唇から伝染する。
お金持ちの考えることって、どこかぶっ飛んでますよね〜。
3.唇から伝染する。
ご主人様には夜会服がとてもよく似合う。
光沢のある黒の上着も、柔らかく胸元を飾るレースも、ご主人様の美貌を引き立ててより輝かせている。
…なのに、その当のご本人がとっても不機嫌なものだから、せっかくの魅力も半減してしまう。
「…はぁ〜…」
これ見よがしに大きなため息をついて、ちらりとあたしをうかがい見るご主人様。
そんな拗ねた顔したって、ダメなものはダメです。
「クレハさんにまたお説教されたいんですか?」
平気でご主人様を叱り飛ばす執事の名前を出すと、ご主人様はしぶしぶあきらめたようだった。
それでも文句をいうことだけは止められないようで、ぶつぶつと不機嫌顔のまま呟く。
「すごく可愛かったのになぁ。…夜会なんて一人で行っても肩が凝るだけなのに」
…だからと言って、どこの世界にメイドを着飾らせて一緒に連れていこうとする主人がいるんですかっ!?
あたしは頭を抱えて唸りたくなった。
―――遡ること半日前、大量のドレスを書斎に持ち込んだご主人様は、
「きっと似合うと思うんだよね〜」
嬉々としてあたしを使って着せ替えごっこを始めたのだ。
「え…、え?あのっ…」
「ドレスはこの青いので〜、リボンは黒…いや、シルバーかな?」
焦るあたしを無視して、ご主人様は他のメイドにあたしの着付けを命じていく。
た、助けてください〜…。
あたしはご主人様のご乱心を諌めてくれるように、目で女中頭や執事さんに訴えかけたけど、
「最近鬱憤が溜まってたみたいですから…」
「昼からはちゃんと執務に戻ってくださいね!会食の予定も忘れずに!」
誰もお馬鹿な遊びをとめてくれる人はいなかった。
あたしの位置づけはどうやら、ご主人様のストレス解消という名の生け贄に決定されたらしい。
あぅ〜…。これもお仕事だと思うしか…。
サテンのおリボンやら、ふわふわレースの膨らんだスカートやら、ヘッドドレスやら、生地も縫製も一介のメイドが身に付けるには余りある品々に埋もれながら(こんな状況じゃなきゃ眺めるのは大好きなんだけど)、あたしは投げやりなため息をつくしかなかった…。
何回もあれこれ着替えさせられて、ようやく納得のいくコーディネートに仕上がったあたしを見て、ご主人様は満面の笑みとともに一言。
「うん、決めた。これで行こう」
「はい?」
何がでございましょう?
「今日の夜会、ミズキもこのまま連れていくから。それ、脱いじゃダメだよ?」
お、お戯れを〜っっ!?
執事さん以下、その場にいた召し使い全員が、言葉もなく目を剥いたことはいうまでもない…。
―――そしてその後、激怒したクレハさんに、
「屋敷の中で遊ぶだけなら大目にみますが、常識というものをお考えください!」
と、こんこんとお説教をされたご主人様は、未だにこうして拗ねていらっしゃるというわけ。
「脱いじゃダメって言ったのに、ミズキはさっさといつもの服に着替えちゃうし」
あんなふわふわヒラヒラした服じゃ、お仕事出来ません。
背中の大きなリボンも刺繍も桃色の生地の光沢も素晴らしかったけど、あたしはやっぱりいつもの格好が一番落ち着く。
ソファーからなかなか腰を上げないご主人様に、あたしは時計を指して注意を促した。
「もうすぐ出発のお時間です」
「ミズキ」
呼ばれて傍へ寄ったあたしを捕まえたご主人様は、腕に閉じ込めるようにきゅうっと抱きしめた。
…ま、また…。
「ご主人様、時間が…」
「あちらのお屋敷は温室の薔薇が見事だから、ミズキに見せたかったんだ。好きでしょ、薔薇」
耳元で囁かれて、あたしはぴくりと肩を震わせた。
ご主人様、あたしが薔薇が好きって、ご存知だったの…?
ぱちくりと目を見開くと、ご主人様はふんわりと微笑ってあたしにキスをした。
ご主人様の口付けはいつも甘くて、あたしは酔ったようにふわふわぼんやり夢心地になってしまう。
重なった唇が離れる時、少し寂しい気がしてしまうのは、ご主人様の寂しがり屋が伝染ったせい…?
「明日帰るまでミズキに会えないから、今のうちに補給しとかなきゃ」
頬をすり寄せて甘えてくるご主人様の上着を、いつの間にかあたしも引き寄せるように握っていた。
「タイムリミットです、ご主人様」
出発を告げに来たクレハさんの呆れたような声で我に帰るまで、あたしは心地好いご主人様の腕に身を預けたままで…。
出掛けていくご主人様を見送りながら、先ほどまで抱きしめられていた腕の温もりがもう恋しいなんて、どうかしてると思うあたしだった。
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端から見たら、ご主人様は小さい子をいたぶる危ない人…。