第一話 あの日、珍しく早く帰れた
その日は珍しく、奇跡みたいに早く仕事が終わった。
「……え、本当に?帰っていいの?」
思わず独り言が漏れた。
いつもなら、「黒川さん、ちょっといい?」と呼び戻され、気づけば終電。
ーーそれが私の日常だった。
上司にもう一度確認すると、彼は疲れた顔のまま手をひらひらさせた。
「さっさと帰れ。明日も忙しいからな」
(明日は忙しいんかい……)
心の中でツッコミながらも、私は久々の定時上がりを噛みしめるように会社をあとにした。
年に数回有るか無いかの奇跡だった。
外へ出ると、夕暮れの空は淡い橙色に染まり、街には少し早めの帰宅ラッシュが続いていた。
空気は冷たいけれど、コンクリートの匂いに混ざる夕飯の香りがどこか心地いい。
「……こんな時間に外歩くの、久しぶりだな」
つぶやきながら、スマホで時刻を見る。まだ十八時前。スーパーの値引きシールが貼られる時間。
”普通の人たちが生きている時間”に、自分も紛れ込めていることが少しだけ嬉しかった。
駅前の通りを歩きながら、私はゆっくり息を吸い込む。
ああ、休みたい。肌荒れしない生活がしたい。ゆっくり料理がしたい。
ちゃんと眠りたい。腰も、肩も、ずっと痛い。健康な体が欲しい。
そんな小さな願いを胸の奥で反芻しながら、ふわりと伸ばした背筋が久しぶりに気持ちよかった。
駅前の横断歩道で信号待ちをしていると、前方に塾帰りらしい男女の学生が見えた。
仲がよさそうに話しながら笑っている。
まだあどけない顔。若いなぁ……。
十年ほど前、このくらいの年齢の子に「おばさん」と呼ばれたのを思い出して少し苦笑する。
ーーその時だった。
「……ん?」
ーーカッ!!と、爆音のようなエンジンの唸りが聞こえた。
反射的に視線を向けると、車が猛スピードで角を曲がってきた。
ブレーキの音はしない。運転手はスマホを見ているのか、完全に前方不注意。
しかも、横断歩道へ突っ込む軌道だった。
その進路上にはーーさっきの学生たち。彼らはまだ気づいていない。
ふざけながら一歩、道路へ。
嫌な汗が背中をつうっと流れた。頭の中が真っ白になって、でも身体だけが勝手に動いた。
「危ないっ!!」
叫びながら、私は全力で二人の背中を押し飛ばした。
驚いた声が聞こえた。彼らはよろめきながら歩道へ倒れこみーー
その一瞬、地面に光が走った。
二人の足元に、見知らぬ魔法陣が浮かび上がっている。
幾何学模様が複雑に絡み合った、美しくも不気味な光。
(なに……これ……?)
でも、考える暇はなかった。
車のヘッドライトが目に焼きつき、世界がひっくり返るような衝撃。
世界が暗転し、音が遠ざかる。一瞬の出来事すぎて痛みもない。
ただ、身体がふわりと浮くような感覚が残った。
ーーそして、私は死んだのだと理解した。
次に目を開けた時、そこは真っ白な世界だった。




