そこにあるもの
肉を叩く音が聞こえた。
――ぐちゃっ、ぐちゃっ。
投げられ、引き起こされ、殴られ、蹴られ、潰され、折られ、それでも立ち上がるのは、レオンハルト・ベッカーだ。その髪が、まだ黒い。
闇夜に尖った月がかかり、四足獣捕縛専用の太い鎖に繋がれた銀の狼を見つめている。
「やめろ! やめないか! それ以上、レオを傷つけてみろ! 殺してやる! 殺してやるぞぉっ!」
ジークは叫ぶ。力の限り。
「そうだ! いいぞ、ジークリンデ! もっと怒るがいい! おまえは、もっと強くなる! そして我らの先へ行け!」
嘲笑い、なおもレオを殴り続ける男――父、テオドール。
腕が、脚が、荒縄のように太い筋を浮かび上がらせ、金剛力を発揮するが、それでも銀の狼を縛る鎖は以前として、その拘束力を保ったままだ。
――ぐしゃっ!
一際大きな打擲音がして、ジークは思わず目を背ける。
だが、それでもレオは立ち上がる。荒い息に肩を揺らし、不敵に唾を吐き捨てる。
「ああ――!」
ジークは知っている。
この人間は、骨の髄まで戦士なのだ。折れ、潰れ、なおも立ち上がるこの男の牙を折るにはもう――殺すしかない。
おまえに、あれが出来るか? ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤー。折られ、潰され、剣もなく、力もなく、ただ負けぬためだけに、立ち上がることが出来るか?
父、テオドールはレオを殴り続ける。生かさぬように、殺さぬように。執拗に、無慈悲に、殴り続ける。
ジークは堪らず悲鳴を上げる。
「やめて! やめてください、父上! 愛して……愛しているのです!」
それを受け、テオドールは大きく嘲笑った。
「つまらぬ! 愛? それは我らを強くせぬ! それは我らの道を切り拓かぬ!」
そしてまたレオを――殴る、殴る、殴る。
「ああ! レオ、もう立つな! 立ってはいけない!」
そして、ジークは悟る。
優生主義も、狼の矜持も、獣の主義主張でしかないことを。
だからこそ、人間のレオンハルト・ベッカーと獣のジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは、別れて歩まねばならなかったのだ。
アキラ・キサラギに奪われたのではない。なるべくして、二人はそうなったのだ。
だが、ジークはそれを決して認めはしない。
認めてしまえば、それより後、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの魂は、どこで安らぎを得ればよいのだ!
「許さない! 許さない! 許さない! 絶対に殺してやる!」
そこで、ジークの視界が霞む。
赤く。
紅く。
傷つき、倒れたレオが再び身を起こそうとする。
そのレオの眼窩に指を引っかけ、頭蓋骨を持つようにして引き上げる狼の獣人は――
美しい銀髪を風に靡かせ、切れ長の瞳を深紅に燃やす銀の狼は――
レオンハルト・ベッカーならこう言うだろう。
混じり気のない純粋なそれは、狼の獣人の見本である、と。
そしてそれは、完成された『何者』かである、と。
◇ ◇ ◇ ◇
「うあああああああっ!」
ジークは、跳ね上がるようにして身を起こし、眠りから覚めた。
酷い夢だった。
心臓は激しく鼓動を打ち鳴らし、耳鳴りがするほど頭がずきずきと痛んだ。湧き出した冷たい汗が顎を伝い、質のよいシルクのシーツに吸い込まれ、消えて行く。
風雨の勢いは未だ弱まることなく、むしろ激しさを増し、窓ガラスを、かたかたと小さく揺らしている。
――違う。私は、あんなものには、ならない。
獣になってしまえば、レオと一緒には居られない。
手の甲で汗を拭うジークの肩に、優しく手がかけられる。
「…………」
ごくり、と息を飲むジークの全身を強い恐怖が襲った。
今日、自分は何をした?
石畳みの街道にレオを叩きつけ、馬で蹴っ飛ばし、そして――殴り、殴り、殴り――違う! それはあの男、テオドールがやったのだ。
テオドールは、既にこの世界のどこにもいない。地獄へは、ジークがその手で案内した。よく覚えている。殴り、殴り、殴り――。
湧き出した恐怖に、ジークは自らの肩を抱く。
この身体には、あの男――テオドールの血が流れている。
「ジーク……」
蚊の鳴くような声。だがしっかりと、その呼びかけが胸の奥まで染み渡り、ジークは悲鳴を上げそうになった。
レオは、怒っているに違いない。
レオは、呆れているに違いない。
レオは、恐ろしいに違いない。
ジークは強く首を振り、レオに背を向けた姿勢で膝を抱く。
「ジーク……」
やがて雨が止み、寝室には、か細いレオの声だけが響く。
「ジーク……」
そして月明かりが射して来て、レオの影が伸びて来る。振り向けば、手の届く距離に居る。だが、その距離が、ジークには、あまりに遠い。
「ジーク……」
ジークの切れ長の瞳から、ぼろっと涙が零れる。
レオが怒っていたら、どうしよう。呆れていたら、どうしよう。
彼が、自分のことをどう思っているか。それを知るのは、ジークにとって、いつだって恐ろしいことだ。
だが、ジークは振り向きたい。
なぜなら、彼女の魂は、そこでしか安らがない。
息を止め、恐る恐る、ジークは振り返る。
白く、柔らかい月の光の中で、レオは、優しく笑っていた。
「あ……!」
はっ、と驚き、ジークは両手で口元を覆う。
――ここに、愛がある。
少なくとも、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの愛がある。
ジークは飛びつくようにして、レオの胸に飛び込んだ。
それから、子供のように散々泣いて……明け方近くなり、朝日が射し始めた頃、
「……結婚しよう」
短く、それだけを口にする。
沈黙があった。
ゆるゆると陽が昇り、ジークを抱きしめるレオの手に、しっかりとした意志が灯り出す。
「……あまり、長くはありません……」
「それは……なんとかする……」
「とても……弱いです……」
「二人分、私が強くなる……」
噛み締めるような沈黙の中、レオの指がジークの銀髪を撫でつける。
「……では……よろしく、お願いします……」
そして、ジークは泣く。
以前のように、堂々としたものでない。
タイミングも最悪と言ってよかった。
決して格好の良いものではないけれど。
それでもそこに――愛がある。
愛してその人を得ることは最上である。
愛してその人を失うことは、その次によい。
【ウィリアム メークピース サッカリ】