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猫とワルツを  作者: ピジョン
第3章 愛が流れる
10/42

第10話 猫が嗤うとき

 ある日、何かが俺の心を捕らえる。


 鳥の囀り。暖かな日差し。そんなものだ。


「ああ、白のお方さま。このような所においででしたか。お部屋にお戻りになられますよう。また、中将に怒られてしまいます」

「……もう少し」


 首都サクソンを前にした平原での戦いが終わり、四カ月程が経過しようとしている。


 アスクラピアの蛇は、俺……レオンハルト・ベッカーという男から、様々なものを奪って行った。

 身体の色素や、記憶、寿命、感性、他にも色々。

 重傷を負い、傷ついたレオンハルト・ベッカーは、ニーダーサクソンの女騎士ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤー中将に保護された。その後、アスクラピアの神官の尽力と強いまじないのお陰で、何とか命を繋いだらしい。


 らしい――俺には、記憶がない。


 気づいた時には、既にここ、サクソンの宮殿らしいが――そこに居て、手厚い看護を受けていた。


「ああ……白のお方さま。お願いでございます。どうか、お部屋に帰って下さい……」


 俺に付けられたメイドは、日々変わる。

 今日は、犬の獣人であるらしい。その犬のメイドが、困り果てたように俺に言う。


「白のお方さま、そろそろ中将が戻られます。どうか、どうか……」


 白のお方……レオンハルト・ベッカーは、知らない男の名前だ。俺がそう言うと、メイドたちは、皆、そのように俺を呼ぶようになった。

 すっかり白くなってしまった髪や、いつも着ている白い貫頭衣から名付けたのだろう。


「ジークリンデさまは優しい。きっと許してくれるよ」


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤー中将は、とても優しい狼の女性だ。俺がどんな我が儘を言っても、首を振ったこともなければ、怒ったこともない。

 だが、犬のメイドは、両肩を抱き、脅えたようにこう言った。


「中将が優しい? それは、白のお方さまだけにでございます。このような所まで、白のお方さまが来られたことを知れば、どのような癇癪を起こされるか……」


 レオンハルト・ベッカーは傷ついた男の名前でもある。

 左目はなく、右足も不自由だ。他にも色々と無いものが多い。この宮殿の中庭に歩いて来るのにも、俺はひどく苦労した。


「ジークリンデさまは怒ることができるのか? 少し、見てみたいな……」


 興味からそう言うと、メイドは真っ青な表情になって、その場に平伏した。


「ああ……ああ! 白のお方さま、この通りでございます! どうか、どうか!」

「わかったわかった……戻る、戻るから……」


 しかし、あのジークリンデが怒るとは思えない。皇帝に会ってみたいと言っても、二つ返事で頷いたほどだ。


「直ぐに車椅子をお持ち致します。ここから動かれぬよう」


 そう言い残し、メイドは駆けて行った。

 このメイドにも、もう二度と会うことはないのだろうな。

 万事に鷹揚で寛容なジークリンデだが、特定の女性が俺の周囲に侍ることを事のほか嫌がる。


 芝生の感触が素足に心地よい。

 暖かい日差しと、鳥の囀りと、緩やかな風。

 これだけあれば、俺は十分だ。

 心の平穏は、胸や手足に描かれた『呪印』のお陰であるらしい。ジークリンデは、これを消そうと高名な呪術師を呼んだり、託宣を受けたりと躍起になっているが、血のように赤く刻まれた『呪印』は、痣のようになって、消える所か薄まる気配すらない。

 色々と足りないものの多いレオンハルト・ベッカーだが、替わりに呪われているようだ。


 この男は、一体どれだけ業深いことをしたのだろう。


 アスクラピアの神官の話では、俺はあまり長生きできないようだ。


 アスクラピアの蛇が俺と共生するようになったためだ。

 俺――レオンハルト・ベッカーの様々なものを食い散らかした蛇だが、呪いのお陰でそれ以上食うことも動くことも出来なくなった。蛇は、余程困り果てたのだろう。俺を宿主として共に生きる道を選んだ。

