第20話 再会
広大な敷地を誇るニーダーサクソンの宝石『エーデルシュタイン』宮殿。
貴族がいることを除けば、あそこはいいところだ。
広い中庭には噴水が各所にあり、鹿や兎などの野の生き物が放し飼いにされている。
そこには、日々の平穏があった。
この身に数々の呪いを受け、アスクラピアの蛇を宿す俺にとって、最高の保養所だ。
それが今は――
『上サクソン』にある少し寂れた教会に、俺を保護した猫の女と、避難して身を守っている。
猫の女は、俺を長椅子に座らせ、自らは、ちょこんと俺の前の床に正座した。
「何をしている……?」
「……」
猫の女は黙って床に手をつき、平伏した。
「申し訳ございません、レオンハルトさま。路銀が足らず、剣を売ってしまいました……勲章も……大事になさっていたマントの金の留め金も……」
「んん? ああ、それはしょうがない。助けられた身だ。文句は言わん」
ここには平穏がない。
下サクソンから焼け出された一般市民が次々と押し寄せ、騒がしいことこの上ない。
それに、次から次に湧き出すレオンハルト・ベッカーの記憶が、ひどく鬱陶しい。
俺は騎士であるようだ。
暴力を伴うきつい教育を受けたようで、そのことばかりを思い出す。
「時に、猫の女。おまえの名はなんという」
「…………」
「だから……」
名前を尋ねると、猫の女は表情も変えずに涙を流す。このやり取りは既に三回目だ。それでなくとも疲れているのに、余計疲れてしまう。
猫の女が、悲しそうに話し出す。
「エルでございます。そうお呼びください……」
エルというこの猫の女は、俺に仕えて四年以上にもなるらしい。
……何も感じない。この女の記憶は、蛇が食ってしまったのだろう。
「すまんが、おまえのことは知らない」
「…………」
俺とエルの間に、冷たい空気が流れる。どうやら、言ってはいけないことを言ってしまったようだ。
俯いたエルの表情を伺うことは出来ないが、両肩が、わなわなと震えている。
「何度も、何度も、エルを辱めておきながら……レオンハルトさまは、それを覚えておられないと……?」
「は、辱めた……?」
知らん、と言いかけて慌てて口を噤む。
い、いかん。身の危険を感じる。何かうまい手はないか考えていると――
「これを」
そう言って、エルが、ぼろぼろになった紙切れを差し出す。
その手紙には、様々なことが書かれている。
その昔、俺が傭兵であった時分、エルの故郷を焼き払ったことに対する謝罪や、その後の生活でとても世話になったことの感謝の言葉。
とても長い文面の終わりは、こう締めくくられている。
エル、おまえと家族になりたかった。
……やはり、何も感じない。
おそらく、俺は、エルに何かを返したのだ。
「……すまん、何も感じない。俺が書いたとは思えない」
「…………」
エルは正座したままの姿勢で押し黙った。
気まずく重い空気が流れる。
ややあって、沈黙を破ったのはエルだった。
「……狙っておられたのですか……?」
「何のことだ?」
そう答えた瞬間、エルの表情が険しくなった。
同時に、ひどいへまをやらかした、という実感がある。
エルの可愛らしい低い鼻の頭に皺がよった。
「……レオンハルトさま……ずっと気になっていましたが……酷い匂いがいたします」
「匂い?」
「けだものの匂いです。それに……ああ、なんてことでしょう。少し犬の匂いまでいたします。……いけないことを、なされたのですか……?」
けだものの匂い……ジークのことだろうか。
ジークは、とてもいい匂いだ。だが、それを言ってはいけない。間違いなく、命に拘わる。エルの絡み付くような視線が、それを強く訴えて来る。
「女は猫だけになさいますよう」
「わ、わかった」
……エル、か。
怖い女だ。彼女からは強い執念のようなものを感じる。どのような挫折も、困難も、彼女をねじ伏せることはできない。雑草のようなしぶとさと、柳のようなしなやかさが彼女にはある。きっと、どのような苦難にも耐えて来た女なのだろう。
ジークもそうだが、俺の回りには怖い女しかいないのだろうか。虫食いのように欠けた記憶で、俺は大丈夫なのだろうか……。
その内、言葉一つ間違えただけで、俺は殺されてしまうのではないだろうか。
エルは首を振った。
「着替えましょう」
「……ここで?」
辺りを見回す。
教会の中は、避難してきた市民たちで一杯だ。親と生き別れ泣き叫ぶ子供や、負傷に喘ぐ者もいる。のんびりと着替えなどしていていいのだろうか……。
「入浴できればよいのですが……今は、それでよしといたしましょうか……」
このエルという猫の女は、少しおかしい。
薄汚れたぼろぼろの身なりをしている癖に、持っていた心もとない僅かな荷物は、全て俺のものばかりだった。
騎士のマントにトーガ。レギンスにブーツ。そんなものだ。自分のものは一切ない。
俺に対しての忠誠、というのとは大きく違う。ひどく歪んだものの存在を感じる。
エルは、俺のことしか頭にない。
生きている者は、雑多な出来事を漠然と頭におかねばならい。
一つのことだけに執着するのは、おかしな者のすることだ。
俺がこの女から逃れることは、死んでも無理なような気がした。