蒸気の苦悩
工業区の空は、常に灰色をしていた。
朝と夜の境目すら曖昧で、濃い煤煙が空を覆い、白い蒸気が地面近くを漂う。かつて行政区で暮らしていた少年の頃の彼には、こんな光景は想像もできなかった。だが今は、ここが彼の戦場であり、拠点であった。
エリックは、民間研究所の二階にある自室兼作業場の窓辺に立ち、外の景色を黙って見下ろしていた。
正午を過ぎても、陽光は黒煙に阻まれ、街路はガス灯の薄明かりに頼っている。蒸気車の走行音が低く響き、その合間に、工場のサイレンが遠くで鳴った。
背後の作業台には、彼の数年間の研究の結晶が置かれている。
真鍮製の外殻には、複雑な彫金模様とリベットが施され、上面には小ぶりなキーと数字盤が並んでいる。内部では、小歯車が精緻に組み込まれ、キーを押すたびに軽快な「カチリ」という機械音が響く。
それは、彼が家庭用計算機「E-11」と名付けたものだった。
従来の計算機は、軍部の戦略机や国庫の大机に据えられるほどの大きさで、動力の確保も容易ではなかった。だが、この機械は卓上に置ける大きさであり、精度も損なわない。
帳簿計算、教育、果ては家庭での簡単な統計まで――この機械は、知識と計算の力を市井の人々に届けることができるはずだった。
しかし、決定的な障害があった。
――電気。
この計算機は蒸気ではなく電気で駆動するため、家庭に電線が通っていなければ動かすことができない。上流階級の邸宅や一部の役所には電気が引かれているが、ほとんどの家庭はガス灯と手回し式の機械に頼っていた。政府は電化の必要性を軽視し、蒸気産業の維持を至上命題としていた。
エリックは計算機を見下ろし、指先で真鍮のキーを押した。
小歯車が回転し、針が揺れ、紙片に結果が印字される。
その音は、彼にとって希望の足音であり、同時に重い責務の響きでもあった。
ドアを叩く軽い音がして、エドワード=ブラウンが姿を見せた。
長身に黒のロングコート、銀の懐中時計を胸ポケットから覗かせている。大学時代から変わらぬ、落ち着いた笑みを浮かべていた。
「また考え込んでいるな、エリック」
エドワードは部屋に入り、机上の機械に目をやった。
「これが例の計算機か……実物を見ると、確かに惹かれるものがある。だが、これを家庭に広めるには――」
「電気を引かなければならない」エリックが言葉を継ぐ。
「そして、それは政府が一番阻みたいことだろう」
エドワードは苦笑を浮かべた。
「政府と戦う、覚悟はあるのか?」
エリックは視線を窓の外に移した。
煤煙に霞む街を、上流階級の蒸気車が歯車音と蒸気の噴き出す音を響かせながら走り抜けていく。その豪奢な車体と、路傍で立ち止まり見上げる労働者や貧困層との間に横たわる隔たりは、あまりにも明白だった。
「あるさ」
その言葉とともに、彼は計算機の真鍮のレバーを押し込んだ。
小さな歯車が規則正しく回転し、また一つ、紙片に計算結果が刻まれる。
それは、エリックにとって始まりの鐘の音であった。
数日後、エリックは工業区の外れにある古びた整備工場の前に立っていた。
錆びた鉄骨が絡み合い、配管が迷路のように天井や壁を這うその建物は、黒煙の匂いと油の粘った臭いが充満している。
床は油と煤で滑りやすく、蒸気の漏れる音と金属同士が擦れ合う音が絶え間なく響いていた。
彼は所長の短い挨拶を終え、工場内部の作業場へと向かう。
そこには、多くの労働者が鉄の歯車や蒸気管と格闘していた。
その中で、ひときわ洗練された装いの女性が視界に入った。
彼女は濃紺の膝丈スカートに白いブラウスを着て、黒の仕立ての良いジャケットを羽織っている。
首には真鍮の留め具がついた細身の革ベルト。磨き込まれた編み上げの革ブーツは、埃にまみれた工場内でもひときわ異彩を放っていた。
手には取材用の鞄と、真鍮で縁取られた小型のカメラが揺れている。
「……キャシー?」
彼は声を潜めて呼びかけた。
女性はゆっくり振り返り、驚きとともに微笑んだ。
「……エリック? こんなところで会うなんて思わなかったわ」
キャシー=テイラー。大学時代、同じ研究棟で幾度となく議論を交わした盟友だった。
卒業後の消息はわからなかったが、こんな場所で再会するとは思ってもみなかった。
「大学卒業してからは、何をしていたんだ?」
エリックは少し間を置いて訊ねた。
キャシーは軽く肩をすくめ、苦笑した。
「雑誌記者よ。『機関と社会』っていう、科学技術をテーマにした雑誌を担当してる。労働者や市民の視点からの記事を書くために、工業区で取材してるわ」
「だからここに?」
「ええ。ここで働く人たちの声は、生でなければ伝わらない。だけど……」
彼女の目が一瞬だけ曇った。
「記事に書ける以上に過酷な現実が、この街にはあるのよ。低賃金、長時間労働、危険な環境……でも、行政区の連中は知らんぷり」
エリックは頷き、静かに言った。
「俺、全く新しい計算機を作ったんだ。誰でも使えて、小さくて、正確な機械だ。それを普及させたい」
キャシーは興味深そうに目を細め、やや距離を詰めた。
「計算機……面白そうね。記事にできるかもしれないわ」
「本当か?」
「ええ。ただ、こういった技術は権力者にとっては脅威になるわ。彼らは独占したがる。だから慎重に進めないと」