 アスクラピアの蛇と一体化した俺は、この身に重い制限を負うことになった。

 自由な能力の行使と引き換えに、俺が覚醒していられる時間は、一日に数時間ほどしかない。

 不定期に訪れる眠りは発熱を伴い、眠れば体力を消耗する。

 蛇封じの呪印のお陰で命拾いした俺だが、今度は常駐するようになった蛇に、寿命を削られている。

 呪いというものは、そういうものだ。効果は大きいが、副作用も大きい。


 サクソンにあるこの宮殿は、一二の区画に別れており、その内の一区画がジークリンデのために用意された生活空間だ。

 以前居た狼のメイド長が言うには、皇族並の待遇のようで、ヘイミンの俺が、この高待遇を受けられるのは、ジークリンデの気まぐれによるものであるらしい。


 動くな、と言われた俺だが、その場を離れ、広い中庭の中央にある噴水の辺まで歩いて行く。

 噴水で足を洗っていると、ジークリンデが物凄いスピードでやって来るのが見えた。

 マントをはためかせ、僅かに糸を引いてすら見えるほどのスピードで駆け抜けるジークリンデは、この国では救国の英雄と呼ばれている。

 そのジークリンデが、俺の目の前で、びたりと停止する。


「レオ、こんなところに居たの? 部屋に居ないから、とても心配してしまったよ」

「ジークリンデさま。おはようございます」


 彼女は、くしゃりと顔を歪め、悲しそうにする。

 なぜ、ジークリンデさまと呼ぶのか聞かれた時、ヘイミンだから、と答えたら、ジークリンデの顔色は青くなり、続いて、真っ赤になったのを思い出した。

 その後、物知りで厳しい狼のメイド長は姿を消し、犬のメイドが増えた。


 ジークリンデが余りに力強く走るので、芝生が少し抉れてしまった。


「メイドは何処に行ったの? 役に立たないメイドには、後で、鞭を百もくれてあげないとね……」


 ジークリンデは、切れ長の瞳に僅かな笑みを湛えている。


 ……きっと冗談だろう。優しいジークリンデがそんなことをするはずがない。


「さあ、レオ。部屋に帰ろう。暖かいスープを用意してあげるよ」


 ジークリンデは右肘を摩っている。先の戦いで受けた傷が原因で、少し働きが悪いらしい。

 そのジークリンデだが、噴水から上がった俺を見て、僅かに眉根を寄せた。


「裸足なの? 少し血が滲んでしまっているね……」


 珍しい。

 いつも鷹揚で穏やかなジークリンデが苛立っているのは初めて見た。


 苛立ったジークリンデは、腕組みして考え込むようにしていたが、はっとしたかのように、びくりと震え、それから目元を潤ませて言った。


「わ、私が抱いて行ってあげよう」


 何故かジークリンデが少し怖い。この申し出を断るのは、とてもよくない気がする。

 この区画には人目は余り無い。その思惑から、頷くと、ジークリンデは先程の苛立ちも忘れたかのように上機嫌になった。


「触るね……?」


 頬を染めたジークリンデに抱えられ、サクソンの宮殿を、彼女に割り振られた部屋に向かう。

 ジークリンデは、いつも俺のことを壊れ物のように扱う。抱き上げる腕は力強いが、鳥の羽根のように優しい。思い出したように、言った。


「そうだ。レオ、私は今度、大将になるんだよ」


 ジークリンデはこの前、中将になったばかりだというのに、もう出世するらしい。忙しいことだ。だとすると、またパーティをやるのだろうか。

 その前に出て行かないといけない。

 キゾクの連中は、ヘイミンである俺がジークリンデと一緒に居ることを嫌がる。ジークリンデの居ない所で罵られるのはうんざりだ。


「とりあえず、おめでとうございます」

「とりあえず、なの?」


 ジークリンデは面白くなさそうに口を尖らせる。


「すいません、失言でしたね。それより、神官衣を一着用意してほしいのですが、構いませんか?」

「……神官衣? それは、すぐ準備できるけど……どうするの?」


 ジークリンデは用心深く言う。俺の匂いを嗅ぐのはやめてほしい。


「……故郷に帰ろうと思います」

「…………」


 ジークリンデは立ち止まり、いつになく厳しい表情で俺の目を覗き込む。


「故郷の場所は、思い出せなかったはずだよね……」

「アスクラピアの神官として旅立ちます。旅の目的は故郷を探すことです」

「レオ、私は反対だよ。どうしても、と言うなら、私はそれに力を貸さない」

「はい」


 ジークリンデは少し震えて、それから鼻声になった。


「どうやって、帰るの?」

「この二本の足と、杖……ああ、力は貸してくれないんですよね。では、この足だけを頼りに行くとしましょう」

「一日に、ほんの少ししか、起きていられないのに、死んでしまうよ……?」

「はい。それもよろしかろうかと」

「なんで……」


 ジークリンデの切れ長の瞳に大粒の涙が光る。彼女は、とても優しい。怒ることはしない。


「なんで、そんなことを言うの? レオの時間は、とても貴重なんだ。そんなことは、させられないよ……」

「ジークリンデさまは、強くて優しいお方です。だからこそ、行きたいのです。ここに居ては、俺は、きっと駄目になってしまう」

「……駄目でいいよ。レオは、もう、十分やったんだ……」


 ジークリンデは落ちる涙に構わずに、何度も何度も首を振る。


「言ったよね……私と、私の一族は、レオに返しても返し切れない借りがあるって……」

「それは、もう十分、返して戴きました。笑って送っては、くれませんか?」

「……できないよ……」

「……泣かないで下さい。貴女が泣くと、俺も泣きたくなってしまいます……」

「私はレオを幸せにしたいんだ……ただ、それだけなんだ……」


 俺は首を振る。

 きっと、レオンハルト・ベッカーという男は、自分の道を、自分で決められる男だったのだろう。

 そして、燃え尽きてしまった。

 その燃え残りである俺が、ジークリンデに甘えることは、レオンハルト・ベッカーの誇りを傷つけることになりはしないだろうか。


「ジーク……それは、責任感から言う言葉ではありません。誰か、そう……貴女が、愛する方に言ってあげてください」


 ジークリンデは愛称で呼ばれることを好む。だが、それをやると黙っていないのがキゾクの連中だ。

 ヘイミンとは、ミブンが違うのだからけじめを付けろとうるさい。だから、彼女をジークリンデと呼んでいたが、この時は敢えて禁を破り、愛称で呼んだ。

 ジークは聞き分けのない子供のように、何度も首を振った。


「違う……私は、責任感なんかで、こんな言葉を使いはしない……」


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは救国の英雄だ。だが、頼りなく震える肩を見ていると、どうしてもそうだとは思えない。

