ベッカーくんと猫隊長
「おい、ベッカー」
「ああ?」
しまった。隊長のやつが呼んでいる。
俺、レオンハルト・ベッカーは『猫隊長』ことアキラ・キサラギ率いる『第七連隊』に配属されたばかりの新入りだ。
「昨夜、おまえは何処に居た」
「…?」
キサラギ隊長は俺の私生活にうるさい。特に女関係には、目茶苦茶うるさい。
ことあるごとに、ぎゃんぎゃん喚き、それでも足らない時は暴力を振るうことも珍しくない。おかげで、ここ最近は色街に行ってない。だから昨夜は、さんざん羽目を外した。
「昨夜っすか。それなら、仲間と飲んで、それから色街で遊んで――気づいたら、ウチのメイドが――あ、エルっていう娘なんですけどね。で、そのエルが――ギャッ☆」
最後まで言うことは出来なかった。
キサラギ隊長――俺の胸ほどまでしかないこのチビが、こともあろうに、俺様のケツを蹴り上げたのだ。
「色街だとう…!?」
くそが! このチビ! 人が黙ってりゃ、いい気になりやがって!
「おまえ、ボクの側仕えだろう。普段の生活にも気を配れと、あれほど言ったのに、まだわからないのか?」
「……いいじゃないすか。俺が、俺の金で遊んで、なーにが悪いってんですか?」
キサラギ隊長の癖のある髪が、ぴん、ぴん、と跳ね上がる。これはキレる寸前だ。
「その下品な言葉遣い……改めろと言ったはずだよな?」
「へいへい、さようでしたね、キサラギ隊長」
「ボクのことは、アキラって名前で呼べって、これも何度も言ったよな……」
キサラギ隊長――アキラの声が、だんだん低くなる。
だからなんだ? このチビには愛想が尽きた。もう知るもんか。
言ってやった。
「すいませんね。キ・サ・ラ・ギ・た・い・ちょ・う」
「……」
おかしな沈黙があった。
アキラは俯き、唇を噛み締め、何かに耐えているように見えた。
「……そんなに、ボクのことが……」
俺がこの第七連隊に配属されて、一カ月近くになるが、アキラの考えていることは、本当によく分からない。
ちょっとしたやりとりで、すぐ怒ったり、泣きそうになったりする。
で、今、アキラは泣きそうだ。
「おっ! キサラギ隊長、泣きが入りそうです! ベッカーくんに1ポイント入ります」
この一カ月あまり、アキラに殴られなかった日など一日だってない。そこまでされれば、流石にこっちも腹が据わるというものだ。
アキラは、ごしごしと袖で目元を拭っている。
「……ぐっ、この、うすらとんかちめ……!」
「おおせのとおりでございます」
ついに泣きが入ったアキラの様子に、俺は腹を抱えた。いい気味だ。
「この……また、ボクに稽古をつけてもらいたいようだな……!」
「へっへーん。おっことわりでーす!」
中指と一緒に舌を突き出してやる。
このチビは、べらぼうに強い。訓練場(俺は猫の穴と呼んでいる)で足腰立たなくなるまで叩きのめされたのは、既に一度や二度ではない。
アキラは泣きながら、取り出したタクトをぴしりと俺に突き付ける。
「……不名誉除隊にしてやる!」
「それで結構で御座います。では、ごきげんよう。キ・サ・ラ・ギ・た・い・ちょ・う」
恭しく頭を下げ、踵を返す。
毎日小突かれながら、騎士なんてものをやって行けるほど、俺は上等に出来てない。これでも決断力だけはある方だ。
傭兵暮らしも気軽でいいさ。エルは呆れるだろうけど。
さっさと決めて歩きだす。そして――俺の意識があったのは、ここまでだ。
◇ ◇ ◇ ◇
「おい、ベッカー!」
ぴしっと頬を打たれた痛みに目を覚ますと、そこは厠の中だった。
「……」
「おまえさんが馬鹿なのは知ってるが……いくらなんでも、ここで寝るのは納得できんな……」
目の前には、訝しげな目付きで俺を見つめる傭兵上がりの仲間たちがいた。
首筋を撫でると、ずきりと鈍い痛みが走った。
アキラの仕業だ。
背後から人様を気絶するほど強く殴りつけ、あげくの果てに厠に押し込むとは。
「くっそ……あの豆! やりやがったな……!」
苛立ちを吐き捨てる俺を、仲間の一人が笑う。
「うはっ! 少尉、またキサラギ隊長とやりあったんですか!?」
「笑い事じゃない! ウチのメイドは匂いに厳しいんだぞ!」
エルは犬の獣人並に鼻が利く。また変な匂いがすると詰られる。
「我慢できるか! もう辞める! 騎士なんて辞めてやる!」
「まあ、落ち着け、神父の息子。愚痴なら飲みながら聞いてやる」
「行きましょうよ、少尉! 可愛い娘がいる店、知ってるんですよ」
「そうそう、オネエちゃんに遊んでもらえ。そうすりゃ、おまえさんも気が晴れるさ」
◇ ◇ ◇ ◇
これが飲まずに居られるか、という訳で四人で色街に繰り出した。
この三人とは、傭兵時代からよくつるんで飲みに行っている。昨夜、しこたま飲んだのも、この三人とだ。
しかし……よくよく考えれば、俺がアキラに殴られたのはこの馬鹿共三人のせいではないだろうか……。
「やっぱり、帰る!」
「なあに、抜かしてんだ、ベッカー!」
「そうですよ! 少尉の好きな犬の娘ですよ!?」
「おう、おっぱい、でっかいぞ?」
そういう訳で、やっぱりこの日の晩も盛り上がる。
騎士になって一カ月。
いつも国境辺りをうろついて、切った張ったを繰り返していた傭兵だった頃に比べると、任務の危険性は随分と減った。街中の警備や哨戒なんてものは遊びみたいなものだ。
酒が入って、可愛いどころに囲まれると、気もおおらかになる。
「だからだ……神父の息子。俺たちみたいな穀潰しが、こうして飲んだくれていられるのも……」
「わかった、わかったから……」
騎士に取り立てられた際に出た一時金のお陰で、今は懐も寒くない。
それに、騎士として戦場に赴けば勲章を貰える。勲章には年金が付く。傭兵なら、その場限りの報奨金だ。
それに、門閥貴族であるジークの推挙のお陰で、少尉の階級からはじめられる。ぼんくらの俺には過ぎた立場だ。
俺一人ならともかく、辛い時期も付いて来てくれたエルには報いてやりたい。
「……やめねえよ……」
グラスの氷が、からんっ、と鳴った。
だが、何故だ?
どうしても気が晴れない。これでも俺は勘が働く方だ。
その勘が警鐘を鳴らすのだ。
アキラ・キサラギだけは止めておけ、と。
感覚ではない。判断が欺くのだ。
親父の言葉を思い出し、それを振り切るように、俺は首を振った。