遠出
五日後、サクソン郊外にあるグリッツエンの山麓にある別荘へ向けて馬を進めるジークとレオの姿があった。
随員もなしのこの二人きりの『遠出』は、ジークの強い希望と言う名の厳命で成立した。せめて、侍女を幾人かという軍高官の勧めにも、ジークは頑として首を縦に振らず、ついには押し切る形になった。
グリッツェンの山麓までは、エーデルシュタイン宮殿から馬で半日程の距離しかない。それくらいの時間は、二人きりで、のんびりと馬に揺られていたかった。
ジークは随員こそ伴わないものの、この遠出のために騎士団から二個師団を投入し、想像できるあらゆる問題の解決に当たらせた。
この結果、市街地では十年ぶりに『浄化作戦』が展開されることになり、綱紀は粛正されたものの、街頭からは著しく市民の姿が減った。
常ならば市民の往来で賑わう上サクソンと下サクソンの町境も人通りは疎らで、過疎の趣すら見せていたものの、その様子にジークはあまり関心がなかった。
何のために、彼女が上り詰めねばならなかったか。当然のことだった。
ジークは、この日のために誂えた特別性の大きな鉄傘で日光を遮り、胸の中で静かに眠るレオに視線を落とす。
胸の中で眠るレオは、生まれたばかりの赤子のように、己だけを頼りきっている。そう思うと、ジークの胸は震え、どうしようもなく戦く。
エーデルシュタインの宮殿を出てから、ずっとそうだ。心臓の鼓動がうるさい。
目元を潤ませ、ジークはひたすら動揺する。
どうしよう……レオを起こしてしまう……。
流石のジークも、己の心臓の鼓動を止めるわけにはいかない。
ぽくり、ぽくり、と蹄の音を響かせて馬なりに進むジークは、鉄傘を深く差し日光を避け、胸の鼓動を悟られぬよう頻りに身じろぎを繰り返し、試行錯誤を繰り返す。そんなジークにとって手綱による舵取など望外の至りだ。
自然、ジークの馬は予定されていた順路から外れ、気の向くままに歩を進めて行く。
太陽が宙に差しかかるまで、そのことに気づかなかったのは、狼の獣人であり、鋭敏な感覚を持つ彼女らしくない失敗と言えるだろう。
四つ角に差しかかり、ふと鉄傘を上げると、ジークの視界に広がったのは、見たことのない街道と、その街道に沿うように植えられた赤い実を付けた木々だった。
「ここは……どこなの……?」
ジークが、あまりの失態に呆然と呟くのと、レオが目を覚ましたのは同時だった。
どくん! とジークの心臓が一際大きく跳ねた。
「……」
ごくりと息を飲むジークと、レオの視線が合う。
レオは、にこっと笑み、ためらうことなくジークに体重を預ける。
心臓の鼓動は最早、痛みすら伴うものになっており、それはジークの耳にこう聞こえた。
『何やってんだ! 何やってんだ! どうするんだ! どうするんだ!』
戦場で百万の大軍に囲まれても、笑って見せる自信のあるジークだったが、この時襲った動揺は並大抵のものではなかった。
『万夫不当のアスペルマイヤー、倒した敵は数知れず』
――私は強い! 強いんだ! こんなことは何でもない! 自らに強く言い聞かせるジークだったが――
『鬼より強いアスペルマイヤー、向かうところに敵はなし』
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは、万夫不当の勇者である。
――吹けば飛ぶような妄想だった。
眠そうな視線を向けるレオを前に、ジークは大パニックに陥った。
「ちっ、ちちちちち違うんだよ! これは! これは――」
そこから先は、一瞬の出来事だった。
ジークの上げた大声とその動揺に反応した馬が前足を振り上げ、大きく嘶いた。
あっと驚き、手綱を絞り上げるジークだったが、即座の対応に働きの悪い右腕が遅れ――投げ出すような形で、レオを馬上から――振り落とした。
「ああ!」
例え、稲妻に撃たれようと情けなく悲鳴を上げることなどないジークだったが、この時ばかりは我を忘れて悲鳴を上げた。
レオは整備が行き届いていない街道の石畳みに強く背を打ち付け、それから、のろのろと身を起こす。
振り落とされまいと、なおも手綱を絞り上げるジークの混乱は頂点に達した。
「ああ、レオ! ごめん、ごめん! これは違うんだ!」
乗り手の大きな動揺を反映するかのように、ジークの愛馬は、更に暴れ狂い、振り上げた蹄がレオの胸を蹴倒した瞬間――
ジークの中の、何かが、ぷちりと音を立てて、切れた。
◇ ◇ ◇ ◇
五年前。
敗走するジークの部隊を追い、ニーダーサクソンの国境深くまで進行していたアルフリード騎士団の一個大隊はこの夜、強かな逆撃を受けることになった。
単騎突撃した銀の狼は、ただ独りとはいえ強力無比。ただ独り故に庇う者も守る者もなく、存分に獣性を解放させ、ひたすら殺戮の限りを尽くした。
この夜、討ち取られたアルフリードの騎士は二〇〇名にも及んだ。
アルフリードの騎士一個大隊を相手に、単騎にて一歩も引かず戦い続け、ついにはこれを撃退したジークのことをレオは、こう称えた。
「戦場の女神ってのがいたとしたら、きっと隊長みたいなひとのこと言うんでしょうね」
「……そう」
短く答え、ジークは、つっと視線を外す。
――照れ臭かったのだ。
戦場にて独り、我を張り通したジークを見つめるレオの瞳からは、少年のような憧れが見て取れた。
