革命の電撃
帝国リバフォード、その首都スチルトンは石畳の街路を幾重にも広げ、蒸気の吐息と鉄の軋みを伴って目覚める。ガス灯がまだ薄明かりを放つ早朝、街はすでに機械の音と労働者の喧騒に満ちていた。重厚な黒い煙が空高く舞い上がり、真鍮のパイプは凍てつく空気に白い蒸気の紗を織りなす。
工業区の片隅、民間研究所の薄暗い実験室では若きエリック=オリヴァーが新たな可能性を追求していた。電気という未開拓の力を動力源とした計算機「E-11」の設計図が、彼の眼前で幾度も書き直されては積み重ねられていく。父の遺産を越えんとする決意は、階級の壁を打ち破る希望であり、同時に重い呪縛でもあった。
この街に渦巻く階級と技術の独占――それは、真鍮の檻に閉じ込められた人々の運命を静かに、しかし確実に蝕みつつあった。
朝の蒸気の匂いとともに、スチルトンの街は目覚めた。石畳の路地には真鍮製の街灯が整然と並び、その間を歯車を露出させた蒸気車が低い咆哮とともに走り抜ける。車輪を回す歯車の連続音が、街の喧騒に重なるように響き渡り、時折「シューッ」と蒸気が噴き出す音が空気を震わせる。
工業区の一角にある薄暗い研究所の窓からは、熱気と煤煙がゆらゆらと立ち昇っていた。中ではエリック=オリヴァーが机に向かい、真鍮色の機械部品と書類に囲まれていた。彼の指先は緻密な設計図の線をなぞり、電気を動力とした小型計算機の未来を見据えていた。
同じ工業区でも、労働者階級はまだ安定した日々を送っていた。革の上着に銅色のゴーグルを掛けた男たちが、工場の汽笛とともに持ち場へ向かう。彼らは安い賃金に不満を抱きながらも、蒸気機関と金属を相手に黙々と働き続けている。。
一方、都市の西外縁、居住区と呼ばれる地域には、さらに厳しい暮らしがあった。そこでは、破れた服を着た者たちが、錆びたブリキや廃材で作った家に身を寄せ、冷えた空気の中で煤けた鍋を囲んでいた。貧困層は労働の機会すら限られ、日雇いの雑役や物乞いで日々をしのぐ。彼らの目には、工業区を行き交う労働者たちでさえ、羨望の的として映っていた。
エリックは研究所の窓越しに、その対照的な二つの世界を見つめていた。彼の夢は、人々の暮らしを豊かにすることだった。しかし、その夢の陰には、避けがたい犠牲と、深く刻まれた社会の亀裂が横たわっていることを、まだ彼は知らなかった。
スチルトンは、帝国リバフォードの心臓であった。石畳で敷き詰められた街路は、中央から同心円状に広がり、鉄と蒸気の匂いを運ぶ風が、あらゆる場所に吹き渡る。高台に立つと、外縁までびっしりと詰まった煙突群と、そこから吐き出される黒煙の海が見える。空は灰色に曇り、陽光は常に鈍く濁っていた。
中央行政区は、規律と権威の象徴である。巨大な時計塔の針が時を刻むたび、無数の汽笛が呼応するように鳴り響き、帝都全域へと一日の始まりを告げる。煉瓦造りの省庁舎は整然と並び、その窓からは燻る煙管の煙や、紙束を運ぶ書記官の姿が覗く。黒と白の服に身を包んだ紳士たちは、黒いコートの裾を翻し、磨き上げられた革靴で石畳を軽やかに踏み鳴らす。鍔広の帽子をかぶった淑女たちは、真珠の首飾りを胸に、白いドレスの裾を持ち上げながら歩く。通りには蒸気車が轟音を立て、歯車同士の噛み合う金属音とともに白い噴気を吐き出し、その行く先で群衆が左右に割れる。ここでは、それらすべてが洗練された文明の証とみなされていた。
その外側に位置する商業区は、帝都の商魂が渦巻く場所である。真鍮の看板が朝日に輝き、扉の上では小型の歯車仕掛けが宣伝板をゆっくりと回転させている。雑貨商、時計職人、機械部品の卸売商、そして銀行。この街の経済の中心として、この街を動かす潤滑油となっている。
