平穏
平和な毎日が続いている。
ある日、やって来たのは新しいメイド長だった。中年のエルフ女で、名前をアデルと言った。
このアデルとは、たったの一日で別れることになった。
アデル曰く。
「なんで私が、ニンゲンなんかの世話をしなきゃいけないんだよ! 私は、ジークリンデさまに仕えに来たんだ! 冗談じゃない!」
エルフという生き物は、高貴の出であるらしい。以前、狼のメイド長に教えてもらったので知っている。アデルは男爵家の出身であるらしく、メイドとは言え、俺のようなヘイミンより立場が上なのだ。
アデルの言い付け通り、素直に犬のメイドに混じって、部屋の片付けをしていたのだが、そこにジークがやって来た。
それまでは、和気藹々と冗談など、言い交わしながらも働いていた俺たちだったが、犬のメイドたちは、現れたジークの顔を見た瞬間、全員がひれ伏してぶるぶると震え出した。
ベッドのシーツを交換している俺を見て、ジークはしばらく無言だった。
「…………」
口をぽかんと開き、瞬きばかりを繰り返すジークは放心しているようにも見える。
俺は言った。
「どうです、ジーク。綺麗にシーツを交換できましたよ?」
「……」
「世話になるばっかりで、何もしていなかったので心苦しかったんです」
そう言っておいてから、アデルが下男の部屋を用意してくれるので、そこに移り住むことに決めたとジークに告げた。
「……」
ジークは何か言おうとして、それから口元に手をやり、鬼のような形相になった。
いつも鷹揚で寛容なジークにそんな顔をさせるとは、俺はどうやら、とんでもない粗相をしてしまったらしい。
ひれ伏する犬のメイドと同じように、俺も頭を下げようとするが、右膝が上手く曲がらない。
「も、もうしわけありません、ジークリンデさま……」
俺の謝罪を慌てて遮り、ジークは焦ったように言う。
「ちっ、違うよ! 私は怒ってない! 私が、レオを怒るなんて、ないんだ……」
美しい顔を歪ませて言うジークの言葉は、後半が尻すぼみに小さくなって行ったが、圧し殺したような力強さがあった。その間、犬のメイドたちは誰も顔を上げなかった。
この後のジークは、少し乱暴に俺を抱き抱え、空き部屋のソファに俺を座らせると、しばらく待つように言って何処かに行ってしまった。
ややあって帰ってきたジークは、背後にやたら顔色の悪いアデルを伴っていた。
俺の姿を認めるなり、何か言おうとするアデルを遮って、
「あ、アデルさま。言われた通り、シーツの交換、出来ましたよ。後でチェックしてくださいね」
と言うと、辺りは重い沈黙に包まれた。
「…………」
アデルは絶句し、世界の終わりを見たような顔になった。
ジークは、瞬きすらせず、これ以上ないくらい身を小さくしたアデルを見つめていた。
「レオ、ごめんね。もう少し待っててね」
ジークは笑っていたが、何故かとても怖かった。ぽん、とアデルの肩を叩いてこう言った。
「……いいところに連れて行ってあげるよ」
「…………」
ジークに伴われ、部屋を出て行くアデルが最後に一瞬、俺に送った表情が、いつまでも忘れられそうにない。
死刑執行を待つ囚人のように、絶望と悲しみに溢れた表情だった。
その晩、俺は、ジークにアデルの行き先を尋ねた。
「アデル? 父上と同じところに行ったんだよ」
アデルは、ジークの父に仕えることになったらしい。
「そうですか。だったら、出世ってことでいいんですか?」
「そうだね」
答えたジークはいつもと同じ、優しい笑顔だった。
◇ ◇ ◇ ◇
アデルが出て行き、ジークは乗馬用の鞭を持ち歩くようになった。
「馬に乗るんですか?」
「違うよ」
笑顔で答えるジークの声は優しい。
だが何故だろう。背筋が泡立つような感じがする。
「では、なぜ鞭を持っているんですか?」