 指でジークの涙を拭う。


「行かせては、くれませんか……?」

「行かせない。行かせないよ、レオ。私は、レオのために生きているんだ……」


 ジークは強く頷いた。


「行かせない。愛しているからね」


 強く優しいジークの欠点は、とてもしつこくて頑固なところだ。

 駄目だと言えば、絶対に駄目なのだろう。


 少し眠い。欠伸を噛み殺していると、


「いいよ、寝ても。起きたら……全部忘れていいからね……?」


 というジークの勧めに従い、俺は目を閉じる。

 緩やかな風が吹き、ジークの髪が、俺の頬を撫でる。


「……私は、あの猫とは違う。レオに乱暴なことはしない……しないんだ……」


 ジークは自らに言い聞かせるように呟いた。

 時折、ジークが言うこの『猫』とは一体、何の――誰のことなんだろう……。


 意識に、夜の帳が降りる。




◇ ◇ ◇ ◇




 サクソン手前での『会戦』に於いて、アキラ・キサラギを退けたジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーであるが、その後の行動は目的意識を欠いたものとなった。

 レオを手に入れたジークにとっては、国も権力も色あせた偶像でしかなく、何の意味も価値も見いだせなくなったためだ。

 自ら皇位に着くことはなく、要塞攻略を放棄して帰還した『軍団』を解体した後は、幼い皇帝の後見人の地位に着くことのみに留めた。

 一時は野心を疑われたジークだったが、その後、あっさりと兵権を返上したことにより、『救国の英雄』『忠義の士』と国内外問わず、評判を上げたのは皮肉な事実だ。

 頼みもしないのに軍階級が上がり、行く行くは元帥の地位が約束されている。

 あの忌ま忌ましい猫のアキラ・キサラギが健在でなければ、軍階級など宮廷に突き返し、レオとアスペルマイヤー領に引きこもるものを。

 上手く行かない現状に、ジークは内心、唾を吐きかけてやりたい気分だ。


 アキラ・キサラギ率いる傭兵団『猫目石』の報告書に目を通しながら、ジークは寝台で静かな寝息を立てるレオに視線を移す。

 ジークにはこれだけあればよい。

 今はもう、すっかり白くなってしまったレオの髪を指で梳りながら、ジークは胸のうちに訪れた安息を噛み締める。

 ……だが、あのアキラ・キサラギが生きている。

 いつか、必ず来る。その思惑が、ジークをエミーリア騎士団に留まらせている。


 『猫目石』がノルドライン領の砦を急襲、制圧して、そこに居を構えたのがサクソンでの敗北の後、僅かに二週間後のことだ。

 無論、ジークは指をくわえて見ていたわけではない。ノルドラインに働きかけ、反逆者アキラ・キサラギの身柄を要求した。

 ノルドラインの打つ手は早く、一個師団が編成され、この討伐に当たったが、これは悲惨な結果に終わった。

 『猫目石』に物資を奪われた揚げ句、退却中に徹底的な追撃を受け、討伐の軍勢はなんと八割もの死傷者を出した。

 更に、猫目石は報復措置として、周囲の町や村を焼き払ったため、辺りは焦土化し、その再建に忙しいノルドラインは新たな討伐軍の編成もままならぬ有り様だ。

 その後、猫目石は周囲の弱小傭兵団や盗賊の類いを吸収し、勢力を伸ばしつつある。今では旅団クラスの兵力を有しており、ノルドライン側も対応に手を焼いている。

 ジークにとって始末に負えぬのは、この『猫目石』が傭兵団を名乗ったことだ。

 傭兵というのは、早い話が戦場の『何でも屋』だ。金さえ払えば何でもやらかす。

 新たな報告書には、猫目石がノルドラインの敵対勢力と結ぶ動きを見せているとある。


 僅か一個連隊であったアキラ・キサラギの軍勢は、もはやノルドラインという一国家を揺るがす存在になりつつある。

 ここに至るまで、僅か半年足らず。

 事の是非は置き、何という軍才だ。ジークは唇を噛み締める。

 いずれ立ち塞がるであろう強敵が、その影をどんどん濃くして行く。


「ジーク……?」


 唇を噛むジークの肩に、そっと手が置かれる。


「ああ、レオ。起きたんだね。すぐに食事を用意させるからね」


 時刻はもう深夜だが、ジークはメイドに命じて取り急ぎ食事の準備をさせる。


 レオが取る眠りは、アスクラピアの蛇に強制されたものだ。そのため睡眠時間はまちまちで、長い時もあれば、短い時もある。

 問題は、眠りの長い時、最長で三日もの睡眠を取ることだ。その間は食事もせず、ひたすら眠り続ける。発熱を伴う命を削る眠りだ。ジークは、レオが眠る度に、もう目を覚まさぬのではないかと気が気でない。


 アスクラピアの神官が宣告したレオの余命は、一年。


 数々の高名な呪術師や神官に見せたが、皆、口を揃えてこう言った。


「彼は、何故、生きているのでしょうな」


 イザベラ・フォン・バックハウスがレオンハルト・ベッカーに施した『呪い』の数は実に二十二にも及ぶ。

 この個人にかけるにはふざけた量の『呪い』には、イザベラのオリジナルのものも含まれており、その種類や効能の判別も困難な状況だ。

 呪術師曰く。多種多様な『呪い』が齎した結果が、現在のレオの危うい命のバランスを取り持っているらしい。一つでも『呪い』を外せば、命の保証はないそうだ。

 イザベラの残した『呪い』は、それほどまでに強固なものであり、宿命のようにレオに付きまとっている。

 ジークは、ぽつりと呟いた。


「やってくれたね……イザベラ……」


 狼の獣人は気高く、しつこい。ジークは諦めるなど思いもつかぬ。

 ジークは、日々、執務と軍務に追われる傍らで、呪術師や神官とレオの容体について話し合う。余暇などないが、何時何処で何をしていようと、ジークはレオの覚醒の報を聞くと、何もかもを放り出し、レオの元へ駆けつける。


