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猫とワルツを  作者: ピジョン
白い男と銀の狼
33/42

そこにあるもの


 肉を叩く音が聞こえた。


 ――ぐちゃっ、ぐちゃっ。


 投げられ、引き起こされ、殴られ、蹴られ、潰され、折られ、それでも立ち上がるのは、レオンハルト・ベッカーだ。その髪が、まだ黒い。


 闇夜に尖った月がかかり、四足獣捕縛専用の太い鎖に繋がれた銀の狼を見つめている。


「やめろ! やめないか! それ以上、レオを傷つけてみろ! 殺してやる! 殺してやるぞぉっ!」


 ジークは叫ぶ。力の限り。


「そうだ! いいぞ、ジークリンデ! もっと怒るがいい! おまえは、もっと強くなる! そして我らの先へ行け!」


 嘲笑い、なおもレオを殴り続ける男――父、テオドール。

 腕が、脚が、荒縄のように太い筋を浮かび上がらせ、金剛力を発揮するが、それでも銀の狼を縛る鎖は以前として、その拘束力を保ったままだ。


 ――ぐしゃっ!


 一際大きな打擲音がして、ジークは思わず目を背ける。


 だが、それでもレオは立ち上がる。荒い息に肩を揺らし、不敵に唾を吐き捨てる。


「ああ――!」


 ジークは知っている。

 この人間は、骨の髄まで戦士なのだ。折れ、潰れ、なおも立ち上がるこの男の牙を折るにはもう――殺すしかない。


 おまえに、あれが出来るか? ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤー。折られ、潰され、剣もなく、力もなく、ただ負けぬためだけに、立ち上がることが出来るか?


 父、テオドールはレオを殴り続ける。生かさぬように、殺さぬように。執拗に、無慈悲に、殴り続ける。

 ジークは堪らず悲鳴を上げる。


「やめて! やめてください、父上! 愛して……愛しているのです!」


 それを受け、テオドールは大きく嘲笑った。


「つまらぬ! 愛? それは我らを強くせぬ! それは我らの道を切り拓かぬ!」


 そしてまたレオを――殴る、殴る、殴る。


「ああ! レオ、もう立つな! 立ってはいけない!」


 そして、ジークは悟る。

 優生主義も、狼の矜持も、獣の主義主張でしかないことを。

 だからこそ、人間のレオンハルト・ベッカーと獣のジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは、別れて歩まねばならなかったのだ。

 アキラ・キサラギに奪われたのではない。なるべくして、二人はそうなったのだ。


 だが、ジークはそれを決して認めはしない。


 認めてしまえば、それより後、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの魂は、どこで安らぎを得ればよいのだ!


「許さない! 許さない! 許さない! 絶対に殺してやる!」


 そこで、ジークの視界が霞む。


 赤く。


 紅く。


 傷つき、倒れたレオが再び身を起こそうとする。

 そのレオの眼窩に指を引っかけ、頭蓋骨を持つようにして引き上げる狼の獣人は――

 美しい銀髪を風に靡かせ、切れ長の瞳を深紅に燃やす銀の狼は――


 レオンハルト・ベッカーならこう言うだろう。

 混じり気のない純粋なそれは、狼の獣人の見本である、と。

 そしてそれは、完成された『何者』かである、と。



◇ ◇ ◇ ◇



「うあああああああっ!」


 ジークは、跳ね上がるようにして身を起こし、眠りから覚めた。

 酷い夢だった。

 心臓は激しく鼓動を打ち鳴らし、耳鳴りがするほど頭がずきずきと痛んだ。湧き出した冷たい汗が顎を伝い、質のよいシルクのシーツに吸い込まれ、消えて行く。

 風雨の勢いは未だ弱まることなく、むしろ激しさを増し、窓ガラスを、かたかたと小さく揺らしている。


 ――違う。私は、あんなものには、ならない。


 獣になってしまえば、レオと一緒には居られない。

 手の甲で汗を拭うジークの肩に、優しく手がかけられる。


「…………」


 ごくり、と息を飲むジークの全身を強い恐怖が襲った。

 今日、自分は何をした? 

 石畳みの街道にレオを叩きつけ、馬で蹴っ飛ばし、そして――殴り、殴り、殴り――違う! それはあの男、テオドールがやったのだ。

 テオドールは、既にこの世界のどこにもいない。地獄へは、ジークがその手で案内した。よく覚えている。殴り、殴り、殴り――。


 湧き出した恐怖に、ジークは自らの肩を抱く。

 この身体には、あの男――テオドールの血が流れている。


「ジーク……」


 蚊の鳴くような声。だがしっかりと、その呼びかけが胸の奥まで染み渡り、ジークは悲鳴を上げそうになった。


 レオは、怒っているに違いない。

 レオは、呆れているに違いない。

 レオは、恐ろしいに違いない。


 ジークは強く首を振り、レオに背を向けた姿勢で膝を抱く。


「ジーク……」


 やがて雨が止み、寝室には、か細いレオの声だけが響く。


「ジーク……」


 そして月明かりが射して来て、レオの影が伸びて来る。振り向けば、手の届く距離に居る。だが、その距離が、ジークには、あまりに遠い。


「ジーク……」


 ジークの切れ長の瞳から、ぼろっと涙が零れる。


 レオが怒っていたら、どうしよう。呆れていたら、どうしよう。

 彼が、自分のことをどう思っているか。それを知るのは、ジークにとって、いつだって恐ろしいことだ。


 だが、ジークは振り向きたい。

 なぜなら、彼女の魂は、そこでしか安らがない。


 息を止め、恐る恐る、ジークは振り返る。


 白く、柔らかい月の光の中で、レオは、優しく笑っていた。


「あ……!」


 はっ、と驚き、ジークは両手で口元を覆う。


 ――ここに、愛がある。

 少なくとも、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの愛がある。


 ジークは飛びつくようにして、レオの胸に飛び込んだ。


 それから、子供のように散々泣いて……明け方近くなり、朝日が射し始めた頃、


「……結婚しよう」


 短く、それだけを口にする。


 沈黙があった。

 ゆるゆると陽が昇り、ジークを抱きしめるレオの手に、しっかりとした意志が灯り出す。


「……あまり、長くはありません……」


「それは……なんとかする……」


「とても……弱いです……」


「二人分、私が強くなる……」


 噛み締めるような沈黙の中、レオの指がジークの銀髪を撫でつける。


「……では……よろしく、お願いします……」


 そして、ジークは泣く。

 以前のように、堂々としたものでない。

 タイミングも最悪と言ってよかった。

 決して格好の良いものではないけれど。


 それでもそこに――愛がある。


 愛してその人を得ることは最上である。

 愛してその人を失うことは、その次によい。


【ウィリアム メークピース サッカリ】


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苛烈に生きる弟の話を……
『アスクラピアの子』
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