ジークは首を傾げる。質問の意味が分からないようだった。
「鞭は叩くためにあるものだけど……」
「いや、そうじゃなくて……それは、普段の生活では必要ないものですよね?」
ジークの細い指が、俺の唇を撫でる。
「これは、レオのために必要なものなんだ」
俺のために、ジークは何を叩くんだろう。聞きたくないな……。
ジークは、ふわりと笑ってテラスの方を指さした。
「レオ、お茶にしよう。ザールランドから珍しいお菓子を取り寄せたんだ。きっと気に入るよ」
「はい、お付き合いします」
ヘイミンの俺が、キゾクであるジークと同じ卓上でお茶を飲むことは、この上ない無礼にあたるとアデルが言っていたのを思い出したが、アデルはもういない。だから、遠慮せず誘いを受ける。
「連れて行ってあげるね?」
返事を待たず、俺を抱き上げたジークは上機嫌だった。
エーデルシュタイン宮殿の美しい中庭を望むテラスに置かれたテーブルには椅子が一つきりしかなかった。
だが、紅茶とお菓子は、きちんと二人分用意されている。
「おや、椅子が一つしかないようだね」
一緒にシーツ交換した犬のメイドたちは見かけないようになった。アデルが出世して、それから彼女たちに会ったことは一度もない。
「わ、私の膝に座るといいよ」
そして、なぜか鼻息の荒いジーク。仕組まれたとしか思えないこの状況。
俺はどうすればいいのだろう。人目はない。ジークの薦めに従っても、恥をかくことはない。だが……男でありながら、女の膝の上に腰掛けるというのは、一体どうなのだ? 男として、何か大切なものを失ってしまうような気がするのは、俺の気のせいだろうか……。
「おことわりします」
そう告げると、ジークは一瞬だけ眉を寄せた。
最近のジークは少しおかしい。携帯するようになった鞭もそうだが、周囲に侍るメイドたちを名前も覚えぬ内からクビにしている。
ジークがここ最近の口癖を口にする。
「レオ……私は、そろそろいいと思うんだ」
意味が分からない。何がいいのだろう。俺が問うと、ジークは赤面して黙り込んでしまうのだ。照れているようにも見えるし、困っているようにも見える。
世話になりっ放しの俺が、ジークを困らせるのはとても心苦しいことだ。
その思いから、俺の言葉は次のようになった。
「そうですね。そろそろいいと思います」
春の柔らかな風が吹き抜け、ジークの美しい銀髪をゆらす。
次の瞬間、ジークは俺の視界から消えた。
続けざま、まとわりつくように白い嵐が吹き荒れ、一瞬目を回した俺は、気づくとジークの膝の上に座っていた。
「…………」
エーデルシュタイン宮殿……ニーダーサクソンの宝石と呼ばれる宮殿の中庭には、鹿や兎など、野の獣が放し飼いになっている。
その中には七色の羽根を持つ鳥……ジークが俺に見せるために取り寄せた『孔雀』とかいう生き物がいて、そいつが美しい羽根を開いて見せていた。
ジークは何も言わない。
俺も何も言わない、というよりも喋れる雰囲気ではない。
耳元で、ジークが自らを落ち着かせるように深呼吸を繰り返している。
ティーカップを手にとって、一口紅茶を飲んだが、味は全然、分からなかった。続けてザールランドの珍しいお菓子を食べた時、ぴんと閃くものがあった。
ああ……俺は、食われるんだ。
再々、ジークが俺に意思確認を行っていたのは、そういう意味だったのだ。
食べてもいいか? と問うジークに対し、俺は……いいですよ、と言ってしまったのだ。
心臓の鼓動が煩い。
ジークは、鼻も耳も素晴らしくよく利く。きっと聞こえているだろう。
震える声で、ジークは言った。
「す、すごいよ、レオは……。こうしているだけで、私は、私は……!」
「…………」
俺はジークの膝の上で、身を小さくする。
この日から、俺とジークは閨を共にするようになった。