第16話 ラスト・ワルツ3
窓を開け放ち、流れ込んで来るカドリールの旋律を聞いていた。
階下から聞こえてくるパーティの招待客たちの喧噪は嫌いだが、音楽に身を任せるのは嫌いじゃない。
ベッドの上で身を起こし、目を閉じたまま、訪れた心の平穏に身を任せていると、何やら騒々しい物音が響いてきた。
「誰も立ち入らぬようにとの、ジークリンデさまからの厳命です! おやめ下さい、バウマイスター少将!」
メイドの咎めるような叫び声が上がり、続いて若い男の声の怒鳴り声がする。
「やかましい! ここにジークリンデの囲ったペットがいるんだろうが!」
「ああ、駄目です!」
物々しい雰囲気に警戒していると、二人のメイドが部屋に飛び込んできた。
ジークの身の回りの世話をしていた犬のメイドたちだ。
「大変です! 白いお方さま、お逃げください! バウマイスターのならず者が――」
メイドは、最後まで言うことは出来なかった。
嵐のように飛び込んで来た銀髪の男に、メイドは二人とも突き飛ばされ、壁にぶつかってその場に崩れ落ちた。
「……貴様が白いニンゲンか……」
残酷な笑みを浮かべる銀髪の男と目が合う。
頭の奥で記憶の断片が、澱のように僅かに舞い上がり、消えて行く。レオンハルト・ベッカーのものだろう。
悪い予感がする。
「バウマイスター……キゾクの方ですか……?」
バウマイスターはキゾクだろう。キゾクというやつは、高貴の家柄とか抜かす割に、礼儀正しかったことは一度もない。それらしい登場の仕方だ。
バウマイスターは、問いの答えかわりに、俺の頬を平手で強く打った。
頭に、かっと血が上る。平手で顔を打つのは、騎士に対する最大級の侮辱だ。
――待て。騎士? 誰が? 俺――?
ただの平手とは言え、弱り果てたこの身体には堪える。目の前がちかちかする。
「下種に名乗る名などない!」
バウマイスターは口角から泡を飛ばして喚き散らした。
「……白……さま、お逃げくださ……」
バウマイスターの足元に、メイドの一人がしがみついている。
犬の獣人は庇護欲が旺盛で、弱いものを守ろうとする習性がある。だがこの場合、その習性は――
「この犬コロめが!」
「やめろ!」
俺の制止は間に合わず、怒りを爆発させたバウマイスターが、足にしがみつくメイドの首筋を強く踏み抜いた。
ごきり、と鈍い音がして、メイドは口から血を吐き、痙攣する。
――致命傷だ。
だがまだ間に合う。その思いから、メイドに駆け寄る。同時に、この呪われた身体と一体化したアスクラピアの蛇が両腕に浮かび上がった。
俺の命を削る忌ま忌ましいやつだが、こういうときはありがたい。
「貴様、アスクラピアの使い手か……!」
バウマイスターの声色に僅かな驚愕が滲むが、それも一瞬のこと。直ぐさま俺に歩み寄り、髪の毛を掴んでメイドから引き離す。
俺は、バウマイスターの顔に唾を吐きかけてやった。
「女に手を上げるとは、騎士の風上にも置けん! このクズが!」
「――貴様ぁ!」
更に怒りの色を濃くしたバウマイスターに投げ飛ばされ、俺は、強かにドアに背中を打ち付けた。
胸の奥で鈍い音がしたが……ざまあみろ、治してやった。
◇ ◇ ◇ ◇
怒り狂ったバウマイスターに、引きずられるようにして、宮殿前の広場に通じる大きな通りに出た。
ジークの大将昇格パーティに出席しているドレスを着込んだ貴夫人たちが悲鳴を上げて俺と、バウマイスターとを指さす。
「ご婦人方、この男は卑しいヘイミンです。お気になさらぬよう」
悪びれずに言うバウマイスターに更に急き立てられ、俺は長い道を進む。
「ニンゲンに、この宮殿は相応しくない。摘まみ出してやる!」
返事がわりに、血液の混じった唾を吐き捨てた。
予想していたのと随分違うが、この宮殿を出て行けることに関しては安堵を覚える。
