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食卓を囲んで

作者: 諸星悠

   1



ドアの向こうで、父の

「おい、明男、母さんと話があるから来なさい」

という呼び声が聞こえた。シャープペンを握る手が止まった。その時点で、僕の心に『何か怒られるのかもしれない』という予感がした。

 自室を出る時は、細心の注意を払った。ドアを開けた時、父の目に机の上が一瞬映りこむ。だからこそ、今まさに勉強していた、という状況が一目でわからなければいけない。『数学 二年』の教科書を開いたまま裏返す。立ち上がってから、シャープペンをノートに音を立てて置く。

 ドアを開けると、体重百二十キロ、身長百八三センチの父が、鬼のような形相で立っていた。僕が勉強中というのがわかっているときだけは、父は勝手に入ってきたりしない。だが、その分、少しでも待たせると、父の怒りのボルテージが上がる。

「勉強してて……」

と、力なく答える僕に、父は重ねるように怒鳴った。

「うるせえ、いいから来い」

 居間までのわずか五、六メートルの廊下が、気が遠くなるほど、長かった。父に呼ばれるときはいつも、この廊下を歩いている間に、『ああ、あのことだろうな』という何かしらの心当たりがあった。だが、今回だけは、僕には全く、心当たりがなかった。

 居間のテーブルでは、母が淹れたての紅茶を前に、明らかに不機嫌な様子で座っていた。僕は黙って、席についた。父は右隣に、母は父の向かいに座っている。

 話があるときは、大抵いきなり怒鳴るか殴るかの二択だった父が、この日は違った。

「明男、話ってのは、家のお金のことだ」

 と父が切り出した。母が父から預かっている生活費のことであることは、すぐに見当がついた。いつも台所にある食器棚の一番高いところに、銀行のATMの封筒にまとめて入っているのを知っていた。母がよく食卓で家計簿をつけていたからだ。

 父は続けた。

「その金が、昨日の夜一気に十万もなくなったんだ」

 父は言葉を切った。僕は反応に困った。父も母も、明らかに僕の反応を試していた。

「えっ、そんな・・・」

 と答えるのがやっとだった。だが、どこか演技臭い反応になったことは、僕自身が何よりわかっていた。母は挑むような目つきで僕を見据えていた。父が、大きな溜息を一つ吐いて続けた。

「それで、父さんと母さんがはっきりさせたいのが、明男、そのお金のことで、何か知っていないか、ということだ」

 全く、身に覚えがなかった。だから僕は、「話が全然わからないんだけど」と答えた。だが、父も母もはなから僕を疑っていたのが、痛いほどわかった。

「あのな、明男、知らないと言ったって、この家でそのお金を取り出せるのは、父さんと母さんの他に、お前しかいないじゃないか」

 隣にいる父から、酒の匂いがした。いつもそうだ。父は飲むときまって、僕に八つ当たりした。「明美じゃないの?」、と僕は聞いた。

「明美はまだ小学五年生だぞ」

 まるで僕が犯人であるかのような言い方に、僕は苛立った。本当に身に覚えがないからこそ、言ったことなのに。「じゃあ、明美に聞いたの?」、と父に尋ねた。

「あのなあ、そういうことじゃなくてなあ・・・」

父がまた溜息を吐いた。

「明美はまだ小五なんだ。それならなんだ、お前、明美が盗ったと言いたいのか」

明らかに父は僕に腹を立て始めていた。

「そんなつもりで言ったんじゃないんだけど」

僕は慌てて答えた。答えておきながら、全く身に覚えがなくて、それでいて僕がやったと決めつけるような言い方をされているこの状況が、たまらなく嫌だった。

「で、どうなんだ、明男。父さんも母さんも、家のまとまったお金がなくなって本当に困っているんだ。十万だからってことじゃないぞ、家の中の、家族しかしらない場所にあるお金が、それだけピンポイントでなくなるなんて、普通じゃないよな。泥棒が入ったら、それこそ家の中じゅう、荒らされているだろう。だけど、家の中はなんともなくて、母さんに任せておいたお金だけがごっそりなくなったんだ」

 わかる、家の中の、その金だけがなくなるなんて、おかしい。僕も泥棒ではないと、話を聞いて感づいてた。だが、わからない。明美がそんな十万なんていう大金を取るようにも思えないし、ましてや僕自身にさえ、まったく身に覚えがないのだ。

 無言の母もまた、気味が悪かった。いや、何一つ発言しなからこそ、こわかった。母は父の前ではいつもそうだ。だが、父がいない時、例えば学校から僕が帰って来た時なんかは違った。「あんたには失望させられたと」と、今僕の右斜め前でそうしているように、蔑むような目つきで言ってくるんだ。この日の母も、そんな目つきで僕をじっと見ていた。

