5話
あれから数日が経った。
あの翌日からジェラルドがリマにくっついて回るようになった。外出はもちろん、宿の仕事中も作業を手伝いながらそばにいる。力仕事などはとても助かるが、リマはいたたまれない。
「リマさん、小麦粉の袋はどこに置けばいい?」
「あ、はい、ここにお願いしますジェラルド様」
「様はやめようよ」
「え、えっと、それじゃジェラルド……さん」
「んー、さん付けも敬語も要らないんだけど。だってそうしないと僕もリマ、って呼びづらいし」
スープを煮るリマの瞳をジェラルドがかがみ込んで覗き込む。なんだか大きな犬みたいだ。
「リマって呼んでもいい?」
「へ、あ、あの……それはいいですけど……」
「敬語」
「い、いいけど……」
にっこり笑う美形の顔はあまりに破壊力が高い。何て言われて何て返事をしたのか咄嗟に理解できず、じわじわと理解できた時には既に時遅し。リマ、と呼ぶ許可を出し、さらに敬語をやめることを約束させられてしまっていた。
「わかりました! ジェラルド、お鍋をかき回していて! 私、テーブルセッティングをしてくるから!」
半ば叫ぶようにそう言ってバタバタとキッチンから駆け出した。
後に残されたジェラルドがどんな表情をしているのか見ることもなく。
「やばい……インパクト強すぎだろ、名前呼び捨て……それにめちゃくちゃ可愛い……」
耳まで真っ赤になって手で顔を隠しながら漏らすそんな呟きもリマの耳には届かなかった。
淡い水色のナプキンを形良く折り畳み、大きなプレートやカトラリーを順にセットしていく。
「よし、と」
きれいに整えられた食堂を見て満足してひとつ頷く。あとは庭に咲いている花を摘んできて各テーブルに飾るだけだ。秋薔薇が咲いているので、今日はそれにしようと花切狭を手にしたまさにその時、ロビーのベルが鳴る音が響いてきた。
慌ててロビーに出ると、ルイがカウンターの前で待っていた。
「こんにちは、リマさん。ジェラルドは?」
「いらっしゃいませ、ルイさん。今キッチンです。呼んできますね」
食堂を通り抜け、キッチンを覗いてジェラルドの背中に声を掛けた。
「ジェラルド、ルイさんがいらしてるわよ」
「ルイが? 今行くよ」
スープが焦げ付かないように鍋を火から下ろし、エプロンをつけたままロビーに歩いて行ってしまったジェラルドを慌てて追いかける。ロビーのカウンターまで戻ってくると、ルイがカウンターの突っ伏していた。背中がひくひくと小刻みに揺れている。
こんな笑い上戸みたいな人だったかしら? とリマは若干引いている。ジェラルドが低くて怖い声でルイを呼んだ。
「ルイ?」
「い……いや、仲良くなったようで何よりだよ、うん」
カウンターの上に響くルイの声には笑いをかみ殺す音が多分に含まれている。小さく「まるで新婚さんだよねこれ」という声は2人には聞こえていない。
「用がないなら帰れ」
「いやだなジェラルド、ちゃんと用事があって来たんだ――真面目な話だよ」
すっとルイが表情を切り替えた。最初に会った時のような真面目そうな雰囲気に変わる。リマもジェラルドも表情を引き締めてルイに頷いてみせる。
食堂は既にテーブルセッティングが済んでいたため、端っこの空いたテーブルに3人で座った。
「ルクシオ子爵家に王宮から調査が入りました。長年嫡子が子爵位を継がないのはなぜか、を調べるのが目的です。まあ口実でもあるんですが」
「えっ」
リマは思わず声を上げた。あまりにもタイミングが良すぎたからだ。だがジェラルドとルイは意味ありげに頷くだけで驚いていない。それが不思議でたまらない。
「今まで子爵家からは『嫡子フェリマーサ=ルクシオは病弱で手続きをすることが出来ない』と説明があったようですね。まあそれを信じて8年も放置していた王宮側にも問題があると思いますが」
「まったくだ。今回報告が上がるまで、誰も気がつかないとは」
「報告?」
ますますわからない。報告とは誰が報告したのか。話に入れないリマに気がついて、ルイが「すみません」と謝った。
「報告したのは私です。職業上、さすがに見過ごすことが出来なくて」
「そういえばルイさん、お仕事は何をなさっているんですか?」
「ええと……王宮で文官をしてて……」
「王宮」
「直属の上司は宰相閣下です」
「宰相」
「リマ、ルイは王宮の宰相補佐官だ。今回の件は宰相閣下に直接報告してもらった」
驚きで声が出ない。ジェラルドと学生時代からの悪友、といっていたからルイも貴族なんだろうとは思っていたが、貴族だ平民だという問題以上に大きな話だった。
「リマさん、閣下に報告をしてすぐ王宮では爵位を管理する担当官を調べました。ペンディングをそのまま8年も放置しているなんて大問題ですからね。そうしたら」
「そうしたら?」
「何とかその時の担当官が見つかりました。どうやらレーベン子爵代理から鼻薬を嗅がされていたようで」
つまり賄賂を受け取っていたということか。思わぬところで摘発されてしまったようだ。
「不受理になった案件を放置してくれるように子爵代理が頼んだということか」
「そうだね。芋づる式に子爵代理にも疑惑が向けられて、今日、ルクシオ子爵家へ調査団が向かったわけです」
今頃子爵家は上を下への大騒ぎでしょうね、とルイが窓の外へ視線をやった。ルイもジェラルドも、当然そうな顔で話を続けている。
だがその反面、リマは不安だった。ルクシオ子爵家にはレーベンとエレクトラしかいない。今回賄賂を送ったことがわかってしまったなら、レーベンは捕まってしまうかもしれない。そしてルクシオ子爵家は相当肩身が狭いことになってしまうだろう。
エレクトラはどうしているんだろうか? 彼女も一緒に捕まってしまったりしないだろうか?