エリックは口を結び、黙って工場の奥を見た。
ボイラーの圧力弁から蒸気が勢いよく吹き出し、金属の音が空気を震わせる。
キャシーが静かに言った。
「私も協力するわ。私の記事で、労働者や市民にあなたの機械のことを伝える。蒸気機関庁や銀行の連中がどれだけ抵抗しても、真実は隠せない」
――この街は変わらなければならない。
彼らの胸には、その想いが静かに、しかし確かに燃えていた。
ジャック=スミスは、工業区の喧騒の中でひときわ目立つ存在だった。
鋼鉄のように逞しい体躯は、無数の機械の騒音に負けず、むしろそれを凌駕する威圧感を放っていた。
煤けた革製のジャンパーは長年の労働で所々擦り切れ、厚い作業手袋は無数の傷跡を刻んでいた。
その顔には深く刻まれた皺が刻まれ、労働の厳しさと歳月の重さを物語っている。
彼は火力発電所で働く労働者たちの間で、自然とリーダーとして認められていた。
長時間の過酷な労働、低賃金、そして日々の命懸けの仕事。
そんな現実に対する怒りと不満は、彼の言葉の端々に滲んでいた。
工場の中央広場で、ジャックは集まった労働者たちに向けて熱のこもった演説を始める。
「俺たちは、奴らのために働いているんじゃねえ! こっちは汗水垂らして命を削っているんだ。こんな暮らし、もう我慢ならねえ!」
周囲の労働者たちも拳を振り上げ、怒号が響いた。
エリックとキャシーはその様子を少し離れた場所から見守っていた。
「彼がジャック・スミス。労働者の声を代弁する男」
キャシーは静かにエリックに告げた。
エリックは拳を軽く握りしめ、視線をジャックに向けた。
「彼らの苦しみは、この街の闇だ。俺の作った計算機が、少しでもその闇を照らせるなら……」
そう強く心に誓った。
キャシーは続けた。
「技術の独占を打ち破るには、彼らの支持を得ることが不可欠よ。だけど、上流階級や政府は、そんな連中の声なんて聞きたくないはず」
エリックは決然と言った。
「だからこそ、俺たちが声を上げなきゃいけない。技術は特権階級だけのものじゃない。すべての人のためにあるべきだ」
夕暮れ時、工場の煙突からは黒い煙がゆっくりと空に昇り、街は蒸気と鉄の匂いに包まれていた。
三人の思いは交わり、まだ見ぬ未来へと繋がっていく。
ジャックの言葉がこだまする工場の広場から離れ、エリックとキャシーは薄暗い路地を歩いた。
煙突から吐き出される蒸気が、街灯の灯りをぼんやりと霞ませている。
「家族のこと、母さんのこと……あれ以来、ずっと俺の中で何かが壊れてしまったんだ。父さんの技術を守るだけじゃ駄目だと思った」
エリックは空を見上げ、遠い記憶に沈む。
「この街のすべての人が、平等に恩恵を受けられる技術を作りたい」
キャシーは頷き、鞄の中からノートを取り出した。
「まずは労働者たちの声をもっと知る必要があるわ。彼らが何に苦しみ、何を求めているのか。記事にするには、その深みが必要よ」
「君がいてくれて助かるよ」
エリックは笑みを浮かべた。
彼らの足音だけが、蒸気と闇の街に静かに響いていた。
蒸気機関庁の厚く重い扉が静かに閉ざされ、内部の会議室には重苦しい空気が漂っていた。
石造りの壁には歴代の長官の肖像画が並び、その視線が今まさに進行中の会議をじっと見つめているかのようだった。
「最近、民間の研究所が計算機技術に関して新たな動きを見せている、という報告がいくつか寄せられている」
長官ディビッド=ジョーンズは深刻な表情で切り出した。
「まだ詳細な情報は得られていない。誰が開発しているのか、どのような技術か、まったくつかめていないのだ」
側近の官僚の一人が慎重に言葉を選びながら付け加える。
「この動きは、我々の管理する蒸気動力技術の支配体制にとって、潜在的な脅威となる可能性があります」
ディビッドは窓の外に目を向け、街に立ち昇る黒煙と白い蒸気の混じった煙幕を見つめた。
「帝国の経済と産業は、我々が掌握する蒸気機関技術を中心に築かれている。鉄道、製造工場、そして行政機構の全てが、この蒸気の力に依存しているのだ」
「もし、民間の技術革新が蒸気動力を凌駕し、あるいは代替するものであったならば……」
側近が言葉を濁す。
「国家の産業基盤は大きく揺らぎ、既得権益は崩壊する。ひいては帝国の安定も脅かされる恐れがあります」
ディビッドは鋭い眼差しで会議室の席を一つずつ見渡した。
「我々は、この帝国の技術と権力の守護者だ。
いかなる革新も、帝国の支配構造を根底から覆すものであれば、容赦なく排除しなければならん」
「しかし、現段階では情報が断片的であり、具体的な対策を講じるには時期尚早かもしれません」
官僚の一人が控えめに提案した。
「だが、監視を強化し、いかなる兆候も見逃すな。
民間の技術者たちの動向を逐一把握し、必要があれば迅速に介入する。
それが我々の使命だ」
長官の声は冷たくも力強く、部屋の隅々まで響いた。
「今こそ帝国の繁栄を守るために団結しなければならない。
この蒸気の都スチルトンにおいて、我々の力が揺らぐことは許されん」
会議室に静寂が訪れ、重厚な空気の中に帝国の未来を巡る緊迫した決意が満ちた。
その時、街の蒸気機関車が遠くからゆっくりと轟音を響かせ、鋼鉄の車輪がレールを刻んでいた。