第21話 月の猫
水でしめらせた布で、レオの顔を拭う。
「少し、滲みます」
レオの頬には殴られた形跡がある。破れ、血の滲む唇を拭うエルの胸に、むらむらと黒いものが湧き上がる。
レオの苦痛も苦悩もエルのものだ。それだけはアキラにも譲れない。故に、エルはレオを傷つけた者を憎む。
髪が白いのは早く何とかしなければならない。エルもアキラも黒猫だ。レオンハルト・ベッカーの髪も夜の闇を溶かしたような黒でなければならない。
やつれ、衰弱したレオを支えるようにしてこの教会までやって来たが、その道中感じたレオの軽さに、エルは何度も泣きそうになった。
首都サクソンを臨む平原でのアキラの運命的な敗北を経て、エルは自らの行為を悔いたことは一度もない。
ただ、燃え尽き、白くなったレオを見ているのは、どうしようもなく切なく、苦しくて――エルの胸は、一杯になってしまう。
「おまえは、ここで腐って行け」
フェルトブルガー砦にエルを置き去りにしたアキラの行為は、手酷い裏切りだと思ったが、何も覚えていないレオを見ていると、エルの胸に湧き出すのは後悔の念ばかりだ。
レオンハルト・ベッカーは、疲れ切ってしまった。その心も、白髪を映したように白くなってしまった。見る影も無く痩せ衰え、弱り果てている。エルが見たかったのは、そんな姿ではない。
レオンハルト・ベッカーという男の命の輝きだ。それを縫い留め、自分だけのものにしたかった。
今の彼には、燃え尽きた後の空しさと悲しさしか残っていない。
アキラは、このレオの姿を恐れたのだろう。今ならそれが、よく分かる。受けて当然の罰を受けたのだ。レオの白髪を撫でながら、そう思う。
「……エル、少し眠りたい……」
「駄目です」
レオは、頻りに眠気を訴える。
当初は子供をあやすように扱っていたエルだが、程なくしてその異常に気がついた。
両腕に浮かび上がっているアスクラピアの蛇が目に映る。
こうしている間もマジックドランカーの症状に陥っているということだ。
蛇の色濃さからして、とても強度のものだ。
レオの汚れた貫頭衣の袖を捲って行くと、幾つもの『呪印』が現れた。
「……!」
『呪印』の一つにブルーレースフラワーの印を見つけた時、エルは鼻白んだ。
バックハウスの家紋だ。
固まるエルの肩に、レオが頭を凭れかけて来る。眠気を抑え切れないようだ。
アキラから授かった短刀は、今もまだエルの手にある。
レオを刺したエルに対する大隊長たちの無言の抗議だ。回収された短刀は、エルへ返却されている。その短刀で、レオの貫頭衣を切り裂いて行く。
エルに呪術の知識はないが、レオが相当数の呪いを受けていることだけは理解できた。
「何よ、救急箱。あんたも物好きね。そんな野良猫を飼うの?」
もう五年近くも前になるが、エルの助命嘆願に訪れたレオに対するイザベラの言葉だ。
――ひくっ、とエルの頬が震える。
あの高慢ちきなエルフは、レオに印を付けたのだ。
エルに呪術の知識はないが、一つだけ解呪の簡単な方法を知っている。呪術の知識がない者でも知っている簡単な方法だ。
それは――術を施した当人を殺してしまうことだ。
複雑な術式を必要とする呪い返しの方法をエルは知らない。だが、それを知っていたとしても、頼るつもりは毛頭ない。
イザベラ・フォン・バックハウスは、現在行方不明。死んでいると思っていたが、レオの体に『呪印』を残す以上、どのような形でかは分からないが生きている。
寝息を立て始めたレオの背中を摩りながら、エルは物憂げな溜め息を吐き出した。
揺れている。
アキラはエルを殺さなかった――殺せなかった。アキラとエルは、今もまだ心の一部を深く共有していることの証拠だ。
それが揺れている。生と死の天秤だ。アキラとエルのそれは、今も大きく揺れている。
この危うい天秤の比重を、どちらへ傾ければいいのだろう。
レオを見る。
うっすらと額に汗をかき、苦しそうに眠っている。
あの高慢ちきなエルフのお陰だ。このままにはしておけない。他人の印が入ったレオを、エルは認めるわけにはいかない。
これをどうにかすることで、何かが変わる。
この危うい天秤の比重は、一方に大きく傾くことになるだろう。
エルの胸に去来する思いは――
まだ、輝いてほしい。
――エルのために。
もっと、もっと、支払ってほしい。
――生きている限り。