もし捕まらなかったとしても話は絶対に聞かれるだろうし、怖い思いをしているんじゃないだろうか?
リマの中のエレクトラはまだ幼い子供で、とても心配になる。けれどもう15歳なんだったと思い直した。
それでもひとりであの屋敷にいるのだと思うと心配でたまらない。婚約者になったはずのアランは寄り添っていてくれるだろうか? 今回のスキャンダルで婚約破棄なんてことになっていないだろうか――
「――マ、リマ?」
考え込んでいたリマはジェラルドの声で我に返った。横に座っている彼が心配そうに自分を覗き込んでいる。
「あ――すみません、考え事を」
「どうしたかちゃんと言って、リマ。言葉にしなきゃわからないことがあるし、言葉にするとはっきりしてくることもあるよ」
言葉って不思議だよね、とジェラルドが笑う。小説家の言うことだ、重みがある。
「その――エレクトラはどうしているかと思って心配になってしまったんです。あの子も聴取を受けているのか、それともお義父様のいない屋敷でひとりで震えていたりしないかと」
「ああ、なるほど。エレクトラ嬢も聴取はされているはずですよ。ただ王宮の見解としては彼女は何も知らないだろうということになっています。むしろ証人的な立ち位置になるかと。聴取されても今日のうちに解放されますよ」
「でも、それならあの子はお義父様を裁くために証言しなければいけないということですよね? きっと心細いんじゃないかしら」
「リマ……」
口に出したらむくむくと心配が膨らんできてしまった。
せめてひとりぼっちにならないようにそばにいてあげたい。
けれどずっと音信不通で恨んでいるんじゃないだろうか。いや、覚えてくれているかどうかも怪しい。ひょっとしたらこんな頼りなくて薄情な姉、必要ないかもしれない。でも――
「リマさん、妹君が心配なんですね」
ルイが言った。
リマは大きく頷く。心配と焦燥に胸が一杯で辛い。
「ではリマさん、妹君に手紙を書いてみてはどうでしょう? 私が王都に戻るときにお届けしてきます」
「え! そんな、お手間を取らせるわけには」
「私が言い出したんですからいいんですよ。ただ、申し訳ないのですが中身は確認させてもらってから渡すことになります」
「あ、ありがとうございます! もちろんそれで結構です。急いで書いてきます」
勢いよく立ち上がり、自室に駆け戻っていった。
出て行くリマの後ろ姿を見送り、ルイがジェラルドを振り返った。
ほんの今し方までリマを心配して、彼女を安心させようと優しく微笑んでいたのに、いなくなった途端にみるみる不機嫌そうな顔になっていく。ルイは噴き出しそうになるのを必死にこらえて言った。
「なんだ、そんなに拗ねるなよジェラルド」
「おまえばかり彼女にいいところを見せているじゃないか」
「ジェラルドはちゃんと彼女のそばで守っているじゃないか。でも何かしなくてもリマさんは絶対おまえのファンだろう? ロビーに著作が並んでいたじゃないか。それだけで――え? まさかおまえ、自分の正体を白状してないのか?」
「言ってない」
「どうして」
「――」
「どうして」
少しの間そのやりとりが続き、結局根負けしたのはジェラルドだ。
「だって恥ずかしいじゃないか、あんなに僕の本が並んでると。言い出せなくなって」
「ははは、全巻揃ってるもんなあ」
「笑うなよ……」
ほどなくして手紙を手にリマが戻って来た。
「よろしくお願いします。本当は会いにいけたらいいんですけど、エレクトラがそれを望んでくれるかどうか」
「確かにお渡しいたしますね。それでは」
ルイは手紙を預かり出て行った。それを玄関で見送ったのだが、終始ジェラルドはむすっとした顔をしていた。
「ルイさんとけんかでもしたんですか?」
「いいや。ちょっとふざけていただけだよ」
「ならいいんですけど」
不機嫌の理由をジェラルドは最後まで教えてくれなかった。