 気まずい沈黙が続いた。その沈黙を破るのは僕の番だということもわかっていた。だが、本当に身に覚えがないのだ。だからその通りを、父に訴えた。だが父は溜息を吐いて何か言いかけたが、グラスが空になっていることに気づくと、空しく手を離した。

 やったやらないを繰り返すうちに二時間が経った。

 気まずい沈黙が続いたが、もう僕が十万円を盗ったのが確定しているかのような雰囲気だった。それも、最初から僕が犯人だと確定していて、この場が、僕が父と母に正直か否かを試す場でもあった。

 解放される前、父が言った。

「次、どう答えるか、考えておくんだな」

 母は結局、一言も発しなかった。



   2



 その日を境に、二、三日の間に一回は『話し合い』が行われるようになった。僕自身、いったいこの『話し合い』が何回行われたのか、はっきりと覚えていない。ただ夏から冬にかけて、ずっと続いたことだけは確かだった。

 学校生活に支障が出始めた。僕の頭の中は、「絶対に僕は母さんのお金を取るようなことはしていない」ということでいっぱいだった。

 大好きだった数学も理科も、一切の興味がなくなった。夏休み明けのクラス分けのテストは悲惨な結果に終わった。得意だった、複雑な因数分解の問題は数式の特徴を把握すること自体がおっくうに感じ、未回答で提出した。結果、三つあるクラスのうち、上位クラスから下位クラスへ異動となった。それすらも、どうでもよくなった。

 十月のことだった。六限目のHRの最後に、クラス担任が、生徒指導室に行くようにと指示があった。今度は学校でもか、と思った。廊下ですれ違った友人が、「明男、じゃあな」と声を掛けてくれた気がしたが、僕は上の空で、返事もしなかったと思う。

 生徒指導室は一学年下の階にある。一年生の階の端、階段を挟んで一部屋だけ離れたところにあった。ドアのガラス窓は内側からカーテンが掛かって見えないようになっていたが、この日は開いていた。ガラス窓から中を覗いた。古いガラスのせいか、学年主任、倉田先生の馬のように長い顔が、余計に長く見えた。

 僕に気づくと、「おお、来たな」という感じで倉田先生は右手を上げ、入室するよう促した。倉田先生は、生徒から陰で某アイスクリームチェーン店の名称で渾名されているが、この日も、カラフルなシャツを着ていた。薄いグリーンをベースに、コンクリート色のペンキをまき散らしたような半袖のシャツで、こんなワイシャツはどこで売っているのだろう、とつい引き込まれてしまう。

 父に呼び出される時のような、予感めいたものも、緊張もなかった。入った時から、この場はなんの意味もなく通り過ぎてゆくだけの場だと割り切っていた。学校なんて、家に比べれば、ただ先へ先へと時間が進んでゆくだけだから。家は、繰り返し繰り返し、同じ時間が流れていた。盗った、盗ってない、という不毛な時間が。

 入室した僕は、倉田先生に軽くおじぎをし、規則通り「失礼します。二年二組、桜井です」と挨拶した。

「ああ、わるいな、HRの後で」

 最近部活に行ってないじゃないか、とは言わなかった。だから、今日はその話ではないな、と思った。サッカー部やバスケ部は、部活をサボるとクラス担任を巻き込んで生徒指導が入るが、市内最弱の卓球部はサボったところでお咎めなし、というのがうちの学校の内情だった。

 先生に促されて、ドアの窓ガラスのカーテンを閉めた。こうすると、外からはグレーの遮光カーテンにミシンで縫われた赤い『使用中』の文字が見える仕組みだ。

 席につくやいなや、倉田先生はいきなり本題を切り出した。

「桜井、単刀直入に聞くけどよ、お前、今家の中、ごたごたしてないか?」

 顔立ちからはとても想像できない、漢気あふれる重低音ボイスで、人気の高い先生だったが、今その美声もどうでもよく、僕ははあ、と気のない返事をした。

 いきなり出鼻をくじかれたからか、先生は大袈裟に後ろにのけぞって笑った。

「はあ、ってなあ、家の中で、何か問題が起きてないか?って先生は聞いてるんだ」

「いえ、別に」

「ほお、本当か?」

「はい」

「先生には、桜井が夏休み前の桜井とは別人のように見えてな」

「別人、ですか、はあ」

「・・・ああ、別人だよ。どうしたんだよ、その覇気のない感じは。先生、それが心配でな」

 倉田先生が話してくれたことをまとめると、こういうことだった。九月に入ってから、担任の猪山先生をはじめ、いろんな先生から、僕の様子がおかしいという声が入っていたという。倉田先生も、僕の様子の異変に気づいており、この日の昼過ぎの全校ミーティングで、僕の様子が二年全体二四〇名の中で一番おかしかった。だから声を掛けた、という話だった。

