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稼働の予兆

工場の外では、夜風に乗って蒸気の匂いと油の香りが漂っていた。

遠くでは貨物列車の汽笛が低く響き、街全体がかすかな振動に包まれている。

街灯の下、エリックとキャシーは、大型の蒸気自動車を石畳の道路を走らせていた。

荷台には電気駆動計算機E-11が乗っている。それはSO-1に比べれば格段に小型だが、決して人の腕で抱えて運べるほど軽いものではない。真鍮の筐体と鋼の骨組みがぎっしりと詰まっており、その重量は確かな存在感を放っていた。


キャシーは助手席に座り、手帳を胸元に抱え、時折ペンを走らせた。

書き記しているのは数字や図面ではなく、今日目にした労働者たちの表情や、工場内に漂う熱気、そして彼らが口にした断片的な言葉。

「これが各地の工場に入れば、きっと労働者たちの暮らしは変わる」

口にしたその声は、冷たい夜気を切り裂くほどはっきりしていて、迷いがなかった。


しかし、裏通りの角からは、その様子を密かに見守る視線があった。

街灯の光の届かない陰に、黒いロングコートを着た男たちが立っている。

主任格の男が双眼鏡を目に当て、台車の上の金属の塊をじっと観察した。

「……やはり何かを運んでいる。あの装置、ただの機械じゃないな」

彼は双眼鏡を下ろし、部下に低く命じる。

「今は記録だけだ。接触はするな。詳細がわかるまで動くな」

短い返事とともに、部下たちはノートに時刻や経路を淡々と書きつけた。


エリックたちは、そんな視線の存在など夢にも思わない。

暗い倉庫前の坂道を上りきると、ジャックが息を吐き、台車を止めた。

「ふぅ……やっと着いたな。中に入れちまおう」

軋む扉を開け、埃の匂いがする空間へと台車を押し込む。


倉庫の中央には、改良作業用の広い作業台と、壁際に並ぶ工具棚。

その真ん中にE-11を据え付けると、真鍮の表面がランプの灯りを受けて鈍く光った。

エリックは筐体の側面をなぞりながら、まるで生き物を扱うように優しく呟く。

「これでやっと、次の段階に進める」


ジャックはその背中を見て、口角を上げた。

「こいつが動けば、現場の空気は一変する。賭けてみる価値はある」


キャシーは手帳を閉じ、二人を交互に見つめて頷く。

「記事はまだ出さない。でも準備が整えば、きっと風向きは変わるわ」


その頃、倉庫から少し離れた路地の奥では、監視の影が再び動き始めていた。

主任の男はポケットから懐中時計を取り出し、針の位置を確かめる。

「……まだ時ではない」

短く告げると、彼らは音もなく夜の闇に溶けていった。


エリックは知らない。

自らの手で未来の歯車を回し始めた瞬間に、別の見えない時計もまた動き出していたことを――。



倉庫の中は、外の冷たい夜気とは別世界のように静かだった。

天井から吊るされたランプの明かりが作業台を照らし、真鍮の筐体が鈍く反射する。

E-11はそこに鎮座し、内部からかすかに漏れる淡い光が、まるで呼吸のように明滅していた。


エリックは工具棚から薄刃のスパナを取り出し、慎重に筐体の側面へ身を寄せる。

金属の表面は、作業場の温もりを吸い込んだようにじんわりと暖かい。

「同期調整からやる」

低い声が作業台の上に落ちる。彼は指先の感覚だけを頼りに、規則正しくネジを外していった。

パネルを開けると、中からは複雑な歯車列と、金属の骨組みに収まった精密な部品群が現れる。

その奥で、目に見えぬ何かがゆっくりと脈動し、微細な震えを機械全体に伝えていた。


ジャックは作業台の反対側に回り、重量計を覗き込む。

「SO-1の半分……まだまだ軽くできるな」

エリックは視線も上げず、ネジを締めながら答える。

「軽くなった分だけ、やれることが増えた。今はそれで十分だ」


キャシーは壁際の椅子に腰を下ろし、暖炉のぬくもりを背に手帳を広げていた。

彼女のペン先は、金属音や低い唸りを聞きながら滑らかに走る。

そこに記されるのは、数字でも設計図でもない。

労働者たちの視線の鋭さ、工場の空気の重さ、そして、今日耳にした短いが強い言葉たちだった。


耳を澄ますと、E-11から響く音は、蒸気機関のような呼吸音ではなく、

まるで深い水底で鼓動を聞くような、一定の間隔を保った低いリズムだった。

それは妙に静かで、それでいて力強い。

キャシーは無意識に手を止め、その音を確かめるように耳を傾けた。


外では、夜風が路地を抜け、かすかな砂利の音を運んでくる。

その音に紛れて、別の足音があった。

黒いロングコートの男たちが倉庫の影に潜み、窓の明かりを見つめている。

主任格の男は腕時計をちらりと見て、部下に囁いた。

「記録を続けろ。まだ接触はするな」

部下は短く頷き、小さな手帳に時刻や経路を細かく記す。

彼らの目は、金属の塊に釘付けだった。


倉庫の中、エリックは最後の調整を終えると、ゆっくりとパネルを閉じた。

金属が噛み合う軽やかな音が響き、E-11の淡い光が一瞬だけ強まる。

「これでいい。明日、試す」

彼の言葉にジャックが満足そうに頷き、キャシーはペンを置いた。


夜が明け始めた頃、倉庫の中はまだひんやりとした空気に包まれていた。

