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猫とワルツを  作者: ピジョン
白い男と銀の狼
29/42

花の咲くとき1(改)

 月明かりがエーデルシュタイン宮殿の中庭を青く染め上げている。

 俺と閨を共にするようになって、ジークはすぐに寝付けるようになったらしい。


 ジークの眠りは深い。

 日頃の軍務で疲れているのだろう。静かな寝息を立て、眠っている。

 一人、テラスに出て、丸い月を見上げる。


 最近のジークは、いつも上機嫌だ。ほんの少しだけだが、犬のメイドたちにも優しく接するようになり、闇雲に解雇するようなこともなくなった。


 ……平和だ。


 最近の俺は少しおかしい。目が覚めていても、少しぼんやりしてしまう。

 心の中は、何時も月を覗き見るような心地がして、静かな平穏に満たされている。

 心の平穏は、『呪印』のお陰であるらしい。

 意識が……薄い。気がそぞろ、というのではなく、あまり考えごとができなくなって来ている。

 これはよくない兆候だ。

 貫頭衣をめくり、胸元を見ると、ゼラニュームの花が咲いている。


 ……ジークが目を覚ますかもしれない。そろそろベッドに戻ろう。


 夜空に、丸い月が浮いている。

 青白い月の輝きが照らすエーデルシュタインは何よりも美しく、幻想的な雰囲気に満ちていて……心は夢見るような心地して、静かな平穏で満たされる。



◇ ◇ ◇ ◇



 夜明けの群青に染まる寝室で、ジークは静かに目を覚ます。


 ジークは染み一つない白を好む。寝室のカーテンもベッドのシーツも、最近持ち込んだノルドライン製のカウチまでも、全て白で統一されている。

 その不在に不平を鳴らす前に伸びてきた指先が、ジークの銀髪を撫でつける。


「……」


 目を開くと、頭髪どころか睫までも白いレオが薄い頬笑みを浮かべている。

 震える声でジークは言った。


「か、完璧だよ、レオ。私は、こんなに完璧な朝を迎えたことがない……」


 現在、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの世界は、汚れない純白で構成されている。


「……」


 レオは静かに微笑むだけで何も言わない。


 ……素晴らしすぎる。


 ジークは、つい泣きそうになった。このような朝を迎えるのは、これで七回目になるが、ジークは慣れるということがない。

 世界は純白の輝きに満ちていて、毎朝、ジークに生の祝福を告げる。


「おはよう、レオ。さあ、隣に腰掛けて……」


 そして、ジークは胸焼けがするほどの甘言を囁き、レオをかき口説く。

 毎日の日課だ。彼女にとっては、愛する者への義務を果たしているだけのことに過ぎない。


「先に目を覚ましていたんだね。私を起こしてくれてもよかったんだよ?」

「……」


 頬に笑みを浮かべるだけのレオに、はて? とジークは内心、首を傾げる。常ならば、レオはここで、


「ジークは疲れているんです。朝くらい、ゆっくりしていてください」


 というような気遣いの言葉を掛けて来る。それにジークが感謝の言葉を返し、この完璧な朝は、完璧な一日の始まりへと繋がる。

 だが、今朝に限ってはそれがない。

 やや不満げに、ジークは俯いて考える。思い当たることはただ一つ。


「……レオ、怒っているんだね?」

「……」


 やはり、笑みを浮かべるだけのレオに、ジークは悲しそうに頷き掛ける。


「……確かに昨夜の私は、だらしなかったかもしれない……でも、あれはレオもいけなくて……」

「……」


 更に、ジークは恨めしそうに言い募る。


「しょうがないよ……だって、私は、そうなることを、ずっと待ち続けていたんだ……それに、あれは二人でするもので……」


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは狼の獣人だ。種族の性質として、執拗で粘着質の嫌いがある。――獲物には、とことん執着する。その性質は、元々彼女が持ち合わせる一途で、粘り強い性格をも助長している。

 ジークの赤い瞳には、睫までも白い男しか映っていない。


「ねえ、レオ……聞いてる?」

「……」


 柔らかな笑みを浮かべたままでいるレオと目が合い、ジークの喉がゴクリ、と鳴る。


 ……食べてしまいたい。比喩や隠喩の表現でなく、実際に、ジークは強い飢えと渇きを感じている。

 笑みを浮かべるレオを見ていると、少し齧るくらいなら許されるのではないだろうか、とすら思えてしまう。

 この男の血はどんな味だ? 肉は? とてもいい匂いがする。こんなに美味しそうな匂いは嗅いだことがない。

 湧き出した唾液が、だらだらと顎を伝い、赤い瞳は猛烈な飢えにぎらついている。


 それは、明らかに異様な光景だった。


 ――いけない!


