8話
本日3度目の更新です。本日は6話から更新しています。
朝晩がだいぶ冷え込むようになってきた。
朝一番でカモミールのお茶を淹れようとリマは裏庭に出ていた。朝露を含んだハーブたちは生き生きとしていてとてもきれいだ。
結局、子爵位はエレクトラに譲ることにした。
そもそもリマはろくに子爵の仕事について学んだことがない。なのに嫡子だというだけで今まで子爵家でがんばってきたエレクトラを差し置いて子爵になるのは絶対に違うと思ったからだ。
話をしてみるとエレクトラは子爵位を継ぐ意志があり、そのための勉強もしていたらしい。
「出来がいいかと聞かれると、そんなにいい方じゃないとは思いますけれど」
などとエレクトラは謙遜していたが、アランが「そんなことはない」と優しげにエレクトラと見つめ合っていた。
どうやら2人は心から想い合っているように見える。
「私もエレクトラ嬢と一緒に学んできた。彼女を助けて領地を盛り立てるようがんばりたいと思ってきたんだ。フェリマーサ嬢には悪いが、エレクトラ嬢のがんばりを見てきた身としては――」
リマは大きく頷いて、子爵位をエレクトラに任せることに同意した。
2人で頑張っていきたいというなら、彼らの意志を優先して欲しい。
リマはウェイドにそう伝えて、手続きを依頼したのだった。
かくしてリマは今日も海森亭を切り盛りしている。
キッチンで摘み立てのカモミールティーを淹れ、今朝ははちみつを落としてからふうふう吹いてひとくち飲んだ。
昨夜はちょっと眠れなかった。身の回りが落ち着いて、やっと『天鵞絨の水平線』の続きを読む気になれたのだ。
ベッドの中でゆっくりと紐解いた物語はハッピーエンド、ヒロインと青年は心を通わせ結ばれておしまい。満足感に包まれて眠れるはずなのに眠れない。
だって、作者はラドレグ。
謎に包まれた作家ラドレグの正体はジェラルドだと判明した。あの夜レーベンに本人がはっきりと告げていたし、翌日こっそりジェラルドに尋ねたら肯定していた。「ルイに確認してもいいですよ」というのでルイにも聞いたが、やはり「その通りです」という答えが返ってきた。ならばきっと本当なんだろう。
しかし問題はあの小説の中身だ。
ヒロインの状況があまりに自分と重なっていることが気になってしまう。自分をモデルに書いたのだろうか? そしてヒロインと恋仲になる青年、どこかジェラルドと重なって見える。
――まるでジェラルドがリマとそういう関係になるのを望んでいるように読み取れてしまう。
「だめだめ、そんな風に思い上がっちゃ!」
ジェラルドはラドレグであり、侯爵家の出身だと言っていた。たとえ自分が子爵令嬢のままだったとしても、遠い場所にいる人だ。
こうして宿でお世話をできるだけでもありがたいと思わなくちゃ――
「何を思い上がるの?」
考え込んでいたところに声を掛けられ、びっくりして少しだけお茶をこぼしてしまった。
「あ、ごめん、急に声を掛けたから」
「ううん、私も考え事してたから。ちょびっとだし気にしないで。それよりジェラルドも飲む? カモミールティーだけど」
「うん、いただくよ」
早朝から2人で向かい合って座りゆっくりとお茶を楽しむ。けれどリマはさっきまで考えていたことに気を取られて落ち着かない。ちらりとジェラルドを見ると、ばっちりと目が合ってしまい慌てて目をそらした。
「――リマ、あのさ」
ジェラルドが声を掛けた。恐る恐るといった声色だったので、リマはつい彼へと視線を向けた。
ジェラルドの目元がちょっとだけ赤い。
「『天鵞絨の水平線』……読んだ?」
ドキッ、と心臓が跳ねた。今まさに考えていたことを見透かされてしまった気がする。
「う、うん。読んだ」
「どうだった?」
リマはちょっと躊躇したが、正直に本の感想を伝えた。考えてみれば作者に直接感想を伝えられるなんて特別な機会だ、伝えたいことはたくさんある。言葉を尽くして感じたことをまくしたてるように話してしまった。
「――というわけで、本当に感動したし読み終わった後の充足感もすごかったし、さすがはラドレグ先生だなって」
「ありがとう、嬉しいよ」
「私も直接ラドレグ先生に思いを伝えることが出来て、こんな嬉しいことはないわ。でも、その――どうして黙っていたの? 自分がラドレグ先生だって」
「リマがラドレグのファンだっていうのはロビーの本棚を見れば一目瞭然なんだけど、僕の本をとりわけ大事にしてくれているのがよくわかって。ああ、大ファンなんだなあって思ったら逆に名乗り出るのが恥ずかしいっていうか、申し訳ないような気になってしまって」
「え、どうして恥ずかしいの?」
「だって『僕がラドレグです。いつも読んでくれてありがとう』なんて突然言われたって怪しすぎるだろう? ちょっと思い込みの強い変な奴、って思われそうで」
確かに初めて会って突然そんなこと言われたら引いてしまうかもしれない、と思った。でもちょっと拗ねたようなジェラルドの表情が愛おしくて、ついくすっと笑ってしまった。
「笑わないでよ」
「ごめんなさい、でも」
まだくすくす笑っているリマにジェラルドがぐいっと顔を近づけた。
「それで、僕の新刊だけど、登場人物について気がついたことはない?」
「そりゃあ……」
あれだけ自分とヒロインが重なっていればわかる。
「あのヒロインのモデル、ひょっとして」
「うん。もちろんリマ」
「それでヒーローの青年は」
「もちろん僕」
「えっと……つまり」
つまりあの『天鵞絨の水平線』という作品は、読みようによってはジェラルドからリマへのラブレターとも受け取れてしまうわけで。
すると今まで軽い調子だったジェラルドが、急に真面目な顔で居住まいを正した。
「リマ。大事な話があるんだ」
「う、うん」
「あのアランという男――彼がリマの元婚約者なんだよね」
「ええ。今はエレクトラしか眼中にないようだけど」
「その――君の心にアランはまだ住んでいる?」
つまり、アランへの恋心があるのかと聞いているのだ。リマは素直に首を横に振った。
「アラン様は今思うと、家族とかきょうだいとか、そんな『好き』だったと思うの。エレクトラと幸せそうな様子を見てよかったなあって感じたのよ」
「そ、そうか。よかった――それで、本題なんだけど」
今のが本題じゃなかったのか。リマは首をかしげた。
「あれを読んでくれたなら何となくわかってくれてるかもしれないけど。あの青年の気持ちは僕自身の気持ちを代弁したものだ」
心臓が大きく波打つ。
「リマならあの本を読んでくれると思ったんだ。リマとヒロイン、似てただろう? そのヒロインに青年は恋したんだ。つまり、その――」
ジェラルドは椅子から立ち上がりリマのそばへ来た。そうして跪き、大事そうにリマの手をとった。
「僕もずっと君にあの青年と同じ気持ちを抱いてきたっていうこと」
「うそ……」
「嘘なものか。海森亭にとっては変な長期滞在客なのに、来るたびに温かく迎えてくれて、細やかに気配りしてくれて、僕がどれだけここに来るのを楽しみにしていたか。君にとっては仕事かもしれないけど、僕にとっては特別な場所、特別な人になってしまったんだ」
あまりに自分にとって都合の良すぎる言葉に声も出せない。これは夢だろうか?
