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真鍮の誓約

蒸気自動車が街の石畳を滑り抜ける音が遠ざかるなか、エリックは窓の外に広がる故郷の景色をぼんやりと見つめていた。行政区の中でもひときわ豪奢な一角。黒漆の屋根瓦が整然と並び、真鍮の装飾が煌めく大邸宅が立ち並んでいる。

父の発明した蒸気計算機「SO-1」は、帝国の技術の最前線を走り、家族に莫大な富と名声をもたらしていた。

街の行政区はその恩恵にあずかり、エリックの幼少期は誰もが羨む安定と豊かさに包まれていた。


母の突然の病死により、家は一変した。

セドリックは深い喪失感に沈み、酒に溺れ、かつての輝きを失っていった。

大広間の笑い声は消え、冷たい沈黙だけが残った。


幼いエリックは、家族の崩壊を目の当たりにしながらも、心の奥底で問い続けた。

「なぜ、母さんは……なぜ、技術は人を幸せにできないのか」


あの頃の記憶は今も鮮明に胸を刺す。


そして彼は決意した。

父の技術をただ守るのではなく、全ての人々の手に届く新たな技術を創り出すことを。


「技術は特権階級だけのものではない。誰もが平等に享受できるべきだ」


今、彼の指先で繊細に動く家庭用計算機「E-11」は、まさにその信念の結晶であった。

比較的安価な素材である真鍮の筐体は、市井の人々に向けてというエリックの信念を示すものである


エリックは窓の外に広がる行政区の煌びやかな灯りと、彼が今立つ工業区の暗い煙突群を見比べた。

二つの世界の隔たりを胸に刻みつつ、彼はまた機械に手を伸ばす。


「これが、未来の技術だ」


「E-11」は、父が設計した蒸気計算機「SO-1」と、根本的に異なる技術の結晶であった。


「SO-1」は、帝国の計算機科学研究所にて、父セドリックが長年の歳月をかけて完成させた機械である。

その核となるのは、蒸気の熱エネルギーと運動エネルギーを活用する巧妙な仕組みだ。


この計算機では、蒸気の圧力によって二進法を表現する。そのために、高温の蒸気を沸かし、その膨張圧力を動力源とする。しかし、蒸気を生むに伴って発生する高熱の蒸気が機械部分に直接作用したならば、繊細な部品が熱変性等で、駆動の精度に悪影響を及ぼす可能性がある。


そこでセドリックは、断熱性に優れた特殊合金「堅鋼」を採用した。

これはチタンとモリブデンを絶妙な比率で融合させた合金であり、熱伝導を遮断しながらも機械的強度を保つ驚異的な素材であった。

この耐熱性に優れた堅鋼により、「SO-1」は蒸気の熱と運動エネルギーの力を正確かつ持続的に計算処理に変換できたのだ。


そ「SO-1」は驚異的な計算能力を発揮したものの、堅鋼等の素材の高コストと重量、そして装置の巨大さから、主に政府や研究機関向けの高級機としての位置づけに留まった。