 はっ、としてジークは口元を拭う。狼という生き物が爪と牙で獲物を捕らえ、捕食したのは大昔の話だ。これではまるで、己は獣そのものではないか。

 ジークはその身に宿す獣性故に、レオを脅えさせてしまうことがある。

 だが、目の前のレオは――何事もなかったかのように――にこにこと笑っていた。


「レオ?」


 そこで、ジークは漸く異変に気づいた。

 レオは勘の鋭い男だ。そして、元傭兵だ。戦歴だけならジークを上回る。厳しい戦場を生き抜く上で身につけた直感力は並のものでない。

 そのレオが、異様な状態のジークを前にして、逃げるどころか脅える様子も見せず、ただ微笑んでいる。

 ジークの眉間に、深い皺がよる。


「だれか! だれか、来るんだ!」


 鋭い声で使用人を呼び付けるジークの胸中にあるのは言い知れぬ不安だった。



◇ ◇ ◇ ◇



 ――五年前。

 当時のアスペルマイヤー少佐が率いる第五連隊所属、第三大隊は、アルフリード騎士団の一個連隊との遭遇戦の末、敗走中、徹底的な追撃を受けた。

 乱戦の最中、胸部に矢を受けたジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは呼吸すらままならず、酸素欠乏症に陥っている。


「……誰が退却しろと言ったの……部隊を返して戦うんだ……」


 徹底抗戦を主張するジークを見つめる大隊の騎士たちの視線は、皆一様に冷たい。


 それは自殺行為というのだ。なんと愚かな指揮官だろう。


 部隊に追随する傭兵のレオンハルト・ベッカーならこう答えただろう。

 頭痛、吐き気、耳なり、嘔吐、顔面蒼白、意識朦朧……ジークの症状は、判断力の低下から来る発揚状態である、と。

 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは頑固だが、愚か者ではない。酸素欠乏から来る精神不安定により、現状の理解が難しい状況にあった。

 とはいえ――そのような指揮官を見捨てるのは、壊滅寸前の部隊にとっては当然のことだったかもしれない。


 その日、ジークは激しい痙攣を起こし、昏睡状態に陥った。


 指揮官に早めの死亡認定を下し、残騎を率いて逃走した副官を責めるのはあまりに酷な話だろう。

 実際、部隊の生き残りの誰しもがジークの死を信じて疑わなかった。

 それでもジークが再び覚醒し得たのは、狼の獣人の類い希な生命力のお陰だろう。


 部隊長の仮設本陣にて、意識は朦朧とし、指一本動かすことさえ大儀なジークが絶望と苦痛に唸りを上げているところにやって来たのが、傭兵のレオンハルト・ベッカーだ。


「隊長さん、まだ生きてますか~、っと」

「……」


 命あっての物種。傭兵の口癖だ。この危機的状況では、真っ先に逃げ出すのが当然の傭兵が何故……。

 よからぬことを企むか。ジークとて、己の性くらいは理解しているつもりだ。かくなる上は――

 覚悟を決めるジークに、レオは、ぐっと袖を捲って見せる。


「あんたの武運は、まだ尽きてないみたいですよ」

「!」


 レオの腕に浮かび上がる『アスクラピアの蛇』を見て、ジークは強い目眩を感じた。


 まず安堵する。助かった。そして予想外。何もかもが予想外。目の前の男は、どう見てもアスクラピアの神官には見えないが『アスクラピアの蛇』を従える以上、慈愛と慈悲を備え、神官足るに相応しい人格を擁しているのだ。殺しを生業とする傭兵でありながら。


 あり得ない。


 それは、どんな変わり種だ?

