第6-2話 怒り3
レオンハルト・ベッカーは、ニンゲンの癖に生意気だ。先程の言い草は許しがたいものがある。イザベラは気に食わない。知るか、と見捨てるのは容易い。現に、イザベラは自らの兵舎に引き返し、いつものように執務に取り組んでいる。
イザベラは手元の書類の視線を落とす。
第12旅団――『猫目石』の新しい編成案だ。
発案者は、レオンハルト・ベッカー。
『猫目石』――三個連隊で編成されるこの部隊を九個大隊で編成し直し、連隊長を置かない中抜きの編成案だ。
この新しい編成内容では、イザベラが参謀長、ジークが幕僚首席となり、直接の指揮権を失う。連隊規模での作戦行動を要する時のみ、一時指揮権を授ける。
イザベラは鼻を鳴らす。
参謀長に幕僚首席……よく言ったものだ。平時には指揮する兵がいないではないか。名ばかり授け、身を殺ごうという思惑が透けて見える。
この新編成案が施行されれば、アキラ・キサラギは益々、実力を蓄えるだろう。
恐らく、以前行った『統治』に於ける旅団の編成内容を議題とした会議を経て、思考したのだろう。戦闘終結後、即座に『統治』に入ることのできるこの編成は悪くない。指揮官には大きな負担を要求するが、アキラ・キサラギの軍才ならそれに耐え得ると踏んだのか。或いは――その不安を解消するため、別の指揮系統を構築する案があるのか。
イザベラは頬を緩める。
あの会議は楽しかった。レオンハルト・ベッカーを徹底的にやり込めた。その反面で素直にイザベラの言に頷く彼は、イザベラをとてもよい気分にさせた。
イザベラにとっては辛辣であるこの新しい旅団の編成案も、その素直な生徒が授業を経て成果を出したように思われ、微笑ましいものがある。
次は何をするのだろう。
レオンハルト・ベッカーと居るのは楽しい。イザベラには、彼の思考が手に取るようによく解る。チェスを指すように、複雑な思考の会話だ。言葉はなくとも、行動が、行為が多くを物語る。
この一手が鼓動し、熱を持ってイザベラに囁きかけるのだ。
どうでる?
返しの一手を思案するイザベラの頬に余裕の笑みが浮かぶ。
イザベラの問題は、これをどう返すか、ではなく、どの手で返すかということだ。
軍議に於いて、正々堂々と新編成案の落ち度や懸念を突くもよし。
敢えて権力でごり押しするのもよし。
だが、思いつきの手段で反撃すれば手酷いしっぺ返しを食うだろう。
レオはこの策に固執していない。
イザベラがこの新編成案を黙って見ているはずがない、何らかの方法でこの状況を覆すと信じている。
軍議の議題にも上げず、書面での発案、具申にはその心理がある。
イザベラとレオの軍人としての評価は、相似の関係にある。おかしなことだが、二人の間には信頼関係が成立している。
今回のこともそう。イザベラからすれば、これは挨拶のようなものだ。じゃれ合いにもならない。
だが、受け手を一つ間違えると……
この絡み付くような思考戦が好きだ。
言葉はなく、音もなく、予兆ですら匂いすらなく消え去る思考戦。一手指すごとに神経を削り、頼りになるのは己の五感と頭脳のみ。
気配すらない。だが、レオンハルト・ベッカーはイザベラ・フォン・バックハウスを警戒している。一挙手、一投足を見逃すまいと刮目している。
いつからだろう。
暢気者の彼が、言葉もなくイザベラに語りかけるようになったのは。
楽しい。
レオンハルト・ベッカーは、いつもイザベラの意表を衝く。
次はどう出る?