 方々手を尽くすジークであるが、いかんせん時間が足らない。

 ジークにとって、時間は貴重過ぎる。アキラ・キサラギの相手をする時間などない。


 いっそ、この事実をアキラ・キサラギにも教えてやったらどうだろう。


 半ば自棄になって考えるジークの視界に、スープを口に運びながら、『猫目石』の報告書に目を通すレオの姿が飛び込んで来る。

 ジークは、あっと悲鳴を上げそうになった。


 レオはアスクラピアの蛇の暴走により記憶を失ったが、全てが損なわれたわけではない。言葉を話すし、身分のなんたるかも理解している。アキラ・キサラギを連想させる全ての情報は、ジークが封殺している。この居住区に猫の獣人が一人もいないのもそのせいだ。


 もし……レオが、アキラのことを少しでも覚えていたら、ジークは壊れてしまう。

 閨を共にするようになって結構経つが、今でも時折『ジークリンデさま』と呼ばれるジークは、どうすればよいかわからなくなってしまう。

 そのジークの気が狂いそうな程の数瞬の懊悩の後、レオが口を開いた。


「猫目石……」


 ジークは、ごくりと息を飲む。


「アキラ・キサラギ……」


 その名がレオの口から出た瞬間、ジークの心臓が、どくんと大きく一つ撥ねる。

 レオは、言った。


「こいつは狂っていますね。ひどい綱渡りをしています」

「そ、そう思う、の……?」


 おずおずと問うジークに、レオは片方だけの視線を向ける。


「それ以外の評価が適当とは思えませんが……。この猫目石の資料はまだありますか?」

「え? あ、うん、あるけど……」

「見せてもらえます?」


 レオンハルト・ベッカーは、モノクルを時折、気にしながら、じっと資料を眺め続け、幾つかの質問をジークにぶつけた後、言った。


「まず、噂でも撒きますか……」

「噂……?」

「そうですね……人殺しのならず者とでも触れ回ってやりましょう」

「そ、それは皆、知っていると思うけど、何か意味があるの?」

「ありますよ。でかい声でそう言ってやれば、周辺国家は、手を組みたがらないでしょうね」


 そこに居るのは、曾て『猫の懐刀』と呼ばれた男だ。辛辣で、敵の弱点を抉るのに、容赦のない男だ。ジークは身を持って知っている。


「猫目石の拠点近くの銅山。こいつは潰してしまいましょう」

「潰す?」

「資金源ですからね。焼くのが一番早いですが……一時使用不能にできればそれで事足りるでしょう。ついでに、交通も妨害してやりましょう。川でも氾濫させますか……」

「そ、そんなことをすれば戦争に……」

「猫目石がやったことにすればいいでしょう。幸い、こいつらは悪名に不自由してないでしょうし……」

「そ、そこはノルドライン領――」

「では、ノルドラインにやらせればよろしい」


 ぴしゃりと言って、『猫の懐刀』は続ける。


「猫目石は、ノルドラインの首を締め上げている最中です。効果があると知れば、ノルドラインは何だってやるでしょう。耳に吹き込んでおけば、時間の問題ですよ。必ずやります」

「……」


 ジークは軽い目眩を覚えた。

 『猫の懐刀』と呼ばれたレオの軍才は損なわれていない。


「物資を消耗させた後で攻城戦をしかければいいでしょう。猫目石は、あっという間に干上がりますよ。……と、まあ、ならず者にはこれで十分でしょう。後はノルドラインを上手く誘導してやればいいんです」

「誘導……」

「アキラ・キサラギは、元々このニーダーサクソンの将官なのでしょう? そろそろノルドラインが痺れを切らして責任を取れ、と言って来る頃です」

「派兵するの?」


 レオは首を振る。


「まさか。一ならず者相手にそれは面白くありません。だから、ノルドラインを手玉に取って踊らせるんですよ」

「うん……うん……」


 レオの提案に、ジークは無心で頷きかける。

 あのアキラ・キサラギと戦場で事を構えるのは御免だ。右腕に不安を抱えるようになり、ジークは強くそう思うようになっている。彼女からは既にほしいものを取り上げた後だ。もう用はない。

 ジークの心境は複雑だった。

 未だ健在であるレオンハルト・ベッカーの軍才。頼もしくはあるが、その反面で危ういもののようにジークは思えてならない。

 そして――アスクラピアの蛇に食われ、消えて行ったアキラ・キサラギの記憶。


 これがどのような運命に帰結するのか。


 答えを知る者はなく――全ては夜の闇に消えて行く。



◇ ◇ ◇ ◇



 朝の青白い光の中、ジークはゆっくりと覚醒する。

 昨夜は、殊の外よく眠れた。きっと、アキラ・キサラギに対する明確な方針が定まったお陰だろう。


「おはようございます。ジーク」


 その声が、心地よくジークの耳朶をくすぐる。

 ナイトガウン一枚だけを纏った身体を起こし、ジークは、ほうと悩ましげな息を吐く。

 レオはもう起きていて、窓際の椅子に腰掛け、真剣な面持ちで軍の執務関係の書類に目を通している。

 軍関係の問題には関わらせたくなかったが、この才能を寝かせておくのは惜しい。その思惑から、ジークが許可したのだが、これが今朝の一時に大きな心境の変化をもたらしつつある。

 執務に取り組むレオの表情は、いつになく厳しい。

 だが、それを見ているジークの胸に去来する感情は、ひたすら安心、というものだ。

 そもそも、ジークは机の前で書類仕事に没頭するよりも、剣を握り一戦場に思いを馳せる方が楽に感じる典型的な武人タイプの軍人だ。情報処理、判断能力に優れ、計画の立案や策略の提案を得意とするレオとはタイプが別れる。

