第2話 月の猫の夜に
副長である俺に振られた部屋は、余り広くはない。昇進して稼ぎも増えたのだから、小さい屋敷の一軒でも借りていいのだが、それはエルに反対された。
猫の獣人は無駄に広い空間を嫌う性質がある。貧乏暮らしのときは、その性質に助けられたが、いざ貧乏から脱却してみるとそれはそれで困ったものだ。
エルもそろそろ年頃だ。俺のような独身の騎士と二人暮らしでは、どのような噂が立つかわかったものではない。
疲労にはいいだろう。ということで、エルの入れたぬるい風呂の中で、色々と考える。
金は余ってる……そうだ、エルを学校にやったらどうだろう。彼女は、頭も悪くない。読み書き計算不自由ない。同年代の友人を作る機会を与えてやりたい。
これはなかなか、名案だ。
学校の寮にでも入れてしまえば悪い噂が立つこともなかろうし、将来、エルがどのように成長するかという楽しみもできる。
パタパタと廊下を走る音が聞こえる。
「少佐、キサラギ准将が来られております……」
浴室の扉越しに、エルが小さく呟く。
アキラが? どきん、と心臓が跳ねる。嫌な予感しかしない。
バスローブ一枚の格好で、あわてて居間に駆けつける。狭い部屋なので、すぐだ。
「やあ、レオ」
燭台のオレンジ色の明かりの中で、アキラがソファに深く腰掛けて、何故か誇らしそうに手を上げる。昼間ならコバルトブルーに光る瞳が、今は暗く淀んで見えた。
「団長、今、帰ったばかり――――」
そこまで言って、俺は絶句した。
アキラの纏う騎士の衣装。白いマントにもトーガにも、所々、赤い斑点がある。
――返り血だ。
ざぁーっ、と血の気が引く音が聞こえた。世界が足元から崩れて行くような気がした。
「どうぞ」
と、エルが呑気に茶など振る舞っている。
「だ、んちょう、何して来たん、ですか……?」
口からはカタコトの言葉があふれ出す。
「それだよ」
アキラは微笑んで、パチリと指を鳴らす。よく見ると、その頬にも返り血が浮かんでいる。
「キミにお土産を持って来たんだ。外の馬車に入ってるよ」
「み、やげ?」
呼吸が荒れる。今度は、何が起こったのだろう。
ふらつく腰をエルに支えられ、表に飛び出す。
馬車の中から、今にも消え入りそうな呻き声が聞こえる。
幌を捲ると、そ こ に は……。
◇ ◇ ◇ ◇
オスカーとアーベルが、ガタガタと歯を鳴らしながら、膝を抱えている。
――よかった。生きてる。
オスカーとアーベルは、一瞬視線をさ迷わせ、それから俺を見つめた、
「ベ、ベッカーか……?」
「ああ」
二人に、いつものような居丈高な様子はない。おびえきっている。
「た、頼む! エドガーを助けてくれ! きっと、おまえは俺たちのことなんて、嫌いだろうけど、それでもどうか……!」
オスカーが馬車の荷台の中で両手を付く。
「頼む、ベッカー。このとおりだ。おまえ、『治癒魔法』が使えるんだろ? 頼むよ……エドガーを、命だけは……」
確かに俺は治癒魔法が使える。
だが、それは傭兵仲間でもごく一部しか知らないことで、なるべくなら使用を控えている能力だ。喋ったのはだれだ? 僅かな苛立ちが込み上げる。
「……」
視線を落とす。
自らが作ったであろう血溜まりに、後ろ手に縛られたエドガーが転がっていた。
視界がクリアになり、鼓動が落ち着きを取り戻す。
俺は戦争屋だ。騎士なんぞとのたまっているが、所詮人殺しだ。これより酷い光景は山ほど見た。血を見て落ち着くとは、我ながら呪われた性分だ。
「おい、エドガー」
「……」
返事はない。浅く早い呼吸。多量の出血。意識の喪失。
エミーリア騎士団の創立者『エミーリア』は修道女である。エミーリア騎士団の主な活動が医療活動であったことからしても、このニーダーサクソンでは『治癒魔法』自体は特に珍しいものではない。
『治癒魔法』は神官の秘術である。『騎士』である俺がその秘術を使うことは、誰にも知られたくない。『奥の手』は誰にも知られたくない。
「……」
もう一度エドガーに視線を戻す。
首を一突きだ。アキラらしい無駄のないやり口だ。致命傷だが、傷自体は大きくない。『治癒』は可能だ。
「わかった。エドガーを助けよう」
「ほ、本当か?」
ほっと胸を撫で下ろすオスカーとアーベル。
……現在のエドガーは、死んでいないだけだ。傷を治したとしても、その状態は変わらない。出血が多すぎる。今は感謝するオスカーとアーベルだが、二、三日もすれば呪詛の言葉を口にするだろう。
神官の秘術であるこの『治癒魔法』であるが、この能力は、決して『奇跡』などではない。失った血液は戻せないし、死者の蘇生は不可能だ。
