2話
翌朝リマは洗濯物を干していた。
昨日の雨はすっかり上がり、今日は快晴。心なしか空の色が澄んで見え、ちぎれた綿のような小さな雲がぽっかりと浮かんでいる。
はためく真っ白なシーツ、テーブルナプキンや手拭き用の布。青空の下にはためく洗濯物を眺めていると気持ちがすっきりする。満足してひとつ頷き、次の仕事をしようと裏庭から宿へと入っていった。
と、受付カウンターに置いてあるベルが鳴る音が聞こえてきた。今日は新しい宿泊予約はないはずだ、そして業者の配達ならキッチンに入る裏口から入ってくるはず。
誰だろうと訝しみながら出て行くと、ミーチャムだった。でっぷりと太った腹が今日もたぷんたぷんとしている。
「リマさん。ちょっと話があるんだが」
「あ、あの、返済は1ヶ月後というお話でしたが」
「ああ、それはもちろんそうだ。今すぐ返せとかいう話ではないので安心しろ」
「それなら……」
リマはミーチャムを食堂に案内した。この時間は宿泊客も誰も来ない。ミーチャムはテーブルに肘をついて声を少しだけ潜めた。
「リマさん、あんたのことをちょっとだけ調べさせてもらった」
「え!」
勝手に調べたのだろうか。
何度も泊まりに来ているジェラルドは昨日「知人に聞いてみる」ことですらきちんとリマに断ったというのに、昨日初めて会ったばかりのこの人が勝手に自分のことを調べたなんてちょっと気持ち悪い。
そんなリマの視線を気にも留めず、ミーチャムはにやりと笑った。
「あんた、山をひとつ持ってるんだって? どうだ、その山を譲ってくれれば借金は帳消しにするぞ」
「えっ!」
「特に資源が取れるわけでもない山だと聞いたぞ。街からも遠くて、価値としては失礼だが二束三文だと。どうだ、管理も出来ていないような山なら手放した方がリマさんにも益になるんじゃないか」
ミーチャムはにこにこと笑顔だ。
確かにリマは山をひとつ所有している。先祖代々受け継がれてきた山で、リマも小さな頃に祖父に連れて行ってもらったことがある。
ミーチャムの言うとおり、土地の価値としては二束三文、価値のない山だ。けれどリマにとっては先祖代々受け継いできた場所で、亡き祖父や父との思い出の場所で。価値がないと言われても、思い出深い、大切な場所なのだ。
なのだが。
「でもあの山は私ではなく母の名義だったと思うのですが?」
リマの家は代々跡継ぎがこの山を相続する。両親は母が直系で、父は入り婿なので、山の名義は母であるサマンサのはず。そして母も亡くなった今では、義父が妹の名義に書き換えているのだろうと思い込んでいた。
それも憶測に過ぎないので、リマが知っている限り最新の所有者はサマンサだ。
だからそう聞いてみると、ミーチャムは首を横に振った。
「いや、あんたの名義になっていた。だから考えてみてくれ」
いい話だとは思うが、それでも即断できる話じゃない。膝の上で握りしめた手をじっと見て俯いていたらミーチャムは「期限内に決めてくれよ」と言い残して帰っていった。
「私の名義……? お義父様がそんな手続きなさるはずがないわ。ご自分かエレクトラなら分かるけど。だとしたらーーお母様が?」
既に儚くなってしまった母サマンサを思い出し、きゅっと胸の奥に懐かしさが沸き起こる。
「そういえばお母様が亡くなる直前に弁護士のウェイド先生がいらしていたような。もしかしてその時に? ……どうだったかしら」
もう8年も前の話だから記憶もおぼろげだ。でもおそらく母の仕業なのだろう。
「あの山を人手に渡すなんて考えられないーーでも、この宿も山も手放したくないなんてわがままなのかな。諦めるしかないのかな」
「何を諦めるんです?」
振り向くといつの間にか食堂の入り口にジェラルドが立っていた。独り言を聞かれてしまったんだ、と気がついて恥ずかしくなる。
慌てて立ち上がるリマにジェラルドがへにゃっと眉尻を下げる。
「すみません、立ち聞きするつもりはなかったんですが」
「い、いえ、お恥ずかしいところを。ええと、何かご用でしたか?」
「ええ、連絡した知人から返事が来ましたので。よろしければお話できますか?」