俺が死ねば、ジークは、きっと立ち直れない。
そう自惚れてしまえるくらいには、ジークは俺を愛してくれた。
不意に、バウマイスターが歩みを止め、ふんふんと鼻を鳴らす。
訝しむように言った。
「火事……?」
その声に反応し、俺も顔を上げる。
――燃えている。
――サクソンの街が、燃えている。
◇ ◇ ◇ ◇
バウマイスターに再び頬を張られ、俺は宮殿の外に放り出された。
「失せろ、ニンゲン。これでジークリンデも我に返るだろう」
「……」
はいつくばりながらも、俺はバウマイスターを強く睨みつけてやる。
騎士に向かって平手とは……最低限の礼儀も知らんのか。
だが、バウマイスターが適当に痛めつけてくれたお陰で、未だ意識を保っていられる。
頭がずきずきと痛む。
次々と浮かぶのは、レオンハルト・ベッカーの記憶だ。
狼の獣人に殴られたことと、宮殿の前にあるこの広場に集結している騎士たちが醸し出す物騒な戦場の雰囲気が、俺の何かを強く刺激したのだろう。
所々、破け、虫食いのある地図を連想する。
それが今の俺――レオンハルト・ベッカーだった男。
俺の記憶喪失は、物理的なものや精神的打撃を要因にしているものではない。失われたものは二度と帰らない。だが、全てが損なわれたわけではない。暴走した『蛇』の食い残しが、外的要因で表面化したのだろう。
その破け、虫食いのある地図に、白い男の記憶がはまり込む。
現在の状況は、非常によくない。
身体は弱り果て、骨折はないものの、全身が酷く痛む。記憶の整理が上手く行かず、多少混乱の気配がある。
俺は、だれだ?
――わからない。
宮殿の外壁に背中を凭れ、呼吸を整える。
隊長と思しき男が、武装した騎士の集団に大声で指示を飛ばす光景が、俺の中の何かを強く押す。
……ここは戦場になる。
速やかに移動しなければならない。
戦場で一番危険なのは、何もしないことだ。状況について行けず、遅れてしまうことだ。
俺は、まだ生きている。
生きているということは、立って戦えということだ。
この弱り切った身体で、なぜ、そんなことを考える?
いかん、思考が纏まらん。
何故、俺はここに居る?
何故、こんなにも白くならなければならない?
何故、こんなにも呪われている?
何故、殴られなければならない?
何故、こんなにも傷つかねばならない?
もう、疲れた。
それなのに、まだ立たねばならないのか。
意識が、混濁する。蛇を使ったこととは関係なく、俺は消耗しすぎたようだ。
詰んだか……これは……。
騎士たちの鎧兜の擦れ合う音が耳の奥で鳴るワルツの旋律をかき消して――
「レオンハルトさまあっ!」
呼ぶ声。
引っ張られるようにして、意識が現実に舞い戻る。
ぼろぼろに薄汚れた身なりの、猫の女が、驚愕に目を見開いて立ち尽くしている。
悲しみと、喜びの同居する表情で、ぎこちない笑みを浮かべた後、僅かばかりの荷物を投げ捨て、走り寄って来る。
女は、何か言いたそうに、喘ぐようにして口を開くが、全身を震わせる嗚咽がそれを許さない。少し垂れ気味の大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出す。
……おかしい。このように正体もなく、泣くようなやつではなかったはずだ。
何故か、そんなことを考える。
――しかし、この女は一体何者なのだ?
「きみは……誰だ?」
猫の女は、打たれたように、びくんと震え、言葉もなくその場に泣き崩れた。
「……う、はぁっ……ぉっかれ、さまでございましたぁっ……!」
猫の女は、額を地面に擦り付け、平伏したまま、嗚咽混じりに労いの言葉を投げかける。
全然意味がわからんが……女は、俺の顔見知りであるようだ。
どうやら、神は居るらしい。
まだ生きろ。
そして――あの日の続きをやれと、俺の耳に囁いた。