息も止まるくらいに。
ミズキちゃんの思考がそろそろ乙女モードへ突入かと。
4.息も止まるくらいに。
ご主人様は最近、前にも増して何だか忙しそう。
よく人が訪ねてくるようになったし、出不精だったのにお出掛けもよくなさるようになった。
必然的にあたしを構ってる暇は少なくなって、仕事がはかどっていいんだけど…。
何だか少しだけ胸の中に隙間が出来たような…、物足りないような気がするのはなぜだろう。
今日もお客様が来られるというので、屋敷の中が朝から慌ただしかった。
「…やっぱり噂は本当なのかしらね」
「噂?」
食卓の準備をしているとき、おしゃべり好きの先輩が話し出した。
「最近ご主人様、よく叔父様のところへ出掛けられるでしょう?あれって、あちらのお嬢様との縁談が本格的に進んでるからじゃないかって…」
縁談…。
そんな話はあって当たり前のことなのに、あたしはショックを受けてしまった。
ご主人様は若くしてご当主になられたから今は伴侶がいらっしゃらないけど、よく考えたらこれだけ大きなお家の当主がいつまでも独身という訳にはいかないだろう。
あたしのことはたまたま気に入った玩具で気晴らしをしていたというだけで、まさか本気ということはあり得ないし。
…分かっていたつもりだったけど、立場の違いを改めて思い知らされて、あたしは胸が苦しくなった。
いつも無表情なあたしだから、先輩はあたしが無言で固まっていても気にせず話を続けた。
「今日これから来られるそうよ。優しくてすごく綺麗な方だから、ご主人様とはお似合いよね〜」
楽しそうに話す先輩に適当に相づちを打ちながら、あたしは出来ることならこの場から逃げ出したい、その方に会うのが怖いと思ってしまった…。
チリリン。
呼び鈴の音に思わず竦み上がる。
行きたくない。でも、仕事だから行かなきゃならない。
葛藤を無理矢理胸の中に押し込め、あたしは扉をノックした。
「どうぞ?」
鈴を転がしたような軽やかな声音が入室の許可を告げる。
あたしはうつむいたまま扉の側に控えて、声が震えないようにお腹に力を入れた。
「お呼びでしょうか、ご主人様」
「ああ、ミズキ。紹介するよ、僕の従妹のユキノ」
「初めまして。まあ、想像してたより可愛らしい」
ご主人様の向かいに座ったご婦人は、本当に綺麗な方だった。
栗色というより、艶のある蜂蜜のような巻き髪に真珠色の肌、桜の花びらのような可憐な唇。ご主人様と並ぶとまるで天使が二人舞い降りてきたような華やかさだ。
あたしは少し埃を被った自分のスカートを、知らずぎゅっと握りしめていた。
「初めまして、ミズキと申します」
扉の側で頭を下げると、ユキノ様がソファーから立ち上がって近寄ってきた。
「そんなに緊張しないで。これから一緒に暮らすんだから、仲良くしましょう?ね?」
「はい…」
目線を合わせるように少しかがんで覗き込んでくるユキノ様の言葉に、あたしは打ちのめされた。
やっぱり噂は本当だったんだ…。
目を見張るあたしにご主人様は苦笑してみせた。
「まだ少し気が早いよ、ユキノ。ミズキが驚いてる」
「あら、まだ言ってなかったの?困った人ね。…じゃあ、私は向こうでお茶をいただいてくるから、その間にお話しておいてね」
ふふふ、と微笑んで、ユキノ様はまたあとで、と書斎を出ていった。
「…ミズキ、こっちにおいで」
ソファーから呼び掛けるご主人様に、あたしはふるふると首を振った。
今すぐここを出ていきたい衝動を堪えるのに必死で、顔を上げることさえ出来ない。
…あたし、いつの間にこんなにご主人様を…。
使用人のくせにお遊びを真に受けて…、なんて馬鹿なあたし。
それでも、もしかしたらご主人様が否定してくれるかもなんて、微かな望みを捨てきれなくてここから動けないでいる。
ご主人様は動かないあたしに怪訝そうな顔をしながらも、少し迷うような素振りで残酷な言葉を告げた。
「ミズキ、しばらく叔父さんのもとへ行かないかい?」
…それは、あたしを厄介払いしたいということでしょうか…?
それも、よりによって自分の許嫁のお屋敷になんて、嫌味でしかありません…。
「…わかりました」
所詮、あたしは使用人。命令に従わなければ解雇されるだけ。
素直にうなずいたあたしを見て、ご主人様が急にうろたえ始めた。
「どうしたの、ミズキ?」
「…え?」
首をかしげると、ふわりとご主人様の腕が伸びてきて抱きしめられた。
「泣かないで。何かあった?」
するりと頬を撫でられて、あたしは初めて自分が涙を流していることに気がついた。
「…いえ、何でもありません」
あたしは泣き顔を見られたくなくて身を捩って離れようとしたけど、ご主人様はますます強くあたしを腕に閉じ込めて放してくれなかった。
「僕が何かした?」
「………」
いいえ、違います。あたしが勝手に思い上がってただけです。甘い言葉に惑わされたあたしが悪いんです。
あたしがなぜ泣いてるかまるでわからない様子に嫌味の一つも言ってやりたかったけど結局言葉にならず、あたしは無言でご主人様を睨み付けてしまった。
「ミズキ…」
睨みながらぽろぽろ涙をこぼすあたしに、途方に暮れたご主人様は両頬を挟んで口付けてきた。
いつもより性急に深くなるキスは、ご主人様には珍しく余裕のなさを感じさせる。
その激しさに息も止まりそうなあたしは、我を忘れてご主人様にすがり付いた。
多分、これが最後…。
頭のどこかで自分に言い聞かせながら。
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お約束の切ない展開。
もう少しだけお付き合いくださいませ。