イザベラは全て受けて見せる自信がある。
そのイザベラ・フォン・バックハウスと、レオンハルト・ベッカーの相性は最高だ。
少なくとも、イザベラのまじないでは、そうだ。
星の並びも、誕生月の占いも、全てよい。子宝にも恵まれるという卦が出ている。
「私ったら、やだわ……何、考えてんのよ……」
イザベラは赤面して両手で顔を覆い隠してしまう。
これがジークなら、こうは行かない。二人の星の並びは最悪だ。ジークが近づけば近づく程、レオは弱り、傷つく。
不意に、イザベラは考える。
レオンハルト・ベッカーをどう扱うべきか。
それなりには気に入ってはいるが、それだけだ。愛しているか、と聞かれれば首を横に振る。血を混ぜようとまでは思わない。
側に置いておきたい。
時々は撫でたり、なめたりするかもしれないが、特別なものにしようとまでは思わない。ここ最近、レオンハルト・ベッカーのことばかりを考えているとしても、だ。
イザベラ・フォン・バックハウスがレオンハルト・ベッカーに出会ったのは五年前。アスペルマイヤー領でのことだ。
親友であり、幼なじみであるジークリンデの命を助けたという傭兵の顔を一目見てやろうという魂胆から、会いに行ったのだ。
「ああ、エルフのひと。この生き物、美味しいんですよ?」
当時、傭兵のレオがにこやかに突き出してきたのは蝸牛だった。
イザベラは、目の玉が飛び出るのではないか、というくらい仰天して飛びのいた。
「あ、あんた、それ蝸牛じゃない! 食べ物じゃないわよ!?」
「そんなことありません。結構イケますよ? まあ、生食はおすすめしませんけど……お一ついかがですか?」
イザベラが、からかわれたと分かったのは三日も経ってからのことだった。意外なことに、腹は立たなかった。
類い希な美貌と魔力、知略の才を損なわぬため、種の純血に拘りを持つエルフは、他種族からは忌避と畏怖の対象である。
そのエルフのイザベラ・フォン・バックハウスが、初対面のニンゲンにからかわれたのだ。怒りよりも、驚きしか覚えなかった。
この一件に関し、ジークは面白そうに、そしてやや残念そうにこう言った。
「レオは……少し、馬鹿なんだ」
イザベラも同感だった。
だが、畏怖されたり、傅かれたりするよりは余程よい。おそらく、レオンハルト・ベッカーというニンゲンは特別製なのだ。
それを示すように、ほどなくして、義理堅い狼の幼なじみは、その馬鹿な傭兵のことばかりを話すようになった。
「すごく可愛いんだよ。この前、夜居なくなるから不審でね。こっそり後を尾けたんだ。そうしたら……死んだ仲間のために祈っていてね……」
ジークは切れ長の瞳を細め、うふふと笑う。……笑うようなことではないような気がするが、狼の獣人である彼女の良心の基準は、通常のものとは少し異なる。
「今日なんてね、市街警備の途中、また何処かに行ったと思ったら、怪我をした子供の様子を診ていてね……イザベラ? 聞いてる? ……それでね、その後みんなで缶けりをしたんだ。この私も一緒にだよ!?」
治癒の守護者『アスクラピア』は、慈愛のない者に力を貸さない。アスクラピアの力を使うレオンハルト・ベッカーが子供を慈しむことは特に珍しいことではない。
その次にレオンハルト・ベッカーを見かけたのは、やはりアスペルマイヤー領で、ジークの誕生日を祝う園遊会でのことだ。
人目を避けた暗がりで、レオンハルト・ベッカーは殴られていた。
汚い平民が出入りしてよい所でない、と招待客の連中に袋叩きにされていた。
遠くでは、ジークがワイングラスを片手に談笑している。
ちくり。
イザベラの胸に、小さな痛みが走ったのはこの時が初めてだ。
止めてもよい。だが、高貴の出であるエルフの己が、ニンゲンごときを気に掛けているとは思われたくない。その思いから、イザベラは胸の痛みを封殺した。
度々開かれるアスペルマイヤー領での園遊会で、レオンハルト・ベッカーはいつも殴られていた。
ちくり。
胸の痛みが酷くなる。
遠くでは、ジークリンデがグラス片手に談笑している……。
「ああ、イザベラ。楽しんでる?」
「ええ……とても楽しいわ」
笑みを返すイザベラの胸に、冷たいものが湧き上がる。
「ねえ、レオを見なかった?」
「さあ……知らないわ」
ちくり!
