第11話 終わりのはじまり
◇ ◇ ◇ ◇
ジークの不安が目に見える形となり、現実になって降りかかる日がやって来た。
その朝。
レオは目を覚まさなかった。
ジークがどのように強く呼びかけようと、強く揺さぶろうと、発熱を伴う健やかでない睡眠を貪り続けた。
取り乱したジークは、半狂乱になって神官や呪術師を呼び付け、処置に当たらせたが、レオの症状は重く、どのような治癒魔法もまじないも効果を示さなかった。
ジークは全ての責務を放棄して事の解決に当たったが、結果は悲惨なものだった。
どのような施術も寄せ付けず、また発熱の原因もよく理解できないという現状から、治療は発熱に対する対症療法にのみ止められ、ジークはその経過を見守るよりほかなかった。
ジークは悶えんばかりに怒り狂った。
「どうなっている!? おまえたちは、一年あると言ったじゃないか!」
状況の説明を求め、荒れ狂うジークに、神官も呪術師も顔色を青くしたが、その口から吐き出された、
「何も分からないのです。申し訳ございません……」
という言葉は、尚更ジークの怒りを煽るだけだった。
「この呪いをかけた者ならば……」
冷たい汗を拭う神官たちの言葉に、ジークは唇を噛む。
「そいつは既に、この世界のどこにも存在しないよ……」
「馬鹿な! そんなはずは……」
神官も呪術師もお手上げと言わんばかりに首を振る。
イザベラを手に掛けたことに後悔はない。彼女は信頼を裏切ったのだ。その行いは死をもって償わせるべきだ。むしろ、痛め付け、自らの行いを悔いさせてから死なせるべきだったと、ジークは思っている。
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの愛は気高い。立ち塞がる困難は、自らの手に依ってのみ打ち砕かれるべきである。今更、イザベラを惜しむことなどない。
居並ぶだけでこの状況に何の対抗手段も持たない神官や呪術師に向けられるジークの不信感と怒りは大きい。
「おまえたちの首から上は飾りなの? だったら、いらないよね……」
レオの眠り――最早、昏睡状態と呼んでいいその状態は、十日に渡り続いた。
覚醒したレオに間を置かず訪れたのは衰弱による眠りだった。発熱はないが、意識のない状態がさらに三日続いた。
半月に満たない間にレオは見る影も無く痩せ衰え、さらに体の色素を飛ばし、一層白くなった。
己の無力に、血が出んばかりに唇を噛むジークに飛び込んで来たのは、猫目石蜂起の報せだった。
猫目石はフェルトブルガー砦を焼き払い、ノルドライン領を北へ向けて進軍を開始した。
ノルドラインはこの猫目石の過剰で素早い反応に、ほとんど対応できなかった。
防衛の軍勢は、集結前に各個に撃破され、周辺都市は、放火と略奪と虐殺とにより、壊滅的な打撃を被った。
たかが一旅団。されど一旅団。五千人余りの兵力であったが、優秀な指揮官の元、効果的に繰り返される略奪と虐殺は、ノルドラインの国家としての機能を破壊し、その領土を地獄に変えつつある。
既に、ノルドラインの領土の5分の1が焼け野原になり、被害は更に拡大することが予想されている。
ノルドラインを唆し、物資と交通の面から猫目石を追い詰めるレオの策略は、思惑通り効果があった。――効果があり過ぎた。それは、猫目石の暴発を誘発し、ノルドラインはこの半月余りの間に、亡国の憂き目を見る有り様になった。
猫目石はノルドライン領を焼き払い、略奪と虐殺を繰り返しながら北上している。
そのノルドラインからは、泣き付かんばかりに援軍要請の使者が、続々とやって来ている。
この原因の発端となった献策者のジークに、エミーリア騎士団から、緊急に開かれる軍議に出席するよう、強い要請があった。
僅か半月余りの間に起こった出来事は、全てジークの理解と能力を超えている。
理解を超えたアキラの凶行。それはまだいい。
能力を超えたレオの惨状に、ついにジークは、膝を抱えて泣き出した。
「……ジーク、泣いているんですか……?」