一方で、「E-11」はまったく異なる哲学に基づいて設計されていた。

エリックは蒸気の熱に頼ることを潔しとせず、当時はまだ民間でほとんど活用されていなかった電気の利用を思い切って採用した。

彼の設計は、小型の電気モーターや配線回路を駆使し、蒸気の代わりに電気エネルギーを動力源とすることで、計算機の軽量化とコスト削減を実現した。


電気を用いたことで、「E-11」は高価な堅鋼に代わり、加工しやすくかつ安価な真鍮を筐体の主要素材に選ぶことができた。

真鍮は耐久性もあり、繊細な細工や装飾も容易で、まさにスチームパンクの美学を体現する素材であった。


だが、最大の課題は電気そのものの普及状況にあった。

多くの一般家庭はまだ蒸気や燃焼を主なエネルギー源としており、電気は高価で供給網も限られていた。

電気を利用した「E-11」の普及には、スチルトン全土に電力網を張り巡らせ、発電所の建設と家庭への電気配線の整備が不可欠だった。


この巨大な社会インフラの変革は、蒸気機関庁をはじめとする既存の権力構造にとって、深刻な脅威となった。

彼らは、これまで帝国の産業と政治を支配してきた蒸気動力技術の覇権が揺らぐことを恐れ、あらゆる手段で新技術の拡散を阻止しようとしている。


エリックはそれを承知の上で、真に自由で公平な技術の普及を目指し戦いに身を投じていた。

彼にとって「E-11」は単なる計算機ではなく、社会の枠組みを変えるための象徴であり、希望そのものだった。


「技術が特権階級のものであり続ける限り、社会は真の進歩を遂げられない」

彼の信念は、この金属と歯車の小宇宙に詰まっていた。



工房の扉をゆっくりと閉じた音が、静かな空間に柔らかく響いた。

エリックは深く息を吸い込み、その胸の高鳴りを抑えながら作業台に視線を落とす。

「E-11」はまだ試作機に過ぎなかったが、その小さな真鍮の塊は、彼の想像以上の精度と性能を示していた。


この革新的な機械の存在を知るのは、まだごく限られた者だけだった。

最初に試運転を目の当たりにしたのは、エリックの信頼する仲間たち。


大学時代の後輩であり、現在は帝国の著名な雑誌社に勤めるキャシーは、緻密に動く歯車と静かに輝く真鍮の筐体に強い興味を抱いた。

彼女は技術の真価を理解し、メモ帳に熱心にメモを取る。


一方、エリックの親友であり大学時代からの盟友、弁護士のエドワードは冷静だった。

彼は技術の先に待ち受ける政治的、法的な障壁を予見し、エリックにこう忠告した。


「この発明は間違いなく帝国の既存勢力を刺激する。政府と戦う覚悟はしとけよ」

エリックは頷き、二人は互いに固い決意を共有した。


そんな折、噂はゆっくりとだが確実に外の世界へと広がっていった。

とある民間の工場経営者が、密かな評判を耳にし、興味を示したのである。


工場経営者の許可を得て、E-11はその工場の作業現場に持ち込まれた。

蒸気と油煙の混じる空気の中、労働者たちは興味半分、不安半分でその小さな機械を見つめていた。


ジャック・スミスは腕を組みながら機械をじっと観察している。

彼の顔には、長年の労働で刻まれた深い皺と疲労の影があるが、同時に希望の火がわずかに灯っているようにも見えた。


「こんな小さな箱が、俺たちの仕事を変えるなんて信じられるか?」

仲間の一人が小声で囁く。

まだ実用には程遠い。しかし、この鬱屈した生活を変えてくれるかもしれないという淡い期待がその眼には宿っていた。



翌日、キャシー=テイラーは取材ノートに細かな文字を書き連ねていた。

彼女の瞳は、労働者たちの希望と不安を写し取り、文字に刻み込むようだった。


エリックは工房の隅で父セドリックの遺した蒸気計算機SO-1を見つめていた。

巨大で重厚な機械は、かつて帝国を支えた技術の象徴だったが、エリックの発明したE-11のおかげで時代遅れの遺物となりかけている。


「父さん、俺はただ父さんの後を追うだけじゃない。新しい未来を創る」

彼の声は静かだが、揺るがぬ決意が込められていた。



それから数週間、エリックはラボにこもって技術の改良と情報の整理に没頭した。

キャシーの記事は秘密裏に配布され、労働者たちの間でじわじわと話題となっていた。


ある晩、エリックは密かにジャック・スミスと会った。

「君たちの声が必要なんだ。技術の普及を実現するには、労働者の力が不可欠だ」


ジャックは深く頷き、固く拳を握った。

「俺たちはただの歯車じゃねえ。お前の計算機で、初めて俺たちの声が機械の音になった。共に戦おう」


だが、その裏で暗躍する影があった。

蒸気機関庁の高官たちは、密かに刺客を送り込み、エリックたちの足元を崩そうと画策していた。


未来を賭けた戦いは、既に始まっていた。

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