「教員二十年以上、やってるとさ、ぱっと見てわかるんだよ」

「はあ」

「上の空ってのは、たいてい、何か悩みごとが原因になってることが多くてさ。そりゃ、生徒によりけり、だぞ。年頃だからってだけで、誰だってそんな時期がある。先生だってそうだった。だがな、桜井を見て思ったのは、何か家族のことで悩んでるんだろうな、といったところだ。それで、今日呼んだわけだ」

「はあ」

「どうだ? 悩みがあるなら、聞くよ」

「……」

「夏休みの間に、家で何かあったのか?」

 僕は、口ごもった。口ごもった後で、僕自身、一体何を言いかけたのか、わからなくなった。何といえばいい? 家のお金がなくなって、僕が濡れ衣を着せられたとでも? そんなことを話して、他人の家の中のごたごたを解決できる力が、一学年主任にそんなことができるとは思えなかった。だから、僕はそれ以上、何も言うのをやめた。

 倉田先生は、あの手この手で、僕の悩みを聞き出そうとしたに違いない。だが、そんなことを繰り返す倉田先生が、哀れに映った。この人は、僕から何も聞き出せやしない。もっと他のことに時間を使ったらいいのに、と。

「おい、なんだ、桜井。そんな目で見るなよ」

 そう言った倉田先生の表情が、先生だって立ち入れない話だなこれは、と悟った表情をしていた。

「先生、じゃあ、倉田先生から生徒指導を受けた、って家族に話してみていいですか」

 これで、話はまとまった。家族と話あってみる時間を持つ、と。

 生徒指導室を出て、がらんと静まり返った廊下を見て、僕は溜息をつき、つぶやいた。

「家の話も、こんな簡単に片が付けばいいのに」


 結論から言うと、倉田先生の生徒指導は失敗に終わったということになるだろう。その後、クラス担任と一年生の時のクラス担任による生徒指導があったものの、そこでも僕はのらりくらりとやり過ごした。その場にいることが心底だるく、不毛な時間だった。学校の先生というのは、家庭に対しては無能だし、僕の力にはなってくれない、とはっきりわかった。

 結局、そうこうしているうちに中間試験が始まり、先生たちも忙しくなったのか、他の生徒の問題に気を取られたのかはわからないが、僕に対する関心は薄れた。以後、生徒指導を受けることはなかった。不思議だったのが、なぜか家に一本の電話も入らなかったということだ。

 うちに何か、そうさせない何かがあったのか、それとも、非行でもしていない限り、親に電話したり呼び出したりはしない方針だったのか、そこのところははっきりとはわからない。

 十一月には部活を退部し、友人もめっきりいなくなった。今まで関わることもなかった、影のように目立たないクラスメイトと、時折宿題の確認をするぐらいの接触をするだけで、僕自身も影のように目立たない存在へと変わっていった。内心、すべてが面倒だった。



  3



 家族はますます異質なものへと変わっていった。連日のように、話し合いが行われた。

 中間試験の結果が出たが、父と母の眼中になかった。学年十三位の成績は、びりから三十五番まで下がったと知っても、それみたことか、という驚くべき反応が返ってきただけだった。父が仕事で帰りが遅い日も、父は僕を呼びつけては、消えた十万円の行方について、僕に問いただした。

 来る日も来る日も、同じ問答の繰り返しだった。

「じゃあ泥棒が入った形跡もないのに、どうして食器棚の封筒の十万円がなくなるんだよ」

「そんなの聞かれてもわからないよ。僕は本当にやってもいないし、知りもしない」

としか言いようがなかった。

「それじゃあ、家の中に泥棒がいるって話になってくるなあ。外にいないのなら、犯人は家の中にいるんだろう。」

 泥棒、犯人。その言葉は、僕一人にだけ向けられた言葉だった。

 ある夜の尋問の際、僕は泣いた。父の言葉に胸がえぐられるような思いをした。

「明男、父さんと母さんだってな、疑いたくはないさ。だがな、どう考えても明男がやったとしか考えられないじゃないか」

 僕は、一切の信用がないんだ、と痛感した。僕は、何一つ信用されてない。この十万円のことだけは、僕は自分の信じること、噓偽りのないことを父と母に伝えてきただけに、父の言葉は胸に響いた。

