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歯車の夢

研究所を出たとき、夕刻の空はすでに煤煙で覆われ、橙色の陽光は濁った水に沈む火玉のように霞んでいた。工業区の大通りには、列を成した蒸気車が軋む車輪と噛み合う歯車の音を響かせながら進み、そのたびに車体の隙間から高圧の蒸気を吐き出していた。空気は油と金属と石炭の混じった匂いに満ち、歩く者の肺を重くする。


エリックは革鞄を抱え、人波を避けるように裏路地へ足を向けた。大通りの喧騒は遠ざかるが、その代わりに路地特有の、湿った錆の臭気と押し殺した声が近づく。壁は継ぎ接ぎの鉄板で覆われ、配管が縦横無尽に走り、その間から蒸気が白く吹き出している。


角を曲がった先で、七、八人の男たちが何やら押し問答をしていた。煤に染まった顔、油の染みた革の上着、そして首からぶら下げた銅色のゴーグル。彼らは明らかに工場労働者である。


「聞こえてるだろう、ジャック! あの条件じゃ、誰も納得しねぇ!」

若い労働者の怒声が路地に響く。その前に立つ一人の大柄な男が、片手を上げて場を制した。

「わかってる。だが焦るな。交渉は俺がやる」


ジャック=スミス――労働者組合のリーダー。その背は広く、声は低く響き、何より周囲を一瞥するだけで人を黙らせる威圧感を備えていた。


ふと、ジャックの視線がエリックを捕らえた。

「見せもんじゃねえぞ。こんな路地に、何の用だ?」


その声音には露骨な敵意が混じっていた。。


「この辺りに住んでいる。……研究所に勤めている者だ」

エリックはためらいながらも答えた。


ジャックは口元をわずかに歪めた。

「研究所、ね。お前らが作る機械が、俺たちの仕事を奪うこともある。蒸気だろうと電気だろうとな」


その言葉に、周囲の労働者がくすくすと笑う。ひとりが低く呟いた。

「電気か……また得体の知れねぇもんを持ち込むつもりかよ」


エリックは返す言葉を探したが、胸中で重く沈むものがあり、声にはならなかった。この場で何を言っても、信用されることはない。彼らの目は、長年の低賃金と過酷な労働が育んだ不信の色に満ちている。


沈黙を破ったのは、遠くから響いた甲高い汽笛の音だった。続いて、大通りの方からざわめきが押し寄せてくる。声は高まり、鉄板を叩く音、笛の音、何かが倒れる音が混じり合っていた。