さらに外側の工業区は、都市の動力そのものである。巨大な工場が軒を連ね、煙突からは絶え間なく煤煙が空へと吐き出される。通りは油と泥でぬかるみ、地面を叩く機械の振動が足裏に伝わる。ここでは、労働者たちが革の上着を身にまとい、銅色のゴーグルを額に押し上げながら、巨大な蒸気機関を動かす歯車の一部として働いている。彼らの賃金は安く、休息は短い。だが、彼らの手が止まれば、この帝都はたちまち静まり返るだろう。それでも、彼らの名が歴史に刻まれることはない。
西外縁の居住区に足を踏み入れると、空気は一変する。そこは都市の裏側、忘れられた人々の巣窟であった。割れた石畳と剥き出しの土が入り交じる路地には、錆びたトタンやブリキ板で組み上げられた家々が肩を寄せ合って並んでいる。大人たちは顔に煤と機械油をこびりつかせ、子供たちは裸足のまま泥の中を駆け回る。穴の開いた布靴や、破れた服に身を包む人々は、行政区や商業区の人間たちからは見下され、時に存在すら意識されない。ガス灯の明かりもほとんど届かず、夜になれば路地は闇と影に沈む。治安は悪く、怒号や悲鳴が遠くで響くことも珍しくない。
東側の流通区は、都市の血管である。ここには巨大な貨物駅がそびえ、蒸気機関車が貨車を連ねて次々と到着する。荷役夫たちは汗まみれで木箱や樽を担ぎ、港からは外洋船が繋留され、各地からの香辛料や金属鉱石が運び込まれる。外への輸出品には精緻な時計や高性能の蒸気機関があり、それらは帝国の威光を遠くの海の向こうまで伝えていた。
こうして、スチルトンはあらゆる階級を歯車のように組み込み、一つの巨大な機構として動き続けていた。だが、その歯車同士の間には、微かに軋む音があった。それは誰もが耳にしていながら、聞こえないふりをしている音である。エリック=オリヴァーは、その軋みが、いつか機構全体を崩壊させる兆しであることを、薄々悟り始めていた。
工業区の東端、煤けた煉瓦の壁と鉄骨の梁に囲まれた民間研究所は、表通りからは目立たない場所にあった。看板は擦れて文字が判別しづらく、入口の上には使われなくなった歯車の飾りが錆びついたまま残っている。扉を押し開けると、湿った油の匂いと鉄の味を含んだ空気が、肌にまとわりつくように広がった。
エリック=オリヴァーは、この薄暗い空間の中央に据えられた長机へ歩み寄った。机の上には金属の筐体が横たわっている。真鍮製の肩幅大程の機械。
史上初、電気駆動計算機E-11である。
周囲の技師たちは、好奇の眼差しを向ける者と、明らかな侮蔑を隠さぬ者とに分かれていた。蒸気で動く機械こそ文明の象徴と信じるこの都市で、電気を用いた機構は異端である。エリックの父セドリック=オリヴァーが行政区で蒸気機関開発の第一人者であったこともあり、彼の行動は特に注目の的だった。
「……電流を流す」
低く呟き、エリックは制御盤のスイッチを押し込んだ。
一瞬、室内の空気が張り詰める。蒸気の唸りではない、鋭く乾いた音が空間を裂いた。銅線を伝って走る光がE-11へと流れ、黒い液晶に光がともる。
「……起動、完了」
その声に、奥の机で作業していた技師の一人が顔を上げ、唇を歪めた。
「蒸気の力を捨てて、そんな得体の知れぬ火花に頼るとはな。お前さん、本気でそんなものが未来を動かすと思ってるのか?」
エリックは答えなかった。ただE-11を見つめ、その動作を確認する。彼の胸中では、幼い頃に父から教わった技術の数々と、今目の前で動く異端の機械の姿が交錯していた。
工場の外では、遠くで蒸気車の汽笛が鳴った。その音は、この都市の支配者が蒸気と歯車であることを、改めて告げていた。しかしエリックの耳には、それが警鐘のように響いた。
彼はまだ知らなかった。
この小さな青い光が、やがてスチルトンの階級構造を揺るがし、そして帝国そのものを揺るがすことになることを――。