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猫とワルツを  作者: ピジョン
第4章 猫とワルツを
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第21話 月の猫


 水でしめらせた布で、レオの顔を拭う。


「少し、滲みます」


 レオの頬には殴られた形跡がある。破れ、血の滲む唇を拭うエルの胸に、むらむらと黒いものが湧き上がる。

 レオの苦痛も苦悩もエルのものだ。それだけはアキラにも譲れない。故に、エルはレオを傷つけた者を憎む。

 髪が白いのは早く何とかしなければならない。エルもアキラも黒猫だ。レオンハルト・ベッカーの髪も夜の闇を溶かしたような黒でなければならない。

 やつれ、衰弱したレオを支えるようにしてこの教会までやって来たが、その道中感じたレオの軽さに、エルは何度も泣きそうになった。


 首都サクソンを臨む平原でのアキラの運命的な敗北を経て、エルは自らの行為を悔いたことは一度もない。

 ただ、燃え尽き、白くなったレオを見ているのは、どうしようもなく切なく、苦しくて――エルの胸は、一杯になってしまう。



「おまえは、ここで腐って行け」



 フェルトブルガー砦にエルを置き去りにしたアキラの行為は、手酷い裏切りだと思ったが、何も覚えていないレオを見ていると、エルの胸に湧き出すのは後悔の念ばかりだ。

 レオンハルト・ベッカーは、疲れ切ってしまった。その心も、白髪を映したように白くなってしまった。見る影も無く痩せ衰え、弱り果てている。エルが見たかったのは、そんな姿ではない。

 レオンハルト・ベッカーという男の命の輝きだ。それを縫い留め、自分だけのものにしたかった。

 今の彼には、燃え尽きた後の空しさと悲しさしか残っていない。

 アキラは、このレオの姿を恐れたのだろう。今ならそれが、よく分かる。受けて当然の罰を受けたのだ。レオの白髪を撫でながら、そう思う。


「……エル、少し眠りたい……」

「駄目です」


 レオは、頻りに眠気を訴える。

 当初は子供をあやすように扱っていたエルだが、程なくしてその異常に気がついた。

 両腕に浮かび上がっているアスクラピアの蛇が目に映る。

 こうしている間もマジックドランカーの症状に陥っているということだ。

 蛇の色濃さからして、とても強度のものだ。

 レオの汚れた貫頭衣の袖を捲って行くと、幾つもの『呪印』が現れた。


「……!」


 『呪印』の一つにブルーレースフラワーの印を見つけた時、エルは鼻白んだ。


 バックハウスの家紋だ。


 固まるエルの肩に、レオが頭を凭れかけて来る。眠気を抑え切れないようだ。

 アキラから授かった短刀は、今もまだエルの手にある。

 レオを刺したエルに対する大隊長たちの無言の抗議だ。回収された短刀は、エルへ返却されている。その短刀で、レオの貫頭衣を切り裂いて行く。

 エルに呪術の知識はないが、レオが相当数の呪いを受けていることだけは理解できた。



「何よ、救急箱。あんたも物好きね。そんな野良猫を飼うの?」



 もう五年近くも前になるが、エルの助命嘆願に訪れたレオに対するイザベラの言葉だ。


 ――ひくっ、とエルの頬が震える。


 あの高慢ちきなエルフは、レオに印を付けたのだ。

 エルに呪術の知識はないが、一つだけ解呪の簡単な方法を知っている。呪術の知識がない者でも知っている簡単な方法だ。


 それは――術を施した当人を殺してしまうことだ。


 複雑な術式を必要とする呪い返しの方法をエルは知らない。だが、それを知っていたとしても、頼るつもりは毛頭ない。

 イザベラ・フォン・バックハウスは、現在行方不明。死んでいると思っていたが、レオの体に『呪印』を残す以上、どのような形でかは分からないが生きている。

 寝息を立て始めたレオの背中を摩りながら、エルは物憂げな溜め息を吐き出した。


 揺れている。


 アキラはエルを殺さなかった――殺せなかった。アキラとエルは、今もまだ心の一部を深く共有していることの証拠だ。


 それが揺れている。生と死の天秤だ。アキラとエルのそれは、今も大きく揺れている。

 この危うい天秤の比重を、どちらへ傾ければいいのだろう。


 レオを見る。


 うっすらと額に汗をかき、苦しそうに眠っている。


 あの高慢ちきなエルフのお陰だ。このままにはしておけない。他人の印が入ったレオを、エルは認めるわけにはいかない。

 これをどうにかすることで、何かが変わる。

 この危うい天秤の比重は、一方に大きく傾くことになるだろう。

 エルの胸に去来する思いは――


 まだ、輝いてほしい。


 ――エルのために。


 もっと、もっと、支払ってほしい。


 ――生きている限り。


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苛烈に生きる弟の話を……
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