 目を見張るジークを他所に、レオは天幕の中を引っ掻き回し、包帯や各種薬品を集めて回る。


「隊長、あんまり時間がないんで、手短に説明しますよ。

 まず、部隊は壊滅しました。副官さんは残騎を纏めて逃げてます。

 俺はまあ、隊長を連れて逃げるんですけど……ニーダーサクソンじゃなく、西のノルドライン国境に向かおうと思ってます。

 悪いけど、副官さんに囮になってもらいます。アルフリードの連中、俺たちがノルドラインに行くとは思わないでしょ」

「……」


 その提案に、ジークは首を振り、拒否の意志を見せる。


 最早、狼の誇りは傷ついた。この失地を回復させるためには、敵の流す血だけでは、まるで足らない。己を見捨てて逃げ出した味方にも相応の報いをくれてやらねばならない。

 名誉を失うということは、多くを失うということだ。それくらいのことをせねば、誰も考え直さない。狼の獣人であるジークならではの思考理論だ。


「本気で言ってんですか?」


 ジークは頷いて見せる。部隊の生き残りは、自分とこの傭兵だけで十分だ。


「はい、わかりました」


 その迷いのなさに、ジークですら思わず鼻白む。

 今まさに死に瀕しているジークの戦闘意志を支えるのは戦士のプライドだ。そして、『アスペルマイヤー』は戦士の一族だ。その家名を名家足らしめるのは先祖の武勇だ。




「傭兵……おまえの名前は……?」

「レオ。レオンハルト・ベッカーです」




 おそらく――この傭兵は戦士なのだ。

 虚弱なニンゲンであろうが、卑しい傭兵であろうが、彼は『戦士』なのだ。

 真の戦士というものは、己の決断に命を賭ける。半端な決断はしない。

 目の前の傭兵は、ジークにそれをやって見せたのだ。


 痛快だった。


 ジークは、今まさに死に瀕している。この場での戦闘続行の意思表示は、狂っていると思われても仕方がないほどの妄言だ。言ったジークですら、そう思う。

 だが、この傭兵はそれに従うという。

 死に瀕するジークに、迷いなく全てを賭けるという。


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーがレオンハルト・ベッカーを気に入ってしまった最初の瞬間だった。


 矢傷を塞ぎ、万全の呼吸を取り戻したジークに続けざま訪れたのは、大量の出血から来る極度の疲労と衰弱だった。

 言葉を発することすら出来ず、意識すら怪しいジークを連れたレオの逃亡劇は三日続いた。

 三日も身動きが取れない状況にあると、様々なことが起こる。


 ジークは、全て見られた。見られてはいけないところ、見せたくないものの全てを見られた。

 だが、ジークはそれを恥ずかしいとは思わなかった。


 ……この傭兵は少し頭が悪いが、正しいことをやっている。


 体温の低下したジークを暖めるため、夜中は抱き合って眠り、失血による衰弱を和らげるため、ジークに大量の水分を補給させた。


「思い出だよな? 役得だよな?」


 不埒なレオは、そんなことを言いながらもジークによく尽くした。

 そして狼の獣人は非常に義理堅い。

 徐々にではあるが身体に反撃の態勢が整うのを実感し、ジークは言った。


「……少しだけなら、好きな所を触っていいよ……」


 レオンハルト・ベッカーは大量の鼻血を出し、その晩は不埒な言葉を口にしなかった。



◇ ◇ ◇ ◇



 そして訪れる反撃の日。

 三日に渡る逃亡劇。


 ――武器はない。だが、爪が、牙がある。


 どこまでも醒めた夜。

 ジークは闘志だけを胸に立ち上がる。万全の体調とは言い難い状態だが、恐れは微塵もない。

 狼の誇りは損なわれた。血を流すべきだ。それによってのみ、傷ついた誇りは雪がれるだろう。

 未だ追っ手のかかるこの状況、しかし、ジークの胸から敢然と立ち向かう勇気が損なわれたわけではない。

 ジークは思う。

 誇りを失うということは、多くを失うということだ。

 新しく名声を得なければならない。そうすれば皆、考え直すだろう。

 勇気を失うということは、全てを失うということだ。

 いっそ、生まれない方がよいくらいだ。


「アスペルマイヤー隊長、ご武運を……」


 傭兵のレオンハルト・ベッカーが自らの剣を差し出してくる。

 ジークは静かに頷き、剣を受け取る。

 ものの分かった傭兵だ。これより先は、ジークが一人で為さなければ意味がない。


「傭兵、これが最期かもしれないから言っておく。……ありがとう。私は、お前の好意を忘れない。お前に受けた恩義を忘れない。これを……」


 ジークは首にかけたペンダントを千切ってレオに投げ渡す。アスペルマイヤーの家紋入りだ。これで、この身がここで果てようと一族の者が遺志を継いでくれる。受けた恩を返してくれる。


 ――そして、銀の狼は、戦場に独り起つ。



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苛烈に生きる弟の話を……
『アスクラピアの子』
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