 やがて最後は、尋問は罵倒に変わる流れだった。

「お前ってやつは、どうしようもないやつだ。親の金をくすねて、それでいてのんのんとしてやがる。さっさと白状しろ」

 罵倒は殴打に変わり、僕はよく唇を切った。学校にはマスクをしていくようになった。そんな僕を見て、クラスメイトは、まるで触らぬ神に祟りなし、とでも言うかのように、好奇の眼差しで見るようになった。

 家の中は、始終息が詰まった。風呂の中でも、気が抜けなかった。なぜかと言えば、浴槽の上の換気扇から、台所でタバコを吸う父が、流しものを洗う母と会話する声が聞こえてきたからだった。

 僕が風呂に入っているときに、父が帰宅すると、決まって父は『あいつは今日どうだったんだ』と母に尋ねた。僕はこれ以上聞きたくない、という一心で、湯舟潜るのが常だった。

 寝るときでさえ、気が休まることはなかった。居間から父と母が僕のことを話している声が漏れ聞こえて来ることもあったし、ことによっては父が怒鳴りこんでくることもあった。腹の具合がわるく、トイレに籠ればそれはそれで怒鳴られた。「隠れてないで出てこい、コソ泥」と、父は僕を嘲笑った。母がそれを聞いて、声を立てて笑った。



  4



 物心ついたころから、僕はよく父に投げ飛ばされた。思い通りにならない、というときに、父は僕の胸倉を掴み、ほうり投げるように突き飛ばすのだった。

 投げ飛ばされた瞬間、決まって僕は、一種の幽体離脱の状態に陥ることが多かった。父に突き飛ばされる。足から床の感覚がなくなった瞬間、僕は、やや離れた場所から、例えば、居間の隣の和室、あるいは二階の吹き抜けから、僕を見ていた。実際は数秒の出来事でも、その時間は十五分にも三十分にも、それ以上にも感じた。いや、より正確にいえば、時間という概念そのものが消失していた。

 だが、その時間は苦痛ではなかった。もう一人の僕は至って冷静に、父と僕を見ていた。ただ、これが自分なんだ、といたって冷静に、僕を見ていた。

 秋も終わりに近づいた頃も、例外なく僕は投げ飛ばされた。

 父が無抵抗の僕を椅子から立ち上がらせる。胸倉を掴む。頭ごなしに、僕に罵声を浴びせる。僕はうつむく。父が僕を揺する。僕は無抵抗で、ただただされるがままだ。父がもう一言、何か言って、僕を壁に突き飛ばす。テーブルから壁は離れていて、ほんのわずかな間だが、僕の身体は宙に浮く。その瞬間、僕は普段、妹が座っている席から、僕を見ている。

 壁に打ち付けられるまで、僕は始終無言だ。うつむいているために表情は読めない。僕が壁にぶつかり、地震でもあったかのように家が揺れる。僕の足元からも、振動が伝わる。僕は壁に背をもたれかけ、うなだれる。父はまた怒鳴る。そして、今度はテーブルから穴れた、ソファのあるあたりに向かってまた僕を突き飛ばす。

 隣に目を向けると、母は表情ひとつ変えずに、僕が本当に泥棒であるかのような、蔑むような目つきで僕を見ている。その目は言っている。あんたは、汚い存在だと。

 気づくと僕は、いつもの僕に戻っていて、母の隣には僕は無論のこと、妹も座っていない。

 いまだに、僕は父に投げられたときの身体的な痛みを感じたことを思い出せない。



  5



 唇には傷が、身体にはアザが、毎日のように新しくできた。

 話し合いは水平線を辿り、秋が終わり、そろそろ年末が近づいてきた。ますます学校の勉強は手に着かなくなった。始終うわの空で、休み時間は一人机につっぷしていることが多かった。授業中も、魂が抜けた殻のように座っているだけで、空想の世界に浸っていた。空想は、決まって、家の中の出来事の再現だった。父と母から尋問される光景、僕の視点、妹の視点を繰り返し繰り返し、なぞるように空想していた。そうする以外に、僕の思考に行き場はなかった。妹は、この一連のやり取りを、どんな気持ちで眺めていたのだろう。それが、今でもわからない。