「俺なんかにゃ、眩しすぎます。隊長、あんた、ちょっと強すぎる。戦うあんたは……美しすぎる」
「……」
それは一戦士として向けられた賛美の言葉だったが、これより後にも先にも、ジークはこれ以上の賛美の言葉を贈られたことはない。
手放しで褒め称えたレオだったが、サクソンへ帰還の後、逃亡した部下相手へのジークの報復には難色を見せた。
「隊長、もうやめましょう? もう十分ですよ。だれも、あなたを馬鹿になんてしません。しませんから……」
当時のジークは、こう答えた。
「ニンゲンのおまえに私の何がわかるというの? ……大体、おまえは何? あっちがいいなら、あっちに行ってもいいんだよ……?」
「…………」
傭兵のレオンハルト・ベッカーは、ぎゅっと眉を寄せ、口を噤んだ。その表情に浮かんだ色は、牙を剥き唸るジークへの恐怖ではなく、諦観と……はっきりとした失望の色だった。
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーとレオンハルト・ベッカーの道が別れたのはこの瞬間だ。しかし、それはジークには理解できず、胸の内に広がる意外に大きな動揺に、ひたすら圧倒されるばかりだった。
逃走の屈辱を雪ぎ、敵だけでなく己の配下である副官までをも討ち果たしたジークは、この頃から『万夫不当』の勇者と謳われるようになった。
通常なら、門閥貴族の出身とはいえ軍事裁判を免れぬこの敗戦の責を表立って咎められることもなく、新たに編成された大隊の指揮権を授かったジークは、絶体絶命の苦境に最後まで付き従った一人の傭兵――レオンハルト・ベッカーを個人の傭兵として雇い入れ、様々な任務に連れ回すようになった。
「私のことはジークでいい。私も、おまえのことをレオと呼ぶから……」
恩義を忘れるということは、自らを安くする。アスペルマイヤーの家訓だ。
それ故、ジークはレオを厚遇する。
この頃のジークにとって、レオンハルト・ベッカーという男は、変わり種の傭兵で、命の恩人。それ以外には、ちょっとしたお気に入り。その程度でしかなかった。
だが、レオは、あらゆる意味でジークの想像の斜め上を行った。
任務の最中、しばしば行方不明なり、怠慢甚だしいと部隊長たちの評判は、すこぶる付きの悪さだった。
ジークはレオを厚く遇したが、殊更甘くしていたわけではない。
一度、きつく戒めようと、こっそりと後を尾けたジークは、祈りを捧げ、子供を慈しむレオの姿を見てしまう。
――衝撃的な光景だった。
慈しみ、愛する。言葉の意味は知っている。だがそれは、戦う者には必要ない。そう考えて生きて来たジークにとって、それは衝撃以外の何でもなかった。
――ジークの中の固く重たい何かが揺れる。
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの人格を形成する『何か』。
優生主義。弱肉強食の掟。或いは、狼の矜持。ジークはそれに拘りがある。それだけを叩き込まれて生きて来たのだ。
レオを見ていると、ジークの中の張り詰め、緊張した『何か』が安らぐ。見ていて心地よかった。
例えば、愛情であるとか。
或いは、慈しみ。
ごくごく簡単に言い表してしまえば、普遍的な『優しさ』という感情。
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの知る『強さ』とは真逆であるはずのもの。父、テオドールなら惰弱と一笑に伏して終わるもの。
それらがジークに問い掛けるのだ。
本物の『強さ』とは……?
戦場にて敵を踏みにじること?
狼の牙では小鳥は安らがない。父、テオドールなら一笑に伏すだけのそれに答えがあるような気がする。
ジークの求める本物の『強さ』は、きっと父の求めるものと違うのだ。
思い悩むようになる。
何かが違う。何処かがおかしい。今のままでは、取り返しのつかない間違いを犯してしまう。いや、既にもう――
そんなある日の昼下がり、市街警備中のレオが言った。
「ジーク……後ろに敵の気配を感じます。逃げましょう……」
「え? 怪しいやつはいないけど……」
ゆったりと言うジークは首を傾げる。振り返り警戒するようなことはしない。どのような状況下でも、絶対に巻き返す自信がある。
「いたぞ! ちんぴらのレオンハルト・ベッカーだ!」
背後から子供たちの甲高い声が上がった。
「くそガキめ! 人を見るなり、ちんぴらとはなんだ!」
振り返り、叫んだレオの頭に生卵がぶち当たり、ジークは、ぷっと吹き出した。
子供たちが、わっと歓声を上げる。
「命中したぞっ! チャンスだ! 討ち取って、名を上げろーーっ!」
「うわあ……これだよ。……ジーク、逃げますよ?」
レオは生卵の粘りに苦しみながらも、ジークの手を取って走りだす。
駆けながら、ジークの心は安らう。流石の彼女もお手上げだった。逃げるが勝ち。そんな考えは、これまでの彼女の人生にはなかったことだ。腹が抜けるほど笑い声を上げながら、思う。
今、共に駆けるこの男は、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーにないものの全て、足りないものの全てなのではないか、と。