 この二人の軍人としての相性は、相補の関係に当たる。

 アキラ・キサラギが、かつての彼との間に構築していた関係より、余程前向きで健全なものである。

 今朝のジークは、心身の疲労から解放され、精気に満ちている。


 書類を片手に思索に耽るレオを見ていると、これまで己に足りなかった歯車が、ぴったりと合わさったような気がする。

 二人で、一つ。

 ふにゃっ、とジークの頬が緩む。

 これから、全てが上手く行くような、そんな気すらして来る。

 一方でこうも思う。

 アキラ・キサラギは、この感情を独占していたのだ。

 この充実感を。

 この万能感を。

 この安心感を。

 そんなアキラ・キサラギに、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーが敵わぬのは当然ではないか。

 ジークの胸に、むらむらと得体の知れない黒い何かが込み上げる。


「レオ。口づけをしよう」

「え? あ、はい。それは構いませんけど、今朝のジークは、えらく直接的ですね」

「うん、私は直接的なんだ」


 噛み付くような、情熱的なキスをする。


 腰砕けになりながら、ジークは荒い息を吐く。


「ず、ずるいよ、レオは。こんなのを隠し持っているなんて……!」

「それはこっちのセリフです……」


 レオは目を回したようだ。ふらふらと、ジークの隣に腰を下ろす。


「なんだって、朝早くから、こんな激しいやつをするんです……」

「……」


 ジークは、にこにこと笑みを返す。


 その内心は――


 アキラ・キサラギには死刑が相応しい。


 絶対、この手で、殺してやる――。





◇ ◇ ◇ ◇





 ニーダーサクソンの首都サクソンにある統帥総本部で開かれた軍議に於いて、ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤー中将の提案したアキラ・キサラギに対する策略は、賛成多数で可決された。

 レオの提案した策略であるが、本人の意志により、この策略はジーク本人の献策として、動議された。

 この策略の最もよい所は、こちらが動かすのは口だけだという点だ。

 内乱の傷痕は少ないものの、政変が起こった後のニーダーサクソンに於いて、この策略は特に喜ばれた。

 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーは武人である。

 軍議の最中は口を噤み、成り行きを見守ることが常であった。そのジークの発言、そして優れた献策に、周囲の軍高官たちは驚きを隠せないようだった。

 ジークは得意だった。

 いつもは、だらだらと長いだけで結論を見ぬ軍議に自ら終止符を打ち、しかも評価された策略は、本当はレオの提案だ。思わず跳ね回ってしまいそうになるくらい、レオのことが得意だった。

 策はすぐにも動き出す。重荷を一つ降ろした感に、ジークの足取りは軽い。

 その足取り軽く統帥総本部を後にしようとするジークを呼び止める一人の騎士があった。


「やあ、ジークリンデ。これから食事でもどうだい?」


 フォルクマール・フォン・バウマイスター少将だ。

 狼の獣人の若い男で、門閥貴族の出身だ。エリート意識の塊のような男で、ジークは彼に対し、吐き気以外の感情を覚えたことはない。


「私は中将だ。口を謹むんだね、バウマイスター」

「おやおや、ジークリンデは白いニンゲンにご執心。小官など、目に入りませぬか」


 ジークの、ぴんと立った二つの耳が、ひくりと動く。

 今すぐにでもバウマイスターを切り捨ててしまいたいが、軍にはまだ利用価値がある。この男は不快だが、それと引き換えにはできない。

 レオのためだ。ジークは、ぐっと拳を握り込むに留める。

 対するバウマイスターは、口元に歪んだ形の笑みを浮かべている。

 女の癖に生意気な、という暴力衝動のようなものが見え隠れする笑みに、ジークはやはり、吐き気を催す。


「ところで、ジークリンデ。小官からの求婚の件、考えてくれましたか?」


 恭しく頭を下げるバウマイスターに、ジークは誠意を持って答えた。


「そのことだけどね、バウマイスター。一度でいいんだ。二度、三度そうしろとは言わない。だから……一度でいい。死んでくれないか……?」

「なっ!」


 狼の獣人は誇り高い。侮辱にも命を懸ける。怒りで真っ赤になったバウマイスターを、ジークは鼻であざ笑う。


「一人で難しいなら、私が手伝っても構わない。どう?」


 決闘ならば受けて立つ。それがジークの心境だ。

 対するバウマイスターは、瞳を赤く燃やし、身振り手振りを大袈裟に訴える。


「何故だ! ジークリンデ! 何故、分からない! 誇り高い狼の血統を忘れたのか!? 俺にはおまえしかいない! おまえにも、俺だけのはずだ!」


 狼の獣人は希少種だ。血統を守るため、配偶者は限られる。

 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの愛には障害が多い。これも彼女が乗り越えなければならないものの一つだ。


「俺の何処が気に入らない! 血統も家柄も、申し分ないはずだ!」

「…………」


 ジークは思う。

 古臭い種のプライドなど、犬にでも食わせてしまえばよいのだ。

 血統も家柄も、ジークの心を震わせたことはない。


「あの貧弱な白いニンゲンが、そんなにいいのか!?」


 そのバウマイスターの叫びは、意外な鋭さを持ってジークの胸に突き刺さった。


 レオンハルト・ベッカーは白くなった。

 燃え尽きて、白くなった。残された命は、後、僅か。

 アスクラピアの『絞り出し』は、術者当人の強い目的意識が必要となる。

 レオンハルト・ベッカーは、アキラ・キサラギのために、命を燃やし尽くして、白くなった。

 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーのためではない。


 だから、なんだ?


