最終話 愛ゆえに
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは生きていた。
胸と腹に穴が開き、致命傷を負いながらも立っていた。
何が起こったのだ。
辺り一面、火の海だ。
八人のアキラ・キザラギが襲い掛かって来る瞬間、ジークの目に飛び込んだのは熔岩の流星群だった。
喉に競り上がる血の固まりを飲み下し、ジークはそれでも立ち続ける。
あのアキラ・キザラギが立っているのだ。
彼女も、この原因不明の流星の直撃を受けたのだ。右の脇腹に大穴が開いている。出血は、ジークに勝るとも劣らない。きっと大きな血管を傷つけたのだろう。
譬え、この命が涸れ尽きようと、はいつくばって地を嘗めるわけにはいかない。
アキラ・キザラギは、胸を張ろうとして失敗し、よろよろと力尽きそうになっては、後退しながらもなお倒れず、踏みとどまっている。
流石に、見上げた根性だ。
だが、勝つのはジークだ。
アキラ・キザラギの屁理屈は、最早、どうでもいい。
そこに事実があろうが無かろうが、勝てば全ては同じことだ。
まだ歩ける。ジークは、剣を杖替わりに、火の海を一歩踏み締める。
そのジークを、そっと背後から燃え盛る『何か』が抱きとめる。
『ジィィィィクゥゥゥゥ……』
地の底から湧き上がるような声に、ジークは背筋に冷たいものを押し込まれたような感触を覚えた。
『ジィィィィクゥゥゥゥ……』
ジークは知っている。この地獄から湧き上がる声の持ち主を知っている。
足元で、どろりと持ち上がった炎が、ぞろりとジークの足を嘗め上げる。
焼け付くような痛みが走り、血の蒸発する匂いが鼻に突く。
「あっ、あっ……い、イザベラ?」
全身に走る生理的な嫌悪感に、ジークは悲鳴を上げそうになった。
灼熱の炎が象る『それ』がジークの首筋にまとわりつく。
一度で駄目なら、二度殺すまでのこと。
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは狼の獣人だ。死に瀕して尚、気高く、そしてしつこい。むしろ、イザベラが化けて出て嬉しいくらいだった。
自らの肉が焼け、熱気に血が泡立つ中、ジークは、にっと笑みを浮かべる。
まとわりつくイザベラを引きはがそうと、左腕を伸ばしたところで、ジークは、ぴたりと動きを止めた。
深紅を宿したジークの瞳は、これ以上ないくらい見開かれ、アキラ・キサラギを抱き寄せるレオンハルト・ベッカーに釘付けになった。
「あ、ああ……レ、レオ!」
駄目だ!
それだけは認めるわけに行かない!
ジークは叫んだ。
「レオーーーーーっ!」
だが、レオは見向きもしない。
聞こえていないはずはない。
レオンハルト・ベッカーは、アキラ・キサラギを優しく抱き締めたまま動かない。
身の捩れる思いだ。
ジークの瞳に、大粒の涙が溢れ出す。
レオは見向きもしない。
だが、これが、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーが心から愛したレオンハルト・ベッカーという男だ。
迷う愛を、ジークは美しいと思わない。
揺れる愛を、ジークは貴いと思わない。
迷わず、ぶれない愛を持つ。そんな男だからこそ、ジークは、あんなにも心焦がれたのだ。
どうしても、それを自分のものにしたかった……。
『ジィィィィクゥゥゥゥ……』
もう、一歩も動けない。
選ばれなかったという衝撃が、愛されなかったという悲しみが、ジークの足に何より重い枷を嵌めてしまっている。
弱り切ったジークの魂を、身体を、イザベラ・フォン・バックハウスという名の煉獄の炎が焼いて行く。
それでもジークは倒れない。
口元に、いつものように鷹揚な笑みを浮かべ、言った。
「レオ、愛してる」
その思いに何の後悔もない。
その思いが、永遠に尽きることもない。
そして――ジークは、イザベラに身を委ね、そっと意識を手放した。
◇ ◇ ◇ ◇
イザベラ・フォン・バックハウスは小さくなった。
正確には、イザベラであったものは、小さくなった。
何者の生を許さぬ熔岩の流星を撒き散らし、万夫不当の勇者の命を焼き尽くし、多大な力を消費したのだ。
この世界の全てを許さぬ憎しみと、神の血を引くと呼ばれるエルフの血が、炎のエレメンタルとしての生を彼女に歩ませた。最早、正常な意志などない。ジークへの復讐とレオへの恋慕の念。そしてアキラの放った狂気の炎が、この場に彼女を向かわせる道しるべとなった。
どろどろとした炎の塊が小さな少女――イザベラを象る。
『れ……お……ん……は……る……と……』
大きな力を使うためには、今暫くの時間が必要だ。
イザベラである『モノ』は、小さく、レオンハルトと呟いた。
急速に、周囲の炎を吸収し、身の丈を大きくして行くイザベラの背後に、一人の女が忍び寄る。
――エルだ。
炎に焼かれながらも、じっと機会を窺っていたのだ。
『妖刀』菊一文字は、元はアキラの身の丈を超える長刀である。使用者であるアキラの小柄な体格に合わせ、打ち直された菊一文字の余りの刀身で造り出された短刀が、エルの手の中で妖しくきらめく。
「イザベラさま……お覚悟……」
エルは音も無く歩み寄り、それをイザベラの背中に突き立てた。
愛に狂った女の情念を宿すそれに背中を貫かれ、イザベラであった『モノ』は悲鳴を上げようとして――出来なかった。
大きく口を開け、炎を撒き散らすそこに、エルが手を回す。
「今宵、イザベラさまは壁の花。ジークリンデさまを見習いになられますよう」
今もまだ、松明のように燃えるジークを見やり、エルは、うっすら微笑んだ。
どろどろともがき狂い、形を変えるイザベラに、エルは何度も短刀を突き込む。
「これはイザベラさま。粗相はなさいませぬよう」
執拗に、刺しては抉る行為を繰り返すエルの口元が、にたりと狂気に歪む。イザベラを抑え付ける手が見る見る内に焼け爛れて行くが、これまでの生に於いて、エルが忍耐を必要とした場面は多々あった。この痛みもその内の一つに過ぎない。
「イザベラさま。レオンハルトさまは、悪い男でございます。女をその気にさせるのも、手練手管の一つです。あなたは、騙されたのです」
やがて、イザベラは力尽きたように静かになる。
「男というものは、己の都合に命を賭けるのでございます。甘い言葉はただの空言。大事なものを見つけると、何もかもを捨ててしまえる」
それが、エルの知っているレオンハルト・ベッカーという男だ。
どこまでも甘い男であるはずなのに、己の道を見つけると、迷わず行ってしまう。勝手な男なのだ。
だが――迷わぬ男の優しさは、女にとって、どれだけ強い毒なのだ?
少なくとも、エルにとっては猛毒だった。おかしくなってしまうほどには。
「それでは、ごきげんよう」
熱を失い、消し炭のようになったそれをエルは、とん、と押した。
それは音も無く風に流れ、消えて行く。塵は塵に、灰は灰に、死者は死者に還るのだ。
エルは、分厚い布を巻き付けて、守りを固めた腹を一つ撫でる。
「まあ、エルにはこれがあります。我慢するといたしましょう」