花の咲くとき2
――五年後。
ジークは、サクソンの宮殿で物憂げに過去を振り返りながら、神官や呪術師が見立てたレオの容体を聞いている。
信心深そうな年長のノームの神官が言う。
「ゼラニュームの呪印が咲いておりますな……」
ノルドライン製のカウチに、ゆったりと腰掛けたジークは、軽く鼻を鳴らす。
そんなことは見ればすぐ分かる。ジークが知りたいのは、起こっている症状の説明と、その解決方法だ。
ちらりと飛ばした視線の先では、テラスに置いた寝椅子でレオがうたた寝している。
先ほどからジークが気掛かりなのは、レオに付けた二人の犬のメイドたちのことだ。
二人のメイドたちは、今朝、レオを見た瞬間から落ち着きがない。そわそわと前掛けを揉み絞り、時々、はっとしたように宙を掴むような仕草をして見せる。
鋭く視線を飛ばし牽制するジークがいなければ、メイドたちは直ぐにもレオの世話を焼くのだろう。
ジークは、がりっと中指の爪を噛む。
保護欲の旺盛な犬の獣人は、人間との相性が非常によい。今付けている二人にしても、それなりの出身であるにも拘わらず、身分や出自を気にかけることなく、レオに尽くしている。それはよい。ただ――
問題は、この種族間の相性の良さだ。
忌ま忌ましい。犬のメイドたちは、ジークが何年も掛けて乗り越えた隔たりを一瞬にして乗り越えてしまう。
互いに軽口を言い合い、時には無感覚に触れ合い(!)、トラブルには協力して共にあたる。
一方のジークはこうは行かない。
レオは眠っている間ですら、ジークの存在に反応し、びくりと震え、時折は戦き、恐怖に冷たい汗を流す。
まったく忌ま忌ましい。
本当は人間のレオに、犬の獣人は付けたくない。
だが、ジークが直々に面接して選んだ狼やエルフのメイド長が何をしたか。思い出す度に、腸が煮え繰り返りそうになる。
身分だの、格式だの、テーブルマナーなんてものは、どうでもいい。ジークは、レオにそんなものを求めていない。
レオもレオだ。狼の自分と、犬のメイドたちの何が違うというのだ。ふかふかの尻尾だってある。体型に至っては、こればっかりはジークに分がある。犬の獣人はふくよかな体型をしているが、ジークは胸の大きさなら、誰にも負けない自信がある。なのに――
あのアキラ・キサラギが、むきになってレオを殴りつけていたのも良く分かる話だ。
不意にジークは、指先に走った鋭い痛みに眉を寄せた。
「つっ!」
――そうだ。自分は、あのアキラ・キサラギとは違うのだ。同じやり方はしない。
「白どのは、平和なのでしょうな」
ジークは軽く頭を振って、声のした方に向き直る。
「平和……?」
「はい」
口を開いたのは今日、初めて顔を見る若い男のエルフの呪術師だった。
エルフの呪術師が表立って世間に出てくる例は少ない。
呪術というものが禁忌の技術に相当することは、ジークも知っている。だが、有用で希少である能力を隠すのは、ある意味不毛である。エルフという生き物は見栄が強すぎる。イザベラも、普段は力を隠していた。
そこまで考え、ジークは自嘲の笑みを浮かべる。
格式、血統、プライド……お互い、つまらないことに縛られている。その思いが脳裏を掠めたのだ。
そのジークの笑みに気をよくしたエルフの呪術師が、したり顔で事の説明を始める。
「ゼラニュームの呪いは対象に平穏を与えまする。ここは白どのにとって、余程安らぐ環境なのでしょう。相乗効果による意識の低下かとお見受けいたします」
「……相乗効果か。それで、治るの……?」
「それは勿論。簡単なことでございます」
エルフの呪術師が調子を上げ、その様子を見た他の神官や呪術師が、ついっと視線を外す。
ジークはそれを不思議に思いながらも、身を乗り出して話の先を促す。
「うんうん。で、その方法は?」
「刺激を与えればよいのです」
「……」
ジークの眉が、きゅっと寄り、その表情が険しいものになったが、エルフの呪術師は構わず続ける。
「白どのは、退屈されておられるのですよ」
「退屈? 私は、退屈してないけれど……」
エルフの呪術師は何かとてつもない発見をしたかのように、興奮して首を振った。
「退屈なされておられるのは白どのです。強い刺激を与えれば――」
「私は退屈していない!」
突如、ジークは叫び、激高して立ち上がった。
「私は強い刺激を受けている! レオもだ! 退屈なんてことはない! それとも、おまえはなに!? 私を馬鹿にしているの!?」
「???」
レオンハルト・ベッカーのことに関する限り――ジークが過剰な反応をすることは珍しいことではない。この若いエルフの呪術師が言うようなことは、他の者には分かり切ったことだった。ただ、この地雷を誰が踏むか。ほぼ同じ内容のことを、差し障りなく、どのようにして伝えるか。
今回は、この何も知らない新入りが地雷の洗礼を受けた。
「いやっ、そのような! とんでもございません!」
気の毒なエルフの呪術師は助けを求めるように周囲を見回す。
他の面々は、一人、また一人と視線を躱して行くが、年長のノームの神官だけは、やや草臥れた表情で大きな鼻を摩り、
「ジークリンデ様。白どのと遠出なされてはどうでしょう?」
と助け舟を出す。
深紅の瞳を怒りに染めて、尋常でない殺意を撒き散らすジークだったが、その言葉に反応して、剣に伸ばしかけた手を引っ込める。
「白どのは療養中の身ではありますが、最近は体調も安定しておりますし、気分を変えれば、この度の症状も緩和するかと……」
「……」
ジークは黙り込み、再びカウチに腰掛けて、しばらく心ここに在らず、といった様子で考え込んでいたが、次の一言が決め手になった。
「できれば、白どのと二人きりで、なるべくなら泊まりで、ゆるりと静養なさるがよろしかろうかと……」
「と……泊まり?」
見る見る内にジークは赤面し、目元を潤ませる。
「そ、それは……まだ少し、早いと思うんだ。いやしかし! それが治療の一環というなら……その、私としては……」
「無論、治療の一環でございます」
ノームの神官は、うっかり吐き出しそうになった溜め息を飲み込む。
今や、その権勢に並ぶ者のないジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーにとって、あの出自の知れない呪い塗れの男は、どのような存在か。
宮殿では、耳聡く賢くなければ生きて行けない。
呪い塗れだろうが、少々得体が知れなかろうが、今を時めくジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーにとって、あの白い男は『愛人』なのだ。
それも、掛け替えのない愛人だ。
だがそれを口にしてはならない。白い男は、建前ではアスペルマイヤー家に大恩ある賓客ということになっている。
「うん……うん……それはいい……」
と、呟きながら頬を染めるジークを前に、一同の心を掠める思い――
最早、その権勢揺るぎなく、将来の栄達も約束された彼女の掛け替えのない愛人が、余命短いニンゲンの男。どういう皮肉なのだろう。
賢き者は、そっと黙っていよ。そういうことだ。
ノームの神官は口を噤み、静かに頭を下げるのだった。