無駄と知りつつ、それでも治癒を行うのは、戦場以外では、アキラに殺しをさせたくないというただ一点に過ぎない。
「エル……?」
背後にいたはずのエルがいない。アキラもだ。
アキラを遠ざけたのはエルだろうか。それなら好都合だ。俺が『治癒魔法』を使えることは、アキラには絶対に知られたくない。
最後に、
「オスカー、アーベル、ここで見たことは他言無用だ」
二人が頷くのを確認し、袖を捲る。
『治癒』の守護者『アスクラピア』の象徴である蛇の紋様がとぐろを巻くようにして両腕に浮かび上がる。エドガーに触れる。
そして―――俺の意識があったのはここまでだ。
◇ ◇ ◇ ◇
俺は、あまり強くない。剣の腕前でいえば、第七連隊の中では、中の上というところか。それもおまけしてのことだ。へたすりゃ、中の中、並もいいところかも知れない。その俺が門閥貴族であるアスペルマイヤーの知己を得たのも、傭兵上がりの連中から信頼されているのも、治癒魔法という『奥の手』があったからに過ぎない。
燭台の薄暗い明かりの中で、エルとアキラが談笑しているのが見える。足元には青ざめた表情のエドガーが転がっていて、その奥に拘束されたアーベルとオスカーの姿がある。
世界が回る。視界は薄い粘膜に覆われたかのように霞んでいて――これはマジックドランカー(魔法酔い)の症状だ。
『奥の手』を使うのは一年ぶりだ。こんなに鈍ってしまっていたのか。そう思わずにいられない。
意識に、また、夜の帳が落ちる――
◇ ◇ ◇ ◇
粘つく水の中から、身体を起こすように、ゆっくりと覚醒していく。マジックドランカーから回復する際に訪れる症状の一つだ。治癒魔法は便利だが、それなりに代償も大きい。
意識が微睡みながら回復する。
早朝の青い光りに霞む世界の中、エルが、うっとりとした表情で紫の紋が浮いたナイフの刀身を見つめている。
「……エル、それは……?」
エルは息を吐き、ナイフの刀身をゆっくりと鞘に収めた。
「アキラさまに頂きました。キクイチモンジという刀の刃から造った『短刀』というものらしいです」
「キクイチモンジ……」
「はい。なんでも、愛に狂った女の情念が染み付いているとか……」
笑い飛ばそうとしたが、真剣に言うエルの様子に、思わず息を飲む。
「アキラ――団長とは顔見知りか?」
エルは否定の方向に首を振った。
「いえ、昨夜が初対面でしたが……あのようなお方なら、もっと早めにお会いしたかったです」
エルが自分の要望や願望を口にするのはとても珍しいことだ。
……なんだろう。この粘つくような不安は。
アキラとエル。とてもよくない組み合わせのような気がする。
「エドガーたちは?」
「軍規に照らして処罰されるようで、昨夜のうちに連行されて行きました」
「処罰?」
訳が分からない。凶行に及んだのはアキラで、奴らではないはずだ。
「上官に対する不敬と、副長の少佐に対する暴行で、罷免させるのに十分な罪状だそうです」
「……」
確かにそれは事実だが、なんだか詭弁のようにも聞こえる。
……大隊長三人を更迭するのはいい。だが、代わりに誰を据えるつもりだ?
行かなければ。俺は副長だ。アキラを支える義務がある。
「お待ちを」
身を起こそうとした俺を、エルが押し止める。
「出仕は午後からで構わないとアキラさまはおっしゃっておいででした。なんでしたら、休んでも構わないとも……」
「しかし…!」
「お役目に励まれるのは、結構でこざいますが……そのように強く『アスクラピア』の加護の影響をお受けになられていては……」
エルは、ほんのりと頬を上気させ、なぜか機嫌が良さそうだ。細い指先を宙に漂わせ、俺の腕を指す。
「……」
両腕には、未だはっきりとアスクラピアの蛇が浮かび上がっている。身体が魔法酔いの影響から抜け切っていない証拠だ。
エルが、そっと俺の胸を押し、もう一度ベッドに押しやる。
「……まだ、アスクラピアの御力を失っていなかったのですね?」
「……」
知るか。親父が出来る。俺が出来て何の不思議がある。それとエルの上機嫌は関係があるのだろうか。今朝のエルは、とにかく饒舌だ。普段はこの半分も口をきかない。
短く息を吐く。慌てても仕様が無い。
「アキラさまは、そのことを非常に評価されておいででした」
「…!」
ばれたのか! エルが話した? いや、事態の予測は容易か。これは参った。隠していたことを何と非難されるか分かったものでは――待て、評価している? 非難の間違いでなく?