天窓から差し込む淡い光が作業台を照らし、E-11の真鍮の外装がぼんやりと光を返す。


エリックは作業場の片隅から工具箱を引き寄せ、静かに一つずつ並べていく。

「今日は試す」

その短い言葉は、誰に向けたものでもなく、ただ自分の胸の奥に刻みつけるような響きだった。

作業台には、昨夜まとめた調整表と部品ごとの点検リストが広げられている。

彼は指先で外装をなぞり、わずかな振動と内部の熱を確かめながら、手際よく準備を進めた。


暖炉の近くでは、キャシーが湯気の立つカップを手に腰を下ろし、手帳を開いている。

彼女のペン先は機械の構造図ではなく、昨日目にした労働者たちの険しい視線や、

工場の空気に漂う閉塞感、そしてそこに混じるかすかな希望の気配を文字にしていった。

その小さな声は、E-11の沈黙に吸い込まれ、倉庫の奥に消えた。


外では、まだ朝の冷気が路地を覆っていた。

二つ角を曲がった先の暗がりには、黒いロングコートの男たちが潜んでいる。

主任格の男は金属製の小型望遠鏡を目に当て、倉庫の様子をじっと窺った。

扉が少し開き、エリックが台車を押して外に出るのが見える。

その上にはE-11の重厚な外装があり、淡い光を反射していた。


「……動かすつもりだな」

主任は低く呟き、隣の部下に視線を送る。

ひとりが素早く路地裏へ回り込み、もうひとりは距離を保ちながら正面から追う。

彼らの動きは、通りを歩く誰の目にも映らないほど静かで、計画的だった。


倉庫の中に残ったキャシーは、手帳を閉じ、湯の冷めたカップを机に置くと立ち上がった。

外に出ると、朝の光が目に差し込み、街の屋根の向こうで遠く貨物列車の汽笛が響く。

その音に合わせるかのように、エリックは台車を押し、E-11を朝の道へと送り出す。


通りには人影がまばらで、早朝の店主が店先を掃く音と、遠くの工場から漏れる低い機械音が混ざり合っている。

エリックとキャシーは並んで、試験場へ向かう道を進んだ。

彼らは気づかない。

その後ろで三つの影が一定の距離を保ち、まるで影そのもののように静かに追い続けていることを――。



薄明の街路に朝霧が漂い、冷たい空気が真鍮の筐体をかすかに震わせる。

エリックは台車を押しながら、胸に高鳴る鼓動を感じていた。

「すべての人に届く技術……今日こそ、それを形にする時だ」


キャシーは少し離れて歩き、手帳に素早く文字を刻む。

「視線は外にある。けれど、私たちは先に進むしかない」

言葉には潜む危険を認識した覚悟がにじみ出ていた。


試験場に着くと、そこには小規模ながらも整備された作業台と簡素な配線設備が並ぶ。

ジャックは埃を払いながら、周囲を見渡す。

「準備はいいか、エリック? 今日からこの街の歯車を変えるんだぞ」


エリックは深く頷き、慎重にE-11のスイッチを入れる。

筐体内部の歯車が低く唸り、淡い光が規則正しく点滅し始める。

周囲の空気までが振動するかのような、精密で力強いリズムだった。


「動いた……」

ジャックの声は興奮を帯びつつも、抑えられていた。

「これなら、現場の計算も効率化できる」


「未来を……創るぞ」

エリックは小声でつぶやき、E-11の動作を確認する。


キャシーは息をのむが、冷静さを失わない。

「これが成功すれば、私たちの動きは止められない。労働者たちの声が、技術の力で初めて形になる」


真鍮の筐体はさらに光を強め、歯車はより精密なリズムで回転を刻み始める。

低い振動が床に伝わり、壁をかすかに揺らした。

空気の密度が変わったように感じられ、キャシーは思わず息を飲む。


「うまくいく……!」

ジャックの声に、微かな震えが混じる。

「これで、俺たちの声が街の全てに届くんだ」


薄明かりの影が動く。

黒いコートの一団が近づき、静かに窓から中を覗き込む。

主任格の男は双眼鏡を目に当て、冷たい視線でE-11の動きを追った。

「……動いている。ここまで来たか」

短くつぶやくと、彼は部下に低く指示を出した。

「長官に報告するぞ」

影の集団は、研究所を後にした。


エリックは最後の同期チェックを終えると、ゆっくりパネルを閉じた。

金属が噛み合う軽やかな音が響き、E-11の淡い光が一瞬強く光る。

「これで……試運転に入れる」

ジャックは満足そうに頷き、キャシーも決意を込めて目を細めた。


E-11の歯車は規則正しく回り続ける。

それはまるで、街そのものの脈動を吸い上げ、再構築するかのようだった。

エリックは心の中で誓う。

「技術は、特権階級のものじゃない。誰もが触れ、使えるものにする」


キャシーは手帳を閉じ、湯気の立つカップをテーブルに置く。

外の街路では、遠くで貨物列車の汽笛が鳴り、工場の煙突からは朝の蒸気が立ち上る。

その音と光景が、まるでE-11の脈動に呼応するかのように、街全体を揺り動かす予感を漂わせていた。


エリックは知らない――

強大な敵の魔の手が忍び寄ることを。

技術と権力、希望と抑圧の見えない歯車が、静かに、しかし確実に噛み合い始めていたのだった。


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