 ジークは顔を上げる。


「バウマイスター。おまえとなんて、死んでもいやだね」


 そう言い残し、踵を返す。


 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの愛は、奪う愛だ。

 レオンハルト・ベッカーは燃え尽きて白くなった。その心も全てを忘れ、白くなった。誰も住まなくなったのだ。


 力づくで、アキラ・キサラギから奪ったのだ。


 だから白くなった。


 結構なことだ。手に入れたことの証しではないか。むしろ、それを誇らしく思う。

 ジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーの愛は、気高く、奪う愛だ。

 それは、純白の白であるべきだった。




◇ ◇ ◇ ◇




 ノルドライン領――。

 フェルトブルガー砦はニーダーサクソンの国境の西にある森林の中にある。

 施設には居住棟、管理棟、厚生棟がおよそ四〇棟。警備するだけでも約二〇〇〇名の兵員を必要とする。

 サクソンでの敗戦を経て、アキラ・キサラギがこのフェルトブルガー砦を再起の場に選んだのは、幾つかの拠点候補の中で広大且つ、守護の兵員が少なかったことが大きな事由である。

 制圧、占領の後、アキラの指示で防衛のための軍事化が進められ、堅固な防壁や兵站、指揮等に必要な施設が増設された。

 フェルトブルガーの周囲には有刺鉄線が張り巡らされており、収容している兵員は現在、4734名。旅団クラスの人員が収容されている。

 電光石火の奇襲でこのフェルトブルガーを制圧してから、三千人近い兵員を増やしていることになる。

 その居住棟の一室では、アキラ・キサラギが無表情でこまごまとした執務をこなしている。

 急速に膨れ上がったこの『猫目石』は、いつも物資が不足している。アキラがこの『猫目石』を維持、発展させて行くためには長期に渡り利益を生む構造が必要だ。

 今は付近の銅山を手中に置き、そこから得た収入で兵員を賄っているが、軍隊というのは、存在するだけで金を食う代物だ。新たな資金源を考えなければならない。

 副長のレオを失ったことは、アキラにとって、半身をもがれたに等しい痛手となって実感されている。

 現状では『猫目石』で優秀な指揮官は、アキラのみだ。

 大隊長の三人はそれなりだが、留守を任せられるほどではない。

 あまりにも多忙な現実が、アキラの感情を圧殺しているのが現在の状況だ。

 アキラは、ぽつりと呟く。


「疲れた……」


 そんなとき、アキラは何度も読み返し、既にぼろぼろになった手紙を読み返す。

 手紙には、レオの思うアキラの長所が沢山書かれている。


 小柄で可愛い。賢い。強い。倹約家である。案外面倒見がよい。……案外は余計だ。


 アキラは、へらっと笑う。


 手紙には、短所も書かれている。


 短気。乱暴。凶暴。狂暴。傲慢。嗜虐的。怠け者。

 副長である自分が、いかに迷惑を被ったか、事細かに書いてある。量的には、長所の三倍にはなろうかという苦情の羅列だ。


 アキラは、いらっと毛を逆立てる。


 短所の最後にこうある。


 レオンハルト・ベッカーを好きなこと。これだけは何とかした方がよい、と。


「どういう意味だ。あの、うすらとんかちめ……」


 手紙は、こう締めくくられる。


 あなたと会えて、本当によかった。

 幸せでした。


「ばーか、ばーか……」


 アキラの心の堤防は、いつも決壊してしまう。

 尽きることのない水脈を掘り当てたかのように、涙が溢れて来る。


「アキラさま……」

「!」


 すっ、と肩に掛けられたエルの手を払い除け、アキラはごしごしと袖で涙を拭う。


「ボクに触るんじゃない。……少し、泣く……おまえは出て行くんだ」

「……」


 エルは一礼し、静かにその場を去った。


 アキラはエルを断罪できずに居る。未だ、心の一部を共有しているからだ。そのエルを断罪することは、自らを断罪するに等しい。

 レオの手紙を読み返す度に、エルへの憎しみを飛躍的に増進させるアキラだが、一方で、エル以上の最大の理解者はいないことも自覚している。

 つまり、アキラは、レオンハルト・ベッカーを――


 ――殺したいほど愛してる。


 サクソンに張り巡らせたアキラの情報網は、未だ健在である。


 エミーリア騎士団でレオンハルト・ベッカーという騎士の記録は、過去、現在に於いて抹消されている。

 イザベラ・フォン・バックハウスは、要塞攻略の任務から帰還途中、行方不明。


 レオの痕跡を消したのはジークリンデだろう。間違っても、彼を反逆者にしてしまうわけには行かない、という意志が見えている。それを匿う彼女の保身のためでもある。


 ――レオは生きている。


 だが、その後の行方が杳として知れない。

 ジークリンデが宮殿に住居を移し、そこで囲っている男――『白い男』が、おそらくそうだろうが、事情の分からないアキラは確信していながらも、断定できずにいる。

 『白い男』に関する噂は不吉過ぎるのだ。

 なんでも、記憶を無くし、重大な呪いに身を侵されているのだとか。

 消えてしまったイザベラと何か関係があるのだろうか……。

 周辺に漂う噂から、アキラが冷静に分析するに――この『白い男』は長くない。


 『白い男』は、レオではない。


 アキラのその願望が、ここ最近の停滞を生む土壌になっている。


 だが、あのジークリンデ・フォン・アスペルマイヤーが方々手を尽くし、『白い男』のために躍起になって神官や呪術師を呼び寄せているという報告を受ける度に、


 『白い男』は、レオ以外の何者でもない。


 という結論に至らざるを得ない。

 ジークリンデを蛇蝎のように嫌うアキラだが、ジークリンデのレオに対する感情だけは認めている。

 それを認めなかったアキラは、ジークリンデのその部分に敗北を喫したのだ。

 失ったものの大きさを思えば、悔やんでも悔やみ切れない失敗だ。


「白い、男、か……」


 アキラは呟く。

 白い男は、記憶を失っているという。

 アキラにとって、それは不安要素にはならない。

 愛していると言ったのだ。アキラが呼びかければ、草臥れた魂も蘇る。


 逢いに行こうか……。


 そこまで考えた時、ドアが強く叩かれる。

 息を切らせて現れた大隊長の一人が悲鳴混じりに報告する。


「銅山が、焼けてます……!」

「そいつは辛辣だな!」


 アキラは嗤った。


 ――行け!