イザベラは、胸の痛みに封をする。その度に、胸の奥に何かが降り積もる。
得体の知れない、黒く冷たい『何か』が積もる。
◇ ◇ ◇ ◇
「……お願いします、イザベラさま。この娘……エルを助けて下さい。俺に出来ることなら、なんでもしますから……」
ある日、唐突にバックハウス領を訪ねて来たレオの言葉だ。
その隣に立つ猫の娘は、気が無さそうに、そっぽを向いている。
……レオンハルト・ベッカーは、誰の命乞いをしていると思っているのだ?
イザベラの胸に、得体の知れない、黒く冷たい『何か』が降り積もる。
「頭が高いわね……」
「申し訳ございません……イザベラさま、この通りです」
跪き、地に額を擦り付けて懇願したのはレオンハルト・ベッカーだった。
ずきん!
この時、イザベラの胸に走った痛みは格別だった。思わず悲鳴を上げそうになってしまったほどだ。
イザベラは、胸の痛みを圧し殺す。震える声で言った。
「……何よ、救急箱。あんたも物好きね。そんな野良猫を飼うの?」
すぐ伏せられてしまったが、猫の娘……エルと目が合う。
イザベラは、爪先から頭の天辺まで品定めするかのようにエルを見つめ、鼻で嘲笑ってやった。
どのような経緯から、レオがこの猫の娘の命乞いをするのかは知らない。だがこの厚顔無恥な少女に対して、イザベラは寛容ではいられなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「最近、レオがパーティの警備を引き受けてくれないんだ……。理由を尋いても答えてくれないし……」
力なく呟くジークリンデに、イザベラは薄い笑みを返す。
「そう……ニンゲンの癖に生意気ね」
何も知らないのだな、おまえは。
だが、全てを知っていて知らん顔をしている己は、どれほど罪深いのだ?
また、胸の痛みが酷くなる。
騎士の叙勲式でレオンハルト・ベッカーがアキラ・キサラギに連れ去られ、失意に沈むジークリンデが一カ月も沈黙を貫いた時、少しだけ、いや、かなり――すっきりしたのはイザベラだけの秘密だ。
そんなイザベラとレオの相性は最高だ。
もし、万が一にも、仮にだが、二人が結ばれたなら、家名は一時、損なわれるが、二人の頑張り次第では返って高まる。子宝にも恵まれる。星占いも八卦によるまじないも、二人の明るい未来を保証している。
「やだわ……私ったら……」
イザベラは、赤面して顔を覆う。
そんなイザベラは、二人の明るい未来を夢想してみる。
微笑むイザベラ。子供はハーフエルフということになるが、きっと明るく賢い子になるだろう。ここまでは想像できる。だがそこで――
イザベラは、はっとして、口元を押さえる。
レオンハルト・ベッカーの笑顔が想像できない。
そうだ。レオンハルト・ベッカーは、笑わないのだ。いつも困ったように眉を寄せているか、耐えるように空を見上げているかのどちらかだ。
イザベラは、過去五年を振り返り、必死に首を振る。
レオンハルト・ベッカーは馬鹿で、呑気で、甘ったれなニンゲンであるはずだ。
そしてニンゲンという生き物は下等種族だ。今はもう、滅びつつある。弱さ故に。愚かさ故に。その下等種族であるレオンハルト・ベッカーを、イザベラは笑わせることができない。
おそらく、今のイザベラのやり方では駄目なのだ。レオンハルト・ベッカーは笑わない。
ここで執務に打ち込むことが問題の解決に繋がるとは思えない。
レオンハルト・ベッカーの向かった第五連隊の方向には良くない卦が出ている。具体的な事は分からないが、彼にとって都合の良くない何かが起こる。
見捨てるのは容易い。現に、イザベラはこうして執務に取り組んでいる。
いつものように、何もせず。無関心を装って。
だから、レオンハルト・ベッカーは泣いている。涙も見せず、泣いている。
「しょうがないわねえ……」
アキラ・キサラギもジークリンデも、彼を傷つけるばかりではないか。誰も彼もが、レオンハルト・ベッカーに己の都合ばかりを押し付ける。
やれやれ、とイザベラは重い腰を上げる。
少し、面倒臭い。
この時のイザベラ・フォン・バックハウスはそう考えた。
――余裕があったのだ。