 僕と妹とを、今に至るまで分断する出来事が起きた。家族で夕食をとっているときのことだった。妹のふとした発言がことの発端だった。

「ねえ、今年のクリスマスケーキ、どこで買うの?」

 母の握る、箸の手が止まった。

 父は、既に酒が回っていて、顔は笑っているが、その顔はどこか、悪だくみをしているように僕には見えた。

「そうだなあ、今年はどこで買うかなあ」

 母が答えた。

「そうねえ、お父さん次第かしら」

 母はお茶碗から少量のごはんを口に運んだ。

「ねえ、パパ、どこで買うの?去年買ったとこ?」

「ああ、駅前のところなあ、あそこのケーキはおいしかったなあ。そういえば、去年みんなで『また今年もみんなで食べたいね』って話したね」

「そう、私、今年も駅前のお店がいい!」

 父はグラスに残っているビールをぐびぐびと飲み干して、でんと机に置くと、母に向かっていった。

「なあ、今年はどれぐらい使えそうか?」

 父が母に、クリスマスに使える予算を尋ねた。

 機械のように、少量のごはんを一定間隔で口の意運び続けていた母は、ひたと手をとめると、一瞬僕を見やってから、おもむろに答えた。

「うちにはそんな、ケーキを買うお金はありませんよ」

 続けて、妹の声が部屋中に響いた。

「えーーー!!」

 その声といいタイミングといい、どこか嘘くさい感じがした。疑いたくなかった。でも、このとき僕は直感した。妹が、盗ったのだと。


 僕は息をひそめて、目線を手元に落とした。

「どうして?」

 妹が母に尋ねた。

「お兄ちゃんが一番よく知ってるんじゃないの?」

 僕はうつむいたままだった。

「え、なんで、お兄ちゃんなの?」

「本人が言いたくなければ言わなくてもいいけど、明美もなんとなく知ってるでしょ」

「おうちのお金がなくなった、て話?」

 父親が小声で「どうしようもねえなあ。とんだ泥棒が家に入り込んだみたいだから、ケーキもプレゼントも今年はなしだな」と吐き捨てた。

「プレゼントもなしなの? えー、がっかり」

「しょうがないじゃないか、あと三日のうちに、犯人が自白してくれればいいんだけどな」

 酔った父程面倒なものはないと、僕にははっきりとわかっていたが、もう黙ってはいられなかった。泥棒、犯人、自白・・・。僕は、目の前の、あじの開きのこまかい骨の一本いっぽんを凝視したまま、言った。

「泥棒が入ったのなら、警察に電話してよ」

 誰もが、僕を見たのがわかった。それも、好奇の目で。父が反応した。

「おおう?警察に電話しろだ?」

「そうだよ、泥棒が入ったんだから、警察に電話して、捜査してもらってよ」

「ほお、言うじゃねえか、てめえ」

「もっと言わしてもらうと、お金がなくなった日に警察に電話してほしかったんだけどね」

「なんだ、てめえ、その偉そうな口の利き方は」

 父はグラスを床に投げつけた。グラスが割れる音が響いた。父が僕の胸倉を掴んだ。酒臭い息が掛かって、僕は顔を背けた。

「てめえのその偉そうな態度はどっから来てるんだ! ええ?」

 僕が唯一、反抗らしい反抗をしたのは、記憶している限り、この時だけだったと思う。

「おかしいじゃん、泥棒が入ったのに、ずっと家の中で犯人捜しをしてるのは。それも、疑われてるのは僕だけ、どうして明美は疑われないの? 学校の先生だって、諸星の様子がおかしい、家でなんかあったのか、って心配だってしてくれてたんだよ。普通に考えておかしいでしょ。何で僕一人が疑われなきゃいけないんだよ」

 その日の父の怒りようといったら、それはもう凄まじかった。

「この野郎・・・!」という獣じみた唸り声と共に、父は僕を掴み上げ、無理やり立たせると、壁に向かって突き飛ばした。そしてこの時、僕は天井から、食卓を囲む父と母、妹を見ていた。

 ぶざまに崩れ落ちた僕を見て、確かに、三人とも笑っていた。





 結局、クリスマスは僕抜きで行われた。父、母、妹は例年より少しこじんまりとしたケーキを、僕は昼食の残りを食べたのだった。妹は流行りのゲーム機とソフトも買ってもらって、いつも通りのクリスマスを迎えた。

 僕だけが、そこにいる必要のない、浮いた存在だった。惨めだった。こんな時も、もう一人の僕になれたらいいのに、と切に思った。

 消えた十万円の行方は二十年経った今もわからず仕舞いだが、一つだけ、確かなことがある。クリスマスの後から、妹のゲームソフトや文房具の数が増えた、ということだ。疑いたくはないが、そういうことだったのか、と思う。

 家族は離散したので、妹の行方もわからない。妹がどんな想いで十万円を盗ったのか、どんな想いで僕を見ていたのか、この疑問は一生僕の心に、しこりとなって残り続けるだろう。

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