「早いですね! はい、ぜひ」
リマはジェラルドに席を勧め、自分はコーヒーを2つ淹れて戻ってきた。
「まず、先代の借金は宿と一緒に引き継ぐことになるので、ミーチャム氏の言い分に齟齬はありません。オデットさんが亡くなり、事業を継いだ時に負債も併せて受け継ぐことになるからです」
「はい」
「気になるのはオデットさんがなぜ借金のことを貴女に一言も話していなかったのか。そして何年も経った今頃突然返済を迫ってきたか、です。オデットさんは急死なさったんですか? リマさんに宿のあれこれを話す時間もないほど急に?」
確かにそこはリマも気になっていたところだ。
「いいえ、病気で倒れてからしばらくは私が看病していました。そこで私が宿を引き継ぐ手続きも相談してやりましたから。でも借金があるなんて一言も……」
「ならなおさら不自然ですね」
ジェラルドは少し顎のあたりをこすりながら考えていたが、すぐにまっすぐリマを見た。
「リマさん、失礼ですが返済のあては」
「それなんですけど」
リマは先程のミーチャムとの話を伝えた。
「山?」
「ええ、先祖代々引き継がれた山です」
「詳しくお聞きしても?」
土地持ちなど、どう考えても平民ではない。ジェラルドが疑問に思うのも無理はないだろう。
リマはゆっくりと話し始めた。
リマは元々子爵令嬢だった。子爵位を継承した母と入り婿である父、そして二人の娘リマ――フェリマーサとその妹エレクトラの4人で仲睦まじく暮らしていた。
が、リマが12歳の時に父が不慮の事故で亡くなり、1年後に母サマンサがレーベンという男と再婚してからおかしくなってきた。
再婚相手の義父・レーベンは少々尊大で、だが言葉巧みに人の心を動かすのに長けた人間だ。
一方母のサマンサは貴族のお嬢様を体現したような人で、前夫が生きていた時も夫に子爵家の一切を任せていたので、当然のようにレーベンが子爵家の実権を握ることになる。
それでも最初はよかったが、更に1年後に母サマンサが急死してしまった。
レーベンはサマンサにそっくりなエレクトラを可愛がり、亡くなった父ジャックによく似たリマにきつく当たるようになっていった。まずエレクトラと引き離され、リマは部屋も奪われて屋根裏の寒い部屋へ移され、使用人の真似事をさせられるようになっていった。そして少し気に食わないと言ってレーベンから暴力を振るわれ食事を抜かれることもあった。
古くからいる使用人達はリマの味方だったが、味方をすると解雇されてしまうため、すぐに誰もいなくなってしまった。そして新しい使用人達は主人が虐待するリマを軽視するようになり、見えないところに暴力を振るうまでになってしまう。リマの環境はどんどん辛いものになっていった。
そんな中、リマが心の支えにしていたのが小さい頃からの婚約者・侯爵令息のアランだ。
アランの住む侯爵家は少々遠いところにあるのであまり頻繁には会えないが、手紙のやりとりなどで交流していて、リマはいずれアランと結婚するのを楽しみにしていた。
ところがある日レーベンに呼び出され、突然子爵家からの追放を言い渡されてしまった。突然のことに足下が崩れ落ちるようなショックを受けているリマにレーベンは冷たく言い放った。
「アラン侯爵令息との縁談はエレクトラが受ける。だがなぜ婚約者を入れ替えるのか、と言われると面倒だ。おまえは普段の素行が悪く、また健康上の問題があるため侯爵家の嫁は務まりそうにないと言えば角も立たないだろう。子爵令嬢フェリマーサは他所へ養女に出されて静養するという建前だ」
レーベンは絶望的な顔で言葉も出せないでいるリマを見てふふん、と笑った。
「アラン様とエレクトラの顔合わせはもう済んでいる。アラン様もすっかりエレクトラを気に入ったようだ。残念だなあ、フェリマーサ?」
リマは立っていられなくなりその場に座り込んでしまう。レーベンは執務机から立ち上がり、つかつかと歩み寄るとリマの腕をもってぐいっと引き上げ、無理矢理立たせた。
