エピローグ 銀の狼
ノルドラインを亡国の危機に陥れ、ニーダーサクソンの首都サクソンを焼いた小柄な悪魔『アキラ・キサラギ』の乱から三年の月日が経過しようとしている。
公的な記録では、アキラ・キサラギはサクソンの大火にて――死亡。
『猫目石』傭兵団は、ノルドライン国境をはるか西へ越えたフォルター砂漠にて解散。その後、名称を『夜の傭兵団』と変え、新たに再出発を果たした。
この『夜の傭兵団』を率いるのは、両目を覆う包帯と杖が目印の白髪痩身の男、レオンハルト・ベッカーだ。
一日の半分を眠って過ごし、傍らには常に東方の剣士を護衛に置く。
両目共に盲いているが馬を駆り、剣で戦うその姿に敬意と畏怖の念を持って、砂漠の民は、彼のことを『砂漠の蛇』。強い癒しの力を持つことから『白蛇』とも呼んでいる。
「ベッカー! 前方に敵影だ!」
大隊長の声に反応し、軍用馬車で眠っていた男――レオンハルト・ベッカーは身を起こし、だるそうに首を振る。
「聞こえてるよ。今、起きたばっかりだ。もう少し静かにしてくれないか……?」
「団長! ぼんやりしないで下さいよ! 陣形はどうすんすか!?」
「ああ……? レギオー……ああ、そうだな……レギオーでいい。嫌な予感がする。いつもの倍、斥候を出せ。アキラは……?」
「姐さんか? いねぇよ! んなことより、神父の息子、ぼおっとするんじゃねえ! エレオノちゃんのとこに帰るんだろうが!?」
「そうか……アキラは、行ったか……」
そんなことより、おまえらの名前は何というんだ? レオはその言葉を飲み込む。この一件に関し、アキラは難しい顔でこう言った。
「彼らは、そうだね……その他大勢という名前で、どうかな?」
それは人の名前ではない。エルに至ってはこう言った。
「あの方たちは、ダイタイチョウです。それ以外の何者でもございません」
夜のフォルター砂漠に、冷たい風が吹く。
エルと娘のエレオノをザールランドに置いて来たのは正解だった。
――まだ、終わってない。
不意に、レオは押し黙り、五感を鋭く研ぎ澄ます。
半分は人間。半分はアスクラピアの蛇。
失われた視覚をアスクラピアの蛇が補っている。振動と熱に敏感に反応する蛇の感覚器官が彼の感受性を――字こそ読めないが――以前と変わりなく、場合によっては以前よりも鋭いものにしている。
大地からの振動で敵の数と陣形を予測し、大気の熱変化を敏感に感じ取り、その動きを察する。
レオは言った。
「こいつら、何者だ? 隊列組んでやがる。雑魚じゃない、正規の騎士だ。……おい、旗印はどこになってる」
「……」
その問いに応えはなく、変わりに、ごくりと息を飲む音が聞こえる。
「おい、どうした。こいつら、どこの何者だ? 見かけん奴らか?」
大隊長の一人が、ぽつりと言う。
「見かけねぇも、くそも、ありゃあ……」
彼らにとってはあまりにも懐かしい――
「エミーリア騎士団……。こんな、所にまで?」
「まじかよ……国境を三つは越えなきゃならんぞ……?」
「……」
レオは口を噤む。分かっていたことだ。
――まだ、終わってない。
狼の女の求愛は気高く、一途。そして――あまりにも、しつこい。
◇ ◇ ◇ ◇
アキラは、腰に差した妖刀『菊一文字』の鞘に手を置き、広大なフォルター砂漠を見下ろす巨大な一枚岩の上で正座の姿勢で固く瞳を閉じ、精神の統一作業を行っている。
三年前のサクソンの大火で菊一文字が失われた際、アキラはそのことを嘆くと同時に、納得もしていた。
菊一文字には、愛に狂った女の怨念が宿る。あれはきっと、報われ、思いを遂げたのだ。アキラの手を離れ、失われたのは自然の成り行きだったのだろう。
もう二度と、あれを振るう必要はない。以降、アキラは帯刀せず、一人の女になろうとした。――満たされていた。『猫目石』を解散しレオに委ねたのも、公には死亡したことにしたのもそれ故だ。
だが現在、『菊一文字』はアキラの手元にある。
それがどのような経緯を辿り、サクソンから遠く、このフォルター砂漠までやって来たのか。アキラには知る由もない。
だが、レオ率いる『夜の傭兵団』の戦利品の一つに、この菊一文字が存在した。
妖刀『菊一文字』の謂れを知らぬ者は奇縁と笑う。だが――
――まだ、終わってない。
シークリンデ・フォン・アスペルマイヤーが、生きている。それをアキラが強く意識した最初の瞬間だった。
サクソンの大火を経て、レオの全身に刻まれた二二の呪印は消え去り、その名残として一つの幾何学模様を残した。
それは曾て、あるエルフの呪術師がジークへ提出した報告書に書き記した一部綻びのある幾何学模様とほぼ同型であることなど、神ならぬアキラに分かり得ようはずはない。
ただ……レオンハルト・ベッカーは、なぜ眠る? アスクラピアの『絞り出し』が彼に深い傷痕を残したことは分かる。だが、現在、『アスクラピアの蛇』は完全に彼の制御下にあり、不定期に発熱を繰り返し、命を削ることもなくなった。
呪印の影響が抜け、アスクラピアの蛇をも支配下に置いた彼が、必要以上に眠りを欲するのはおかしい。
まるで……魂の半分を削り取られてしまったかのようだ。
そう――まだ、何も終わっていないのだ。
煩わしい。そして、アキラは、未だ剣士であり続ける。
「やつの血も、肉も、魂も、全てボクのものだ。一かけらすら、くれてやるものか。出て来いよ、アスペルマイヤー……!」
低くハスキーな声が、ゆったりと応える。
「あれ……レオも一緒だと思ったけれど……これは……一杯食わされたかな……?」
夜空に、青く醒めた月が掛かっている……。
八等身の恵まれた体躯を白いマントとトーガに身を包み、流れるような銀の長髪を夜風に靡かせ、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは、確かにそこに存在した。
その美しい顔の半分は焼け爛れてしまっていて、左半分を覆うように、黒い眼帯を装着している。
美醜合わせ持ったその容貌を目の当たりに、アキラの脳裏に過るもの。
――変わった。以前のように、揺れてない。
「あれで終われば綺麗なものを。しつこいやつめ」
「…………」
ジークは応えず、薄い笑みを返すだけだ。
満天の星空の下、二人は再び対峙する。
「レオ……逢いに行くよ……すぐに……そのときは……」
――結婚しよう。
そして今宵――最早、『何者』かになった銀の狼が、嗤う。
前話のヒキはなんだったんでしょう…
ジークは本当にいいキャラクターでした。
いつか、この人でも一本書いてみたいです。