けれど触れた手の温もりが「現実だ」と教えてくれる。
「君が僕を好きになってくれるまで待とうと思っていたけど、君は魅力的で、そして自由だ。だからあのアランに会って、急に不安になったんだ。君が他の男を好きになる未来だってあるって突きつけられた気分だった」
「そんな! 私がジェラルド以外の人を好きになるなんて、そんなことあり得ない――」
反射的に返してしまった言葉の意味に気がついて、語尾がどんどん小さくなっていく。それに反比例するようにジェラルドの顔が幸せそうに輝いていくのが印象的だ。
「それは僕のことを好きだって返事?」
「う……」
「リマ?」
真っ赤になって声も出なくなってしまったリマをジェラルドが腕を伸ばして抱きしめた。リマはジェラルドの胸に顔を埋める格好になってしまう。ジェラルドの声が埋めた胸から直接響いて聞こえて、逃げ場がない。
「リマ。好きだよ」
「――私、は」
あの本を最後まで読んだときに、そしてジェラルドがラドレグだとわかったときに期待してしまっていた。でも期待しちゃいけないという気持ちとのせめぎ合いだった。
ジェラルドはあのラドレグであり、侯爵家の人間。元は貴族とは言え、今は平民の自分とでは釣り合わない。決して叶うことのない思いだと思っていたからだ。だから――
「ジェラルドはお客様で、私は宿の人間で」
「うん」
「私は今は平民で、ジェラルドは貴族で」
「なんだ、それを気にしていた? 僕は長兄が家を継いだら家を出て平民になる予定だから、爵位のことは気にしなくていいんだよ」
「え? どうして?」
「僕は四男なんだ。四男なんて、他の貴族に婿入りするか、騎士や文官になるか。いずれにしても自分で身を立てなきゃいけないだろう? 僕は書くことが好きだったから、騎士を目指しながら小説を書いていたんだ。そうしたら幸いなことに小説が大当たりしてね。貴族でなくても貴族と遜色ない程度には暮らしていけるようになったんだ。だから、思い切って騎士を目指すのをやめたんだ。で、跡継ぎ問題でゴタゴタしたり、貴族の政略結婚の駒にされるのもごめんだから除籍してくれるように父に頼んでいてね。その父の条件が『長兄が跡を継ぐまで待て』だったんだ。だから」
熱っぽく、けれどすがるような瞳にリマの決意が揺らぐ。
ジェラルドが「そんな顔したら、いい返事をもらったのと一緒だよ」と笑った。
「リマ、君の一番近くにいる栄誉を僕にくれないか。この海森亭で、君の笑顔を見ながら寄り添って生きていきたい――だめだ、小説家のくせに、ろくな言葉が見つからないな」
そして少し考えてから、少しだけ腕を緩めてまっすぐにリマの瞳を見つめた。
「命は海から生まれたという学者がいる。だとしたら、人は海から生まれて、やがて水平線の向こうへ還っていくのかもしれないね。あの天鵞絨の海の向こう、水平線を越えた先に――」
リマの目が大きく見開かれる。それは『天鵞絨の水平線』の最終章で、青年がヒロインに告げた言葉だ。けれどその台詞には続きがある。それは。
「水平線を越えて還っていくその時まで、いや、その後もずっとそばにいて欲しい。2人で共に生きていきたいんだ――リマ」
名前はリマに変わっているけれど、それは青年からヒロインへのプロポーズの言葉だった。
言葉の意味を理解して、リマの目にじんわりと涙が浮かぶ。ジェラルドが指先でそっと拭うと、リマは彼に微笑みかけた。
「やっぱりあの本はラブレターだったのね?」
「そうだよ。気がついてもらえなかったらどうしようかと思った」
2人で顔を見合わせ、声を上げて笑った。笑って笑って、もう一度顔を見合わせて抱き合った。
「それで、哀れな青年への返事は?」
「一緒に行くわ。いつまでもどこまでだって、天鵞絨の水平線の向こうだって」
幸福そうな2人の笑顔が、窓から差し込む朝の光よりもまぶしく輝いていた。
<Fin>