ジャックは短く息を吐き、仲間に目配せをした。

「行くぞ。……あんたも気をつけな」


労働者たちは一斉に大通りの方へ駆け出した。煤けた背中が蒸気の靄に飲まれていく。


残された路地には、吐き出されたばかりの白い蒸気と、鉄と油の匂い、そして何とも言えぬ重苦しい気配が残った。


エリックは鞄を握り直した。あの男――ジャックとは、いずれ避けられぬ形で再び相まみえることになる。その予感は、煤煙よりも濃く、胸の奥底に沈殿していった。



エリックの記憶の奥底には、いまもあの屋敷の匂いが残っている。

暖炉から漂う石炭の煙、母の部屋から流れてくる香油の香り――それらは確かに、幸福の象徴であった


オリヴァー家の屋敷は、行政区の高台にそびえたっていた。

外壁は漆喰で白く塗られていたが、その表面には銅製の装飾パネルが埋め込まれ、陽光を受けて鈍く輝いていた。

三階建ての屋根には、風見の代わりに精密な気圧計と時計機構が組み合わされた真鍮の塔がそびえ、歯車が時を刻むたびに微かな金属音が響いた。


玄関脇には、蒸気配管が壁を這い、冬には屋内暖房のための蒸気を送り込んだ。

門を抜けた先の庭には、機械仕掛けの噴水があり、歯車とピストンが水流を細かく制御し、四季折々の模様を描く。

花壇の植え替えも、庭師とともに小型の蒸気駆動アームが作業していた。


屋内に入れば、廊下の両脇には重厚な木製パネルと真鍮の縁取りが施され、壁には精巧な圧力計や温度計が埋め込まれていた。

ガス灯は単なる照明ではなく、透明なチューブを通じて都市のガス管と接続され、炎の揺らめきが磨かれたガラスカバーに反射し、柔らかな光を投げかけていた。

客間には、父セドリックが誇る傑作SO-1の試作機が据えられ、巨大な真鍮の歯車と黒檀のケースが威容を放っていた。

音を立てて回る冷却ファンの羽根が、規則的に空気を送るたび、かすかな油と金属の匂いが漂った。


食堂では、長大なテーブルの中央に蒸気で温められる料理保温器が組み込まれ、使用人が手をかけずともスープや肉料理が熱々のまま供された。

暖炉の脇には自動薪くべ装置があり、規則正しく鉄のアームが薪をくべ、火を絶やさぬようにしていた。


この屋敷は、単なる富の象徴であるだけでなく、当時の帝国における最新の技術と職人技の結晶であった。

訪れる客人たちは、蒸気と歯車が奏でる低い響きと、金属と木が織りなす装飾美に圧倒され、オリヴァー家の威光をいやが上にも感じ取るのだった。


だが、その機械仕掛けの輝きの中にも、静かに崩れていくものがあった。

エリックの母、エリザベスは、その頃すでに長く床についていた。

白いシーツに包まれた彼女は、かつての快活な面影を失い、頬はこけ、肌は蝋のように冷たかった。


母の寝室は、屋敷の二階南側にあった。

窓辺には真鍮のフレームで支えられたガラスの温室が張り出し、そこには冬でも咲くように温度と湿度を保つための蒸気管が巡らされていた。

だが、その温室の花々の色彩は、母の顔に生気を与えるにはあまりにも力なく見えた。


枕元では、機械仕掛けの点滴装置が規則的な音を立てていた。

真鍮の小さなピストンが上下し、細い管を通して薬液が滴り落ちるたび、低い金属音が響く。

それは看病するための最先端の装置であったはずだが、幼いエリックには、母の命が少しずつ削られていく音のようにしか聞こえなかった。


父セドリックは、仕事に追われながらも頻繁に帰宅し、医師を連れてきては、病状を改善しようと試みた。

あるときは電気療法の装置が運び込まれ、あるときは新開発の蒸気吸入器が設置された。

だが、どの装置も結果を変えることはできなかった。


エリックは、母の枕元でその手を握りながら、幼い声で「よくなるんでしょ?」と尋ねた。

母は弱々しく微笑み、息を整えながら「ええ、きっと…」と答えた。

その声は柔らかかったが、エリックの胸の奥には、言葉の裏にある空虚な響きが残った。


やがてある冬の朝、屋敷の窓に霜がびっしりと降りた日、母は静かに息を引き取った。

ガス灯の火が消えたかのように、部屋から温もりが失われ、機械仕掛けの点滴も、蒸気を吐き出す暖房も、その役割を終えたかのように沈黙した。


歯車や蒸気は、富をもたらし、暮らしを便利にしたが、人の命までは救えなかったのだ。

この記憶は、後の彼の選択に長く影を落とすこととなる。


葬儀の日、行政区の冬空は灰色に沈み、吐く息すら白く濁って消えていった。

屋敷の前には黒塗りの蒸気馬車が並び、真鍮のラッパ型マフラーからは低い唸りと白い蒸気が漂っていた。

上流階級の人々が喪服をまとい、形式ばった言葉を父に投げかけては、寒さを避けるように足早に屋敷へ入っていく。


少年のエリックは、黒いコートの裾を握りしめながら、何も言わず母の棺を見つめていた。

棺は磨き上げられた黒檀製で、蓋には銀色の歯車が彫り込まれ、装飾用の小さな真鍮パイプが曲線を描いていた。

それは職人の誇りを示す美しい細工だったが、エリックには、冷たい鉄と同じ無機質さしか感じられなかった。


式のあいだ、父セドリックはほとんど表情を崩さなかった。

研究者として、技術者として、そして一家の主として、感情を押し殺すことが彼の誇りでもあったのだろう。

しかし、エリックは知っていた。

父が人目につかぬ廊下の片隅で、手袋を外した拳を固く握りしめ、震えている姿を。


葬儀の後、客人たちが去り、屋敷が静まり返ったとき、父はエリックを自室へ呼んだ。

書斎の机には、青写真と工具が広げられ、その横に母が使っていた機械仕掛けの点滴装置が置かれていた。


「エリック、技術は人を豊かにする。だが、万能ではない」

その言葉は、まだ幼い彼の胸に深く突き刺さった。


その夜、エリックは自室の窓辺で、行政区の夜景を眺めた。

遠くのガス灯が灯り、蒸気車が黒い影を引きながら石畳を走る。

高い煙突から吐き出される白煙は月明かりに溶け、街全体が機械仕掛けの巨大な生き物のように脈打っていた。

その光景の中で、彼は小さく誓った。


――いつか、自分の手で、人を救える技術を作る、と。


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