第15話 祝杯
自らの軍階級昇格を祝う園遊会を行う宮殿の中庭で、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーはこの上なく不快だった。
続々と詰め掛け、祝いの言葉を述べる門閥貴族の連中も、このニーダーサクソンの中核を成す軍高官の顔触れも、ジークの胸に何の喜びももたらさない。
おかしなことだ。
一年前のジークなら、この状況を喜び、楽しんだだろう。
「どうぞ、ジークリンデさま」
エルフの執事の注いだ年代物のワインのグラスを受け取りながら、ジークは一層、眉間の皺を深くする。
あの憎たらしい猫のアキラ・キサラギが、准将の軍階級を賜った時、にこりともしなかったのを思い出す。
おかしなことだ。
ジークは首を傾げる。
現在のジークには、その時のアキラの気持ちがよく分かる。それが彼女にとって、何の意味も価値も持たないものであったことがよく分かる。
ジークにとって、アキラは不倶戴天の天敵だ。アキラの方でも同じように思っているだろう。
憎み合っていることは疑いない。だが、一部ではこれ以上ないほど理解し合っている。
おかしなことだ。
ジークはアキラに会いたくない。
アキラほどジークを脅かす存在はないからだ。
アキラにしてもそうだろう。ジークほど危険で、アキラを脅かす存在はない。
だが、おかしなことに、こうも思う。
ジークはアキラに会いたい。
会って、自身の手であの細い首をねじ切ってやりたい。
恐らく、アキラもそうだろう。
機会が有れば、ジークの命を狙うだろう。
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーと、アキラ・キサラギ。
どちらかの死を以てしか、互いの胸は安らがない。
アキラ・キサラギは、今頃どうしているだろうか。
ジークは少し考える。
勝ったのは己だというのに、望みもしないパーティの会場で、嬉しくもないのに祝杯を挙げている。
滑稽だ。
見上げた宮殿の三階部分の私室では、衰弱したレオがいる。
誠心誠意、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーという女が愛している男が死にかけているというのに、当の彼女は祝杯を挙げている。
これを滑稽と言わずして、何を滑稽というのか。
何のために、あのアキラ・キサラギと死力を尽くして戦ったのか。
少なくとも、この場で祝杯を挙げるためではなかったはずだ。
ジークの眉間に刻まれた皺が、益々、深くなる。
楽士たちが手にした楽器で緩やかな旋律を奏で出す。
――カドリールだ。
そう、ジークはこのために戦ったのだ。そして大きな報酬を得られたのだ。
手にしたグラスの中に踊る液体を見つめ、ジークの口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「これはジークリンデ。今日もお美しい。小官と、ぜひ一曲、踊って頂けませんか?」
銀色の髪。恵まれた逞しい体躯を折って恭しく頭を下げるのは、フォルクマール・フォン・バウマイスター少将だ。
台なしだ。せっかく、ほんの少しだけ、いい気分になりかけていたのに。
ジークは眉を寄せ、グラスの中身をバウマイスターの下げた頭に振りかける。
「何をする! この……!」
ワインでずぶ濡れになりながら、いきり立ったバウマイスターは何事か悪口を叩こうとして、周囲に並ぶいずれも高貴な来客の顔触れの視線に出会い、忌ま忌ましそうに口ごもった。
「おまえを呼んだ覚えはないよ、バウマイスター」
ジークは鮮血の瞳で、静かにバウマイスターの首から上の辺りを見る。
「私の居住区に、躾の悪い野良犬が迷い込んだ。だれのことか、わかるね……?」
「なっ……」
周囲で事の経緯を見守っていた面々から、失笑の声が漏れ、バウマイスターは真っ赤になって押し黙った。
「お似合いの野良犬とでも踊るんだね、バウマイスター」
もっとも、とジークは付け加える。
「汚いおまえなんて、野良犬の方でも願い下げだろうけどね」
「……くそっ、覚えてろよ!」
怒りのあまり、赤から青になった顔色でバウマイスターは踵を返す。
執事を押しのけ、態とらしく大きな物音を立てて去る姿は滑稽なだけでなく、惨めですらあった。
その次の瞬間には、ジークの頭からバウマイスターの姿は消え去る。
レオなら、どうやって私を誘うだろうか……今度は、女のパートで踊りたいな……。
そんなことを考えた。