わからん。俺が秘密を持っていたことをアキラが喜ぶとは思えない。
◇ ◇ ◇ ◇
赤い煉瓦拵えの新兵舎の執務室で、アキラ・キサラギはこれ以上ないくらい上機嫌だった。
「よし、その棚はそこに置け。そっとだぞ」
にやにやと緩む頬を隠すこともせず、運び込まれる備品の置き場所を指示していく。
「大将、ご機嫌ですね?」
副長の不在に代わり、この引っ越し作業の指揮を執る壮年の騎士が問いかける。
「ああ、ボクは気分がいい」
アキラは否定せず、手に持ったタクトで拍車の付いたブーツをぴしゃりと叩く。
副長をいじめ抜くことに定評のある、あのアキラ・キサラギが、その副長の不在にも拘わらずこの上機嫌。こりゃまた不思議なこともあったもんだ、と壮年の騎士は眉を吊り上げる。
「副長は、そんなに具合が悪いんですかい?」
「ああ、とてもね。休むよう命じてある。……だからと言って、手を抜くなよ? 奴が居なくても平気だってところを見せてやれ」
「へい」
と答える彼も傭兵上がりの出身だ。気取らない彼らの性分は、アキラにはとても好ましいものに感じられる。
「なあ、レオ――副長は、神父の息子だよな?」
「へえ、そうですが」
「だとすると、アスクラピアの洗礼を受ける機会は十分にあったわけだ」
「まあそうですね」
「アスクラピアの力を使う神官の必須条件は、処女童貞だよな?」
これまた下世話なことを言う。壮年の騎士は眉根を寄せる。
「それがなにか?」
「だったらさ、副長は……なのか?」
「ああ…」
そりゃ、ネタだ。騎士は苦笑いを浮かべる。
飲む打つ買うは男の業。傭兵たちにとっては宿命のようなものだ。レオンハルト・ベッカーもまたしかり。色街で遊びほうける姿は何度も見かけたことがある。色を好むのは、男ならやむを得ぬこと。
傭兵上がりたちが、副長を『神父の息子』とおちょくるのは、そういう意味だ。罰当たりめ、と呼んで遊んでいるのだ。ちょっと泣き虫で、根は真面目な彼をからかっているに過ぎない。
処女童貞であることと、アスクラピアの力の行使は、なんの関係もない。そもそも、レオンハルト・ベッカーは神官ですらない。
壮年の騎士はそれを説明しようかどうか、少し悩み……結局は止めておいた。あの若い副長をからかうネタが一つ増えただけのことに過ぎなかったからだ。
◇ ◇ ◇ ◇
大隊長三名の罷免、更迭。この事態をどう処理するか。第12旅団結成式典まで、あと三日もない。
新しい兵舎の執務室は、連隊クラスの時より間取りが広く気分がいいが、このトラブルの対処を間違えれば、その上気分も長続きしないだろう。
「部隊への発表はどうしますか?」
「取り繕ってもしょうがない。事実を公表しろ」
アキラは新しい椅子が気に入ったようだ。頻りにひじ受けをなで回している。以前のものは、材質が気に入らないとごねていたのを思い出す。
「で、後任はいかがなさいますか?」
「……」
アキラは煙るような表情でこちらを見る。どうせ他人行儀な言葉遣いが気に入らないとか言い出すのだろう。
溜め息を吐く。最近の俺は溜め息ばかり吐いている。
「……アキラ、あなたのためです」
「わかってるよ」
おお、聞き分けがいい。どうしたことだ? 日を置いて直ったのだろうか。
「おまえにも案があるだろう。聞かせてくれないか?」
言葉遣いが直っている。キミとか優しく言われたら、どうしようかと思った。
……直ったんだ。つーんと鼻の奥が熱くなる。よかった。本当に、よかった。
「ばっ、バカ! 今は執務の最中だぞ!」
涙ぐむ俺にアキラの叱咤が飛ぶ。普段なら身を小さくするそれすらも暖かく聞こえる。
「…すいません。アキラ、あなたが……」
「ぼ、ボクは、変わるって言ったからな……いい子になりたいんだ」
直ってないのかもしれない。
どちらとも決め兼ねてしまう。だが、瞳の色の危うさはかなり薄まった気がする。それがどうしてかは分からないが。
話を濁してしまった。一つ咳払いして、続ける。
「後任の案ですが、二つあります。一つは人事部に計らって、佐官クラスの人材を用意してもらう」
この時点で、アキラは首を振った。
「却下だ。もう一つにしろ」
「しかし……」
と俺は再考を求める。
アキラ・キサラギは優秀な軍人だ。優秀過ぎるきらいがある軍人だ。己の立場に疎いところがある。
自己の直属部隊『第七連隊』。指揮官に貴族の子弟を含まない。ということの意味を、アキラは知っているのだろうか。
「わかってるんだろ? ボクの気に入る案を」