 最早、進退窮まった。


 胸がざわめく。


 また、あの舞台へ登るのだ。

 アキラ・キサラギに舞台袖は似合わない。

 耳の奥で、テンポのよい淡々とした円舞曲のリズムが流れ出す。

 ――ワルツだ。

 男女が対となり、体を合わせ踊るそれを、アキラは事のほか好んで踊った。


 アキラの、狂気のワルツがはじまる――。



◇ ◇ ◇ ◇



 ――四年前。

 焼けて行く故郷で、一人の男が表情を消し、口の中でアスクラピアの聖句を呟きながら、血に塗れた剣を振るっている。

 妹のアルも、この男の手にかかった。


 ――よかった。


 エルはひたすらそう思う。

 体中に紫斑が浮かび、末端から腐り落ちて行く業病『黄金病』。妹の口癖は、

「殺して……」

 エルにそうする勇気はなく、ただひたすら神の思し召しを待つのみだった。だから、その男――レオンハルト・ベッカーが現れた時、エルはこれこそ神の思し召しだと思った。


 他の傭兵たちがそうするように、レオも血に塗れ、無表情で家屋に火を放つ。


 レオンハルト・ベッカーは、常にエルの期待を裏切った男だ。


 妹の死を喜ぶ姉に、生きる資格はない。

 レオの足元に縋り付きながら、裁きの時を待つエルの口から勝手に言葉が溢れ出す。

「お願いします、助けてください……」

 怖かった。

 あらゆる快楽も、あらゆる苦しみも生者の特権だ。エルは、それを手放すのが怖かった。

 その後、レオは作戦途中にも拘わらず、エルを連れて村から離脱した。


 単騎、脱走兵としてサクソンへ向かう間中、傭兵のレオは、震えるエルを力の限り抱き締めて、泣いていた。


「大丈夫、大丈夫だ……。きみは、病気に罹っていないから……俺が、俺が絶対助けて見せる……」


 暖かかった。安堵の中、微睡むエルの耳元でレオは囁き続ける。


「神さま……神さま……ねえ、居るんでしょ? 俺、どんな罰でも受けますから、この子だけは……どうか……」


 刹那の快楽主義者の多い傭兵の中で、この男は変わり種であるらしい。

 全財産を投げ打ち、貴族に頭を下げて回り、本当にエルを助けてしまった。

 その後、エルは酷い自己嫌悪に取り付かれることになる。

 妹の死を喜んだ姉として。

 自罰を望みながら、それを恐れ、事もあろうに妹を手にかけた男の慈悲に縋った姉として。

 食事を拒否し、全ての善意を拒絶するエルにレオが取ったのは、その彼女をメイドとして雇うという行動だった。


 レオは、どうしようもなく甘い男だった。


 雇ってやると横柄に言う癖に、その表情はエルを気遣う不安に塗れていた。

 素直に善意を受けられないエルを思いやり、逆に厳しく接することで正当な代価として、善意を受けさせようとしたのだ。

 レオの庇護から外れることは、未だ大人に成り切らない当時のエルにとって最悪の人生を約束することになる。

 少しだけ、あと少しだけ、この男に甘えよう……。

 その思惑から、エルは、レオに仕えることになった。自罰意識の豊富な彼女にとって、最悪の決断になると知らずに。


 当初、レオは少し頭の足りない青年だった。たいして強くない癖に喧嘩っ早く、叩きのめされて帰って来ることもしばしばで、遊びに夢中になる余り、酔い潰れ、色街に迎えに行かねばならないこともしょっちゅうあった。

