピアの蛇が、ぞぞぞっと両腕にとぐろを巻く。

 イザベラは言った。

「ねえ、私、おかしいのよ」

「……」

「あんたが、誰も好きじゃないって聞いて……ジークを壊した時も……嬉しかったの。遠慮しなくっていいんだって」


 それが第八連隊の解体に応じた理由であり、アキラと反目することのなかった理由なのだろうか。

 ただ、俺に対する強い執着があるのだけは分かる。

 アスクラピアに意識を侵されながら、ぼんやりと考える。

「あら、眠るの?」

 霞む意識の向こうで、イザベラが笑う。

 口元だけを歪めるその笑顔からは、よくないものしか感じない。

 そして――背後のざわめきに、ふと気づき、振り返る。


 青い腕章をした数人の騎士が厳しい表情でこう言った。


「レオンハルト・ベッカー少佐。風紀部の者です。あなたを拘束します」


 ここにいるより、百倍いい。

 そんなことを考えながら、俺は意識を手放した。



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苛烈に生きる弟の話を……
『アスクラピアの子』
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