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猫とワルツを  作者: ピジョン
白い男と銀の狼
32/42

一途

 このまま……どこまでも、ずっと一緒に……。

 余りにも心地よい追憶から徐々に覚め、ジークは、レオの胸板に頬を押し付ける。

 レオの柔らかな指が、ジークの銀髪を梳り、緩やかに流れて行く。


「んっ……」


 いつもの朝だろうか……。

 どうやら少し、眠ってしまったようだった。


 小さな鳥の囀りの中に響く草笛の素朴な音色が耳を衝き、はっとしたジークは、起き上がろうとして――身体を、そっと抱き抱えられるようにして制止される。

 陽は天に差しかかろうとしている。僅かに差し込む木漏れ日が、血に染まったジークの手を照らし出す。とてつもない重量を誇る鉄傘が、そよ風に揺れることもなく街道の上に転がっていた。

 レオの纏う貫頭衣の胸元には、はっきりと馬の蹄の跡が残っている。


 ――普通のやり方など分からない。


 ジークの切れ長の瞳から大粒の涙が落ちる。

 何でも率なくこなすアキラ・キサラギなら、このような失敗はしないだろう。

 瀟洒で洒落者のイザベラ・フォン・バックハウスなら、もっと工夫を凝らすだろう。

 シークリンデ・フォン・アスペルマイヤーにはこれしかない。

 一途に、ただひたすらに思いやる。それだけしかない。


「ごめん、ごめん……レオ。ひどいよね……ひどすぎるよね……」


 周囲を見回すが、まるで魔法をかけたかのように、馬は消え去ってしまっていた。石畳みの上に広がる血痕と、マントとトーガを汚す血の量からして、彼女の愛馬が無事だとは思い辛い。

 溢れる涙は止まりそうになかった。

 エーデルシュタイン宮殿から僅か数時間程の距離だ。それほど移動したとは思えない。だが、馬もなく、見知らぬ街道に二人は放り出されたのだった。


 つまらないやつ。

 ジークの涙は止まりそうにない。

 思うだけでは駄目なのだ。強いだけでは駄目なのだ。

 ひたすら己を責めるジークの頭を、レオが静かに抱き締める。


「レオ……?」


 ことん、ことん、と規則正しいレオの心臓の鼓動音がジークの耳に響く。


「……大丈夫……ジーク……慌てないで……」

「あ――」


 喋った。胸の呪印が咲いてから、レオが言葉を発したのは、これが初めてだ。

 そして――一気に、ジークの肩から力が抜ける。ただ一言。それだけで全ての責め苦から解放されたかのようだった。


「レオ、治ったの?」

「……」


 レオは柔らかく笑むだけだ。状況が好転したとは思えない。

 だが、回復の兆しはある。今は、それで十分だ。こんなことで、へこたれるわけにはいかない。

 ジークは厳しい表情で、俄に雲の張り詰め出した空を見上げる。


 ――一雨来そうだ。


 ジークはエーデルシュタイン宮殿に戻ろうとは露程も考えない。

 それでは何も変わりはしない。全ての困難は、この手に因ってのみ打ち砕かれるべきである。少し予定が変わっただけだ。気を取り直し、前に進まねばならない。

 狼の獣人は粘り強く、しつこい。諦めるなど思いはしない。


「ごめんね。触るよ……?」


 レオを抱き上げ、ジークは再び鉄傘を差し、街道を歩き出す。

 やがて濃くなる雨の匂いの中、ほっそりとしているが力強い腕にレオを抱き、石畳みの街道を真っすぐ歩を進める。

 レオはジークの腕の中、のんびりと草笛を吹き鳴らしている。


 ふ、とジークは笑む。そう言えば、こういう素朴な一面もある青年だった、と考える。

 同時に――あの役立たずの騎士たちは何をしているのだ。この遠出に、大勢の騎士を動員して事に当たらせたのは、このような不意の事態を想定してのことだ。

 この危機に、ただの一騎も駆けつけないとは……。

 己のことは棚に上げ、ジークは怒りに胸を灼く。

 軍務に復帰する予定は一週間後だが、復帰後の初任務は、なまり切った騎士たちに薫陶をくれてやることから始めねばならない。


 二個師団……二四〇〇〇名。一人残らず鞭をくれてやる……。


 その決意を胸に秘め、ジークは軽く唇を噛み締める。


「ねえ、レオ。知ってる?」

「……?」

「狼の女は、生涯で一人の男しか愛さないんだ。何があってもね……」

「……」


 反応は鈍かったものの、頷くレオに、ジークもまた頷き返す。


「全部終わったら、一緒にアスペルマイヤー領に帰ろう。そして……」


 ――結婚しよう。

 ジークは、その言葉を飲み込む。これを口にすれば、レオの症状がいかに重篤なものであれ、たちどころに正気づくという自信はある。

 だが、この言葉は、ゼラニュームの呪印を枯らすための方便で使ってよい言葉ではない。求婚の誓いは、もっと劇的な瞬間に為されるべきだ。

 断られた以前とは違う。受け入れられる自信はある。だからこそ、性急に事を成すのではなく、時間を掛け、確固たるものになるよう地盤を形成するべきだ。

 そう思うからこそ、彼女は閨を共にすることにも必要以上の時間を掛けた。

 そして、今日。

 全ての条件が整うものと、ジークは考えていた。だが余りにも酷すぎる失態の連続が、堂々の気風を誇る彼女をして、その気勢を殺いでいる。


 雨の匂いがまた強くなり、とうとう、ぽつりと鉄傘を叩く音が聞こえた。


「く……」


 ジークの胸に、またしてもじわりと動揺の波が押し寄せる。

 レオにこれ以上の負担を掛けることは許されない。雨に濡らすなど、以っての外だ。このような事態も想定しての大きく頑丈な鉄傘であるが、風雨が激しくなれば凌ぎ切れる保証はない。