弱り果て、消え入りそうな背後からの声に、ジークは、はっとして振り返る。
「レオ……」
大粒の涙を浮かべるジークに向かって、レオは両腕を開いて見せる。優しく見つめるその瞳からも、ついに色素が抜け落ち、血の色が浮かんでいる。
ジークと同じだが、その性質はまったく違う。最早、レオは陽の下に出ることはない。太陽の強い光りは、一つしかない彼の瞳を焼いてしまうからだ。
その余りの儚さに、ジークは胸を掻き毟られたような気がして、逃げ出すようにレオの胸に飛び込んだ。
「……ジーク……ごめんなさい……心配させてしまったみたい、ですね……」
蚊の鳴くような謝罪の声に、ジークは一層泣き崩れた。
アキラ・キサラギの凶行。エミーリア騎士団からの出頭命令。そんなものは、もう、どうでもよい。
「寝ていた間に、何か困ったことはありませんでした……?」
そう尋ねる声にも覇気がない。
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの、ただ一つの真実が、ひっそりと消え行こうとしている。
万策尽きた、とはまだ言わぬ。だが、見守るばかりのこの状況。
ジークの切れ長の瞳から、涙は尽きる事なく溢れ出る。
「いいんだ。もう、いいんだ……。レオは、もう、何も心配しなくて……」
「ジーク……」
「もう、ここから動かない。ずっと、一緒に居る……レオは、私が守るんだ……」
レオは、ゆっくりと首を振る。
「ジーク……自分を大切にできない者は、誰も守れません……。俺も、そういう人に、守られたくありません……」
諭すように言う。かつて、アキラ・キサラギにそうしたように。
「話してください……まだ、あなたのお役に立てるうちに……」
はっ、と息を飲み込み、ジークの両肩は大きく震えた。
傷つき、弱り果てた鳥が、もう一度だけ、己のために羽ばたこうとしているように見えた。狼の彼女が、何故、それを打ち払うことができるだろうか。
間を置き、ジークは嗚咽に言葉を詰まらせながらも、事態の説明を始める。
レオはジークの銀髪を撫でながら、時折、眉根を寄せ、思案深げに視線を伏せ、俯き加減に説明を聞いている。
隻眼に、理知の輝きが灯り出す。呼吸を整え、言った。
「……まず、騎士団からの出頭に応じましょう。あなたは何も悪くない。ノルドラインはこの際、無視するといいでしょう。使者は、酒と女でも与えて歓待して、煙に巻くといい。対応仕切れないノルドラインが無能なのです……」
「うん……」
「アキラ・キサラギは狂っています。ですが、狂人は狂人なりに、目的があるでしょう。彼女の情報を、もっと……」
現在のレオは、ジークにとって何者にも代え難い存在だ。全てを話すことに忌憚はない。だが、アキラ・キサラギの情報に関する限り話は別だ。特に、レオが『猫目石』の副長であったという事実は、伏せておきたい。この愛に曇りがあってはならないのだ。
無論、ジークはこの愛を信じている。
だが万が一にも……。
そういう繋がりは断っておきたい。
ジークにとって、この愛は素晴らし過ぎる。貴過ぎる。試すなど思いもよらない。
涙を拭い、視線を上げた。
鮮血の紅は、鉄より固い狼の決意に燃えている。
「アキラ・キサラギと私には、強い因縁があるんだ。彼女はきっと……私を殺しに来るんだと思う……」
嘘は言っていない。
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの愛に、偽りは一分子もあってはならない。
「……そうですか……」
鉄より固い鮮血の紅に出会い、レオは諦めたように頷いた。
ジークはアキラの最終的な目標が、ほかならぬ彼であることを告げなかった。
アキラ・キサラギは、ニーダーサクソンの大き過ぎる負債である。
取り立て人は、ほかならぬ彼女だ。
ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーだけが、そのことを知っている。