「極寒の地の修道院なんかに送られないだけでもありがたいと思え。修道院に行くにも多額の寄付が必要だからな――勝手に生きていけ。ただしルクシオ子爵家の名前を出すことは許さん」
リマはわずかばかりの金銭を渡されて、ボロボロの着の身着のまま追い出されてしまった。
行く当てもなくふらふらと王都のはずれをさまよっていたリマに救いの手を差し伸べてくれたのはオデットという名の老婦人だった。彼女はリマが暮らしていた王都の隣にある町で宿屋を経営していて、リマを住み込みで雇ってくれることになったのだ。
以来リマは海森亭で働きながら暮らしている。
周囲の人に恵まれ、辛かった気持ちを少しずつ優しい記憶で上書きしながら。
「そうか……子爵家のご令嬢だったのか」
「元、ですけど。あの山は我が家にとって代々後継者に受け継がれる大事な山です。理由はよくわからないのですが……」
「なるほど。しかし後継者に、ということはリマさんが後継者ということ?」
「いいえ。だって、私、追い出されたんですもの」
「しかし、いやーー」
「義父ならおそらく私の妹のエレクトラの名義にしたと思います。義父は子爵代理で、私を放逐したら後継者はエレクトラしかいませんから」
「でも実際は貴女の名義になっている」
2人してううん、と考え込んでしまう。少しの間食堂はしいんと静かだったが、ふとリマは思いついて口を開いた。
「あの、山を持っていることが後継者の証なのではなく、後継者には山を与える、みたいなスタンスなんじゃないかと。亡くなった母は私と義父が仲良くないことはわかっていましたから、自分が亡くなった後に私が困らないようにこっそりと私に譲ってくれたのでは」
「ああ、確かにそれなら説明がつきますね。それが真実かもしれません」
ジェラルドに同意されて、そうなんだろうと自分の中ですとんと落ち着いた。ならばあの山を自分の裁量で処分しても問題にはならないだろう。
とはいえ、だから山をミーチャムに渡すかどうかは別問題だ。
「うーん、やはり僕の方で少し調べさせてもらってもいいですか? 山の価値も借金額と釣り合うのかどうかとかきちんとした査定をしたほうがいいと思いますし」
「えっ、でも」
「大丈夫、リマさんの懐が痛むような真似はしませんから。人様のことに首を突っ込んで調べ回るなんてむしろなんて変なやつなんだと思ってくださいーー嫌われるのは困りますが」
「う……私がサットン様を嫌うなんて絶対ありません。でも」
いいのだろうか、甘えてしまっても。
オデットがいなくなって数年、リマはひとりで生きてきた。周囲の人達は優しくしてくれるけれど、甘えるわけにはいかない、海森亭を潰してはいけないと自分の足で立とうと必死だったのだ。
甘えたいけど甘えてはいけないと律してきた自分の心。
「なら嬉しいな。僕はね、リマさんに頼られたいんです。頑張り屋の貴女の休める場所になれればとずっと思っていたんですから」
ダメ押しのようにジェラルドが言葉を続ける。リマの頬はかああああっと一気に茹で上がった。甘い言葉は口説き文句だと思っていいのだろうか? そう思いたい気持ちと、自惚れたらいけないという気持ちがせめぎ合う。
「わっ、わかりました、ご迷惑おかけしますがお願いします! ただ、かかった費用は必ず請求してくださいね!」
「はは、わかりました」
ジェラルドがにこにことこちらを見ているのを見ていられなくなって目を伏せた。
その夜、ジェラルドの言葉から気をそらそうと、再びリマは『天鵞絨の水平線』を開いた。この夜は少し夜更かしして3章まで読んだ。物語の中で宿泊客の青年がヒロインを気に入ったようで、恋愛経験のないヒロインは戸惑っている。なぜ自分に? とむしろ不審に思っている節さえ伺える。
この青年はヒロインの相手役なのか、それとも違うのか。少しキザな青年の言動は素なんだろうか。考えようによっては結婚詐欺師のようにも見えてくる。
気になって仕方がないが、翌日も宿の仕事はてんこ盛りだ。小説を読んで浮き立つ気持ちを宥めつつリマは本を閉じ、明かりを消した。
――明日続きを読むのが楽しみだ。