アキラの言葉に険が混ざる。
考え過ぎだろうか……そんな気がしてくる。
「……はっ、それでは大隊の副官クラスに代理という形で、後任を任せましょう」
代理の字は、次の出征が終わり次第、取ってやればよい。副官クラスの三名は下級士官だが、目の前にぶら下がった出世のチャンスに発奮するだろう。そのやる気を生かすのはアキラの仕事だ。
この展開は既に予想してあった。関係書類に、アキラのサイン一つで事が進むよう、既に根回ししている。
「それではこれにサインを」
「ん」
ここまでは予定調和だ。アキラの方でも、手際の良さに驚くことはない。
阿吽の呼吸とでもいうのだろうか。俺を仕込んだのはアキラだが、叩けば響くこの関係は居心地がいい。
アキラも同じ気分なようで、僅かに笑む。
「一二〇〇に執務室に来い。今日は、一緒に食事をとりたい」
ひとふたまるまる……軍の時間呼称だ。食事の誘いであるが実に色気がない。だが、それが返って落ち着く。俺もアキラも、ただの戦争屋なのだ。それを認識する。
「なあ、レオ……」
書類を手に関係各所に行こうとした俺を、アキラが呼び止める。
「おまえ、アスクラピアの加護を受けていたんだな……」
ここで来るか。予想していたが、若干表情が歪むのが自分でもわかる。
「あっ、いや、隠していたのを怒ってるわけじゃないんだ」
「?」
「その……恥ずかしいと思う気持ちは、理解できる……」
見る見るうちに、アキラの頬に血の気が上る。
「ボクも……だ」
またわからんことを……。
「じろじろ見るな! 行けっ!」
突然、怒鳴られた俺は、這う這うの体で執務室から逃げ出した。
◇ ◇ ◇ ◇
大隊長三名の更迭処分が公表された。
この一件が旅団内部にどのような波紋をもたらすか。取り敢えず、結成の式典を前日に控えた今、元第七連隊に限っていえば、動揺は少ない。
元々、評判のよくなかった連中だ。致し方ない出来事なのかもしれない。
大隊長の地位を引き継いだ副官たちも、困惑しながらも、運よく巡ってきたこのチャンスにやる気を見せている。
だが、アスペルマイヤー、バックハウスの両連隊については、大きな動揺があったようだ。
当然だ。結成目前に、自ら部隊の弱体を招くこの人事。動揺のない第七連隊の方がどうにかしているのだ。
アキラの掌握能力がそれだけ優れているということの証明なのだが、それがアスペルマイヤー、バックハウスの両連隊に反映するまでは、今しばらくの時間がかかりそうだ。
結局、第七連隊には隊長は置かず、アキラの希望通り直属の部隊として、彼女自らが指揮を執ることとなった。新しい大隊長三名の上に、直接団長のアキラがいるということになる。
さて、この『旅団』であるが、エミーリア騎士団ではこれを『戦略上』の一単位としている。『戦術上』の一単位である『連隊』との違いは、戦闘での勝利を至上の目的とする『連隊』に対し、『旅団』の目的は『統治』を至上とする点である。
第12旅団の結成は、新たな戦乱の予感を孕んでいる。
これに関するアキラの推測はこうだ。
「またアルフリードとの間に、大きな戦が起こるな。これまでにない規模のものになるだろう。軍上層も腹を括ったということかな」
叩き上げの将官『アキラ・キサラギ』と傭兵上がりを多く含む超実戦部隊『第七連隊』そして、万夫不当の『アスペルマイヤー』。性悪女こと知恵者『バックハウス』。この組み合わせに何も思わない者はいない。
さらには『旅団』の目的と性質。これまでは一戦場の事だけを考えるたけでよかったが、これから先はそういうわけにもいかない。
アキラと俺は、『戦略上』の『統治』について議論を深めねばならなかった。
その話し合いで緊張感溢れる執務室に一人の来客があった。
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーだ。
◇ ◇ ◇ ◇
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは、門閥貴族にして、純粋な狼の獣人だ。
狼の獣人は体格と運動能力に優れており、その戦闘能力は他の種族とは一線を画する。狼の獣人のプライドはその類い希なる戦闘能力に裏打ちされたものであり、基本、彼らは優生主義だ。
優生主義……ぶっちゃけて言ってしまえば、強かったら何やったって許される。弱い奴は生きる資格がない。弱い奴は、強い奴の食い物にされるために生きている。そういった主義思想のことだ。