 つい、と鉄傘を上げるとグリッツェンの山麓が見える。

 ジークは内心、ほっと胸を撫で下ろす。どうやら予定の順路を少し逸れただけで、向かった方向自体は合っていたようだ。

 部隊と合流するのは気が進まないが、それを理由にレオに負担を強いるわけには行かない。

 街道の向こうから、逸早くジークの姿を発見した一個小隊ほどの騎士が馬を駆り、駆けてくる。


 ジークは曇った空を見上げる。

 山の天候は変わりやすい。今夜のグリッツェンは、嵐になりそうだった。



◇ ◇ ◇ ◇



 首都サクソンの北方、グリッツェン山麓にあるフェアトラークの館では、ジークが、ただの一人もメイドを寄せ付けず、自らの手でレオの介護に当たっている。

 レオの砂埃に塗れた衣服を新しく清潔なものと取り替える際、胸に残った馬の蹄の痕跡を目の当たりにして、ジークは泣きそうになった。


「ごめん……ひどすぎるね……あんまりだよね……。許してなんて、言えないよね……」


 ぐすっ、とジークは鼻を啜る。

 軍務は既に一週間も放置したままになっている。統帥総本部にある彼女の執務室は、書類が山積みになっている事だろう。

 このフェアトラークの館の警備には一個旅団の騎士を動員してある。皇族並の警備態勢だ。

 ジークは、この愛のためだけに生きている。この程度のことはなんでもない。


 激しい雨がフェアトラークの館を打ち付けている。春の嵐だ。

 暖炉に火を絶やさぬよう気を配りながら、燭台の明かりが照らし出す薄暗い寝室の中、ジークは、書面形式での報告書を手にしたまま、物憂げに寝台を見やる。

 視線の先では、ナイトガウン姿のレオが、額にうっすらと汗を浮かべ、命を削るアスクラピアの眠りに就いている。

 ナイトガウンの首筋から僅かに覗くゼラニュームの呪印は、多少花びらを散らしたものの、未だ顕在だ。


 ――イザベラ・フォン・バックハウス。

 遠くに雷鳴を聞きながら、ジークは、その名に思いを馳せる。

 エルフのことはエルフだ。あの無礼なエルフの呪術師にレオの身体に刻まれた呪印を分析、調査させた結果を記した書面に、ジークは視線を落とす。


 レオンハルト・ベッカーに刻まれた呪いは二二。呪印の一つ一つには花言葉を隠喩として強い魔力で『まじない』をかけてあるが、これには幾何学的な意味合いがあると記されている。

 書面には一つの幾何学模様が書き込まれているが、それは一部、綻びを見せている。

 この二二の呪印は一つ一つが強力だが、それ以外にも意味があり、その意味合いは、全てを合わせることによって、完全な一となる。……らしい。


 最終的な推察結果としては――意味不明。

 そして、この呪印は完成しておらず、『恐らく』無効。


 ――確かに、途中で止めた――しかし、今回も、何もわからなかったということだ。そのことに落胆し、ジークは肩を落とす。


 追記にこうある。

 人を呪わば穴二つ。『呪術』の最大の禁忌は、咎無き者を対象とすることである。

 もし、対象に――レオに――咎無き場合、術の成否に拘わらず、術者は相応の報いを受けるだろう。この数量と規模から察するに、神をも恐れぬ所業である、と。


 ジークは血が出るほど唇を噛み締める。

 あのイザベラ・フォン・バックハウス――性悪女が、神など恐れるものか。

 本当のところ、ジークが一番恐ろしいのはイザベラだ。彼女の本当の恐ろしさと比べれば、あのアキラ・キサラギですら可愛らしい。

 エルフの呪術師は、『恐らく』呪印は無効と推察した。

 ……本当に、そうか?

 イザベラ・フォン・バックハウスはそこらの有象無象ではない。最期の瞬間、何を思い、何を企んだ?

 狂おしい程の怒りと懊悩がジークの胸を灼き焦がす。

 激しい雨が窓ガラスを打ち、稲光と雷鳴の中、今もまだその身に宿す呪いに命を削り取られ続ける彼女の最愛の愛人、レオンハルト・ベッカーは既に――


 なにか、された……。


 そんなはずはない! ジークはそれを認めない。だが、どうしても、まとわりつくような不安が脳裏から離れない。

 仮にイザベラが『何か』したとしたら、それはもう取り返しのつかない『何か』だ。


 ごう、と一層激しい風雨が窓を打ち付ける。

 エルフの呪術師からの調査報告書を暖炉の火にくべてしまうと、ジークは衣服を脱ぎ捨て、のろのろとレオの隣に裸体を横たえる。


(疲れた……もう、疲れた……今日は、色々なことがありすぎる……)


 レオの匂いが、ジークの鼻控を擽る。

 ゼラニュームの呪印が咲いてから、レオは肉食を避けるようになった。そのためか、体臭は希薄になり、草食動物のように少し甘い匂いがする。

 そのレオを抱き寄せながら、瞬く間に微睡み始めるジークは、意識を手放す寸前、


 ……おいしそうな、におい……


 そう、考えた。


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苛烈に生きる弟の話を……
『アスクラピアの子』
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