 馬鹿なやつだと呆れる反面、エルはどうしても彼を心配してしまう。

 放って置けば、この男がそこらで野垂れ死にするのは目に見えている。


 貴族の口利きで命こそ助かったものの、任務放棄の責を取らされ、レオが仕事から干されてしまい、きつい時もあった。

 純粋種の人間にニーダーサクソンの冬は厳しい。寒さに震える彼と抱き合って眠ることもあった。

「す、すまん、エル。俺、もうちょっと頑張るから……」

 凍え、歯を鳴らすレオに抱き締められ、エルは口元に僅かな笑みを浮かべる。

 そこには確かに、エルの居場所が存在した。益々、レオから離れられなくなる。

 そんなある日。


「エルーーっ! やったぜ! 俺、騎士になるぞ!」

「……」


 高らかに笑うレオを前に、エルは呆然となった。

 この考えの足らない男が国を守る騎士などと……世も末だ。


「これでエルの給料も、しっかり払ってやれるな!」

「……」


 子供のように胸を張るレオの様子に、じんわりと暖かい何かが、エルの胸に込み上げる。

 だが、この男は妹を殺めたのだ。

 だが、この男は優しいのだ。

 だが、この男は故郷を焼いたのだ。

 だが、この男が愛しいのだ。


 騎士になってからのレオは、しこたま殴られて帰って来ることが多くなった。


「いてて……あのチビ、容赦ねえな……」

「小さいのですか?」

「おお! 豆粒みたいだ! けど、べらぼうに強くてよ……返り討ちに遭っちまった」


 レオが他所の猫の匂いを付けて帰って来るようになったのはこの頃からだ。


「少尉、変な匂いがします」

「あー……今日も、あの豆にやられてよ……気絶して、目ぇ覚ましたら、厠の中だったんだ……あの豆、いつか踏み潰してやる……」


 猫はもう、自分がいる。エルは不快だった。


 レオンハルト・ベッカーは神父の息子である。遊び好きだが、根は真面目。騎士という職分は、彼に向いていたのだろう。上官の厳しい教育の成果もあり、時を経て変化する。


 いつからか、その表情から甘えが抜け、男の顔になって行く。


「エル、またアルフリードが攻めてきた。俺は第七連隊の副長として行かねばならない。万が一にもやられはせんが、もしもの時は――」


 いらぬ気遣いだ。エルは遮って言う。


「中尉を信じています。任務に励まれますよう」

「よし。行ってくる」


 戦いの気配は、彼の横顔を通じて、エルには分かる。

 鋭利に研ぎ澄まされた刃物のように、迷いの全てを断ち切る表情。

 レオンハルト・ベッカーは剣によって生きて来た男だ。斃れる時も、剣によってであらねばならない。

 戦場にレオを送り出す時の切ない心持ちが、エルにはたまらなく甘美だ。

 戦いを控え昂揚し、ぴりぴりと張り詰め、余計な気遣いをしない彼が好きだ。

 いつか――この男の命の輝きを間近で見てみたい。

 それは、きっとエルの身も心も灼くだろう。



「ああ、レオンハルトさま! お慕いしております!」

「よし! では地獄までついてこい!」



 だが、この男はエルの妹を殺し、故郷を焼いたのだ。

 レオンハルト・ベッカーが死ねば、エルは嬉しい。

 レオンハルト・ベッカーが死ねば、きっとエルの胸は悲しみに張り裂けてしまう。

 それでも共に在ることが許されるというならば、地獄の炎に焼かれても構わない。

 妹の死を喜ぶ姉が。

 死に行く故郷が焼け落ちる様に安堵を覚えた自分が、この愛を成就させるのは、地獄よりほかにありえない。



◇ ◇ ◇ ◇



 フェルトブルガーの砦から少し離れた森の中で、エルは身を折って、胃の内容物を吐き出した。


「まさか……」


 予感はあった。

 毎月、定期正しく訪れるものがない。丸みを帯び、少しつづ膨れ出す胸と腹。

 そしてなによりも――いつも予想を超える形でエルの期待を裏切るレオンハルト・ベッカー。


 人間という種族は、基本的にはどの種族とも相性がよい。猫の獣人との間に子を為すことは、可能性としては低いが、ないことではない。


「どうしましょうか……」


 感情の起伏に乏しいエルにしては珍しく、途方に暮れる。

 レオンハルト・ベッカーのただ一つ――命が欲しかった。

 それを、このような形で受け取ることになろうとは……。


 フェルトブルガー砦の方向が騒がしい。

 夜中であるというのに、男たちの怒号が飛び交い、馬の嘶きが辺りに木霊する。

 煌々と焚かれた篝火が、エルの足元まで差し込んで来る。


 ああ、行くのだな……。


 エルには、すぐ分かった。

 アキラ・キサラギが、全ての煩わしいものを切り捨て、たった一つを目指す時が来たのだ。

 直ぐにでも駆けつけようとしたエルだが、その足元に迷いが生じ、立ち尽くす。


「レオンハルトさまの輝きが、ここに……」


 運が無かったのだ。エルは即座に振り切り、フェルトブルガー砦に走りだす。

 大掛かりな門の前には、荒くれの傭兵たちが集結しつつある。皆一様に鎧兜を身に纏い、物々しい雰囲気を周囲に撒き散らしている。


「おお、ベッカーんとこの猫の嬢ちゃん」


 エルに声を掛けたのは、元第七連隊の大隊長の一人だ。


「行かれるのですね?」


 息を弾ませるエルの手は、無意識の内に腹を庇うように宛てがわれている。それを怪訝そうに見やりながら、大隊長は頷いた。


「ああ、これで嬢ちゃんとも、お別れだ。達者でな」


 資金源を絶たれた『猫目石』は、このままでは先細り、内側から崩れ去るのは時間の問題だ。アキラの考えは分からないが、今起つことは正しい決断の一つであると信じる。

 これが最後の戦いになるだろう。彼とて、歴戦の兵だ。軍から外れた流浪の集団の行く末くらいは察しがつく。

 死なば諸共。

 これまで、アキラ・キサラギの下で面白おかしくやって来た。彼女の指揮に準じ、最後までついて行くつもりだ。

 彼だけでなく、元第七連隊に所属していた騎士の殆どがそう考えている。


「私も、お供いたします」

「……」


 大隊長は首を振り、静かに視線を飛ばした。

 そこではアキラ・キサラギが、全身に、ぴったりとした黒い衣を身に纏い、タクト替わりに刀を振りかざし、大声で指揮を振るっている。


「総員、騎乗できる者は騎乗しろ! 物資をありったけ持って来い! 遠征するぞ!」


 アキラのコバルトブルーの瞳は、篝火の光を受け、燃えるようだった。

 エルは僅かに微笑み、そのアキラに歩み寄る。


「アキラさま……エルも連れて参られますよう……」


 その静かな決意の言葉に、アキラは残酷な笑みで答えた。


「駄目だ。おまえは、ここで腐って行け」

「え――?」


 エルが見たもの。


 菊一文字の紫の刀身が横凪ぎに閃き、篝火を照り返す美しくも妖しい輝きだった。


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苛烈に生きる弟の話を……
『アスクラピアの子』
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