ただ、純粋にそうか、といえばそれは違う。狼の獣人は非常に義理堅い。一度受けた恩は、死んでも忘れない。その反面、とても粘着質で一度憎しみを抱くと、これも死んでも忘れない。
こんな言葉がある。
狼の決意は、鉄より固い。
俺がジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーに出会ったのは五年前のことだ。
当時のアスペルマイヤー少佐が率いる一個大隊は、国境にてアルフリード騎士団の一個連隊と不意の遭遇戦に陥った。
狼の獣人は、粘り強く辛抱強いが、その反面、決断に欠けるところがある。アスペルマイヤーも多分に漏れず、戦術的撤退――所謂『逃走』の指示を出しそびれた。
万夫不当の強さを誇るアスペルマイヤーであるが、大隊と連隊では数に差があり過ぎる。それでも戦線を維持し続けたのは、彼女の勇によるところが大きいだろう。だがそれが、戦況の泥沼化を招いたのは否定できない事実だ。
アルフリード側からすれば、一個連隊二〇〇〇を用い、何故、一個大隊六〇〇を制圧できないのか、という苛立ちがあり、一方、アスペルマイヤーは無敵の戦闘能力に裏打ちされたプライドが、戦況に於ける不利を感じながら、なおも撤退を許さぬというジレンマ的状況を構築しつつあった。
結局、戦況を決定づけたのは、一本の矢だ。
ふらり、と飛来したそれは、すとんとアスペルマイヤーの胸当ての下に命中した。
肺をやられたアスペルマイヤーは、見る見るうちに消耗し、ついには立ち上がることもできなくなった。
アスペルマイヤー一人で維持し続けた戦況は、瞬く間に総崩れの様相を呈し、重傷を負った彼女を擁したまま、大隊は見るも無残な撤退戦を余儀なくされた。
少数に手こずらされたアルフリード側の追撃は凄まじく、大隊からは戦死、逃亡者が続出し、俺もいよいよ進退窮まった。
ここで俺は一つの決断をした。
最後まで、アスペルマイヤーに従軍することを決意したのだ。
彼女は狼の獣人だ。この苦境に最後まで付き従った者を、無碍に扱うことはできまい。その思惑があった。
たとえ、アスペルマイヤーがこの地に斃れようとも、その一族が恩を返す。死んでも忘れぬというのはそういうことだ。他の者が返す。
うだつの上がらぬ傭兵稼業にも飽きて来たころだった。たった一つの己の命。乗るか反るか、ここで張るのも悪くなかった。
そして運命の日がやって来る。
その晩、アスペルマイヤーの本陣は悲惨で、ついに副官までも逃げ出した。率いた大隊六〇〇の内、半数が戦死し、残りは相次いだ逃走のため、ついに五〇騎を切っていた。副官の逃亡も止むなし。むしろ頑張った方だろう。
だが、アスペルマイヤーの武運は尽きていなかった。残騎を率い、逃亡した副官が見捨てた一人の傭兵――俺だ。
朝、目を覚ますと本陣で苦痛と無念に唸るアスペルマイヤーと俺を残し、部隊は消えていた。
『肺』の治療は難しい。矢傷を塞いでも、溜まった血はどうにもならない。一度萎んでしまった肺は『治癒魔法』だけでは治らない。俺が『奥の手』の使用を渋った理由がそれだ。張り切って進み出て、治りませんでした、では済まないのだ。
一度傷を塞ぎ、溜まった血を出すためもう一度傷を付け、血を吸い出すという地獄のような処置を行った。出血量は凄まじく、見立てでは、アスペルマイヤーが命を取り留める可能性は三割もないだろうと思った。
しかし、俺にはもう、アスペルマイヤー以外に賭けるものはない。彼女の狼の血に賭けるよりない。
そして、万全の呼吸を取り戻したアスペルマイヤーは、見事に俺の期待に応えた。というより、応え過ぎた。
迫り来る追っ手を、悪鬼羅刹もかくやという活躍で、引き裂き食い破り、捻り潰した。
アスペルマイヤーの怒りは凄まじく、追っ手を叩き潰した後も止むことはなかった。帰国後、己を見捨てて逃げた副官を素手で引き千切った光景は、一生忘れないだろう。
その反面、最後まで付き従った俺は、とんでもなく厚遇された。傭兵でありながら、騎士分として扱われ、そんな俺をアスペルマイヤーは『レオ』と呼び、俺もまた、彼女を『ジーク』と呼ぶことを許された。
そこから二年間はよかった。
ジークの隣りにいる限り、俺は命の心配をする必要がなかった。傭兵の俺には、それだけで充分幸せだった。イザベラ・フォン・バックハウスと知己を得たのもこのころだ。イザベラは、俺のことを『ジーク専用救急箱』と呼び、それを怒ったジークが否定するということがあった。
命を張った甲斐はあった。狼の獣人に恩を売り、エルフとの間に知己を得た。しかも、二人ともが門閥貴族のお偉いさんだ。一介の傭兵には、過ぎた財産だった。
そしてジークからの推薦を受け、ついに騎士になることになった俺だが、その叙勲式でアキラ・キサラギに出会ってしまう。
この時、アキラ・キサラギは中佐。ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは一度部隊を壊滅させた科で未だ少佐だった。
ジークは優生主義だ。絶対の強者をこそ上に戴く種族主義からか、軍の人事には口出ししなかった。
そのジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーが、第12旅団の新兵舎で執務に励むアキラ・キサラギの元に、た ず ね て き た。
◇ ◇ ◇ ◇
先ず、変化を見せたのはアキラだ。
コバルトブルーの瞳が暗く淀み、活発な意見を出して、俺と意見交換していたのが、突然、無口になった。
後で思ったことだが、猫の獣人は危険察知に優れている。その血を引くアキラの敏感なセンサーが、アスペルマイヤーの持つ何かに反応していたのだろう。
執務室のドアを叩く音が無機質に響き、アキラが許可を出すと同時に、それは現れた。
「やあ、団長。おや……レオもいるね」
ゆったりとした口調に、ハスキーな声。
狼の獣人は体格に恵まれている。アスペルマイヤーは、俺より頭一つ分はでかい。豊かな胸に、ほっそりとした、だがムチのようにしなやかな腕。八頭身の均整のとれた躰駆。銀色の髪は裾の当たりで一つに纏めてあった。ぴん、と立った狼の二つの耳になんだか愛嬌がある。
「アスペルマイヤー……!」
敵意を剥き出しにして、低く唸るようにアキラが呟く。既に、髪が巻き上がり、悪魔のような形相だ。嫌っていたのは知ってるが、この様子は尋常ではない。
「団長の方から、挨拶に来ると思ったけどね。まあ、ばたばたしてるみたいだったし、私の方から来てあげたよ」
なんというアスペルマイヤーの傲慢。
上官であるアキラに向かって、来てやった、とは。
「ボクは呼んでない……消えろ!」
アスペルマイヤーは眠そうな視線を向ける。
なんなんだ。この二人は、最初から喧嘩腰だ。しかし、謎なのは、アスペルマイヤーの態度だ。彼女が上官に敵意を剥き出しにするようなことは、これまでなかった。
「そういうわけにもいかないよ。レオから、よろしく頼まれているからね。私は、レオのためにここに来たんだ」
「……!」
ぎろりとアキラが睨み付けてくる。
その顔に書いてある。おまえ、一遍、死にたいか? と。
勿論、俺は死にたくない。もう少し稼ぎたいし、エルも学校にやらなきゃならん。
「アスペルマイヤー大佐! 団長に失礼です!」
「……ジーク」
呟いて、アスペルマイヤーはふわりと笑う。
こんなときだが、ドキッと一つ心臓が跳ねる。
――戦場の女神。そんな言葉が脳裏にちらつく。
「……ジークだ。ほら、言ってみて……私は何も、変わらない。レオも変わってない。だから……」
のんびりとした口調と共にするりと伸びた指先が、俺の唇に触れる。
「アスペルマイヤー! きさまぁぁぁぁ!」
ついにアキラが激発した。
机を蹴って跳ね上がる。同時に、チンッという鞘走りの音が耳を衝く。
やばい!
アキラの得意技の『居合』だ。こればっかりは、まずすぎる。神速で繰り出される抜き打ちの斬撃は、いくらなんでも――
「ジーク!」
叫びにも似た悲鳴。一瞬、アキラが固まる。微弱な遅れ。それがもたらした結果は劇的で――
はらり、とジークの銀髪が数本宙に舞う。
「びっくりした……」
ジークは、ほうと息を吐く。
躱した? あれを? アキラの『居合』を? いや、アキラが外したのか?
とにかく――ジークは無事だ。
「イザベラの言うとおり、おまえはやっぱり狂っているね……」
厳しい表情でジークが吐き捨てる。
対するアキラは、刀を構えた姿勢でふらりと動いた。これがまた、何とも言えず嫌な動きだ。音も気配も何もない。特殊な歩法であることは疑いない。
「アキラッ! やめてください!」
一喝する。こんなことがどこまで意味を持つかは分からないが、やらないよりはましだろう。
対するジークは、油断なく距離を取りながら言う。
「無駄だよ。猫は、レオが気になって、気になってしかたがないんだ」
なぜかジークは帯剣していない。護身用のレイピアすら腰に差していない。これが知らしめる事実はなんだ? なぜ、ジークは丸腰なんだ?
ジークはさらに言い募る。それはまるで、尽きせぬ恨みを晴らすかのようだった。
「猫はね、レオがいないと落ち着かない。言うことを聞かないと腹が立つ。自分以外の女を見ると、気が狂いそうになるんだ。もうずっと、ずっとそうなんだよ。三年以上前から……」
「!」
見た目にも鮮やかな、アキラの動揺。
「猫は、レオを嵌めたんだ。三年前の叙勲式……理由は何でもよかったんだ」
俺を嵌めた? いやそんなことよりも…………アキラが動揺している。ここを置いて、場の収拾の機会はない。
「だまれ! ジーク!」
俺のその一喝に、えっ、とジークが目を丸くする。アキラの方も、驚いてこちらを見る。
この機を逃す俺じゃない。生じた隙に飛び出して、アキラの首筋を捕まえる。猫なら――これで上手く行く……はずだ。
「……」
くてり、とアキラが身を任せてくる。
やはりアキラは猫の獣人の血を色濃く引いている。
かつて、猫の獣人は四本の足で動く四足獣だった。親が子供を運ぶ際、首筋を咬むようにして掴み、移動した。その際、子供には防衛本能が働き動けなくなる。移動の妨げをしないように。その名残から、猫の獣人は首筋を掴まれると動けなくなるのだ。
与太話の類いだろうと思っていたが、実際エルで試したときは、瞬きすらせず完全に動きを停止した。ハイブリッドであるアキラに通用するかどうかは、完全に賭けだったが。
ジークは、ぱちぱちと瞬きをしている。微動だにしないアキラの様子に驚きを隠せない様子だった。
「これは驚いた……。レオ、なにをしたの?」
「……」
ジークにだけは、絶対に言えない。アキラを嵌めに来たのだから。
「ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤー大佐。今すぐ、執務室から退去してください。これは第12旅団副長としての命令です」
「命令?」
「そうです。どのような経緯があれ、今の私は、キサラギ団長の忠実な副長です」
「ああ、なるほど」
ジークは深く頷いた。
「レオは、私がキサラギ団長より劣ると思っているんだね。それはよくわかる。今の私は、大佐だからね。いいよ。そのうち、力で奪りに来るから」
力関係に拘る狼の獣人らしい言い草だ。ジークは嫌いではないが、この優生主義というやつは好きになれない。
「あなたがアキラに敵うとは思えませんが、できるんでしたら、どうぞ」
「いいね、それ。力づくっていうの、嫌いじゃない」
ジークは俺の胸で瞬きすらせずに、身を任せるアキラを見下ろした。
「これはイザベラのやり方で、私の趣味じゃない」
言って、長い舌で、ぺろりと俺の頬をなめ上げた。
ぞぞぞっ、と背筋に悪寒が走る。
「少し遅れたけど、これからそれを取り戻したいと思う」
頭が、ズキズキと痛んだ。
ジークは、なぜ今頃になって来たのだろう。
アキラは俺に何を隠しているのだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
「このことは、レオの方に貸しておこうか。言ってること、わかるね?」
そう言い残し、ジークは去った。
俺の胸の中でアキラはぴくりとも出来ず、じっとりと額に汗を浮かべている。
「いいですか、アキラ。無理にでも、俺の話を聞いてもらいますよ」
「……」
アキラは瞬きすらしない。今頃、強すぎる『猫』の本能と戦っているのだろう。
「先ず、アスペルマイヤーは帯剣していません。武装していない門閥貴族に剣を向ける。これがどういうことか、あなたには理解できますよね?」
「……」
アキラの瞳が僅かに揺れる。
「おそらく、知恵を授けたのは『バックハウス』。性悪女こと、知恵者『バックハウス』です」
「……」
「あなたは狙われているかもしれない。この数年で、あなたほど力を付けた者はいません。爵位を上げ、さらには『戦略』レベルの軍隊を所持している実戦経験豊富な将校は、あなた以外に存在しません」
「……」
「アスペルマイヤーの安い挑発に乗らないでください。あなたなら、できるはずです」
「……」
胸の中で、アキラの揺らめきが増すのがわかる。コバルトブルーの瞳に、理性の光が灯り出す。
「……最後に。これが一番重要です。俺は、アキラ・キサラギの副長です。何があろうと、あなたを裏切りません。これだけは信用してください」
正確には、裏切れない、だ。
アキラが貴族である三名の大隊長を処分したことで、俺の去就は決まった。
アキラ・キサラギの子飼いの軍隊『第七連隊』。大隊長以上の指揮官で、貴族はアキラ以外いない。その『第七連隊』の筆頭はだれだ?
アキラ・キサラギが最も目を掛けた子飼いは誰だ?
答えは、元傭兵のレオンハルト・ベッカー。俺だ。
場合によっては国すら揺るがす力を持つ異端児『アキラ・キサラギ』。
指揮官に貴族を含まない軍隊『第七連隊』。
門閥貴族は、動きを見せた。ならば、自ずと俺の去就も帰結する。
有力な外戚を持たない。何の背景もない平民のレオンハルト・ベッカーの去就など、当の昔に決まっている。悩めるような立場じゃない。
一番大きな反省点は、この問題に気づくのが遅すぎたことだ。気づくのが早ければ、別の身の振り方もあったかもしれない。
だがなぜだ……まだ足りない気がするのは。理屈でない何か……もっと、こう……俺自身にまとわりつくような、何か不吉なものの存在を感じる。
「……離しますよ。暴れないでくださいね」
「……」
アキラの瞳が、怒りの色に燃えている。不吉だが、狂ってはいない……そう信じたい。
手を離す。掴むポイントや、その強弱は俺だけの秘密だ。
「……」
アキラはしばらく黙っていた。苛立っているようだが、頭は回っているようだ。
「……ボクに何をした」
「教えません」
ぎりっと、アキラが歯を鳴らす。だが、聡い彼女のことだ。しばらくすれば、答えに行き着くことだろう。
「……貴族どもとは、やりあうことになりそうか? 私見でいい、聞かせろ」
「俺の予想では、まだ。今日のは、揺さぶりというところですか。ですが不確定要素が多すぎます。もっと調査をしてからでないと、なんとも……」
「……まだ早いな。せめて、少将クラスでないと」
俺は少し呆れてしまう。
『少将』というと、指揮権は『師団』クラスだ。このどら猫は、それだけの権力があれば、貴族を敵に回しても、やり合えるつもりなのだ。
国でも奪るつもりか?
そこでアキラが床を踏み鳴らす。
「くそっ! むかついて考えが纏まらない! レオ、なんとかするんだ!」
むかついて、それを俺に、処理させるのか?
いかん。俺の理解を超えている。
アキラも、ジークもそうだが、行動の原理が俺とは違い過ぎる。
猫の習性に、狼の優生主義。どちらも俺の理解からは遠い。遠すぎる……。
「早くしないか! おまえなら、何かあるだろう!」
「うわあ!」
アキラの怒鳴り声に反応してしまう。俺のは悲しい習性だ。
◇ ◇ ◇ ◇
兵舎に帰ったのは夜半過ぎてからだった。
アキラの怒りは、激しく、なおかつ深刻だった。
だが、思考に関してはいささか冷静な面を残しているようで、俺にいくつかの指示を出した。
現在の状況で門閥貴族と事を構えるのはまずい。アスペルマイヤー、バックハウスの両名の意図、背後関係を調べること。
二人への対処法。
アスペルマイヤー、バックハウスを毛嫌いするアキラだが、二人の所有する戦力には魅力を感じているようだった。なんとかして、取り込みたい。という意志を強く覗かせた。
それに関しては、俺も賛成だ。戦場において、数は力だ。指揮官である二人はともかく、『第五連隊』と『第八連隊』の騎士たちの信望は得られたほうがよい。
これらの問題に対する方法を、数日内に書類の形にして献策せよ、とのことだ。
「少佐、そろそろおやすみになられた方が……」
思索にふける俺に、エルがいつものように言ってくる。
「ああ、そうするよ」
エルが来れば、仕事は終わり。そのように俺は決めている。
眠る前に、暖かい飲み物を頼み、エルがやって来るまでの間にこれからのことを考える。 第12旅団の目的が『統治』である以上、任務には戦闘後の『治安』や『警備』も含まれる。アキラも俺も、権限は増すがその分、多忙になる。一度、出征してしまえば、おいそれとこのニーダーサクソンには帰れない。
「どうぞ」
エルの差し出した暖かいココアを一口含みながら、薄暗い室内で見つめ合う。
「なにか?」
「……なあ、エル。学校に行って見る気はないか?」
「ありません」
エルには一言で切って捨てられた。
少しくらい、考えてくれたっていいだろう。うむむ、と思わず唸ってしまう。
「だから……」
俺はエルに『旅団』の目的とその存在意義を説明する。
「もう、帰って来られないかもしれないから、ということですか?」
そのエルの問いかけに、静かに頷く。
帰って来られないかも、の中には当然俺の戦死も含まれる。だとすれば、ひたすら気掛かりなのはエルの行く末だ。
「退役なさるのでは……?」
「いつになるかわからん」
窓の外では、夜の虫が鳴いている。静かな夜だった。
「それでは従軍いたします」
「なにを馬鹿なことを……おまえは騎士ですらないだろう」
「では、ここで少佐のお帰りをお待ちいたします」
「だから……」
これは駄目だ。話が堂々巡りになってしまう。
「……修道院に進み、尼にでもなります」
「なぜ、その若さでそんな世捨て人のようなことを言う……」
頭が痛くなって来た。本気を出したエルは中々、手ごわい。いつもなら折れてやるが、今回ばかりはそうも行かない。
「譲らんぞ。今回ばかりは折れてもらう」
「……」
沈黙。そして、いつものようにエルは無表情だった。
手を振って、エルを追い払う。下がってくれ、の合図だ。この際、彼女の意志はどうでもいい。
「……」
エルは出て行かなかった。沈黙を守り、ひたすら俺の目を見つめ続ける。
「少佐は、まだ生きておいでです……」
「ああ、だからなんだ」
「……レオンハルトさまの、お命は、エルのものです」
「…!」
激しく目を逸らす。息苦しくて、とてもでないがエルを見ることができない。
「そのうち、頂戴に上がります」
「……」
覚悟はできている。頷く俺を見て、エルはうっすらと笑った。
「なるべく、レオンハルトさまのお命が、一番輝かしいときに……」
そしてエルは去る。
遠くでは、夜の虫が鳴いていた。